異世界につながるカフェ
「美鈴さん。今日の残業、頼まれてもらえないかね?」
「え……」
――――課長の言葉がわたしの心を深い疲労で塗り潰した。
まただ。また、残業だ。
時計の針はすでに夜の10時を指している。
(今日こそは家に帰ってドラマの続きを見ようと思っていたのに……)
わたしの名前は、藤崎美鈴。
どこにでもいるごく普通の会社員だ。
ただし、ブラック企業と呼ばれる会社に勤めている、という点を除けばの話だが。
「はい……承知いたしました」
わたしは力なくそう答えた。
拒否するわけにもいかないから、ただうん、と頷くしかないのだ。
「うう……」
肩は凝り固まり、目にはクマができている。
デスクに山積みにされた書類の山を見るたびに、胃の奥から吐き気が込み上げてくる。
毎日、朝から晩まで仕事に追われ、プライベートの時間など、まるで存在しない。
友人と会う時間もない。
恋人? そんなの夢のまた夢だ。
こんな生活をもう何年も続けている。
「こんなの社畜を通り越して奴隷だよ……」
誰にともなくわたしは呟いた。
心は荒みきり、なんのために生きているのかもわからなくなっていた。
こんな生活から、一刻も早く抜け出したい。
――――でも、辞める勇気がない。
この会社を辞めても、次が見つかる保証はない。
そんな不安がわたしを縛りつけていたのだ。
________________________________________
そんなある日の朝、一本の電話がかかってきた。
「美鈴かい? じいちゃんだよ」
祖父の声はいつもと変わらず、温かかった。
しかし、その声の端々にどこか寂しさが滲んでいるように感じられた。
「おじいちゃん? 久しぶり。どうしたの? 朝早くから」
まさか体調を崩して……とか――――。
「実はな、じいちゃんのカフェをもう閉めようと思ってるんだ」
その言葉にわたしの心臓が、ドキンと大きく跳ねた。
――――おじいちゃんのカフェ。
それはわたしが幼いころから、唯一の心の拠り所だった場所だ。
学校で嫌なことがあった日も、友達と喧嘩した日も、いつもあのカフェに行けば、温かいコーヒーとおじいちゃんの優しい笑顔があった。
「どうして? お店、大好きだったのに……」
「じいちゃんも、もう歳だからな。正直に言うと体力が続かないんだよ」
「だ、だよね……」
祖父の声は力なく、そして、諦めに満ちていた。
(わたしに、できることはないだろうか……)
――――その瞬間、わたしの脳裏に1つの考えが閃いた。
「あ、あのさ。おじいちゃん――――」
________________________________________
その日の夜。
わたしは職場のデスクで決意を固めていた。
そして、震える手で退職届を書き上げた。
「こ、これを……提出します」
翌朝、課長に『退職届』を差し出した。
課長は驚いた顔でわたしを見つめている。
「み、みみ……美鈴さん。君が辞めるなんて、まさか……」
彼の言葉にわたしはただ頭を下げた。
「辞めさせていただきます。今までありがとうございました」
わたしの言葉に課長は諦めたようにため息をついた。
退職届が受理された瞬間、わたしの全身に信じられないほどの解放感が満ち渡った。
まるで、長きにわたる呪縛から解き放たれたかのように心が軽やかに舞い上がる。
わたしはそのまま会社を飛び出し、故郷の駅へと向かう電車に飛び乗った。
________________________________________
故郷の駅に降り立つと懐かしい町の景色がわたしを迎えてくれた。
「なにも変わってないね……」
そして、路地裏に佇む、おじいちゃんのカフェ。
「懐かしい」
古びた木製の看板には、『夜カフェ』という文字がかすれて記されている。
「ただいま」
カフェの扉を開けるとコーヒーの香ばしい匂いがわたしを包み込んだ。
店内は温かい光に満ちている。
カウンターの中ではおじいちゃんが優しい笑顔でわたしを迎えてくれた。
「美鈴、よく帰ってきたね」
おじいちゃんの言葉にわたしの目から、自然と涙が溢れ出した。
「おやおや、急に泣いてしまうなんて、美鈴は泣き虫さんなんだから」
そう言ってわたしの背中を優しく撫でてくれた。
「ごめん。ごめんね。おじいちゃん。ちょっとすごく疲れてて、一気になんというか溜め込んでいたものが出てきたみたいで……」
「いいんだよ。会社じゃ泣きたくても泣けなかったでしょ。その分、おじいちゃんの前で泣いてしまいなさい。昔みたいに」
「うう……おじいちゃん。ありがと……」
わたしは小さかったころのようにおじいちゃんの胸でわんわんと泣いたのであった。
________________________________________
カフェを継ぐ準備が始まった。
おじいちゃんは丁寧にコーヒーの淹れ方を教えてくれた。
カウンターの磨き方、カップの並べ方、そして、お客様への接客の仕方。
1つ1つの動作に優しいおじいちゃんの愛情が込められているのが分かる。
「美鈴。実はね、このカフェには特別な秘密があるんだ」
ある日の夜、おじいちゃんがそう切り出した。
彼の目はまるで子どものように輝いている。
「特別な秘密、って?」
わたしは、首を傾げた。
「このカフェはな、夜だけ、異世界につながるんだ」
おじいちゃんの言葉にわたしの心臓がドクンと大きく鳴った。
――――異世界。
そんな馬鹿な話があるものか。
「おじいちゃん、病院に行った方が……」
「まだボケておらんよ」
「いや、でも名前がしっかりついているタイプの病気っぽいよ。急に異世界なんて……」
「孫、辛辣過ぎない?」
おじいちゃんの言葉にわたしの心はただただ混乱していた。
「まさか……おじいちゃん、冗談でしょう?」
「いや、本当さ――――そうだね。昼はじいちゃんが普通の人間のお客さまを迎える。そして、夜は美鈴が異世界のお客様を迎えるということにしよう。そして、慣れてきたら昼も美鈴に任せて、無事引退となるね」
「うう、もう決定事項なの……」
でも、おじいちゃんの真剣な眼差しに嘘はない。
(昔からおじいちゃんは嘘はつかない人だからね……)
信じられないけれど、信じるしかない。
わたしの新たな生活と使命は異世界へと繋がっているというのか。
________________________________________
その夜、わたしは初めて異世界に向けてカフェを開いた。
日も落ちてお客さんが入ってこなくなったタイミングで異世界に向けてカフェを開く形だ。
「といっても夜の11時だし、普通は来ないんだよね……」
店内は柔らかな光に包まれている。
カウンターの奥にある、古びた木製の扉がかすかに光を放っている。
それが異世界への扉だと、おじいちゃんは言っていたらしいが、今のところは誰も来店しない。
1人だけの静かな空間。
――――しかし、静寂はすぐに打ち破られることになる。
「いらっしゃいませ……」
扉がゆっくりと開かれる。
そこに立っていたのは見慣れない服装の男たちだった。
彼らはみな剣や盾を身につけ、わたしを警戒するように見つめている。
(え、本当に来るんだ……)
彼らの服装や纏う雰囲気から、それが異世界の人々であることはすぐに理解できた。
「ここは……一体……?」
「見たこともない空間だ……」
「まさか、これが異界の……⁉」
彼らは戸惑いとそして、かすかな恐怖の表情を浮かべている。
彼らにとってこのカフェはまさに異世界の空間なのだろう。
(せ、接客をしなきゃ!)
わたしは心の平穏を保ちながら、お客さんを席にご案内した。
「いらっしゃいませ。ここは夜だけ開くカフェ、『異世界の夜カフェ』でございます。どうぞ、お好きな席へ」
わたしは緊張しながらも、カフェのマスターとしての役割を果たすべく、笑顔で彼らを迎えた。
彼らは恐る恐る店内に入り、テーブルに腰を下ろす。
「コーヒーでございますか? それとも紅茶になさいますか?」
わたしが尋ねると彼らは顔を見合わせ、戸惑ったような表情を浮かべた。
「こ、コーヒーとはなんだ?」
「紅茶、というのも、聞いたことがない……」
(そうなりますよねー)
彼らはわたしが差し出したメニューを見て、首を傾げている。
彼らが生まれた異世界にはコーヒーも紅茶もないというのか。
「では、温かい飲み物でなにかお好みのものはございますか?」
わたしはそう言って、彼らの好みに合わせようとした。
彼らはわたしの言葉に少しだけ安堵したようだった。
「では……甘いものが飲みたい……」
その中の1人がそう呟いた。
彼の言葉にわたしは思わず微笑んだ。
(異世界の人々も甘いものが好きなんだ)
「かしこまりました!」