復讐準備
行くあてなど無かった。相談できる友達もいない。先のことなど全くわからない。不安に押しつぶされそうになる。どうしてこんなことになってしまったのか、悔やむ。でも、誰のせいでもない、自分がいけない、自分がしっかりしていたら、良さんはあんなことにはならなかったはずだ。それだけはわかっていた。そして、良さんとチロのためにどうしてもやりたいことがあった。、やらずには死ねなかった。
所持金は三万四千円と小銭が少し。早くこの町を離れたくて電車に乗った。行く先は東京の山谷、日雇い労働者が集まる街で木賃宿と呼ばれる安い簡易宿泊所が密集している場所だ。
テレビのニュース番組で流れていたのを憶えていて、パソコンで詳しく調べておいた。二千円程度で泊まれる所があり、毎早朝、日雇い仕事の調達で人数を近くで集めることもわかった。そして、自分がやりたい建設現場の仕事で、日雇い労働者を集めている会社の電話番号も調べておいた。。
思っていたより早く、乗って1時間ほどで目的の駅に着いていた。平日の朝、皆忙しそうに何処かに向かって走るように歩いていた。逆方向のぼくは皆の邪魔なのかもしれない。うつむいて端を歩いた。
山谷と思われる場所に着いた。実際その地名は無いらしい。ぼくはおっかなびっくり探るように歩いているが、別段おそろしい感じはしない。大通りにはいくつかのホテルが並んでいた。しかし酔っぱらったおじさんが道路の淵に寝転んでいる様は異様だった。でも誰も気に留める風でもない。これがこの町の日常なのだろう。
裏道に入り、泊まろうと目星をつけていた宿泊所を見つける。
「全室冷暖房完備、全室カラーテレビ完備」の看板に違和感を覚えるが、他にもつけられていた。。
少しためらいがあったが思いきって入る。料金の二千二百円を払い、部屋番号のかぎをもらう。理由や年など尋ねられるのか心配だったが、そんな事一切なく、ただ連泊かと聞かれた。少し前の僕ならこんなことさえ怖くてできなかったろう。でも、切羽詰まった今はやるしかない。
二階の端と言われた部屋を探して薄暗い廊下を歩く。 部屋は狭くて、なんだかカビ臭い。それでもテレビがあり、布団が隅に積まれていた。
布団で寝たことはあまりないが、清潔そうな白いカバーが掛かっており、
寝るだけなら大丈夫そうだ。持ってきた荷物は数日分の着替えと洗面道具、携帯電話とラジオ。そして、良さんの形見のパッチ、チロの首輪、そして白い布で包んだ位牌だ。取り合えず、位牌を畳に置き、手を合わせる。
目を閉じて、良さんに語りかけたあと、ふと、思いが巡る。自分がこんなことするなんて思ってもいなかった。事件の後、何もできずに死のうとまで思っていた。それでも、悔しくて、良さんが可哀そうでその思いだけは消せなかった。だから、ぼくは家を出た。父に言われた一言は、良いきっかけになった。ぼくは決めた、一人で自分の思いを晴らす。そして家族に迷惑をかけないようにしようと。
貴重品などないので、荷物をそのまま置いて食事がてら街を見に行ってみる。
驚いたのは宿泊所の数の多さだ。普通のホテルも表通りにはあるが、大半はアパートのような簡易なもので、各通りに数えられないほどある、一体全部でどのくらいの人が泊まっているのだろう。でもその割に周りに食堂などの店が少ない。ただ、いくつかの商店街通りはあった。思っていたよりきれいだけどなんだかさびしい街並みだ。
歩いていると、やはり、浮浪者の方も目に付く、よく見れば、誰にも気づかれないようにひっそりと佇んでいるでいる。皆、高齢者に見える。商店街の路上の淵にに腰をかけてタバコをふかしてぼんやりしている。
どうしても、良さんのことを思い出してしまう。でも、声などかけることはできずに通り過ぎる。
お腹は空く。今日はまだ何も食べていなかった。お金もあまり使えないので、菓子パンでも買って済ませようと思ったが、空いている食堂があったので入ってみる。店は広くないがテーブルは八卓置いてあった。客は僕のほかに二人別々に座っていた、二人とも高齢の労働者風で一人はビールを飲んでいる。
奥の調理場との境がカウンターとレジになっており、中にご夫婦と思われる。中年の男女が中にいた。白髪混じりの男の人が「いらっしゃい」と声をかけてくれた。白い頭巾を被った女の人は黙ったままでなにか不機嫌そうだった。
両側の棚には値段ごとに分けられた総菜が並んでいた。ぼくは勝手がわからずに、ただ突っ立ていた。すると男の人が声をかけてくれた。
「学生さん、初めてだね、そのお盆に好きなおかずを取って、こっちに持ってきてください。ご飯とみそ汁よそるから」
ぼくは急いでお盆を取り、百円の棚にあるコロッケと目玉焼きをそれぞれ乗せた。
カウンターに乗せると、女の人が「ご飯は」と聞くのでぼくは小さな声で「要ります」と答えた。
女の人はやはり、不機嫌そうに「普通でいいの」と聞き返してきた。ぼくははいと答えた。
あとは何も聞かずにドンブリにご飯をよそり、みそ汁を椀に注ぎお盆に添えた。
「はい、四百円」ぼくは慌てて財布から千円を出し支払った。
みそ汁は煮詰まった味がしたが、温かいごはんは美味しかった。他の客たちは、ただ黙々と食べていた。ぼくなどには入っていける余地はなかった。
食事を終え、またしばらく街を歩いた。落ち着いてよく見るとやはり街のそこそこに浮浪者の方がいる。つい目が追ってしまう。なんだか皆苦しそうに見える。
何もしてあげられない自分、いや自分の状況も厳しい。実際、明日は浮浪者になってしまうかもしれない、そんな不安と昨日までの生活と今のギャップがぼくの心に重くのしかかる。
良さんと会うまではこんなこと思いもよらなかった。ぼくは、ただ、ぼんやり自分の我儘で生きて来たと思う。
でも、今は目的ができた。良さんの弔いをを、誰にも頼らずに自分でする。そのためにこれから、することも決めた。だから、不安でも苦しくてもやるだけだ。
スーパーや他の店も確認して、宿泊所にもどる。そして、建設現場の日雇い仕事アルバイト急募という会社に電話してみる。緊張したが、受け付けてもらえ、明日、午前中に上野の事務所に身分証明を持って、来てくれと言われた。履歴書は要らないようだ、身分証明は高校の時に取った原付免許で大丈夫。これで、取り合えず、また一つ次に進める。
そして、もう一つしなければならないことがあった。朝からもう五回も入っている携帯の受信。母からだ。大きくため息をして、受信電話をつなぐ。
「あっ、母さん」
「母さんじゃないわよ、電話にも出ないで、今どこにいるのよ、まったく心配させて。もう、警察に連絡しようかと思っていたのよ」
「ごめん、母さん、帰れないんだ」
「帰れないって、そんなに遠くにいるの、もういいわよ、タクシー代ぐらい出してあげるから、乗ってきなさい、着いたら払ってあげるから」
「母さん、違うんだ。ぼくは家を出て一人で生活していこうと思っているんだ」
「一人で生活って、何、馬鹿なこと言ってるの、いいから早く帰ってきなさい」
「冗談じゃないんだ、本当に一人で生活してゆく」
「そんなこと、出来るわけないじゃない。俊ちゃんにそんな事、無理よ、大変なことなのよ、住むところもお金も何もないのに。どうするの。ホームレ・・・、いや、だめ、母さんそんな事許さない。今どこにいるの、すぐに迎えに行くから場所教えて」
「無理だ、絶対に変えられない。もう決めたんだ」
「わかったわ、俊ちゃん、わかったから皆で話し合いましょう。なるべく俊ちゃんの良いようにするから。とにかく帰ってきて話し合いましょう」
母は電話の向こうで泣き出したようだ。ぼくも泣きたくなった。(もう、帰る)と言いたくなった。
「母さん、すみません。許してください。どうしようもないバカ息子でごめんなさい」母はずっと泣いているようだ沈黙が続いた。
「父さんになんて言うの」母のか細い声が聞こえた。
意地悪い仕返しに父に昨日言われたことを伝えようかと思ったが、くだらない自分を抑えることができた。
「許して欲しいって伝えてください。一所懸命頑張って生きますからって」
その途端、母は号泣してしまった。ぼくも我慢できずに泣いてしまった。
「母さん、ぼく、定期的に携帯メールで連絡しますから、探さないでください。電話も出ないと思いますけど、この携帯を解約せずに料金払ってください。勝手なお願いですみません」
「俊ちゃん大丈夫なの」泣き声の母が声を振りしぼる。
「大丈夫、心配しないで。じゃ、また、連絡するから」ここで電話を切った。
ぼくにしては上手く言えたと思う。携帯のことは情けないけど、使えなくなるとやはりまずい。助けてもらうしかない。これで今日すべきことはできた。少しほっとする。
宿泊所の受付に行き、取り合えず二日分の連泊をお願いして料金を払う。持ち金が減り、心細くなる。部屋にもどるとなんだか疲れて眠ってしまった。
気が付くともう夜になっていた。、先ほど見つけたスーパーに行き、夕飯の弁当と二リットルのお茶と好きなスナック菓子を買って帰る。時間は八時を回っていた。
アーケードの商店街を通ると店のシャッターは降りていたが、驚いたことに、ほぼ、どのシャッターの前にも浮浪者の人たちが寝ていた。長いアーケード通りにかなりの人がいた。毛布にくるまって寝ている人、段ボールを組み立てで箱の中で寝ている人、多数の傘を開いて囲い中で寝ている人、すごい人は普通の敷布団と掛布団と枕で寝ていた。皆、服は厚着で寝ているようだが、この一月の寒空の中、冷たいコンクリートの上で眠るのだ。
部屋に戻りテレビを見ながら、買ってきた弁当を食べる。冷たくてのどに詰まる。急いで二リットルのお茶をボトルのまま飲む。テレビでは楽しそうにタレントたちが騒いでいる。ぼくにはただ映っているだけだ。
母親との電話が思い出される。もう、妹は帰ってきているだろうな、父親もそろそろかな、二人はなんと言うのだろうかなどと考えるが面倒くさくなり止める。
早めに寝ようと布団を敷いて入るが、なんだか寂しくてテレビは付けたままにする。部屋は暑いぐらいで、ふと、先ほど商店街通りのコンクリートに布団敷いて寝ていた人が思い出され息苦しくなる。浮浪者の人たちへの心配と自分もそうなってしまうのではないかとの思いが交差する。
ここのところの習慣、眠っているのか起きているのかよくわからな浅い眠りに入った。
朝、早く目が覚めて、上野の日雇い事務所に行くのにはまだ、時間があった。朝食を買いがてら、街を散歩する。気になったアーケード商店街の野宿の人たちのところに一番に行く。時間は七時半だが、そこはもうきれいに浮浪者はいなかった。
店はまだ開いていないがゴミなどもなく、荷物なども置いていなかった。時間の決まりごとでもあるのだろうか。確かに昨夜シャッター前の野宿者を見たときに、お店の人たちは嫌がらないのだろうかと少し疑問に思った。浮浪者の人もマナーを守っているのかもしれない。少し不思議に思った。
上野の日雇い募集の事務所に行くと、父親ぐらいの年の男性が対応してくれて、あっけないほど簡単に採用された十八歳以上で身分証明と携帯電話があれば大丈夫だったようだ。
本当は目的のために土木関連の仕事に就きたかったのだが、それではなく建設関連の都内の固定の現場に入るように決まった。日給は交通費込みの六千八百円、昼の弁当代も引かれての手取り金額、毎日現場でもらえるので印鑑を持っていくようにとのことだった。建材パネルや重いものを運ぶ仕事もあるが、だいたいは軽い雑用です。ただ、続けて来れますか、大丈夫ですかと尋ねてくれた。
ぼくは大丈夫ですというよりほかは無かった。
朝7時、ぼくは指定の駅ロータリーに停車したマイクロバスに乗っていた。昨夜は何も考えずに良く眠れたので体調は良好だった。
車内には二十人近くいた。ほとんどが年配の方で、浅黒く日焼けし、それとわかる作業着を身につけていた。 ジャンパーにジーパン、スニーカーのぼくは間違いなく一番の若造だった。
運転手さんが引率の担当者だった。名前の点呼を取り、分担作業の説明と、日給の支払い説明をした後バスを発車させた。十五分ほどで着くとのことだった
走行中は皆、押し黙って、ぼんやり外を見ているか、じっと目をつむっていた。それは数人いる若い人も一緒だった。ぼくもうつむき、目を閉じていた。
「学生さんかい」その声に目を開けると、隣の窓側に座っていたおじさんが声をかけてくれていた。ぼくは焦って返事をした。
「いえ、違います。もう、高校を卒業しました」
「若い人はいいな何でもできる。でもいつまでも大丈夫なんて思っちゃだめだ」ぼくは黙ってうなずいていた。
「わしだって若いころはなんだってできると思っていた。そしてそこそこのことはできた。でもそれも三十ぐらいまでだ、そこからいろいろな制約やしがらみで動けなくなる。その後、ちょっとしたトラブルが続いて、やる気がなくなればもうすぐどん底だ。この年になれば今度は体が言いうことを聞いてくれない、嫌だな年を取るって言うのは、いや、良い年の取り方をしていないだけだな。うん」
年上の男の人にこんな風に話を聞かせられるのはどれくらいぶりだろう。ぼくには父方にも、母方にも祖父がいない。二人とも早いうちに父親と死に分かれている。親戚も少ない。だから、こんなに年配の男の人から話されるのはほとんど記憶にない。でも決して嫌では無かった。それはこの人の何かさっぱりした、自分を突き放したような話し方によるのかもしれない。ぼくは機嫌を損ねないようにうなずいていた。
「君はいい子のようだな、きれいな目だ。ご両親の躾がしっかりしているんだろう。最近の子は少し話しても露骨に嫌な顔をするんだが」なんだか申し訳ない、ぼくは引きこもりからの、家族に迷惑かけての、家出中だ。もちろんそんなことは言えない。
「とにかくあきらめないで頑張りなさい。嫌なことがあっても腐らないで、自分の信じた道を進むんだ。そうすれば君のようないい子には絶対応援してくれる人がいる。道は開けるよ」ぼくはなんだかうれしかった。弱っているぼくの心を励ましてくれているようで、泣きそうになった。ぼくの様子を察したのか男の人は少し笑って、
「ありがとう、半端者の爺が久しぶりに偉そうに話せたんで、なんだかすっきりしたよ」
「いえ、ぼくこそありがとうございます。勇気づけられました」
ぼくは頭を下げた。
「わしは名村廉次だ。君は」
「ぼくは宮田俊介です」
「ほう、俊ちゃんか一時のバイトだろうが頑張ってな」
「あっ、はい、あのまたお話できたら」
「ほう、そう、言ってくれるのか爺には嘘でもうれしいな」
「いえ、本当です」ぼくは頭を下げた。
バスは現場についていた。海浜地区なのだろうか、磯の香りがする。大きな現場のようだ。専用駐車場にかなりの数の車が止まっている。
皆、ゆっくり降りだす。ぼくも名村さんと一緒に外に出る。座っている時は全く気が付かなかったが、名村さんは左足が不自由なようだ、引きずっている。
ぼくの視線に気が付くと名村さんは足を叩いて、
「現場でやっちまった、足首がいかれてる」と笑った。ぼくはただうなずいた。
名村さん身長はぼくよりずいぶん低く百六十センチちょっとぐらい、しかし、首も腕も太く胸板も厚かった。精悍な顔立ちのせいか全体的にはほっそりと見えた。
ぼくたち連隊は運転手件担当者に引きつられ、各種作業が施されている現場の建物に入っていき、担当と思われる人に引き渡された。
仕事は現場の掃除、片づけ及び職人さんたちを手伝う手元と言われる補助作業との説明だった。取り合えず三つに分かれそれぞれ離れていった。
ぼくは名村さんと一緒の七人連隊だった。名村さんはやはり歩いてついていくのが大変そうだった。メンバーの作業着の赤毛の男はそれを見て、軽く舌打ちをした。ぼくは嫌な気持ちになった。
まず、言われた作業がセメントの入った袋の移動だった。先ほどの赤毛の男はまた舌打ちをして小声で「ついてねぇ」と言った。
ぼくは軽く触って、びくともしないその重さに驚いた。(はたしてこんなものぼくは担げるのだろうか)それと同時に名村さんが心配になった。あの足でこれは無理だろう。皆の足が少し止まった瞬間にその名村さんは前に出て言った。
「わしゃ、歩くの遅いから二個ずつ、行くよ」というが早いか造作なく二個を重ねたまま担ぎ上げ、足を引きずり、ゆっくりだが確実に歩き始めた。その無駄のない素早い所作に赤毛を始め皆、驚いた。ぼくも急いで運ぼうと思ったが一個を持って、ふらつき落としそうになった。他に誰もいっぺんに二個など運べる者はいなかった。赤毛も、もう舌打ちなどできるはずがなかった。
結局、運んだ者は、ほぼ皆同じ回数だったので、名村さんは人の倍運んだことになる。すべて運び終わった時、ぼくは汗だくで腕も上がらず、もうヘロヘロだったが、名村さんは涼しい顔で人の倍運んだことなど、どこ吹く風、すっと立っていた。
ぼくは自分がちゃんと仕事をこなせた事もうれしかったが、それよりなにより名村さんに感動してしまった。そのことを伝えると
「いや、俊ちゃんも頑張ったよ」と言ってくれた。ちょっと恥ずかしかった。
ぼくは親鳥を最初に見たひよこのように名村さんを尊敬した。
その後、片づけや掃除の軽い作業を皆で分担してやった。しばらくして、奥から左官と思われる職人さんが小走りで来て、名村さんを見つけ、近づいて話しかけた。
「いたいた、廉さん、壁手伝ってよ、間に合わないんだ」といって、名村さんを連れて行ってしまった。結局その日は昼も、帰りのバスでも名村さんには会わなかった。
ぼくはなんとかその日の作業を終え、予定の賃金をもらい上着を着替えて帰路についた。
茶封筒からのぞいた六千八百円、自分で稼いだお金は感慨深かった。
宿泊所のそばまで戻ると、こないだ行った定食屋に入った。旦那さんはぼくを覚えていてくれたのか「毎度」と言ってくれた。奥さんはやっぱり、愛想がなかった。
もらったお金のせいか、少し気が大きくなって、三百円のとんかつ、二百円の肉じゃが、百円のマカロニサラダとご飯にトン汁合わせてちょうど千円を支払った。食べ終わって後悔した。目的のためにお金を貯めていかねばならない。極力節約しなければならない。
スーパーに寄り、朝食の菓子パンと牛乳を買い、宿泊所に戻る。着替えて共用のシャワーを浴びる。洗濯はコインランドリーだが今回は省略。
(やはり、衣類が少なすぎる、少し働いたら衣類を買い足そう)
連泊代を三日分支払った後、部屋で寝転んでテレビを見る。ホッとできる。寝る前に位牌に今日の報告をして床に就く。
朝、携帯のアラームで起きる。体が少し痛い。でも大丈夫だ続けられる。出かける前に位牌に手を合わせ出かける。
昨日と同じ停車中のバスに乗り込むと名村さんが同じ席に座っていた。ぼくはすぐに隣の席に行った。
「名村さん、おはようございます」
「おっ、俊ちゃん、おはよう」笑顔で答えてくれた。
すぐに昨日の驚きをまた話した。名村さんは力仕事のコツを丁寧に教えてくれた。ぼくは一生懸命に聴いた。ポイントは姿勢と荷物を体から話さずに扱う、そして中指と薬指に力を入れる。そしてそれぞれに理屈があった。ぼくはいちいち感心して聴いた。
バスは現場にすぐ着いてしまったが、その日は昼も帰りも一緒だった。名村さんは嫌がらずに僕と話してくれた。いろいろな仕事歴や現場の様子を話してくれた。
住んでいることころの話になった時、宿泊も同じ山谷だということも分かった。しかし、ぼくも今、山谷の簡易宿泊所にいると言うと、悲しそうな顔をした。
名村さんは木賃宿に長く住んでいることを話してくれた。但し、そこには友人などはいないと言った。日雇い労働者のその日暮らしは孤独でなければいけないとも。親しくなって依頼心がでると迷惑をかけたり、裏切ったり、それは自分も例外ではない。そんなことはいくらも見て来たと。山谷は生きていくのが精一杯の厳しい街だと言った。
「俊ちゃんが、なぜあそこにいるのかはわからないし聞かない。でも君は若い、育ちも良さそうだ。悪いことは言わない、今なら大丈夫。早く出ていきなさい」ぼくはそれにはうなづけなかった。そして自分の思いも打ち明けられなかった。名村さんは状況を察してまた、現場の話をしてくれた。
名村さんはドラマのセリフで出てくる、筋の通ったシャンとした人とでもいうのであろうかぼくはそう感じた。生い立ちも家族もきっかけも何もわからないがこんなにきちんとした年配の方が生きていくのが精一杯の厳しい社会とは何なのだろう。ぼくは何にも目を向けないでも、自分の我儘ま通りに生きてこれたことの有難さが少しわかった。
ぼくは名村さんに日雇い仕事で師事するようにくっついて働きつづけた。
名村さんはいろいろ優しく教えてくれたが、最初の言葉通りに一定以上の孤独を超えないように間隔を取って接してくれた。
ぼくは引きこもりだったくせに働くのが嫌ではなかった。一所懸命体を使うのは、何も考えずに集中できて、終わった後の爽快感も含めて好きだった。そんなぼくの働きぶりを名村さんは
「俊ちゃんはいつも一所懸命で気持ちが良い」褒めてくれた。
休みは週一日として、一日は固定の現場以外にも出た。なるべく多く働いた。稼いだお金の半分は生活費に半分は目的のために貯金した。また、食費も切り詰めたので、着るものや必需品も徐々に増えていった。やはり、お酒やタバコをやらないのは得にに思えた。
他の人たちは仕事や現状に対しての不満やストレスを間違いなく、飲酒、ギャンブル、風俗などにぶつけているように思えた。そしてそれはお金が異常に無くなる。 ぼくにはそれはなかった。あの悲しみと怒りの矛先を目的にぶつけられたと思う。だからなんのストレスも無かった。ただ一つあるとすれば街を歩くと出会う浮浪者に対して、何もしてあげられないことへの罪悪感だった。それは複雑な感情だった。
この街にはいろいろな福祉支援団体も入っており、そこを手伝うことが良いのだろうが、やはりぼくにはそういうことがうまくできるとは思えなかった。自分と同年代の人や、女性の混ざったグループに入って活動することなど到底無理だった。
結局、ぼくは良さんの時のように物資を買って、気になる人に渡した。最初は疑われたり、脅かされたりした。近寄るなと言われ唾をはかれたこともあったが、ぼくは不思議に怖気づかずに嫌にもならずに少しずつ続けた。それはもちろん良さんのことも頭にあったし、自分の働いたお金でできる、こんな自分でも役に立てるという気持ちが強かった思う。
もらう稼ぎ六千八円百円の配分は二千円が貯金、三千八百円が生活費そして千円を支援のお金に使った。部屋は二千円のところに移ったが一日に使える食費は千円だった。
支援団体には入らなかったが、街で食料を差し入れしている時に、そのそのおじさんが挨拶をした女の子にまた、また別のタイミングで出くわし、
「あら、また」と笑って、その子がぼくに話かけてくれた。
新田友衣さん、ぼくより一つ年上、小柄で目のきれいな人だ。とても面倒見の良さそうな人だ。それからずっとぼくに声を掛けてくれる。ぼくは少し恥ずかしかったがドヤ街で暮らしていることを話した。
友衣さんは(大変ね、でも偉いわ)と言ってくれた
会うとやっぱり恥ずかしいが幸せな気持ちになる。。
ぼくの食事は、朝は前の日に買うスーパーで残った半額のパンかおにぎり、二リットルのペットボトルのお茶を買い置いて一緒に飲んだ。昼は大盛りの支給弁当。そして、夕食は、初めて行ってからずっと通っているあの食堂。旦那さんはいつも決まった安いものしか頼まないぼくに、勘定を言わずに、毎回普通料金で大盛りのごはんと具いっぱいのみそ汁をくれるようになった。また。愛想のないおかみさんは他にに客がいないと一品を付けてくれた。
ぼくはとてもうれしくて、食べ終わり、帰るときに、「ご馳走様です」といつも大きく頭を下げた。ここに来るとなんだかホッとするようになった。
建築現場の手元にも慣れ、回りに良くしてくれる親しい人もできて、(このまま日当を稼いで暮らしていけば良いか)ふと頭をよぎることもあった。しかし、良さんとシロのことを思い、あいつの顔が浮かぶと胸は締め付けられた。ぼくはやるしかなかった。ぼくは手帳に良さんとシロのことを書き記し、ぼくの目的とすべきことを書いた。そして、読み返した。
それで、気持ちは落ち着いた。
ぼくは次のステップに入る。わからないことや方法を労働の師匠、名村さんに相談することにした。この時には名村さんのことを親しく廉さんと呼ぶようになっていた。その廉さんは今も現場で顔を合わせると、声をかけてくれ一緒に仕出し弁当を食べる。
朝のバスで廉さんに相談を持ちかける。廉さんは夕飯を一緒に食べようと言ってくれた。
回りに慣れてきた近頃は、言葉をかけてくれる人もいる。ただ、ぼくの今、暮らす環境は、厳しい現実の中で一生懸命もがいて生活している人ばかりだ。自分が生きていくことしか考えないし、考えられない。当然、他人を気づかう余裕はない人が多い。そんな中にあって廉さんの実直な行動と他人を気遣う優しさは凄いものに見える。篤実な年配者の当たり前の行動なのかもしれないが、やはり際立っているように思える。
日雇い仕事の前のことは聞いたことは無いし、話したこともないが、困難な人生を歩んできたであろうことは想像に難くない。ただ、アニメ好きなぼくは、廉さんの過去を生死を超えた壮絶なストーリーに昇華して、勝手に自分のヒーローを創造してしまった。逆境を乗りこえ悟りを開いた人生のヒーロー。ぼくの創造と現実が交差した本人が今、目の前にいる。ぼくの身近で本当に尊敬できる人だ。
とんかつ屋のテーブルで廉さんはぼくの相談にまたいつもと同じことを言った。
「俊ちゃん、君はいつまでもこんな生活をつづけるべきではない。日雇いなど止めて、この町を出て行きなさい」
とんかつの衣をつかむ箸を止める。
廉さんに今までの経緯と苦しい胸の内を明かし、本当の最終目的まで伝えてしまおうかと心は騒いだが、やはり思い留まる。
「廉さんぼくはどうしても土木工事の現場で働いて、ユンボが運転できるようになりたいんだ」意外というような表情でぼくを見つめる。
「そうですか、ユンボですか。目標があるんですね。はあっ、本当は実家に戻ってもらいたいですが」また、ぼくの顔を見る、そして、溜息をついた。
「わかりました。ただ、土木の日雇い仕事、根切り、矢板入れは非常にキツイ仕事ですよ。その分、日当も良いですが、本当の土方です。俊ちゃんの今の体力でできるか心配です」チラッとぼくのひょろりとした体に目をくれる。日雇いの仕事で少し筋肉はついてきたとはいえ、やはり、貧相なぼくの体。
「頑張ります。どうしてもやりたいんです。お金も稼ぎたい」廉さんが優しい目で僕を見た。
「君が一生懸命頑張る人間だということは一緒に居て、良くわかっているつもりです。大変だけど、きっと俊ちゃんならできますよ」
ぼくにいつもこんな言葉をかけてくれるひとはずっといなかった。多分小学生以来だろう。正直、嬉しかった。いつも涙がこぼれそうになる。
廉さんはぼくに仕事の全体像と日雇いとしてする肉体労働の内容とポイントを教えてくれた。そして持っていた大学ノートに記録された、土木関連の会社の電話番号と担当者を数社、別紙に写してくれた。その時に見えたノートは整理された情報が達者な字で一目でわかるように記載されていた。やはり廉さんは只者ではないと思う。
「結構、前の記録なので担当者は変わっているかもしれないが、どれも会社はやっている。上からわたしなりの選定順番になっています」
「ありがとうございます」ぼくは深々と頭を下げた。そして、少し安心した。ぼくは残りのとんかつで、お代わりご飯を平らげた。そして廉さんにご馳走になった。
日雇い仕事の合間を使い、廉さんが教えてくれた一番上の土木旋会社に電話をかけた。最初に日雇い仕事を探した時に経験していたので緊張はしたが問題なく、また、現在日雇い仕事もしていることで、すんなり受け付けてもらえた。土曜日の朝でも面接は大丈夫とのことで受付てもらった。土曜日の朝、目的の会社に向かった。心配性のぼくはまた緊張と戦いながら、それでも、あきらかに前とは変わった自分を感じていた。経験が自信になっていた。
会社はドヤ街そばの南千住駅から常磐線で十分ちょっとの近郊駅だった。
駅からは離れており、早足で歩いても三十分ほどかかった
共栄土木と書かれた看板がかかったバラック二階建ての事務所があり、その横には砂利を敷き詰めた広いスペースの駐車場があった。数台の乗用車と二台のトラックとユンボが一台止まっていた。
ぼくはユンボを見て興奮してしまった。ぼくも良さんも大好きだったユンボ。いつの間にか近くに寄り、車体を触っていた。シャベルは大きくて、なぜこんなものがあんなにうまく動いて地面を掘れるのか不思議だった。冷たくて固いその手触りとその大きさがいかにもマシンだった。キャタビラ部分もすごいが、やはり操縦席にあこがれた。その特殊ガラスに覆われたシートに座ってみたかった。夢中になって操縦席のガラスにへばりついていると急に怒鳴り声がした。
バラックの階段から体格の良い男の人がこちらを見ていた。
「お前、何やっているんだ。こら、待ってろ」階段を駆け下りて来た。
急なことで気が動転してしまい急いでユンボから離れると、
ただ、「すみません、すみません」と連呼した。
「そこで、何やっているんだ」男は、こちらの様子などお構いなしに同じ言葉で怒鳴ってきた。
なんの言い訳もできずにただ、「すみません」を繰り返した。
「お前、誰だ」その言葉で初めて自分がバイトの応募に来たことを小声で伝えた。
「ふん、バイトか」それ以上何も言わず、何も聞かず、男は顎でバラックの階段上のドアーを差し、「あそこに行け」と指示すると、こちらを見もせず、駐車場に止めてあった。トラックに飛び乗り、走り去ってしまった。
不安感と嫌な気持ちだけが残り、帰りたくなったが、なんとか自分に言い聞かせ事務所に入った。
事務所では小柄だが頑強そうな禿げ上がった男のひとが対応してくれた。部長さんとのことだった。見た目より丁寧に応対してくれた。持って行った履歴書も見てくれ、ぼくが工事現場で働き続けていたことも評価してくれた。
「ここの労働はきびしいよ、詳しい事情なんか聞かないけど、こんな仕事をやるようには見えないが大丈夫かい」ぼくは黙ってうなずいた。
労働条件を聞き、簡単な誓約書を書いた。すぐ入れる寮もあると言われ、一日の寮費が今の木賃宿より安く、しかも日曜日以外は賄い付きだと、ぼくは即決した。月曜日に荷物を持ってくると伝え、深くお辞儀をして立ち上がった。その時、おずおずと聞いてみた。
「あの、先ほどトラックで出かけられた体格の良い若い方は」
「若い、ああっ治か、現場主任だ。なんか言われたか」
「あっ、嫌、別に」ぼくはあわてて打ち消した。
「治は恐いぞ」とにやりとした。
ぼくは顔を見ないように(失礼します)と小声で言って事務所を出た。入った時と同じように少し気が重くなりながら。
安い寮への入居を即決めたが、心残りがあった。いこい食堂だった。ぼくは山谷のドヤに来てから、ここしか利用していない。
何も期待できないぼくにずっと変わらずに良くしてくれた。一番安い食事をいつも大盛りでくれ、日によっておまけのおかずまで付けてくれた。人間関係がダメなぼくだけど、理屈ではない人の親切というものを肌で感じていた。
いこいへ夕飯に寄る。奥さんは見当たらない。旦那さんだけだ。いつもと同じものを頼む、高いものをと思ったが、気が引けて止めた。
大盛りのご飯とみそ汁を受け取る時に思い切って伝える。
「あの、旦那さん、ぼく、明日から近郊のの建設会社の寮に入ることになりました。だから、ここに来れなくなります。すみません」言って目をご飯に向ける。
「謝ることは無いさ。お得意さんが減るのはつらいけど。そうか、残念だな、良い仕事なのかい」
「あ、はい、大丈夫だと思います」
「頑張れよ、あいつがさみしがるな。イケメンの俊ちゃんが来なくなるとな、でも、しゃあないな、わかった。よしこれ餞別」と言うと上とんかつをぼくのお盆に置いてくれた。
「ええっ、そんな、こんな高いものダメです」
「食い盛りが気にするな、いいから」
「すみません」ぼくは泣きそうになった。
「日曜日は休みでこっちにに来ますので、寄らさせてもらいます」
「俊ちゃん、わざわざ無理するなよ、でも来るなら、いつでもウエルカムだ。あいつも一緒だと思うよ」
この日の夕食は味も量もわからなかった。でも胸一杯になった。宿への帰り道、廉さんに現場が決まったことの報告とお礼の電話を入れた。激励の言葉をもらった。部屋に戻ると引っ越しの荷物をまとめた。大きなバッグで二つだけだが、そして、いつものように良さんの位牌に今日の出来事と今の不安と目標を報告した。興奮しているのかなかなか寝付けなかった。
月曜日、九時に会社に行き、待っていてくれた部長さんと歩いて入寮するアパートに向かった。百メートルも離れていない敷地にプレハブの粗末な建物が二つ建っていた。二階建てのプレハブの外階段を上りドアを開けると下駄箱が置かれた狭い玄関になっており、暗い廊下の片側にに各個室が並んでいた。部長さんが真ん中あたりの部屋を開けぼくを招き入れた。
窓があり南向きなのか思ったより明るく乾いた匂いがした。
山谷のドヤ暮らしに慣れてきたぼくには十分な個室四畳半が与えられた。ぼくはほっとして微笑んだ。
「なかなか良い部屋だろう」ぼくの顔を見て部長さんが満足げに言った。
「はい、良い部屋です」ぼくは素直に返事した。
「そうか」部長さんは嬉しそうに頷いた。
注意事として、他人を絶対に入れるな、そして火の気厳禁、タバコもダメと言われた。 ぼくには必要ないことだがもちろんそれは口にはしなかった。
寮には十部屋ほどあり、現在は六人ほど入寮していること、賄いは隣接した食堂で食べること、そして時間厳守も念を押された。
「詳しくは後で他の入寮者に聞いてくれ」と言われ、二つのバッグを部屋に置くと引っ越しは終わった。
一息つく暇もなく、部長の車で働く土木現場に向かった。車中ではぼくは気の利いた言葉は出せず、当然、部長さんも無言で、ラジオをかけた。天気予報は明日も晴れだった。
次の目的に向かってぼくの新しいい仕事が始まった。 だが、やる気に燃えていたのはほんの数十分だった。
どうしようもない目の前の現実に打ちのめされた。廉さんの言っていた通り、土方は厳しい仕事だった。
つるはしとスコップでの穴掘り、荷車での土砂運び、矢板搬入、周りの男たちは黙々と作業をこなしていた。だが、ぼくにまともにできることなど何もなかった。道具や土砂や矢板の重さにぼくの力では応じられなかった。他の人たちの能力とぼくの能力は明らかに違ていた。よろけて倒れて他の人の邪魔になった。最初は大丈夫かと言ってくれる人もいたが、あまりの不甲斐なさに舌打ちされた。今までやってきた仕事とは大人と子供の開きがあった。
何とかしたい、やりたいと心ははやるが体がまったく応じられない。
そして周りに迷惑をかける。気泡がたつように焦れて苦しい、居たたまれない。謝って投げ出し逃げ帰りたかった。だが、最期に心の底でそれを拒否していた。
「危ねえよ、事故るぞ、そのままじゃ」誰かが怒鳴るのが聞こえる。
別の者が「ただしより始末に悪い」と言ったように聞こえた。
それまで、ユンボを操作していた治さんが降りてぼくの前に来る。
「てめえ、何しに来てるんだ。遊びじゃない、仕事だ。これでマンマ食ってんだ、邪魔するなら帰れ」肩を小突かれた。一瞬、周りがシーンとなった。
「すみません」ぼくは下を向くしかなかった。
「まあまあ、治ちゃん。彼も一生懸命やっているみたいだ。取り合えず、邪魔にならない所で出来る仕事やってもらおう。ねっ」頭に手拭いを巻いた恰幅の良い年配の方が割って入ってくれた。
治さんはぼくを睨みつけるとユンボに戻って行った。
ぼくはトシさんと呼ばれる方に指示されて、少し離れた場所で小さな穴を掘る作業をした。自分が不甲斐なくて悔しくてそれを地面にぶつけて一所懸命穴を掘った。
長くて苦しい一日が終わった。迎えのボックスカーに乗り込み、寮に帰る。車内では恥ずかしくてずっと下を向いていた。
帰ると部長に呼ばれる。 仕事を止めるように勧告される。だが、ぼくは決めていた。目的のため、一段上に行くにはどこに行っても同じことが起こるだろう、だからなんとしても頑張らなきゃいらないことを。
「何でもやります、頑張りますから、お願いします」ぼくは深く頭を下げ、顔を上げなかった。
「君は若いんだ、バイトなら他にもたくさんあるだろう」
「どうしても、この仕事がしたいんです。給料はいくらでも構いません。置いてください。お願いします」ぼくは顔を上げずにお願いした。
「困ったな、俺、他にも面倒見てるんだぜ、ああっ、他に迷惑かけるようなことがあったら、もう、待ったなしでやめてもらうよ。いいね」
「ありがとうございます。ご迷惑かけないようにします」ぼくはなんとか置いてもらえた。でも、安心と一緒に明日からやっていけるのか不安が襲ってきた。しかしもう心は決まっていたし、やれることを一所懸命するだけ、後はなるようになると言い聞かせ心を抑え込んだ。
朝、日課の良さんの位牌に手を合わせる。食堂で目立たぬよう朝食を取り、現場への車に乗った。
自分で決めていたことを勇気を出して実行した。会う人、皆に「おはようございます。昨日は迷惑をおかけしました。すみませんが、また、よろしくお願いいたします」と頭を下げた。 他人に挨拶したり言葉をかけるのはずっと苦手だったけど、今はそんな事飛んでしまっていた。周りの人に申し訳なく謝らずにはいられなかった。
ほとんど、皆が簡単な挨拶を返してくれた。(頑張りな)と言ってくれた人もいた。人は自分が思っているほど、他人のことなど気にしていないのかもしれなかった。ただ、治さんに挨拶をしても全く無視された。溜息はぐっと心底にしまい込んだ。
現場に入ると、昨日と同じ小さな穴掘りと荷車での簡単な土砂運びをした。そんなに急に仕事ができるようにはならないが、とにかく一所懸命動いた。手ぶらでの移動は走った。神経を集中して少しでも覚えようと人の作業を見た。他人の目も最初は気になったが作業に没頭するとそれも忘れた。今日の時間はあっという間に過ぎる。
夕方、寮に戻りボーとして、何気なくメールを確認すると廉さんからメールが入っていた。心配してくれていた。急いで状況を打って返信する。やはり、廉さんがおもっていた通りぼくは土木の仕事についていけなかったこと、でもあきらめきれずにお願いして働いていることを書いた。すぐにまた返信が来た。
(逃げずによく我慢したね、本当は君が続けるのは反対だけど、自分の意志で向かっているのだから。君は大丈夫、自分を見失わないで、落ち着いて目の前のことを一つずつ、こなしてください。君は驚くほど成長する。今の問題など、あきらめなければ絶対に解決する。自信を持って進んでください)とあった。 うれしかった、自分の決心に花マルをもらったような気がした。
朝が来て、また、働いた。できないことが多くても立ち止まらず、精一杯動き、出来ないことは何度も謝った。また、頭を下げてわからないことは教えてもらい、自分のできそうなことは少しでもした。 逆に邪魔をして怒鳴られることが多かったが、自分に負けないで攻めることを思い浮かべ、また謝り、更にいろいろ教えてもらった。
作業が終わり、帰る車の中、黄昏た街の家に暖かそうな明かりがともっているのを見たとき、ふと、ぼくは半年とちょっと前まで引きこもりでいたんだな、まさかこんなことになるなんてとなんだか不思議な気持ちになった。
寮に帰ればくたくただったが、食事の前にもうひと頑張りすることに決めた。その日怒られたこと、わかったこと、コツなどをノートにまとめて書いて整理した。これは廉さんのノートの真似だった。また、基礎体力作りのため、腕立て伏せ、腹筋、片足スクワットを出来なくなるまでやり、もう一回繰り返した。なんだかスポーツ選手になったみたいでやる気が出る。回数は記録し習慣にするため最期に署名した。明日は今日より多くできることを祈りながら、終わったあとご褒美の食事に向かう。
まんがやアニメやゲームも止めたので気晴らしはラジオだった。何も考えたくない時は洋楽、淋しいときはお笑いのディスクジョッキーを録音しておいて聞いた。
寝る前に位牌に手を合わす。良さんとチロとの楽しかったことを思い出す。いや、それが自分の努めだってわかっている。だってぼくが忘れたら良さんもチロも可哀想すぎる。だからぼくは忘れない、良さんもチロもあの時のことも。
現場に入って四日目、仕事にも少しずつ慣れてきた、まだまだ半人前だが始めよりはさせてもらえる仕事も増えてきた。毎日のトレーニングも更新してきた。だが疲れのせいか、今日は朝から熱ぽくて体の節々が痛い、
食欲も湧かない。
(風邪か、まさか、インフルエンザ)不安が走るが、今、休むことなどできない。大丈夫と自分に言い聞かせる。
昼過ぎても体調は良くならず、のども痛くなり悪化してきた。なんとか仕事を終える。帰り際、トシさんが肩を叩いて声をかけてくれる。
「俊ちゃん、逞しくなってきたな、若い人は元気でいいな。頑張ってな」
何も言えない。ぼくは空元気で答える。
寮に帰るが、頭が重く、考えが浮かばない簡単に日記をつけ、トレーニングは昨日の半分もできず終わる。無理やり食事を詰め込み、少し残っていた風邪薬を飲み、シャワーは浴びずに布団に入る。日曜休みまであと二日、明日の朝には回復していることを期待して寝るが、上がりだした熱とのどの痛みで眠れない。結局、浅い眠りで一夜が明けた。
残念だが、体調は最悪で熱による寒気とのどの痛みで食事も取れず、頭はもうろうとしてどうすれば良いか考えることもできなかった。仕事に行かなければという気持ちだけで着替え、現場への車に乗った。それでも人前に出ると体調の悪いことを我慢して振舞えた。
午前中はふらつきながらも与えられた仕事はこなした。と思う。昼になりさすがに無理だと思い、相談しようと部長さんを探す。
(部長さんは、えっ今日は大事な営業で来ていない、重要なこと以外携帯にも電話するな、代理は治さん。ああっ大丈夫です)めまいがした。
(治さん、無理だ。ずっと、無視されたままだ。あの人だけはだめだ)
ぼくは覚悟を決めた。そして、夕方、それまで何をしたかもあまり覚えていない。また、評価を下げてしまったと思うが、事故にはならず、倒れもせず、なんとかやり終える。
死にそうだった。明日が来ないような気がする。寮に帰っても、もう何もできなかった。着替えることもできずにそのまま布団に入る。夕食に行かなくても誰もぼくの部屋には来なかった。絶望的な明日が来るだけだ。その時はそうとしか思えなかった。
(もう、だめだ、あきらめて家に帰ろうか、心が弱音を吐く)
布団の中で熱がどんどん上がる。体温も計っていないのでどのくらいかもわからない。頭、のど、身体の節々、が痛い、汗もかけない。
苦しい、ぼくはどうなってしまうのだろう。もうろうとした意識のなかでひとつだけはっきり心に浮かぶ
(ぼくはダメな人間だ。今までだってずっとそう、何もできやしない。価値のない奴、ごめんね良さん、チロ)
いつの間にか起きているような眠りに落ちて夢を見る。良さんはとチロが来てくれる。
(もう、止めて、俊ちゃん、無理しないでぼくたち大丈夫だから、心配しないで)笑顔で語りかけてくれる。でも良さんたちの足元は泥だらけで、ぬかるみにはまっているように見える。
ぼくは動けないし声も出ない、何もできやしない。そして良さんとチロが段々薄くなっていく、フェイドアウトするように消えてゆく。
「ぼくは何もできゃしない」
自分の声に目が覚めると枕は涙で濡れていた。身体はもっと大汗でぐっしょりだ。
(ありがとう良さん、チロ、もう迷わない。ぼくは何もできゃしないだから)
熱は下がったようだ、のどや関節の痛みも、うそのように和らいでいる。起きて、下着を替える。まだ、少し気怠いが気持ちの良い朝だ。すずめの声が聞こえる。いつもより一時間早く起きている。
身体が復調したのが本当にうれしい。やる気が出て、昨日、書けなかった日記とトレーニングを一セットこなす。昨夜の分も合わせお代わりをして朝食をいただき、いつものように現場へ向かう。
何もなかったように、来ていた部長さんに挨拶をして、より大きな声で治さんに挨拶をする。そして気持ちよく無視される。
身体はもう大丈夫なのがわかった。作業が気持ちよくこなせる。健康は本当に大切なものだと実感する。この後また、一週間ほど働いて感じたことだが、 良さんとチロの夢を見た夜をを境に、ぼくの体質はあきらかに変わったように思う。
気管支系統が弱くいつも扁桃腺をはらして熱を出していたが、風邪などひく気がしなくなった。また、外傷もそれまではなかなか治らずにいたが、すぐに新しい皮膚に変わった。
食も好き嫌いの気持ちが無くなり、何でもおいしくたくさん食べられるようになった。そしてびっくりするほどいっぱい出るようになった。自分の身体がいろいろな栄養を欲しているのがわかった。そして食べたものが血となり肉となる気がしてきた。そんなことがわかるはずないが骨格が太くなり、筋肉が付き、体は音がするように大きくなっていると思えた。
感情は体についてくるのであろうか、自分の気持ちをコントロールできずにくよくよしていた精神は安定し、自然と感謝の気持ちが生まれ、周りの人たちを思いやれる余裕も出てきた。
ぼくの体の急激な変化には、周りの人たちも驚いたようだった。急に体が大きくなり、今まで、体力がなく絶対的にぼくには出来ないと思われた作業ができるようになった。まるで、別人なのだ。自分自身が一番わかっている。 なぜこんなことができなかったのだろうと思えるほどいろいろの作業ができるようになった。心が強く望み、学習したコツが理解できて、徐々に体力がついて来る、(「これが心技体か)何かの漫画のフレーズが頭に浮かぶ、それにしてもあまりにも急激すぎる。あの夢の後に、あきらめないぼくに、良さんたちが神様にお願いして、チャンスとしてくれたような不思議な気がした。
日曜日を迎える。やっと来た一日の休み、普段より一時間だけ遅く起き、菓子パンの食事を取ってから午前中はディスカウントストアーに買い出しに行く。自分の日常生活に必要な物と山谷の方々に差し入れるものを予算分買って帰る。
午後から、差し入れを持ってドヤ街に行く。始めて差し入れに行った時は断られたり、嫌がられたりした人も今では顔見知しりとなり、心良く迎えてくれる。他人をよくわからずに反発していても、人は接していれば分かり合える。ぼくは今までの自分のダメなところがよく分かった。
いくつかの場所を廻っていると背中越しに声を掛けられる。振り向くと
小さな友衣さんがそこにいた。
「新田さん、いらしてたんですか」
「俊介さん、この前は名前で呼んでくれたのにまた戻ってる」
「あっ、いや」
「友衣でいいです」
「あっ、友衣さんわかりました。気を付けます」ぼくのお辞儀を彼女は楽しそうに笑った。でも、ぼくは続けて顔を直視できない。
「俊介さん急に大きくなってない。一瞬、人違いかと思っちゃった」
「はい」説明もできず返事だけするぼく。
「お時間大事丈夫ですか」友衣さんが言う。
「はい」
ぼくたちは公園でベンチに座り、友衣さんの持って来た大きな携帯ポットのコーヒーを紙コップでもらった。ぼくは差し入れ用の菓子パンを渡そうとする、彼女は察したのか「ありがとう、でも今、お腹空いていないので大丈夫です」ぼくはあわてて自分の分もしまった。
二十分ほど、ぼくは自分からはしゃべれず、聞かれたことに答えた、彼女は微笑み、考えてくれ、そしてまた、日曜日に会うことを約束して別れた。友衣さんの気持ちはわからないが、ぼくはとても楽しかった。
その後、最期の差し入れがなくなるまで街を歩いた。そしてもうひとつの目的、いこい食堂に寄る。
この仕事を始めて二週間が経ち、最初の時が信じられないくらい、どの仕事もこなせるようになっていた。
だが、治さんには相変わらず無視されている。でもぼくは治さんに関わりたかった。それは治さんはぼくも良さんも大好きだったユンボのすごい使い手だから。その操作を見ているとシャベルがまるで手をそのまま使っているようで溜息が出る。
有難くも仕事に多少の余裕ができるようになったため、作業が選べるときはなるべくユンボのそばを選び、治さんの操作を盗み見た。隙間時間にメモしてまた、寮でまとめる。
感の良い治さんはぼくの不審な行動もすぐ察知して、(なに、見てるんだ、こっち見んじゃねえ)的な視線を送ってくる。ぼくは目を反らして平静を装う。しばらく集中して働き、そしてまた見る。何度か繰り返していた。
三時の休憩時、治さんが近寄ってきて大きく腿を上げたかと思うと足を振り降ろした。
「痛ええ」ぼくは足を踏まれた。
「危ねえ、安全靴を履け。そして俺を見るな作業に集中しろ」
「いや、ユンボを・・・」もう治さんは反転して運転に戻っていた。ぼくは溜息と、どの角度から見れば気づかれないかをぼんやり考えいていた。
作業を終え、寮に帰りのどが渇き、食堂でお茶をもらい飲んでいると見慣れない坊主頭の若い人を見かける。ぼくと同じぐらいの年で、周りから(ただし君)と呼ばれていた。
(ただし、仕事初日に仕事のできないぼくに向けられて聞いた名前だった)
食堂のおばさんに何気なく聞いてみる。
「ああっ、正くん、ちょっと知的障害のある子で、毎日雑用仕事で来ているのよ。おとなしくて、いい子よ。いつも早く帰るからね。今日はお迎え遅いのかな」おばさんは声をかけた。
「正君、お迎え、まだ。こっち来てお茶飲む」
「ありがとうございます。お茶、飲みます」正君はうれしそうに来て、横に座りぼくを見た。
「正君、こっちは最近入った俊ちゃん、たしか同じ年かな、名前教えてあげて」
「ぼくは谷戸正十九歳です。よろしくお願いします」立ち上がってそう言った。ぼくも立ち上がり、
「宮田俊介十九歳です。よろしくお願いします」と返答した。
正君は照れくさそうに笑っていた。ぼくも同じだったが、急に懐かしさを感じ、すぐに良さんの話し方に似ているからだとわかった。
お母さんが来られて、丁寧な挨拶をされて帰って行った。その後は帰る時間が早いこともあり、正君とは会えなかった。
夕食の後、シャワーを浴びる前にラジオも付けずにぼんやりしている。外で猫の鳴く声がした。確かに猫だった。急いで窓を開けてみると鳴き声は止む。窓を閉め切らずに、静かにしているとまた鳴き声がした。隙間から覗くが、姿は見えない、がしかし道具や資材を置いている物置のそばで鳴いているようだ。気になってわざわざ物置のところまで行ってみる。多分、気配を感づかれているのか、鳴かない。探してみるがわからない。結局、あきらめて部屋に戻る。その日もう鳴くことはなかった。
通常通り、仕事が終わってから猫のことが気になり、コンビニで猫の缶杖を一缶買う。昨夜と同じ時間帯にビニール容器に入れたエサを持って物置に行く。
辺りを探ってエサを置くが猫は出てこない。寮の窓から見える位置に置きついでに寮の他の部屋の様子も伺うがこちらを見てみている者などいない。急いで部屋に戻って静かに窓の隙間から覗くと、(いたぁ)黒猫が一匹、いや、子猫もいる、黒とトラ。うれしくて小躍りする。食べ終わるのをずっと見ていた。ぼくのやることが一つ増えた。
エサを置きだしてから三日もすると僕が行くととすぐに三匹とも出てくるようになり、体を摺り寄せてきた。でも、ぼくは辺りを伺い、すぐにその場を離れ、寮の窓から食べるのを見ていた。エサはディスカウントストアーで徳用パックを買い、一回に与える量も調整して容器は使い捨てのビニール容器で翌朝にはそっと処分した。呼び名はオヤクロ、チビクロ、チビトラにした。決まった夜の時間に一度だけ、周りを注意して置いた。この後、ぼくがここを離れるまで一日もあげないげないことはなかった。彼女らはぼくの癒しの友達になった。
ぼくの身体の発達以外はほとんど変化のない四週目の水曜日、現場に行くと治さんが、初めて見る若い人たち三人と話していた。
(ぼく以外とはあんなに親しそうに話すんだな、心折れるな、どうしたらいいんだろう難しいな人は)やりきれない思いは隠せなかった。
若い三人組は何度か来ているらしい単発バイト組で要領よく立ち回っていた。ぼくは嫉妬心で目が曇っているのか、強者の機嫌を取り、弱者には心無いような態度に見え、好きになれなかった。もちろんだれにでもぺこぺこするぼくになど、当然のように横柄な態度なので、余計そう思ったのかもしれない。
午後になりの急激な雷雨で現場作業が中止になり、他のベテラン組は影響を受けない急ぎの他の現場に廻ったが、ぼくと三人の短期組は寮の食堂で待機となり、治さんが取り合えず送ってくれた。車内では他の四人の会話には加われず、一人、目をつぶっていた。
ぼくたちを食堂の前で降ろすと治さんはそのまま次の現場に向かった。
食堂にはおばさんがお使いに出かけているのかおらず、雨で外に出れないで留守番をしている正君がいた。そしてぼくたちみんなに丁寧にあいさつした。
三人は正君の状況が分かっているらしく、からかいながら、対応の態度を見て三人で笑っていた。ぼくの存在など全く無視されていた。
このまずい嫌な雰囲気をぼくはどう行動したらよいかわからずに動けずにいた。
そのうち三人は自販機でジュースを買い、飲み始めた。正君は欲しそうに見ていた。リーダーらしい栗毛の男は一気に飲み干すと一言、二言周りに声をかけると、急いで席を離れた。他の二人はわざとらしくおいしそうに飲む。
ぼくは正君にお茶を飲ませてあげようと思い、茶碗を取り、ポットを探すが見当たらない。栗毛の男がジュースボトルを持って帰ってきた。
「正君ジュースだよ、飲みな、蓋、開けてあげるね」ジュースボトルの未開封ではない蓋を不自然に慎重にあける。他の二人は口を押えて笑っている。
「はい、ジュースいただきます」正君が受け取ろうと側に寄る。
八分目のボトルを見て、ぼくはこいつらが何をしようとしているのかすぐに理解した。
ええっ、どう止めさせる、その後どうなる、このまま知らぬふり、一瞬頭をよぎる。良さん、チロ、バカヤロー情けない自分に怒りが爆発する。「止めろ」赤毛男の手のジュースボトルを振り払う。ボトルがはねて液体がこぼれ落ちる。
「なんだ、てめえ」男が髪を掴み引きずり倒そうとする。ぼくは倒れまいと相手の腰に組み付く、勢いで簡易テーブルと椅子が動く。
「何やってんだ」その時急に戸が開き、治さんが入ってきて掴み合いを引き離す。
正君は呆然としている。床にはボトルとそこからこぼれた液体がアンモニア臭を放っている。
「正に小便、飲まそうとしたのか」治さんが怒鳴る。
「そいつが」赤毛の男がぼくを差し、ほかの二人に促す。
「うそだあ、違う」ぼくは興奮して他に言葉が出ない。頭が真っ白になる。 治さんがぼくを睨む。そして怒鳴る。
「ふざけるな、こいつはドジだがそんなことをやる男ではない。一月見ていて分かっている。てめえらなんのつもりだ」治さんが栗毛男を睨む。男は急に声色を変える。
「冗談ですよ。冗談。ほんのいたずらです」
「人にはやっていいことと悪いことがある。お前ら人間として最低のことをやっているんだ」男は横を向いている。治さんはあきらめたように低い声で話す。
「もういい、帰れ。二度と来るな。働いた分は前と同じように振り込む。さっさっと出ていけ」男たちは何も言わず土砂降りの中を出て言った。
ぼくは濡れた床を正君と一緒に拭いていた。
「大丈夫か正」治さんが声をかける。
「大丈夫です」正君が何もなかったように答えた。
治さんは急いで足りない機材を車に積みこみ、車のエンジンをかける。、不意に降りて、ぼくの所に小走りで来る。ぼくはすこし身構える。
「宮田君、正、守ってくれてありがとうな、もう今日は終わりでいいよ」
(み、宮田君・・・・・・)治さんはさっと車に戻り行ってしまった。
おばさんが戻ってきて、正君の世話をしてくれる。ぼくは何も話さなかった。小一時間ほどの考えもしない展開と結末に驚きながら雑巾を濯いでいた。
この事件以降も治さんのぼくへのは態度は変わらなかったが、二つの大きなことがあった。
一つは、サイズが大きいからと治さんがユンボの運転の時に履いているのと同じ、しかも真新しい安全ブーツをくれたこと。そして休憩時間のちょっと空いた時にぼくにユンボの運転を教えてくれるようになったことだ。
もちろん、ぼくは免許は持っていないし、治さんも大切なユンボを誰にもさわらせることなどなかった。だが、ぼくは実際に教えてもらえるようになった。本当に助かりうれしかったが、目的を遂げるため受かれないように自分を戒めた。
数ヶ月が経った。現場での作業はほとんどできるようになりった。人が嫌がることも進んでやり、労働作業も誰よりも多くやるように集中した。結果的にスピードも精度も上がり通常作業では誰にも負けないようなレベルになっていた。皆の信頼を得てユンボのことも黙認されるようになっていた。
八月、蝉の鳴く頃、ここまで本当に良く働らき、寮では必要事項の学習とトレーニングに邁進した。このころには興味のあった格闘技の鍛錬本を古書で買い、何冊も読み、自分なりトレーニングを始めた。拳立て伏せは百回が簡単にこなせる。現場の人たちと腕相撲をやっても誰もぼくとはやりたがらないようになっていた。
ずっと休みの日曜日はドヤ街に行った。差し入れといこい食堂、そして友衣さんとの交友も続いていた。なんと一緒に映画に二回も行ってしまった。
師匠、廉さんには定期的に連絡を取って、相談に乗ってもらっていた。
会うといつも励ましてもらいやる気が出た。ただ、廉さんはそんな事一言も言わないが、日常の立ち振る舞いから身体が急に衰えて来たようで心配だった。でも、何をしてあげられるのかわからず、もやもやした気持ちが残った。
給料は治さんと部長の計らいでバイトとしては破格の金額をもらい第一目標金額の貯金もできた。
今月盆休みを利用して、車の免許とユンボの資格取得に向け、合宿のため三週間の休みをもらう。部長は助成金等の話もしてくれたが、それは丁寧にお断りした。パンフレットの取り寄せや申し込みなどぼくだけでは難しかったことも部長が親身に手助けしてくれ無事に終えることができた。
この時、初めて部長がユンボの名人で治さんに指導したのは部長だったと聞いた。ただ、治さんに伝えると何も言わず笑っていた。
ほぼ予定通りの日程と費用で普通運転免許取得と車両系建設機械運転技能講習を終了することができた。来月二日間の講習を受ければ解体用のユンボ講習も終了できる。それもすぐに日程を合わせ調整する。
現場ではぼくがユンボを使っての作業が多くなりさらに腕を磨けるようになった。そして中型のセルフローダーの運転も任され、現場へのユンボの持ち込みなどもぼくの仕事となった。
ユンボを運転するぼくの姿を見たら良さんはどんなに喜んだだろう。
久しぶりに母に電話を入れる。収入の余裕ができてから、自分で携帯の新しい番号を契約して、母には非通知で連絡している。
今は元気でやっていることだけ伝え、切ろうとすると
「待って、待って、俊ちゃん宛に電話あったの、前にうちに来た森島さんっていう方から」ルポライターの森島さんだ。良さんが亡くなった時に来てくれた唯一の人だ。ぼくは好感と恩義を感じていた。
「連絡先は聞いた」
「ごめんなさい、急いでいたみたいで、うちの事情を正直に、息子は家を出てしまい連絡が取れないと言ったら向こうも恐縮してそのまま切ってしまったの」ぼくは黙って聞いていた。母は話を変えた。
「一度だけでも帰ってきて、だめなら電話番号だけでも教えて、お父さんもずっと責任を感じて、休みにも外出しないのよ」と哀願してくる。申し訳ないと思ったが、また、甘えた自分になってしまいそうで、断り、黙った。母の溜息が聞こえた。
ぼくは迷惑ばかりかけて、心配させて、もっと大きな迷惑をかけてしまうかもしれない。
「母さん、ごめんなさい。本当にごめんなさい。ぼくみたいな息子を持って」
母のすすり泣く声が聞こえた。
僕が知っていた森島さんの携帯番号へ電話したがその番号はもう使われていなかった。ぼくはそのままそのことを忘れた。
晩秋を過ぎ季節は冬になろうとしていた。良さんが死んで、もうすぐ一年になる。そしてぼくはまもなく二十歳になる。
一年間で自分がこんなに変わるなんて思わなかった。あの時、辛くて、苦しくて、悔しくて、あいつの薄ら笑いが忘れられなくて、死にたいと思っていた。
でも、ぼくはこうして生きている。身長はもともと百八十センチほどあったが、体重は五十キロそこそこだったのが、筋肉で八十キロまで増えた。病気知らずになった。
尊敬する師匠もできた。助けてもらって、周りがお驚くほど短期間でユンボの仕事ができるようになった。そして、他人がぼくを信頼してくれるようになった。あと、素敵な友達も。
でも、けして良さんとチロへの思いは消えない。毎日、手を合わせて消えないようにしているのかも知れない。そして、自分が幸せに感じるほど、奥底に罪悪感が湧いてくる。
二十歳になった。もう大人として扱われる。でも、お酒もたばこもしようとは思わない。ぼくには必要ない。
仕事のことは少し不安ができていた。自分が信頼されいろいろ任されるため、自分が離れたときに迷惑をかけるのではと。でも自分がそうなったように新しくやる人が出てきて進んでゆくのだろうとも思った。だから、やりたい人がいれば、治さんに教わったことと自分なりのポイントを時間を削っても教えてあげるよう心がけた。
人間関係も順調だった。定期的にドヤ街に通いいろいろな人と交友を持った。殺伐としたところだがだからこそわかることも多い。友衣さんへの思いははっきりと好きに変わっていた。相手もそうなのかなと期待もした。ただ、先のことも考えると口に出すことはできなかった。
十二月に入り自分の心境にも変化が生じた。ずっとあの時のことを思い出し、竜一を憎んでいた。死にたい気持ちをあいつへの復讐心に変えた。でも、もしかしたらあいつもあの時のことを後悔しているのではないか、人は間違いなく変わる。そう思うようになってきた。それは自分がしようとすることに対する臆病心からかもしれなかった。
居手も立っても居れず、電話をしてもすぐに切られるだけだろう。勇気を持ってあいつに会いに行く決心をする。
土曜日の休みをもらう。二日続けての行動が可能だ。
予定日の午後に地元の駅に立つ、懐かしく感じる。知っている人に会わぬよう帽子とマスク姿だ。もしやと思い駅前のパチンコ屋とゲームセンターを探して歩くがやはりいるはずはない。休憩にコーヒーショップに入る。外の見える席に座り、
三十分ほどコーヒーを飲みながら表通りを眺めていた。驚いた。外を歩く、知った顔を見つける。間違いなく木津だ。竜一への憎しみほどではないが、間違いなく殴ってやりたい衝動に駆られる。急いでコーヒー代を払い表に出る。
気が付かなったが女性連れだ。その娘は木津の彼女、あの祥子だった。ぼくが中学生の時に、嫌な思い出をくれた娘だ。人気の少ない路地に入った時に後ろから声をかける。
「木津さん」ぼくは帽子とマスクを取る。
「ああっ」金髪の木津が眉をひそめてぼくを見る。最初はわからなかったようだが、ぼくと気付くと、
「あれ、お前、俊すけかあ」と下腹部にパンチを入れにくる。ぼくはその手を掴み、上に捻り上げる。
「いててっ、この野郎」木津は本気で顔面を殴りに来る、それを左前腕で受け、右手を開きストレートのように安全と思われる胸板を押す。それでも木津は吹っ飛ぶ。ぼくの体つきを見て驚いているのがわかる。ぼくが歯向かい、体格でかなわないと思ったのか木津は攻撃してこない。
祥子は怯えながらも、ぼくに近づいてくる。
「すごい、俊介君。かっこよくなったね」恐る恐るぼくに触ろうとする。
「近づくな、ぶん殴るぞ」ぼくはぼくに似合わない言葉を吐く。祥子は後ずさる。もう彼らに何の用もなかった。黙ってその場を後にした。彼らも追っては来なかった。たった一年でこんなに気持ちが変わるものなのだろうか。もう木津に対しての怯えなど微塵もなかった。
竜一の家に向かう。あの時の事件で住所を控えていた。場所も地図で確認した。途中、良さんが亡くなった場所に立ち寄る。藪は刈り取られ、資材置き場が広がっていた。事件があったことなど全く感じさせない。手を合わせて離れる。
家は閑静な住宅街にひと際目立つ大邸宅だった。近くには小さな公園もあり、良い立地環境だ。土木関連会社社長の父親の実用と趣味か、建設車でも数台置けるほどの大きな駐車スペースと壮美な庭が混在していた。
竜一のものと思われる大型バイクも数台置かれているが乗用車はない。裏手には少量の洗濯物が干してあり、家に人がいるようだが誰だかはわからない。 公園のベンチに腰かけ目立だたぬよう様子を伺ってみる。 裏手からエプロンと頭に三角巾をした中年の女性が出てきて洗濯物を取り込んだ。風体からお手伝いさんのように見える。
陽は落ち、薄暗くなった夕方五時、身支度を整えた中年女性は鍵を閉めて出て行った。通いで帰っていったのだろうか。家の灯りは消えて、玄関灯のみがついていた。土曜日の夜、誰もいない邸宅はぼくにはもの悲しく見えた。
ただ、ただ待った。零時を回り、もう、電車も無くなる、タクシーで帰るか。人目につかぬよう公園で缶コーヒーを飲ながらいろいろ考える。その時バイクの爆音が響いてきた。
急いで駐車場に回り込む。心臓がバクバク鼓動を打つ。大型バイクは予想通り、邸宅の駐車場に入る。 大きな男がバイクを降り、ヘルメットを外す。竜一だ。
急いで、ぼくは前に出る。お辞儀をして声を出す。
「しばらくぶりです。竜一さん。宮田俊介です」
竜一はぼくを見ても驚く様子はなかった。おそらく木津が連絡を入れて、わかっていたのだろう。
「何しに来た、仕返しか」ヘルメットを右手に持ち替え、構えた。
「いえ、そんな、良さんが死んでもうすぐ一年が経つので」
「りょう、誰だそれ、知らねえな、ホームレス変態野郎に名前なんかあるのか」ぼくは来たことを後悔した。こいつに反省などあるわけがない。
「てめえも変態仲間と同じに、頭かち割って事故死するか、それとも犬ころみたいに蹴り殺されるか」さらに、威嚇してくる。
体が震えてくる。恐怖心もあった。でもそれより怒りが勝って身体を震わせている。あの時よりも体力はある。このまま殴りかかって、殴り殺されても、一死報いようか。でもそれはぼくの本位ではない。ぼくは計画を実行するんだ。この一年間の準備がぼくを冷静にさせた。
「す、すみません」ぼくは頭を下げ、逆に走り出した。
背中に唾をはきかけられる音と「ケンカもできねえ、うじ虫野郎」という怒声を感じて。
寮に帰る電車の中、計画を練る。だいたいは頭にできていたが、決行日の12月25日までもう三週間しかない、一番気になるのは共栄土木へかける迷惑だ。仕事にかける迷惑もあるが、行動を起こしてからかける迷惑もある。だがそこは直接の損害はないと割り切り、自分を納得させるしかなかった。日曜日はドヤ街に行き通常の行動をする。友衣さんとも会える。でも何も余分なことは言わなかった。
月曜の朝一番で部長と治さんに一週間で止める旨を伝える。
自分の部屋で部長と治さんを前に問い詰められ、理由を聞かれるが一身上の都合でとしか言うことができない。部長には社員にして、待遇はもっと上げるからとにかく止めないで欲しいと説得される。ぼくは待遇や人間関係に問題など全く無く、とにかく自分の都合でと繰り返す。
話にならないと怒っていた治さんだったが、ぼくのかたくなな様子に何かを察知したのか、黙り込む。
結局、あと一週間で止めさせていただくことになった。部長が部屋を出たあと、留まっていた治さんが「あの位牌に関係あるのか」とつぶやく。ぼくは咄嗟に答えられずに下を向く。
一週間、今の仕事に支障が出ないように段取、夜もいつもどおりの行動をこなし、オヤクロたちにエサを運んだ。少し違ったのは決行の計画とシミュレーションをしたことだ。また、正君にも、食堂のおばさんにも挨拶をした。ただ、正君はあまりわかってくれていないようだった。
最終日の仕事が終わり、部長は少し素っ気なかった。治さんはやはり怒っているようだった。それはぼくが何も打ち明けず、相談もしないからのようだった。まわりで歓送会の話もあったがぼくはお酒を飲めないので止めてもらった。現場の人達に挨拶をしてぼくの仕事は終わった。
日曜日、寮を出て行く日、余分な荷物は人にあげるか捨てていたので、来た時のように、またバッグ二つにまとまっていた。
少し心残りだった物置に行った。オヤクロたちはいるはずはなかった。一度もこんな時間に彼女らを見たことがなかったから。だが三匹は出て来た。そして、
ぼくのところには来ずに、オヤクロが二匹の子猫を連れて前を歩いて行った。おもわず声をかけた。
「オヤクロ」彼女はふっと立ち止まってふりかえるようにぼくを見た。そして軽く会釈した。いやそんな気がした。
ぼくは「さよなら」と小さな声で言った。彼女は視線を合わせ、そして外すと、また、子猫を連れゆっくり歩きだした。
彼女はここを出て行くんだと直感的に思った。なぜ、そう思ったのかはわからない。でもこの猫たちはここからいなくなるのだと。ぼくのために、いや、単なる偶然だろう。もしかしたら明日もここにいるのかもしれない。でも幼稚でくだらない思い込みかもしれないが、それはぼくの心の区切りになった。
いつの間にか視界から消えた猫たちを探しながら、なんだか気持ちが吹っ切れた。
寮を出るとき、寮の住人に挨拶した。もちろん辞めることはわかっていたが一様に残念がってくれる。
「どうして急に、仕事困るな」「絶対に社員になると思ってていたのに」「良い就職決まったのか」ぼくはただだ黙ってお辞儀をした。何も言えなかった。ただ、皆が最後に付け加えてくれた言葉にぼくは驚いた。
「大丈夫、親子猫は皆で面倒見るから」
(えええっ、誰にも言ってないのに、どうして)うろたえて頭を下げる。
リピート機能のように皆同じことを言ってくれる。最後の挨拶に至っては
「オヤクロたちは面倒みるから」と言った。
(ぼくの勝手な名前まで・・・・・・)わからない。やはりさっきの三匹は散歩だったのかな。でも、良かった。皆が彼女たちの面倒をみてくれる。ぼくは安心して行ける。
(さあ行こう)ぼくはギュッと拳を握りしめた。




