良さんとチロとの出会い
ぼくがはじめて良さんと会ったのは河川敷に立てられた青いビニールシートのテント、いや彼の家の前だった。
父親に意見され、居たたまれなくなり、外に出て、ただなんとなく河川敷を歩いていた。
平日の昼過ぎ、もう夕方に近い時間帯に、いつものように不機嫌に起きたぼく。仕事の都合で着替えに戻った父に出くわした。何の言葉も発せずに、居間のテレビをつけ、朝食代わりのスナック菓子を持ってソファーに座った。
父はぼくに何か言おうとしたが一旦、飲みこむように、母のいる部屋に戻ろうとした。だが、我慢できないように振り返り、強い口調で怒るように話出した。
「俊介、いい身分だな、今、お目覚めか。お前は何をやっているんだ。何がしたいんだ。部屋にこもって夜遅くまで、暇つぶしのゲームかマンガ、もう子供じゃないんだ。自分の将来を考えろ。なんだっていい、何かに打ち込め。勉強しろとは言わない。スポーツでも、音楽でも、機材が必要なら父さん買ってやる、だめなら女の子のお尻でも追いかけてみろ。何かに自分のエネルギーを使え」
ぼくはただ黙って下を向き、終わるのを待った。 高校を卒業して半年、進学も就職もせず部屋に引きこもり怠惰な生活を送るぼくに、いつも穏やかな父が切れた。
ただならぬ、父の気配に母親が慌てて来るが言葉も掛けられず、黙ってしまう。誰も口を開けない。
「ただいま」 テスト期間の妹がいつもより早い帰宅をする。優等生の妹は、さっと皆の顔色を読み、「勉強あるから」とそそくさと二階に上がる。
ぼくは言い返す勇気も、言い訳の熱意もなく、スウェット着のまま、ただ逃げるように家を飛び出した。
ただ、歩いた。何も考えたくなかった。今も、過去も、未来も。
どれ位、歩いただろう。気が付くと川縁を歩いていた。橋下に大きな青いものを見つけて立ち止まった。
それはブルーシートだった。
河川敷の橋下にひっそりと立てられたブルーシートのテント。でもそれは普通とは違う外観、仕掛けがあった。時計台のような大きな丸い時計が屋根部分の下に取り付けられているのだ。違和感なくきれいに埋め込まれているため、まるで公共施設のように見えた。
気になってしまい、橋下に続く土手の小道を降り、テントを見に行く。時計の下に暖簾のように覆っている別のシートはおそらく入口なのだろう。合わせの隙間を少し離れた場所から覗こうとした。その時、不意に中からランニングと半ズボン姿の男が白い小さな犬を連れて出てきた。
あわてて視線をずらす。男はすぐにぼくに気づくと笑顔で、「こんにちは」とあいさつしてきた。
返事もできずに、下を向いたまま、ぼくはただ頭だけ下げた。
白い犬が紐を引っ張ってぼくの足もとのまとわりついてきた。尻尾を振って、うれしそうに飛びついてくる。
「チロ、お兄さんに遊んでもらいたいのか」男が躓きながら犬を押さえた。
ぼくは体を低くして犬を受け止めようとする。その瞬間、犬は飛び込んで顔を舐めにくる。ぼくはよろけてしまう。
「チロはやさしい人がわかるんだ。悪い人には近づかない」男は傍らでチロを撫でる。ぼくも擦る。犬は二人の間を喜んで跳ね回る。
「可愛い犬ですね」ぼくはそのおとなしそうな男に話しかけた。
話を家族以外にしたのはしばらくぶりだ。
「うん、チロはぼくの家族なんだ」そのこどものような話し方に違和感を覚えるが、決して危害を及ぼすような人ではない事はすぐわかる。
男の服装は粗末なものだがきちんと洗っているようで日向のにおいがした。チロは雑種と思われる中型犬で、白い毛並みはよく手入れされていた。
首輪も紐も男の服装とは不似合いな新しい上質な物に思えた。
橋下のコンクリートの縁石に腰かけて話始めた。二人はチロを通して互いに慣れていった。チロは人なつこっく、すぐ友達になった。
男は無邪気で、すぐに気を許し、人見知りなぼくには驚くほどの親密さで、いろいろ話てくれた。チロを飼うようになったいきさつや、大切な家族だということをていねいに話してくれた。そして自分の生い立ちも一所懸命。少しわかりづらかったが大筋は理解できた。
名前は良一、生まれは千葉県。歳は三十歳、一人っ子で、なにかの障害で小さいころから養護学校に通っていたが、小学生の時に父親を交通事故で亡くし、その後、中学一年で病気の母親と死に別れてからは施設に移った。
十八歳の時にその施設で嫌なことがあり、飛び出して、その時、公園や橋で暮らすことを覚えた。しばらくして役所の人に保護され、また別の施設に入れられる。その施設で仕事にも通うようになったが、一つのところで上手く続けられずに、職をいっぱい替わってしまった。また、だんだん、いろんなことが嫌になって逃げ出してしまった。
一人で公園や橋下で暮らす方が楽で、加えて、捨て犬のチロを拾い育てるようになり、施設には絶対戻りたく無くなってしまった。また、そのころに知っている施設の人にもあったが、気づかない振りをしていたことなどを話してくれた。
最後に「ぼくは頭が弱いからダメなんです」と笑顔でつぶやいた。 その言葉にどう反応してよいか判らず、黙っていた。
ぼくのことは名前が宮田俊介で十八歳だということ以外はほとんど何も話さなかった。それでも、すぐにぼくを俊ちゃんと呼び、ぼくは照れくさかったが良さんと呼ぶようになった。
良さんは外見はごついおじさんだが性格は優しくおとなしい人だった。段々、慣れてくると同世代の友達に話すように、自分で話せるアニメやゲームのことをじゃべったが、まったくわからないようだった。でも、うれしそうに話を聞いて頷いていた。チロは良さんの横でじっとしていた。
高校卒業以来、家族意外のだれともほとんど話していなかったぼくは、相手のことなど考えずに、ただくだらないことを話しかけた。良さんは話しかけられることがうれしいようで、内容など関係なく楽しそうに聞いてくれた。
二時間ほども話していただろうか、自分の一方的な会話に飽きて、そろそろ帰るといった時、良さんは寂しそうな顔をして「またいろいろ話してください、俊ちゃんは頭がいいから、教えてください」と真剣な顔で言った。 チロも尻尾を振って擦り寄ってきた。「ぼくはまた来ます」といって別れた。
帰り道では良さんの生活が気になった。何を食べているんだろう。健康に暮らしていけるんだろうか。第一戸籍とかはどうしているんだろう。わからないことや、心配事はいっぱい出てきたが、そのうちに面倒くさくなり考えるのを止めた。
自宅には何事もなかったように戻った。、父は予定通り外出しており、母がいつものようにキッチンに向かっていた。ぼくの好物のハンバーグのようだ。ぼくは黙ってテーブルに着くと、出されたものを食べた。また、良さんとチロはちゃんと食事を取れているのだろうか心配になった。
翌日いつもの時間に起きて遅い朝食を済ませると、図書館に行くといって家を出た。伝えた目的地とは逆方向に歩き出す。商店街を抜けて、平坦な道をしばらく歩くと川岸に出る。川上に向けてゆるい坂を上り、橋下の良さんテントに向かう。
橋の上からからテントの所在を確認する。昨日と同じ状態のように見える。橋を下りずに来た道を戻る。通り道で見た今まで使ったことの無いコンビニに入る。おにぎりとおかずのセット、お茶二本と犬用の缶詰を買い、千円札を出す。お釣りを直接Gパンのポケットに突っ込むと誰とも目を合わせぬように足早に店を出た。
さっき一度来た道を戻り、良さんのテントの前に立った。
「こんにちは」と声をかける。すでにチロは千切れるほど尻尾を振りぼくを出迎えてくれている。
良さんが「はい」と返事をして外に出てきた。
「あっ、俊ちゃん」
「こんにちは、これチロのエサ持ってきました。あと、良さんにおにぎりとお茶持ってきました。食べれますか」ビニール袋をさした。
「わあっ、ありがとう。おにぎり大好きです。ありがとう」良さんは何度も頭を下げて袋を受け取った。少し考えるような仕種をして
「でも、もったいないんで、もらって、もっとお腹すいてから食べます」袋を持ったまま、おにぎりを出すとテントに入っていった。
テントの中が覗き見えた。棚の上の発泡スチロールの箱の中におにぎりを入れていた。良さんはぼくの視線に気づくと「中に入りますか」と言ってくれた。
「ええっ、でも」とぼくが少しためらうと、
「大丈夫、汚くないから、気持ち悪くないですから」とぼくの手を引っ張った。
「いや、そんな、じゃあお邪魔します」テントの中に入った。
中は思ったより明るく、広くはないが片づいていた。
テントの真ん中をロープが張ってあり、片方は木に結びつけて逆は打ち込んだ鉄棒のようなものに固定されていた。四隅はシートを押さえる重石代わりのプラケースやビニールに包まれたダンボール箱が置かれていた。
「俊ちゃんここに座って」良さんが積んでいたビールケースを裏返して椅子にしてくれた。ぼくが腰を降ろすと同じケースのテーブルにぼくが持ってきたペットボトルのお茶を一本と茶碗を二つ出して注いでくれた。
茶碗の汚れが気になったが、鼻を止めて、ぼくは一気に飲み干した。良さんがすぐに注ぎ足してくれた。ぼくは取り合えず、次を飲むのはやめた。
「テントすごいですね。全部良さんが作ったんですか」
「はい、そうです」良さんがうれしそうに答える
「材料はどうしたんですか」
「拾ってきたり、もらったんです」
「もらったって、誰にですか」
「源さんとか、工事の人とかです」
「源さんって」
「ぼくにいろいろ教えてくれて、面倒みてくれた人です。でも、もうどこかに行ってしまいました」ぼくはよくわからなかったが、それ以上のことは聞かなかった。
チロは尻尾をちぎれるほど振ってテントに入りたがっていた。良さんは紐をテントの中の鉄棒につないで、ぼくの前に押さえてくれた。ぼくは頭を撫でた。チロははしゃいで暴れていたが、良さんがブラッシングを始めるとのどを鳴らしておとなしくなった。
チロを二人で構いながら、また、いろいろ話をした。その日、良さんは話好きで、ぼくは質問好きだった。
よく知った友達と話しても、上辺だけの会話と感じてしまう。力関係や体裁で本当のことは言えないし、聞けない。でも、良さんはなんでも本当に話してくれる。いや、そうだと思う。ぼくも本当の心を遼さんには話せる気がするから。
ただ、良さんの理解力はこどものようで、ぼくの考えは思うようには伝わらず、少しもどかしい。そしてそれは他の人がどう感じるか、ハンディにならないかぼくを心配にさせた 。
チロを構っていたが、それに飽きてくると、ぼくは気になっていたことを質問した。
「良さん、食事はどうしているの」
「お店が捨てるものをもらってきたり、知っているおばあさんにもらいます。チロのご飯ももらいます。あとお金が入ったときはラーメンを買います」
「お金はどうやって」
「缶やダンボール箱を集めて持って行って徳さんに買ってもらいます。徳さんはぼくのはおまけして買ってくれます。」
「どれぐらいになるの」
「だいたい三百円ぐらいです」良さんはうれしそうに答えた。
その金額の低さはぼくでも絶望的なものだった。しかし良さんは元気な声で続けた。
「そのお金でチロに缶詰を買ってあげるんです。チロはそれが大好きで大喜びです」
「でも、良さん、それぐらいのお金じゃやっていけないでしょう。いつも食事が出来るんですか」
「チロのエサには硬いのがあってそれは長持ちするんで一杯買ってあるんで大丈夫です」
「いや、チロじゃなくって良さんのこと」
「ぼくは大丈夫です。インスタントラーメンもためてあるし、それからお腹がいっぱいすくときは、こうしてベルトをいっぱい締めるんです」
と言って服をめくり上げ、目いっぱい絞ったベルトを見せてくれた
「えっ、こうするとお腹がすかないの、本当に」ぼくは聞いた
「はい、本当です。もっと、困ったら比嘉のおばあちゃんに頼めばおむすびをくれます」
ぼくはまだまだ聞きたいことがあったがやめた。わだかまりはそのままで、ぼくはそのことから目をそらした。
しばらく黙っていると、良さんは心配して、ぼくの顔をのぞき込むように問いかけてきた。
「俊ちゃん、少しむこうの川のところで工事をやっているんだダンプカーが土を運んできて大きなシャベルカーで埋めているんだ、すごいんだ、チロを連れてみんなで見に行こうよ」
ぼくは良さんとチロと一緒に表を歩くのは少し気が引けて、答えなかった。
良さんはぼくの表情など読むそぶりもなく、子供のように無心に誘った。
「でも」と言って固まったぼくに、良さんは「チロも行きたいよ」と言って引っ張った。
だんだん、良さんと一緒のところを人に見られたくないなどと思っている自分がひどく嫌になってきた。
「行きましょう、良さん」チロをリードにつないで歩き始めた。
初夏の河原は風が心地好かった。良さんは嬉しそうにチロに話しかけ、そして工事現場の説明をしてくれた。河川工事の現場ではダンプトラックが運んできた土をシャベルトラックがならしていた。
「俊ちゃん、すごいでしょう。あんなにいっぱいの土を簡単に運んで地面を造っていくんだ」良さんは興奮したように早口で話す。
「本当にすごいね、まるで決められた線に合わせてシャベルを動かしているように見える」
良さんは機械に近寄りたいのか、どんどん前にでる。チロはエンジン音と、シャベルの出す大きな音に怖じけづいて尻尾を丸めて後退りしている。
「久しぶりに工事現場をじっくり見たな。子供のころは大好きだったのに」
「ぼくはいつも見ているんです。あんなふうに機械を動かせる運転手さんはすごいな。ぼくもあの運転手さんになりたかったな。でもぼくは車の運転もできない。俊ちゃんは車の運転はできるの」
「ぼくも車の免許は持っていません」
「でも俊ちゃんはすぐに取れるよね、ぼくみたいにバカじゃないし、家だってあるんだものね」そう言って、良さんは尻尾を丸めたチロを庇うように撫でた。
「ねえ、俊ちゃん、もし車の免許を取ったらぼくを隣に乗せてください。チロも一緒に」
「ああっ免許取れたら」ぼくの返事は尻すぼみだった。でも、良さんはうれしそうに何度も頷いて、(チロよかったな)と撫でていた
それ以上工事には近づかずに、良さんのテントに戻った。そして別れた。 その日から週に何度かは良さんのテントを尋ねることがぼくの習慣になった。
小遣いで良さんとチロへの差し入れの食料を買い、訪ねて行っては少し話した。そのうちにお互いの気心が知れ、何もしゃべらなくても全然気まずくない関係になった。
だいたい週に三日ほど、夕方前に行くようになり、その時は良さんは缶集めなどの活動には出かけず、テントで待っていてくれた。また、良さんがいなくても勝手にテントに入っても大丈夫だった。ぼくは漫画やゲームを持って行って、良さんの横で読んだり携帯ゲームで遊んだ。
そんな時も良さんは嫌な顔一つせず、また、やりたがったりもしなかった。
ただ嬉しそうに笑っていた。まるで優しい親戚のおじさんのように。
テントに居るのに飽きるとチロを連れて二人で工事現場に行った。良さんは飽きずに工事に見とれていた。ぼくはそんな良さんを眺めていると心が落ちついた。面倒くさいことは忘れられた。
河原の工事現場もぼく達には楽しい場所だった。あいつらに出会うまでは。
家族には良さんのことはもちろん内緒にしていた。母は相変わらず腫れものを触るようにぼくを気づかった。父は面と向かっては、何も言わなかったが、あきらかに苛立っているようだった、父の性格からすれば、ぼくの生活は許せないだろう。
父は熱血漢で頑張り屋そして、家族思いだった。公認会計士をやっているが、アウトドアが好きで、ぼく達兄妹は子供のころはよく海や山にキャンプに連れて行ってもらった。今も父は休みはだいたい趣味仲間と釣りかゴルフに行っている。陽焼けした顔でぼくにいつも(外に出ろ、お天道様の下で体を使え)と言ってくる。ぼくは全く正反対の生活をしているのに。
母はごく普通の専業主婦だ、僕の年の子供を持つ母親としては若くてきれいだと思う。昔は友達に自慢の母だった。掃除と洗濯が好きで料理が得意だ。父とは学生結婚だったらしいが、早くに僕が生まれてしまい、普通の若いカップルのように遊んでいないというのが、父に対しての愚痴だった。父はいつもすまなそうに愛想笑いで誤魔化していた。
三つ違いの妹は美人で頭も良いようだが、他者に無関心で、自分の世界を大切にしていた。でも、そうなったのはぼくのせいなのかもしれない。父母は一定時期ぼくにかかり切りだったから、妹は寂しい時期を過ごしていたと思う。
父親の頑張りと母親の献身と妹の我慢のおかげで、ぼくは何も不自由をしない、恵まれた環境にいた。しかしぼくは周りのことなどまるっきり考えない大ばか者になっていた。。
母に当たり、父を避け、妹を無視した。そして自分に閉じこもる。
小学校の時は普通に友達と遊び、笑顔の絶えない無邪気な子供だったと思う。変わったのは、両親の意向で高名な私立中学を目指し、塾に通い出し、生活を受験に偏らせた時からだった。交友関係は一変した。まわりは皆受験のライバルだった。それまでの友達と遊ぶ時間など無くなった。でもその時のぼくは勉強することが楽しかった。集中して勉強することで成績はみるみる上がり、統一模試でも志望校合格圏内の判定が出ていた。ぼくは新しい世界が見れるような気がして、うれしくてしょうがなかった。一人でもさびしくなかった。。
家族はぼく中心の生活になり、父はぼくを讃え、過分な褒美を約束してくれた。母は過保護と思えるほどぼくにつきっきりになった。
ぼくはわがままだったと思う。妹は何度も嫌な思いをしただろう。
ぼくは志望校は絶対受かると思い込み、本命以外は受けないと宣言して、
周囲の言うことは聞かずに、自分の思い通りにしなければ受験しないとごねた。
そして運命の女神に嘲笑われるように受験三日前に風邪をこじらせ、当日は四十度の熱にうなされて受験し、それを乗り切れるほどの力も精神力もなかった。受けた日に落ちているのは明らかだった。
親にも先生にも友達にも、もちろんライバルたちにも合わせる顔はなかった。
親友などと言える存在ももはやいなかった。中学受験にに失敗した後、父が気持ちの切り替えも含めてと千葉に一軒家を新築して、家族で移り住んだ。それまでの幼馴染たちとは別れた。転校した中学では、上手く馴染めずに、不良たちのいじめに合った。自殺に追いこまれるような凄惨ないじめではなかったが、結果として、一番友達ができるであろう時期を一人ぼっちで過ごした。アニメやゲームが心の拠り所だった。他人に心を開くことなく自分の世界で過ごした。いつも自分を責めた。こうなってしまった自分を、そして変えられない自分を。
高校受験のころには意欲も希望もなく、お金で無試験に近い私立高校に入れてもらった。高校でいじめられることはなかったが、寂しい高校生活だった。無駄話をするくらいの友達はできたが、相手の状況を探り合い、心を許せるような友達ではなかった。。そして一人でいるほうがずっと気持ちは楽だった。一人は苦ではなかった。相変わらずアニメとゲームが友達だった。ダラダラとした高校生活も終わった。
そして、今、引きこもり。誰かと会うのが嫌だった、面白くもないのに笑顔で話すのも、聞きたくない話に相槌を打つのも、チクチク刺される嫌味に気づかぬふりをするのも、そして一番嫌いなのは皆に自分を見透かされないように取り繕う自分だった。
両親はぼくにもう何も期待していなかった。いや、それはぼくのひがみかもしれない。そう思うことで自分を楽にした。
大学進学が既定路線だったが、ぼくには無駄なことのように思え、受験もしなかった。自立して働くこともできなかった。なるべくして引きこもりになった。
変えられない過去を引きずり、何もできない今のぼくは、真っ暗な未来に続く、出口の見えないトンネルに立ちすくんでいた。怖くてうんざりして泣くこともできないぼく。そんな時に出会った良さんとチロはまるで別世界から訪れてくれた友達だった。純粋無垢な良さんと話しているとなんと言えばよいか、たいそうな言い方をすれば魂が救われるような気がした。ぼくはそれほど追い詰められていた。
だから、その秘密は日ごとに大切なものになっていた。ぼくが今まで大事だと思っていたどのことよりも捨てられなくなっていた。新しいソフトの内容より、良さんとチロの食事が気になった。心配だけれども何もしてあげられない、いや、動き出さない意気地なしの自分もわかっていた。それでも月々にもらう小遣いで良さんへの食料とチロのエサを買ってせっせと通った。しかし、段々小遣いも乏しくなってきていた。
いつものように昼過ぎに起きて、朝食を取っていた。母は台所に向かっている。ぼくは何気なしに声をかけた。
「かあさん、ぼくバイトしてみようかな」洗い物をしている母の背中に声をかける。
「どうしたのよ、急に、何かほしいものでもあるの」手は続けながら声だけ返ってくる。黙っているぼく。
「何が欲しいの、おとうさんに内緒で買ってあげようか」
「いや、そうじゃなくてさ」
「じゃ、どうしたの急に働きたくなったの」母は思い立ったようにこちらに振り向くと、手をエプロンで拭きながら近づいてくる。
「俊ちゃんすこしやる気が出てきたの、そう、いい事よ。どこか近くでバイトできるところ聞いてあげようか。そうだ、花岡さんなら顔が広いからお願いしてみようか」母は顔を近づけてくる。そして本気度が伝わってくる。
「あっ、いや、いいんだ。大丈夫 。必要ない」ぼくは話を遮るように急いで部屋に戻り、ナップザックを背負うと、母が再び聞いてこないように深々と帽子をかぶり、「出かけてくる」 とあわてて家を出た。
走るように家を離れると、今度はゆっくり歩きながら考えた。ぼくはいったいどうしたいんだろう。良さんやチロの食料代を稼ぎたいと思ったのは確かだった。母とのあの話の流れでゆけばバイトまでこぎつけたかもしれない。それは一つの転機になるかもしれない。でもいざとなると面倒くさくなり、いや怖気づいたというのが正解だろう。ぼくは本当にだめな人間だ。自分をぶん殴って、蹴とばしたい。うじうじ悩んでまた良さんのテントに向かう。小遣いが少なくなってきたので安いおにぎりをいつもより少なく買い、チロの缶詰は買わなかった。
良さんはいつもと変わらずに優しく迎えてくれた。ここだけが心地良い。
二時間ほど、何をするわけでもなく隠れるようにテントに居て、暗くなるころに家に帰った。母が出迎えてくれた。ぼくに何か話しかけようとしたが、ぼくは目をそらし、下を向き急いで自分の部屋に駆け上がってしまった。その後は何も行動してこなかった。溜息が聞こえたような気がした。
良さんを訪ねているうちに良さんのことがさらにわかってきた。とても優しい人だというのは初めからだが、人の悪口を言ったり、馬鹿にしたりすることは絶対にない。また自分の自慢や他人より優位に立とうとするようなことは全くしない。ぼくのような人間がいうのはおかしいが、これで厳しい世間は渡れないだろうと思う。
また、良さんは手先が器用で、いろいろなものを自分で作っていた。テントの時計や段ボールを使った強化棚やケースにも工夫が為されていた。ビニールひもを編んで綺麗なロープにするのも得意だった。編み物も母親に教わってできるらしい。
もし、良さんのことを理解した立派な職人の親方に弟子入りしたらきっと良い仕事を残すのではないかと本気で思う。
あいつを見かけたのは良さんと行っていた工事現場だった。地面を切削しているユンボのそばに数人の男たちがまとわりついていた。その中にあいつ木津がいた。見たくない、思い出したくない顔だった。ぼくが中学の時にいやな思いをさせられた奴だ。蓋をして縄で縛ってさらに箱に入れ、心の奥底に置いた思い出が、完全密封のおかげでどこも擦り減らずに出てきてしまった。
ぼくは中学進学と同時に東京から千葉に移り住んだ。そこは都心から近い新興住宅街だった。小学校から中学に上がる未知の気持ちと何もわからないない転校生の不安と二重の恐怖感を持って初めての登校をした。その時のぼくは誰が見てもおどおどしていただろう。。入学式が終わり自分のクラスに入って割り振られた席に座り、担任の先生を待った。まわりは男女に別れて、小学校からの延長なのか、グループでおしゃべりをしていた。
そんな時、奴は教室に入ってきた。なんだか周りが静かになった気がした。
顔みしりと思われる者にあいさつしながら奥に入ってくると僕を見つけ、目を合わせてきた。とっさにぼくは目をそらした。
木津は口を尖らせニヤニヤしながら寄ってくるといきなり僕を椅子ごと蹴とばした、僕は吹っ飛んだ。何が起こったのかまったくわからずに、ぼくは声も出せなかった。
「何、すかしてんだ馬鹿野郎」はっきり覚えている。それが奴の第一声だった。この時、僕は反撃も、怒りを表すこともしなかった。いや、できなかった。ただ引きつった笑いで、なんとか奴のご機嫌を取ろうとしたが無駄だった。もう二人の役割は決まっていた。じきに担任が来ることはわかっていたので、奴もそれ以上は何もしてこなかった。この時点でぼくの中学生活は決まってしまったらしい。狼に食い殺される獲物だった。
木津は机に貼ってある名札を交換してぼくの真後ろに座った。オリエンテーリング中はシャーペンで突き、縮こまっている僕の背中を正し、壁になるように要求した。休み時間には木津は忙しく動き回っていた。そしてその日、ぼくには他の誰も話しかけてこなかった。ただ、木津が帰り際に下腹部にパンチを入れ「告口るなよ」とだけ言って帰って行った。
新生活の希望など木っ端みじんに吹っ飛んでしまった。これからどうなってしまうのだろうか、得体のしれない恐怖に泣いて逃げ出したかったが、泣くことも逃げ出すことも選択肢には書かれていなかった。
ひとり家に帰った。母は変わらずやさしく迎えてくれた。母の顔を見た時、思わず泣きそうになったが、一所懸命、涙が出ないように堪えた。そして取り繕って告口の言葉が出てこないように踏ん張った。それは脅かされたパンチが効いたのか、中学受験で迷惑をかけてしまった母への遠慮なのか自分でもわからなかった。とにかく何も言わず、母から学校の様子を聞かれてもあいまいに答えるだけだった。
遅くに帰ってきた父にも、階段で会った時に、学校のことを尋ねられたが、ぼくは「普通」とだけ答えた。父は黙ってうなずき、それ以上は何も聞かなった。
ごはんを食べ、ただテレビ画面を目に移し、風呂に入り、明日の準備もせず。ベッドに入った。目をつぶって願ったのは今日の出来事が夢であること、父の仕事の都合で急にまた、引っ越しが決まること、何かの災害で学校が崩壊し明日行けなくなること、どれもそんなことはあるわけが無いようなことを願っていた。眠れないと思っていたが、すぐに眠りについた。 ただ、気が付くと「朝になるな」と意識が叫び、「無理だ」と意識が答えるようなことを繰り返していた。そして学校に行かねばならない朝が来た。
中学受験に失敗して小学校に報告に行った時よりもその時のほうがつらかった。ベッドから起きだすことができずに時間だけが過ぎた。母が心配で起こしに来た。心と体は完全にバラバラで、無理やり動かす体に心を押し付ける。何も考られずに、上机の上に積まれた教科書をかばんに放り込んだ。忘れ物などどうでもよかった。投げやりな気持ちで家を出るしか学校に向かえなかった。父は仕事で誰よりも早く家を出てもういなかったし、妹は兄など眼中にない。ただ母親だけ誤魔かせばよかった。
学校に行くとぼくはもう狼には逆らえない完全な羊になっていた。だが、事態は恐れて膨らませていた想像よりは楽なものだった。金品を取られたり、絶対的な暴力を振るわれたりすることはなかった。
ぼくの役目は木津のパシリと暇つぶしだった。だからその後、三年間で大きなトラブルはなく、ただ、じくじくとした中学校生活を送った。
学校の序列は狼と一般人と羊だった。多数は一般人で、少数の狼と同数くらいの羊がいた。狼同士はよほどのことがない限り争うことはなかった。奴らの関心ははどうやってかっこよく遊ぶかであり。そのために生きているようなものだった。
ぼくの認識では狼はだいたい二種類に分かれた。強い奴と狡い奴だ。自分に自信があり、引かないで戦って勝とうとする本当に強い奴と、状況で自分の態度をころころ変えて上手に渡り歩こうとする狡い奴だ。こいつは間違いなく、強に弱く、弱に強い、木津はこれだった。不良の先輩や屈強そうな奴には絶対に逆らわなかった。但し、言葉はため口に近く、相手の強さなど、別に気にしていないというような恰好をキープする。しかし、絶対喧嘩などにならないように十分に注意を払っていた。万一雰囲気が悪くなりそうなときは、ふざけた仕種で相手の股間を触りに行き、相手が笑うと、上手くおどけて気をそらした。
狼グループの特徴のひとつはほとんどが地元育ちということだった。
この地区は農業や漁師をやっていた地元住民と都心に通うため比較的便利で安いこの新興住宅街に家を建てたサラリーマン住民とに分かれていた。もちろん、うちは新興住宅派だった。そして不良グループのほとんどは地元住民グループだった。同じ地域の不良たちは皆、顔見知りの幼馴染でそれなりに尊重し合って、また、必要に応じて群れた。そして他の地域の不良に対しては連帯感をもって対抗していた。
ぼくのような新興住宅派の羊たちは性格的にも、流れからもうまく徒党が組めずに、もちろん、狼と争って勝てるはずもなく、狼に絡まれないように静かに暮らそうとした。しかしそうは簡単にいかない、狼はいつも獲物で遊びたくてウズウズしている。ちょっとの隙をついて襲ってくる。気まぐれですぐに済む時もあれば、なかなか終わらず引きずられる時もある。でもあくまでも遊びの延長であり、致命傷にになるような暴挙にはでなかった。
ただ、一度だけ木津に手ひどくやられたことがあった。放課後のプロレス技の試しの時に逆手にきめられた腕があまりに痛く、いくらギブアップをしても面白がって離してくれなかった。もがきまくった末に本当にどうしようもなくて、「止めろよ」といって逆の手で払おうとした。その時、手の甲が木津の顔に当たり、はずみで伊達メガネが飛んだ。木津はそのことがよほど気に障ったらしく、こめかみに血管を浮き立たせて凄んだ。
「お前、何してくれるんじゃ、あっあぁ、ボコったろうか」そう言うが早く、僕のみぞおちに思いきり拳をめり込ませた。ぼくは息につまり身を屈めた。奴は容赦なく腹に利き腕でパンチを繰り出した。うずくまると僕の首根っこを掴み顔を起こし、
「おい、顔は叩いたらいけないんじゃ、跡が残るからな」と吐き捨てた。
今度はローキックで足を払うように床に転がされた。、
「へそ集中、マシンガンキック」と言って、先のとがった靴で下っ腹を連打した。
ぼくは何も抵抗できず、ボロ雑巾のように床を擦った。周りに何人かの一般人もいたが、助けてくれる人はいなかった。そのうちに木津は興奮した自分がダサいとでも思ったのか「気を付けろ」と捨てゼリフを吐いて教室を出て行ってしまった。
倒れたままのぼくを一般人の男の人が起こして、学生服をはたいてくれた。無言のままだった。そして終始、下を向いていた。それが精一杯の彼のできることだったのだろう。もちろん、僕も無言で頭を下げながら、涙が落ちるのを我慢していた。
狼は羊と同学年でも本当に同じ年に生まれたのかと思うほど大人ぽっかった。ぼくの感覚からいえば幼稚園児と高校生ぐらいの開きがあった。
いや、それ以上かもしれない。音楽やファッションや遊び全般のことは知識が豊富で、且つ、いろいろな経験をしているように見えた。特に女の子に関しての扱いはまるで違う生き物だった。
時が経ってから聞いた話だが、別のクラスの狼が、二年に進級の春休みに、一学年上の女の子を無理やり彼女にして、挙句、深い交遊により妊娠させた。一学期の終わりごろに彼女の異変に気が付いた母親が、学校に苦情をいれてきた。彼女の家は新興住宅派で母子家庭だったらしい。狼の親も呼び出されて揉めたが、地元住民の父親はお宅の娘が悪いと言い放って引かなかった。結局中絶費用は狼の父親が出したしたらしいが、狼は簡単な謹慎で放免、女の子は周りの目でいたたまれなくなり、二学期には転校していった。
ぼくがそれを知ったのは狼本人が仲間に細に入り話をしているのを聞いてしまったからだ。全然、悪びれることなく、際どいことを勲章のように話していた。まるで別世界の出来事で、訳もわからない嫌悪感と決して埋まることのない嫉妬のようなものを感じたことを覚えている。
その頃のぼくはと言えば女の子と面と向かって話すことなど全くなかったし、機会があったとしてもできなかっただろう。
女性でまともに話すことができるのは母親と妹ぐらいで、その妹にさえ嫌がられていた。全くのゼロから短期間にそんな関係にまで持っていける狼は、ぼくにとってはかけ離れた大人にしか見えなかった。
実は狼と女の子ことでは僕にも苦い経験がある。
二年の二学期末試験の最中だったと思う。隣のクラスの女の子に呼び出された。
その時は、テストを終えた後で、何気なく窓から外を見ていた。ちょっと前まで木津たち狼グループもいたのだが、その日はプロレス技の試し掛けに呼ばれることも無く、いつの間にか、いなくなっていた。
女の子が寄ってきて「宮田君、ちょっといい体育館まで」と言って僕の袖を掴んで先を歩き始めた。「えっ、何」少し戸惑ったが従う悲しい羊の習性と何かほのかな期待で黙ってついていった。
何気なく胸の名札を見ると坂下祥子と書かれていた。二年になっても他のクラスに足を踏み入れたことなどほとんどなかったが、この子はとても綺麗で目立っていたので、廊下で見かけて、クラスと顔は覚えていた。ただ制服のスカートが他の子たちより短いのが少し気になっていた。
体育館には入らず、校庭から裏側の閉ざされている扉の前、そこは日の当たらない、いかにもそれらしい空き地になっており、狼たちのたまり場にもなっていたが、その時は誰もいなかった。
彼女は急に立ち止まって、振り向くとぼくを上目遣いに見上げ、背伸びするように顔を近付けできた。
「宮田くん彼女いるの」突然のその言葉で自分の顔が赤くなるのがはっきりわかった。気の利いた言葉は全く出てこなかった。ただ、何か答えなければというあせりから「ん、ん、ん ・・・・・・」と唸ってしまった。少しの間があって彼女は押し殺すようなくぐもった声で「ねぇ少し屈んで、そしてきつく目を閉じて」と言った。顔からは火が出そうで、頭は爆発しそうだった。 何も考えることなどできず、ただ、言われた通りに体を屈め、目をきつく閉じた。薄目で見るとか、気配を窺うとか考えも及ばなかった。空白の時間が五秒ぐらいあったのだろうか、時間が抜け落ちていたように思えた。 次の瞬間顔面に衝撃を感じた。
反動で後ろに転がってマット運動のように元の姿勢にもどった。目を開けると、そこには木津がいた。僕と目が合うと「十六文キックだ」といった。
後ろで、祥子はお腹を抱えて笑っていた。他にも数人の男女がいた。
「だって、こいつ急に唸りだすんだもの、可笑しくて、堪えるのに必死だったのよ」そう言うと今度は手で涙をこする仕種をした。
他の男女も大声で笑っていた。
「最高、受ける」見覚えのある痩せた茶髪の女の子が答えた。
「なんで、転がって元に戻るんだコントかよ。木津の仕掛けとしては久しぶりのヒットだな」寸胴ズボンに短蘭を着た、見るからに突っ張りの男が髪を撫でながら高い声で話す。
「ホームランだべ、唸りの俊ちゃん。面白いよ」はしゃいで木津がぼくのほっぺたをたたく。
ぼくは予想もしない出来事に反応できなかった。動けなかった。最初はぽかんと真っ白だった心に、まわりの男女の笑い声が突き刺さり、傷口を拡げるように浸食した。体が震えだした。今、自分がどんな行動をすればいいのか全く見当もつかなかった。ひとりぼっちの心に暗い底から悲しさだけが込み上げてきた。その時ひとつだけわかったのは、このままではぼくは皆の前で泣いてしまう、それだけは嫌だった、阻止したかった。絶対にだめだった。
駆け出した。ただ、駆け出した。後のことなどどうでもよかった。とにかく気が付いたら駆け出していた。走りだすと涙が風に飛んだ。木津らは追いかけてはこなかった。もうぼくなんかには飽きたのか。ぼくはそのまま急いで教室に戻る。カバンと体育用の運動靴を持って体育館とは逆の校舎出口にまわり、外に出た。幸いに、木津達とは合わずに帰路につけた。
(なぜ、こんなことになったのだろう)自分の間抜けさに腹が立ち、そして祥子が憎かった。
家に帰るといつものように母が出迎えてくれた。何も変わらない普段の生活があった。だが、何も話す気にはなれなかった。
ご飯を食べ風呂に入り早めにベッドにはいった。布団をかぶると恥ずかしさと悔しさで涙が出た。疲れてすぐに眠りについた。夢うつつでぼくは何かに抵抗していた。何に対してかは夢の中でも、起きてからもわからなかった。すぐに朝が来て学校に行かなければならなかった。
学校に行くと木津が「おい、唸坊」と声をかけてきた。ぼくは黙って下を向いた。「祥子がよろしくってよ、また遊ぼうてよ」言葉が出ず、また唸りそうになったがなんとか堪えた。
木津の周りにたむろしていたクラスの狼どもの一人が聞いた。
「なんだよ、唸坊って」
「バーカー、お前昨日いないから、わかんねえんだよ。こいつ面白かったんだよ。祥子が放課後、粉かけて体育館の裏で、(彼女いるのって)聞いたら、股間膨らまして、真っ赤になって唸ってんだよ」
「えーっ、マジなに、それでどうしたん」
「おうよ、そんで一目散に走ってたんよ。追っかけようと思ったんだけど、べらは早くて、かったりーから止めた」木津は思い出したように笑いだして僕の頭をひっぱたく。
「このタコ!」その声で取り巻きが笑う。ぼくは愛想笑いをするしかなかった。もう、あきらめた。抵抗しても無理だ。羊はひつじだ。狼には勝てやしない。少しのことを我慢すれば殺されるわけではない。大丈夫だ。ぼくは生きていける。自分に言い聞かせて、言い訳して、されるがままに従う。 木津は皆から十分な笑いを取った後、僕を教壇のスペースに連れて行き、新しく覚えたプロレス技をかけた。ぼくは目一杯がんばって耐えたが、我慢できずにギブアップの合図をした。木津は猪木の真似をしてファイテングポーズをとり、高々と手を挙げた。ぼくは静かに笑っていた。消えられるものなら消えてしまいたかった。
そのことからしばらく経って、クラスメートの一般人から、祥子は木津の彼女だと聞かされた。狼に妊娠させられた上級生の話が頭に浮かび、何とも言えない気持ちになった。
狼たちは遊び上手で大人びていたが、ほとんど勉強はできなかった。はっきり言って馬鹿だった。狼たちに唯一勝てることがあるとすれば勉強だろう。一般人はそれをを防護にして、狼を遮断していた。しかしぼくは中学受験で失敗して以来、勉強を捨てていた。全くやっていなかった。
小学校の時は秀才だったと思う。受験に失敗しても中学から一所懸命、勉強すれば、かなりできる部類に行けたと思う。しかしぼくはする気が起きなかった、狼に目をつけられ、いじめられたことも理由だと思うが、それよりなにより、自分の心が弱かったのだと思う。
狼はそれを鋭い嗅覚で見抜いて、襲い、かさにかかってきたのだろう。まんまとぼくは逃げられない罠に、嵌まってしまった。
やる気のなさは、スポーツや音楽、美術にもあてはまった。ただ身長だけは伸び、体重は増えなあかったので卒業するころには百八十センチ近くのヒョロヒョロ体型だった。
勉強もできない、スポーツもできない、遊びもできない子供のままのぼくは何の価値もなかった。でも羊同士で群れたり、一般人に混ぜてもらえるよう努力するのは嫌だった、もしかしたら本当は狼になりたかったのかもしれない。しかし、その覚悟も努力もぼくにはなかった。
結局、何もしないで、夜と休日は自分の部屋にこもりアニメとゲームが自分の癒しだった。だが、それも客観的に罪悪感で眺めている自分が居て、決して熱くはなれなかった。
このまま、僕の中学校生活は流れて、そして無事?、終わった。中学時代を振り返るといじめられたことがつらかったのではないと思う。何にも歯向かわない自分、なんの夢も持たず、無気力な自分が嫌だったのだ。自分からずっと逃げていた、ずうっと自分を嫌いなままだ。
高校は東京の私立に通い、中学時代のクラスメートに会うこともほとんどなかった。休日も外に出ることの無い、半引きこもりだったので、木津のことなど忘れていた。。
今、木津を見るのは本当に三年ぶりだった。やはり、懐かしさよりも、嫌な思い出が頭に浮かぶ。鼓動は高まり、口が乾く、会いたくない。奴に見つかりたくなかった。ユンボを夢中で見ていた良さんに「用事があるから早く帰ろう」と促した。
良さんは機械の近くに寄りたかったようだが、さっさとチロを引っぱり、良さんを押すようにしてその場を離れた。
奴らは僕に気づくこともなくユンボを操作していた。帰り道ぼくは無口だった。良さんは急に機嫌が悪くなったぼくを心配した。
「どうしたの俊ちゃん、お腹痛いの、具合悪いの、病気 」一生懸命気を使ってくれる良さんが鬱陶しくなって、ぼくは強い口調で
「何でもないよ、ほっといてよ」と良さんの肩を小突いてしまった。
不意のことで良さんはバランスを崩し、後ろに尻もちをついてしまった。そのまま地面に座り込み、見るからにおろおろとして、ぼくの顔を覗き見ては、ただ、黙ってしまった。
ぼくはそんな仕種も急に腹立たしく思え、自分のしたことの責任も取れずに、ただ「帰る」と言い、振り向きもせずに良さんから離れた。
橋のたもとに来る頃には、自己嫌悪で本当に反吐が出そうになった。
先ほどは腹立たしかった、良さんの目がとても悲ししそうに思えて頭から離れなかった。後悔の念で心が縮んだ。
家に帰っても心は晴れずに、体の調子が悪いと言って部屋に籠ってしまった。
木津をみかけてしまったことは最悪だったが、そのことに気持ちが埋まってしまい、良さんに酷い仕打ちをしてしまった自分がみっともなくて許せなかった。アニメもゲームも何もする気は起きない。そして悲しい時に陥る眠気がやってきた。いつものようにぼくはすべてから逃げて眠ろうと思いベッドに入った。すぐに何もわからなくなった。また、憶えていない夢を見た。だが、落ち着けない、居心地の悪い夢だったのは確かだった。
次の日は早くに目が覚めた。すぐに良さんに謝りに行くことが頭に浮かんだ。今までのぼくのパターンだったらこのままにして、フェードアウト、もうテントには近づかないだろう。でも良さんにはそんなことはしたくなかった。
ぼくは朝食もそこそこに立ち上がると、母親の前で溜息をついた。
母親が気を使って、声をかけてくれると「いや、ちょっと」と口を濁した。
「どうしたの」とさらに突っ込んでくれる。ぼくは内心ホッとした。
実は今日の午後から、どうしても行きたい講演会があるんだと打ち明けた。
とても偉い大学の先生で、なんでも引きこもり研究の第一人者らしいと、その先生の話を引きこもりが聞くと皆、感動して、自分の行動を省み、明日に向かって歩き始めるらしいと評判だと、一点を見つめて話した。
そしてまた、深い溜息をついて、でも三万円もするらしい、そんなのおかしいよね無駄だよね、一人で完結した。母はすぐに反応した。
「いいじゃない、三万円ぐらい、だまされたと思って行ってみれば、ねっ俊ちゃん、聞いてらっしゃいよ」
「えっ、でも・・・・・・うん、わかった。ぼくも変われるかな」とつぶやいた。
「大丈夫よ。あっ、そうだお金取られても、お母さんも行こうかしら、聞いたほうがいいわよね、いろいろ役にたつかも、ねっそうしよう」
ぼくはあわてた。
「いや、だめだめ。何でも、先生がそういうのを一番嫌うらしいんだ。引き込もりに親の甘やかし、だから母さん、ごめん」
「あら、そうなの残念。仕方ないわね、俊ちゃんが困るものね。でも、さすがは偉い先生ね。筋が通っている、きっとためになるわ。後で資料とお話し聞かせてね。母さんも勉強しなければ」
「うん、もちろんだよ」ぼくはすこし尖った口を慌てて戻した。母に気づかれないように。
「場所はどこ」
「八王子のP大学」
母は財布から一万円札三枚と千円札を五枚出してぼくに握らせてくれた。
「三万円と交通費と食事代」ぼくは急いでジーパンのポケットにねじ込んだ。
「そんなとこに入れて落とさないでね」母は心配そうに微笑んだ。
(母さん、ごめんなさい。ぼくがこんなことできるのはあなただけです)ぼくは口が歪みそうになったが意識して堪えた。
ナップザックにノートと筆記道具を入れると
「駅まで自転車で行く、いってきます」と家を出た。
自転車をこぎながら考えた。引きこもりが一人で講演会などに行くわけがない。万一行くとしても家族に連れられてだろうな。でもまあ、母は信じてくれた、いや、もしかしたら嘘だとわかっていてお金を出してくれたのか、冷汗が出てきた。
自転車をこいで隣の駅まで行った。パソコンで下調べしておいた、母が絶対に使わないであろう総合ディスカウントセンターに行った。
軍資金はある。今日の買い物は、これからの季節に備えた衣類と食料。もちろん良さんにあげるものだ。ドカジャンと作業ズボンそして軍足と防寒靴を買った。良さんのサイズはほぼわかっていた。防寒用の組下着も安く売っていたので買う。労働者風のおじさんがラクダのパッチと言っていた。良さんが着たところを想像して思わず笑ってしまった。見知らぬおばさんが不思議そうにぼくを見た。ペット売り場に行き、チロの首輪を見る。
大げさな鉄の鋲が埋め込まれた頑丈そうな首輪が特価処分で売られていた。首を守るためのものだろうが、今時こんなものは使われないだろう。しかしチロにもはめられそうで飛びぬけて安いので買う。
ここまでで三万円の半分くらいを使う。後は食料だ、お米と安い缶詰各種、それからカップ麺24個入りを一箱買う。チロのドライフードの大袋も二つ、犬用の缶詰とスナックも少々買う。お金はまだ大丈夫そうだが、かさ張るものが多いので、さすがにカートもいっぱいになった。多分自転車にも積めなくなるだろう。はたと気が付いて自転車用のゴムロープも買った。
支払いを済ませると三万円ですこしおつりが来た。 大きな空箱をもらい、整理して入れた。うまくまとまった。なんだか、うれしくなってきた。 こんなにたくさんの買い物を一人でしたことはなかった。ほとんど自分の洋服や身の回りのものは母に用意してもらっていたし、食料など買うことはもちろんなかった。案外できぱきと予算内で必要な物が揃えられたので、大満足だ。自分には才能があるのではないか、何の才能だかはわからないが。
大箱が二つと紙袋が一つ、僕にとっての自転車最大積載量だ。しっかりと括り付けて、自転車をゆっくり走らせた。最初よろけて転びそうになったが、堪えて進んだ。なんとか軌道にのった。家族や近所の人に合わないように遠回りする道を選んだ。特に妹の下校時に見られたりしないように慎重に道を見回しながら進んだ。
目的の橋に近づくにつれ、この間の自分の態度に良さんが怒っていないか、まさか無視などされないか少し心配になってきた。
だが、良さんのことだから笑顔で迎えてくれるだろうという自信もあった。
川岸のいつもの青いテントのそばに自転車を止めて、荷物を降ろそうとすると、急にテントの幕が上がり良さんとチロが飛び出て来た。
「あっ、やっぱり俊ちゃんだ」良さんは満面の笑みで抱きつきそうな勢いで近づいてきた。チロもいつものようにちぎれるくらいに尻尾を振って寄ってきた。
「俊ちゃん。昨日はごめんなさい。ぼくバカだから悪いことを言ってしまったんだよね、俊ちゃんを嫌な気持ちにさせて、怒らせて、もう、来てくれないかと思っていました。本当にごめんなさい」良さんは深々と頭を下げた。
「違うんだ、良さんは何も悪くない。ぼくが勝手に怒って良さんに酷い仕打ちをしてしまったんだ。良さんがあやまることなんて何もないんだ。ごめんなさい」ぼくは良さんよりも頭を下げた。
「やめて、やめて、俊ちゃん」良さんは両手でぼくの手を掴み引き起こした。良さんは泣いていた。ごっついおじさん顔の良さんが泣くのは可笑しかった。可笑しくてぼくも涙が出てきた。それから二人と一匹で、ぼくが持ってきた荷物の品定めと整理をした。良さんはどの荷物を見ても驚いた。 そして、これは良さんとチロのものだというと何回も「本当にいいの俊ちゃん大丈夫」とたずねた。
ぼくはお詫びと答え品物を渡した。良さんはまず、食料を備蓄庫に入れた。チロのエサも専用の箱に入れた。
衣類はすべてサイズ確認も含めて良さんに着てもらった。ジャンパーとズボンの丈が少し長かったが少し折れば、大丈夫だった。他は、ほぼぴったりだった。
良さんは順番に一つ一つ丁寧に着ては、恥ずかしそうにぼくとチロに見せる。そして照れて微笑んだ。
チロの首輪も一番内側の穴で調整することができた。鉄ビョウの首輪をつけるとチロも強そうに見えた
母には申し訳ないことをしたが、ぼくは心底買ってきてよかったと思った。今まで家族を含め、他の人に何かをしてあげてこんなに喜ばれたことはない。ぼくは恐縮してしまうほど、良さんは喜んでくれた。
もう一つ感想を言えば、ラクダのパッチとモモヒキは良さんにとても似合った。テレビドラマに登場する昔のオヤジさんのようだった。ぼくには絶対似合わないものだった。
試着し終わると良さんはまたきれいにたたんで衣類の箱に入れた。
それからカセットコンロでお湯を沸かして、買ってきたカップ麺を二人で食べた。もちろん、チロには買ってきた、ジャーキのようなおやつをあげた。
もう一つ心に引っかかっていることを良さんに打ち明けた。
「良さん、ごめんなさい。昨日、ぼくが勝手に怒ってしまったのには訳があるんだ。それはあのユンボの周りにいた人の中に昔ぼくをいじめていた人がいたんだ。だから、ぼくは逃げ出したんだ。その人に見つかりたくなかったんだ」
じっと聞いていた良さんがまた、泣き出した。
「ごめんね、俊ちゃん僕、わからなかったんだ。僕にも会いたくない人がいっぱいいるよ。見つかりたくないよ。ごめんね俊ちゃん」
なんでこの人はぼくの言うことをなんでも信じて、ぼくのために泣いてくれるんだろう、食べ物や洋服が欲しいから、いや、全然違う、ぼくが何も提供しなくても、この人はきっと同じことをしてくれるだろう。それは、はっきりわかる。切ないほどこの人は純粋で優しい。他人のために泣いてくれる。少しの時間この人と一緒に居て、生活を見ていればそのことはすぐにわかる。
でも、今の社会はこの人をはじき出して、存在さえも忘れられている。立ち止まって振り向いてくれる人など誰もいない。いや、ぼくがそんなことを言うのはのはおこがましいかもしれない。きっとこの人の良さをわかって支援してくれている人もいるのだろう。
しかし、現実につらい生活を綱渡りで一生懸命生きている。ぼくのような、甘ったれの、努力もしない、現実逃避のアメ玉坊やが、生まれついての環境のおかげでぬくぬくと安全に生活しているのに。ぼくには何もできない、せいぜい母親をだましたお金で少しのものを買ってあげるのが関の山だ。そんなこと長くは続かない。ぼくの自分への不満と良さんへの不憫な思いが掃除機のごみパックのように膨らんでパンパンになってきた。
(ああっ、だめだ何もできない。前に進めない。また、考えるのが面倒くさくなってきた。とりあえず、今日はいい、このままでいい)とぼくのなかのぼくが言う。
「俊ちゃんの会いたくない人はだれ」良さんが聞いてくる。
「ユンボのそばにいた、パンチパーマで角度のついた眼鏡をかけた奴、中学の同級生でずっといじめられていたんだ。嫌な奴さ」
「俊ちゃんをいじめるなんて悪い奴だね。とっても強いの」
「強くなんかないさ、弱い者いじめの典型的な奴さ」
「そうなの、でも、もうユンボは見に行けないね」
「ごめんね、良さん」
「ううん、大丈夫」
カップラーメンを食べ終わると、残ったお湯でお茶を入れてくれた。良さんは僕専用の湯飲み茶碗も用意してくれていた。それは茶碗の裏にマジックで「しゅんちゃん」と書いてある。
まだ、家に帰るには早かったのでこのテントで時間をつぶすことにする。
良さんが拾ってきて、取っておいてくれた漫画本を読む。その間、良さんは一旦、片づけたお土産の衣類をまた、拡げてニヤニヤしながら見ていた。
「良さん、それは見て楽しむものじゃないよ。毎日着るもんだよ」と声をかけると良さんは
「あっ、ハイそうですよね」と真剣な顔で答えた。あった本をすべて読み終わって時計を見ると七時になっていた。家を出てから六時間が経過していた。
(そろそろ、もどってもいい頃かな)、良さんに帰ること告げると、
「もう、帰っちゃうんですか」と悲しそうな顔で答えた。
「また、来ます」「はい、待っています。今日は本当にいろいろありがとうございました。はい、チロもお礼を言って」と綱を引っ張った。チロは遊んでもらえると思って、飛びついてきた。引き離してテントを出た。
暗い路を走りながら、母への返答をいろいろな質問でシミュレーションした。でも、そのことも良さんがあんなに喜んでくれたので、決して逃げ出したくなるようなことではなかった。戻ってから、急に元気になったぼくを見て、喜ぶ母がはっきりわかった。資料は電車で寝過ごして置いてきてしまったが。