第二章:アークの現場検証
火精節光月の始めはまだ気温が低めで、早朝ともなると涼しい日が暫く続く。
と言ってもこれから1、2週間(6〜12日)かけて気温は上昇し、暑い日が続くようになる。
火精節で過ごし易いのは節の始めと終わりくらいなもの。
そんなまだ涼しい早朝の森を、アークは一人で黙々と歩いていた。
ともすれば森林浴でもしたくなるよう陽気と清々しさなのだが、アークの表情は人形のごとき美貌も相俟って異様に冷たいものだった。
本人の感覚で言えばただ考え事をしていて無表情なだけなのだが、その容姿のせいで迫力があるのだ。
最も今、彼の周囲には他に誰もいないし、誰かに見られ何と思われようがアークはお構いなしなのだが。
当然、アークが森林浴などで歩いているわけがない。
少なくともアークにそんな趣味はないし、そんな時間があるならかつての感覚を取り戻すために、剣を振り回しているだろう。
現在、一人で森を歩いているのは、当然目的地があるからだ。
「ふん…。変化はなし、か…」
そう呟いてアークが立ち止まったのは、昨日奇妙な鬼の集団と一戦交えた場所だった。
昨日は血と泥と死臭に、肉の焼け焦げる悪臭とが入り交じった空気に覆われていた場所も、一晩経てば元の清涼たる新緑の匂いへと入れ替わる。
変わったのはそれだけで、己の魔術の痕も、紫呉が消し炭に変えた死骸も、変わらずそこにあった。
昨日鬼達と対峙した時、アークの中でいくつか疑問が浮かんでいた。
それを確かめるために一人でやって来たのだが、目の前に横たわる炭化した鬼の亡骸を見て、一つの仮説が浮上した。
それを明確なものとするには、今はまだ眠っている昨日助けた青年の話を聞く必要がある。
だがその前にもう一つの確認もかねて、調べに戻ってきたのだ。
「……たしか、こう…だったか……」
そう呟いて目を閉じると、右手を左から右へ、壁を撫でるような形で横に薙ぐ。
目を開けばイメージした通り、昨日エイダが使っていた解析陣が出現していた。
「解析術式など生前はなかったが…簡単だな」
拍子抜け、何て言葉まで付け足して調べものを始めたアークだが、ここにエイダがいたら彼の言葉に激しく首を振っていた事だろう。
様々な物を鑑定をしたり、術式の解析をするこの術は、アークが言うように人魔戦争終結以降に開発、構築されたものだ。
解析鑑定中常に魔力とマナを結合させ続けなければならない、制御の難しい高ランクの術である。
ミーディアムのような魔導具として使用する事でエイダのような未熟な術士でも使えるこの術は、本来魔導具の助けなくして使用は出来ない。
それを見様見真似で、尚且つ無詠唱で起動させたのだから、恐るべき魔術センスである。
ともすれば昨日ノアがやってのけた事にも引けを取らない偉業なのだが、アークからすれば取るに足らない事。
己もノア並みにとんでもない事をやらかしたのだと言う自覚もなく、アークは黙々と亡骸に残った呪詛を調べていた。
────残っていると言っても殆ど残骸か。
これなら誰かが触れても呪詛を“もらう”事もないし、再発する事もないな。
それよりも解せないのは……。
解析陣を消して、アークは鬼の亡骸を探るような目で見つめる。
その目は、相手の魂を淡く光る靄として捕える事が出来る。
だが、目の前の鬼の亡骸からは当然の事、昨日対峙した時から鬼達の魂は映らなかった。
普通なら存在するはずの魂が存在しない。
全ての生命は魂無くして生きる事など出来ない。
魔物のような例外はあれど、あれらとて魔核が魂の代わりを担っているようなもの。
例外だと断言は出来ない。
しかし、本当の意味で“例外”だと言える存在を、アークは嫌と言う程知っている。
だが、そうして浮かんだ例外すら、アークは解せないと否定し。
────もし仮に、今回の一件が“奴”の仕業だとして、目的はなんだ?
……否、それ以前に俺の記憶が確かなら、“奴”は……。
考え事に没頭していても周囲の警戒は怠らないアークの索敵範囲内に、奇妙な二人分の反応が入り込んだ。
そのうちの一つは昨日対峙した鬼のものと酷似している。
…というよりはほぼ同様の存在だろう。
忘れたくても忘れられない程穢れに満ちたマナだ。
しかし、残り一つの方には覚えがない。
例の呪詛体となっている鬼を引き連れる形で、その存在はまっすぐこちらに向かっているようだった。
何者かは解らないが、鉢合わせになるのは不味い。
そう判断して、アークは茂みに身を潜めると人形に戻り、念には念をと自身の周りギリギリに結界を張った。
アークからしてみれば簡素なものだが、こちらの気配を探知出来ないようにするだけならこれで十分だ。
後は姿を見られないよう影に潜むように身を隠したところに、索敵で捉えた二人がその場に姿を現した。
────やはり一匹は昨日の奴か。やはり、あれにも魂はないな。もう一人は…。
茂みの隙間から様子を窺いながら、やって来た二人の妖鬼を観察する。
後に続いてやってきた方は、間違いなく昨日見逃してやった鬼だ。
昨日対峙した様子から、必ず司令塔となる者がいると踏んだのだが、当たりだったようだ。
「────あーぁ、ナニコレ。黒焦げどころか文字通り消し炭じゃん。
誰か知んないけどやってくれんじゃん」
地面に出来た焼け焦げを忌々しそうに蹴り付けたのは、背後に控えた鬼とは容姿も纏う空気も異なる、子供の妖鬼だった。
…否、“妖気族”と断定するには、その様相はあまりにも異なるものだった。
裂けてボロボロになった服を纏っている大柄な鬼とは異なり、少し古ぼけた様子の着物をきっちり着込んでいる。
肩より少々短い髪はくすんだ赤茶色で、全体的に古くさい印象を抱かせる。
その印象と額から突き出た顔に合わない太くてゴツい角がなければ、十分現代に生きる普通の子供と認識出来ただろう。
しかし、纏う空気は酷く禍々しいもので、ただの子供でない事は一目瞭然だった。
大鬼の方とは違い、その言動には明確な意思があり、その表情にもはっきりと苛立ちが滲み出ている。
明らかにただの妖鬼とは異なる空気を持つ鬼──醸し出される澱んだ気を考慮して呼ぶなら悪鬼──は、苛ついた表情のまま今度は残っている亡骸へと視線を向けた。
「こっちはこっちで完全に炭化してるし。
これじゃあ“屍兵”の素体にも使えないじゃん」
マジムカつく、とまで付け足して悪鬼の少年は鬼の亡骸を蹴り付ける。
炭化した腕の部分が脆く崩れたが、それに見向きもせず背後の鬼に顔を向けた。
「こいつを殺った奴、本当に雷を使う鬼人族だったワケ?」
「……ハイ、熊サマ…。間、違イ、アリ、マ、セン…」
悪鬼のどこか投げ槍な問いに、背後に控えていた鬼が片言ながらも返答する。
鬼に熊と呼ばれた悪鬼の少年は、もう一度消し炭となった鬼の亡骸に視線を落とし、口元だけでニタリと嗤った。
「ふぅん。ようやく本物の“系譜持ち”が出て来てくれたってワケだ」
暫くそうしてクスクス笑っていた悪鬼だが、少しして意識を切り替えると、今度は奥へと視線を向けた。
そこにあったのは何の変哲もない、この森でよく見かける木。
熊と言う悪鬼が注視したのは、その木の根本に広がった赤黒いシミだった。
そこは昨日自分達が救出した黒翼の青年が倒れていた場所。
熊は青年が流した血で赤黒いシミに触れると、何かを確かめるかのように表面を撫で己の手についた土を調べ始めた。
良く見ると熊の着物の帯には一本の刀が差してある。
脇差し程度の長さで、拵えを見てもごく普通の刀でしかない。
しかし、アークはその脇差しを注意深く観察する。
ややあって熊は不機嫌さを隠しもしない表情で立ち上がった。
「あーぁ。ホント誰だよ、余計な事してくれたの。
折角“風神鬼の鴉”に呪詛かけたって言うのに…。イラつくなぁ、もう!」
そう吐き捨てて、熊は力任せに目の前の木を蹴り付ける。
まるで癇癪を起こした子供にしか見えないが、鬼としての力は相応にあるらしい。
ガスガスと苛立ちをぶつけるように蹴り付ける度、決して細くはない木が激しく枝葉を揺らしていた。
「…風神、鬼、死ニカケ、テ…」
「知ってるよ。
僕があの済ました鴉の腹をかっさばいてやったんだ。
呪詛で治癒だって出来ないんだから、ほっといても野垂れ死ぬはずだったのに。
───呪詛は発動してないし、誰かがあの鴉を助けたんだ」
鬼の呟きに答えつつ、熊は腕を組んでブツブツと考え事を零し始める。
しかし、この場で熟考するのを諦めたのか、或いは考え事が嫌いなのか、赤茶の髪を掻き毟ると「やめた」とはっきり口にした。
「とにかく今は“系譜持ち”の事を“姉御”に報告しないと。
“あっち”もそろそろ片付けないと、いい加減姉御にどやされちゃう」
掻き毟った髪を手櫛で軽く整えながら、ぼやくように零す。
殆ど独り言のような会話だが、そのお陰で色々情報は拾わせてもらった。
無論、アークの中で疑問が確信に変わった代わりに、熊の正体や最終的な目的などの疑問が新たに増えはしたが…。
「“あの方”のためにも“系譜持ち”は絶対に必要なんだ。
まずはさっさと風雷の里を潰してしまおう」
最後に重要そうな情報を二つ零し、熊は来た時同様鬼を引き連れて引き返していく。
二人分の反応が索敵範囲外に出た事を確認してから、アークは自身を覆っていた結界を解除した。
全く気付かれる事なく情報を得られたのは重畳だが、鬼共の迂闊さには少々閉口する。
────“系譜持ち”、という事は、狙いはやはり紫呉とあの男…彩風と呼ばれていた“鴉”か…。
…風神鬼…ね。それにしても“屍兵”か……。
浮かんだ疑問が確信に変わるには十分過ぎる意味を持つ言葉に、アークは己の予感が嫌な的中をした事に気疲れを覚える。
それでも解せない事はあるのだが、それを別にしても面倒な事が起きていると解って、溜め息を吐いた。
…言葉で。
「…はぁ…。────で?何しに来た、犬」
「ちょっ!いきなりそれはないですよ、旦那!
旦那が一人で出掛けたって言うから、様子見に来たのに…」
殺戮人形時代の名残か、常に索敵を行っているアークのマナ感知には、少し前から見知ってしまった人物の反応が入り込んでいた。
それが誰のものか解ったから放置していたのだが、その人物…スヴェンは持ち前の嗅覚でアークの居場所を特定したらしい。
お間抜け冒険者だが、この辺は以外と優秀らしい。
「要らんわ。そんな事より、ノアと例の鴉の様子は?」
スヴェンの言葉をスッパリ切り捨てて問えば、そんな事と切り捨てられたスヴェンは「相変わらず辛辣…」としょげる。
灰色の犬耳もしょんぼりと垂れているが、その下がいい年した大男では、可愛げも何もないのである。
「姫さんの方はまだですけど、あのニイさんならさっき目覚ましましたよ。
今紫呉の兄さんと話してます」
「そうか。なら戻るぞ」
正確な事は、あの彩風と言う青年から聞いてみなければ判断出来ない。
ノアもそろそろ覚醒するだろうし、これ以上ここにいてももう何の情報も得られないだろう。
それにあの熊と言う悪鬼の言葉と昨日青年から聞いた言葉を要約すれば、今風雷の里は大変な事になっているはずだ。
身を潜めていた茂みから出て歩き出せば、何故か両手を広げて待ち構えるスヴェンが視界に入る。
その顔が紅潮したように緩んでいるのを見て、アークは地を蹴った。
「気色悪い、略してキショい!!」
「ヒドイッ!!」
跳躍からの強烈なハイキックがスヴェンの顎にクリーンヒットする。
アークの場合人形の姿だからと侮ってはいけない。
物の見事に踵を叩き込まれたスヴェンは、大きく仰け反って倒れていた。
因みにキショい、と言う言葉はノアから教わったものである。
「ぐおぉ…、脳天揺れた…ッ」
などと呻いて転がるスヴェンを放置して、アークは再び人化して歩き出した。