第一章:目覚めと出会い
白い。
周りの全てが白で覆われて、何も見えなくて、何も解らない。
ふわふわとした浮遊感に、ゆらりゆらりと波に揺られ、柔らかな揺り籠に包まれているような安心感。
あるいは羊水の中を揺蕩うているような心持ちに、ゆっくり、ゆっくりと“何か”が浮上していく。
“何か”………。違う、解っている。
“それ”は意識だ。自分の………。
〈───…ぁ、や……か……〉
深く、水底深くまで沈んだ意識が、波間から差し込む光を求め、ゆるりと水面を目指して浮き上がる。
────行かなければ、あの先へ……。
あぁ、でもここは暖かい。
優しくて、何より安心出来る絶対の場所。叶わないと解っていながらも、ずっとここで微睡んでいたい。
そう思わせる、そんな場所なのだ。
〈────ぃ、お……、…ぃこ…、……ろ、お…んか…おい〉
もう少し、もう少しだけ。必ず“そこ”に行くから、もうちょっとだけ…。
ゆったり、ふんわりした安心感に包まれて微睡むのは、何よりも心地よく暖かい。
この温もりを手放したくなくて、“現実”から身を守るように包まった。
────あれ?こんな事、前にもあったような気がする。…“前”っていつ?どこで?
〈い……らさ……と…き…、……え……る…だろ…。よ………い……が…え…と思………。…ら、起…ろ〉
誰かの声が聞こえる。己を上へと、水面へと引き上げる、眠りの底から現実へと持ち上げる、そんな声だ。
前にも、こんな風に誰かの声を聞いたような気がする。
あれは、“誰”だったのか…。
急激に、意識が引っ張り上げられる感覚に襲われる。
圧迫された水中から飛び出すかのように、一気に視界が広がる
それと同時に、意識も明瞭になった。
純白のキャンパスに一瞬にして風景画が映し出されように、広がったのは見覚えのない風景だった。
見上げなくても見える天井は非常に高く、流線の美しいリブが並び、荘厳な空気を醸し出している。
天井を見ただけで、この空間が相当広い事が解った。
等間隔に細かい彫刻を施された柱が並び、その奥には無惨にも崩壊した神と思しき彫像があった。
どのような理由で壊れたのか、残っているのは腰から下だけ。
しかし、地面に突き立てられたような形で残されている大剣の切っ先から、それが戦女神の彫像だと理解出来た。
“見た事もない筈”なのに……。
床には細い線や模様が細かく刻まれており、良く見るとそれが複雑な幾何学的な図形を描いている。
やはり初めて見る筈なのに、自分にはそれが強力な封印術式だと理解出来た。
────あれ?なんだ?ここ、どこ?
全く見覚えのない場所に、そう口に出して言った筈なのに、声に出ていなかった。
それどころか、視界もおかしい。頭を動かしたわけではなく、目を動かした覚えもないのに頭上が見える。
周囲を見回さなくとも、全方向360度視認できる。
広すぎる視野に、ただ戸惑うばかりだった。
動かしたり目を左右に振ったりしている筈なのに、動いた感覚はおろか、“ある”という感覚すらない。
それどころか、地に足がついている感覚すら……。
〈やっと起きたのか。この俺を待たせるとは良い度胸だな〉
なんか変な声が聞こえる気がするけど、今は放置して状況を考える。
考え込もうと腕を組んで……、その腕すらないのだと気付いた。
これは本格的に不味いかも。脳裏に疑問符と共に焦りも生まれる。
もしかしてもしかしなくても、今の自分は躯の感覚を全て失ったと言う事なのだろうか…。
それはもしや、もしや………────思い出せない。
────何だっけ…?なんかすごく重要な事の筈なのに、思い出せないや。何で?何だったっけ…?
〈おいコラ。聞こえてんだろ。さっきからこの俺様を無視しおって…!
大体今のお前には躯などないのだから、感覚がないのは当然だろう?〉
再び聞こえてくる声に、思考を停止させられる。
それに若干イラッと来たのは、考え事の途中で割り込まれたから。
決して己が短気だからではないと、そう言っておく。
────あぁ、もう、うっさい!考え事してんだから頭ん中に直接割り込んでくんな!
大体躯がないとか何を阿呆な事……。
苛立ち混じりにそこまで言って、はたと思考が停止した。
意識が覚醒する前から聞こえてきた“誰か”の声。
それは鼓膜を震わせて“聞こえる”ものではなく、脳裏に直接響いてきていた。
そして、“躯がない”と言う、普通なら質の悪すぎる冗談だと一蹴するべき言葉が、嫌に現実味を帯びて己の中に浸透してくる。
〈口も耳もないのだから念話で、お前の頭の中に直接語りかけるより他にあるまい?
考え事は後でも出来るから、まずはいい加減俺様を『認識』しろ。話はそれからだ〉
またもや聞こえてきた声、…紛れもない男の声に、…と言うより言われた言葉に、嫌でも思考を中断させられた。
────うわ、やめろ、ヤメロッ。
口も耳もないとか本当に躯がないみたいに感じるじゃんか!
つーか認識しろとか言われてもどう………。
思考はまたもや停止する。
いつの間にか目の前には、黒靄を纏った半透明の、のっぺりとした黒い影がいた。
それは辛うじて人と解る形をしているが人では非ず。黒で塗り潰された人型は、そこに“いる”のに向こう側が透けて見えた。
顔には目と鼻が辛うじて判別出来る程度の凹凸があるだけで、人相などありはしない。
頭頂部や肩、両手両足から立ち上るように、黒靄が揺れては消え、揺れては消えを繰り返していた。
〈イヤアアアアアア!!お化けぇぇぇぇ───────っ!!〉
〈誰がお化けだ!!ヒトをあんな未練がましいくたばり損ないと一緒にするな!!〉
条件反射よろしくお決まりな悲鳴をあげれば、目の前の黒靄が肩を跳ね上げて怒りを表す。
表情がのっぺりと動かない分、動作は感情豊かな黒靄お化けである。
〈えー?じゃあ幽霊?地縛霊?悪霊だったら退散してください。呪怨はいらないです。
それともドッペルゲンガー?シャドウ?何にしろ出会いたいものではなさそうだね〉
〈どれも違う!いい加減ヒトをお化け呼ばわりするのをヤメロッ。
大体お前も似たようなもんだろうが!〉
尚も淡々と告げられた言葉に、黒靄の眉が吊り上がった、……気がする。
そして下を見てみろとばかりに黒靄が揺れる手で床を指され、そういえば床はじっくり見てなかったと己の真下を見た。
幾何学模様の描かれた床は何の素材で作られたのか知らないが、鏡のようにピカピカに磨かれている。
真上にあるものを朧気ながらも映すその床には、白い靄に包まれた小さな小さな球体が映っていた。
淡く、ゆっくりと明滅する光は鼓動のようにも見え、ゆらりと揺れる白靄は、空気に溶けて消えているようにも見える。
今にも雪のように溶けて消えそうな、儚い己の姿が確かにそこにあった。
〈あらやだこっちは人魂だよ〉
〈意外と冷静に受け止めたな〉
あっさりと現実を受け入れた白靄に、黒靄の呆れ突っ込みが間髪入れずに入る。
先程の狼狽え様は何だったんだ、と言う黒靄のぼやきは無視された。
今日はここまで。
最低でも一週間に一度のペースで更新していけたらと思います。
閲覧、ありがとうございました!