第一章:夜の闇に悪辣は蠢く
※第三者視点
商業の街ラトニスに、夜の帳が降りる。
昼間は多くの人で賑わっていた商店街も、大勢の候鳥(旅人)が行き交っていた街の広場からも、人の姿が見えなくなる。
広場や通りには術式を利用した街灯の魔導具がいくつも柔らかな光を放ち、周囲を照らしているが人の姿はどこにも見られなかった。
街灯と同じ技術で作られた照明器具が普及して、夜間も営業する店が増えてきた昨今。
それでも陽が暮れれば店を閉めてしまう店舗の方が多く、昼に負けない賑わいを見せているのは商店街の酒場くらいのものである。
一方完全なる静寂に包まれているのが、高級店が立ち並ぶ通りだ。
まだいくつかは店内に明かりが灯っているが、例外なく全ての店舗が閉店している。
通りの街灯は等間隔に道を淡く照らしていたが、酒場のある通りより人気がなく夜の闇に沈んでいる。
そんな薄暗い通りを、二人分の人影が手に下げたカンテラで道を照らしながら歩いている。
夜の闇の中では黒にしか見えない、紺の隊服に身を包んだ街の憲兵だ。
高級店は盗賊やならず者の標的になりやすく、それ故に毎日毎晩こうして巡回が行われている。
しかし、アクビを噛み殺しながら歩くその姿からは仕事に対する真摯さがなく、彼らは適当に周囲を見回しただけで通り過ぎていく。
その背後で、闇に紛れながらこそこそと蠢く人影に、最後まで気付く事はなかった。
「……へへっ、相変わらずやる気のない憲兵共だせ」
「まぁ、下手にやる気出されてもうぜぇだけだけどなぁ」
二人の憲兵が通りの奥へと進んでいく様子を、物陰から見つめている二つの人影があった。
その風体はどう見てもごろつきとしか言いようがなく、その顔付きも痩せこけて荒んで見える。
だと言うのに、その双眸は異様な程ギラついていた。
「…よし、行ったぜ。行くぞ」
相方の合図にもう一人が無言で頷くと、二人のごろつきは足音を忍ばせて通りの向こう側へと進んでいく。
街灯の光に当たらないよう闇の中を進む様は、真っ当な者には決して見えない。
そんな二人組は誰にも見咎められる事なく、ある店舗の裏手に続く細い道に入っていった。
完全に闇に沈んだ道を慎重に進み、店の裏手に入る。
僅かに月光が照らしたその場所では、もう一人怪しい風体の人物が立っていた。
「おう、待たせたな」
「…問題ない。こちらも来たばかりだ」
ごろつきの一人が片手をあげて声をかければ、相手からテノールの小さな声が上がる。
声の質から男だとは思われるが、少年といっても良い印象だった。
解るのはそれくらい。
その人物は厚手の長い外套で全身を覆い、フードを目深く被っている。
その上周囲の暗さで顔は確認出来ず、その声と身長で男だろうと判断出来た。
少なくとも、ごろつきの一人よりは背が高い。
ごろつき達は特に何の警戒も見せず、男の傍らに立った。
「もう一度確認しときてぇんだが、本当にここの店主はそんなにお宝溜め込んでんのか?」
「…あぁ、間違いない。お前達だって、ここの店主の強欲ぶりと悪どさは知っているだろう?」
男はごろつきの問いにそう答えて、顎で店を指し示す。
他の店舗と比べて品のない豪華さを持つ店を見上げて、ごろつき達は同意した。
「強欲強突く金奴隷のバルトレッティ、だもんなぁ。そりゃあしこたま溜め込んでるはずだぜ」
そういってごろつきが一人笑えば、もう一人も釣られてゲスに嗤う。
そんな二人を見つめる外套の男は、ひっそりと溜め息を雫していた。
「しっかし良いのか?あんたここの従業員だろ?」
こっちは裏から手引きしてもらえて助かるけど。
そう付け足してごろつきが言うと、外套の男は暫しの無言の後、吐き出すように告げた。
「……店主の強欲さと傲慢さに嫌気が指したのさ」
「あぁ…」
男の、どこか憂いを帯びた言葉に、ごろつき達も納得したように短い相槌を打つ。
バルトレッティの傲慢っぷりも有名な話である。
「それより時間が惜しい。そろそろ始めよう」
「おぉ、そうだな」
男に促され、ごろつき達は店の裏口に張り付く。
盗賊のスキルで鍵でも開けるのかと思いきや、裏口は軽く捻っただけであっさりと開かれる。
あまりにもあっさり開いたため、開けたごろつき達の方が拍子抜けしてしまった。
「本当に鍵かけてねぇのかよ。強突くのくせして不用心だな」
「壊れてそのまま修理していないだけだ。裏口だし修繕費が勿体ないと言ってな」
多大なる呆れを含んだ男の言葉に、ごろつき達も「そこまでケチるか」とただ呆れるばかりだ。
『金持ちはケチだから金がある』何て話を聞いた事があるが、それが正解なのかもしれない。
しかし、それが今こうしてごろつきの容易な侵入を許しているのだから、バルトレッティも随分大事なところで判断ミスをしたものである。
その判断ミスを鼻で笑って感謝しつつ、ごろつき二人は極力音を立てず店内に侵入する。
外套の男もその後に続いて店内に入った。
静かに扉を後ろ手に閉めると、男はあちこちを物珍しげに見回すごろつきの目を盗んで扉に細工を施した。
無論ごろつき達は男の怪しい行動に一切気付いておらず、フードの下から見える口許が、愉快そうに嗤っていた。
「それじゃ、早速お宝探しと行こうじゃねぇか」
「折角こうして店ン中入ったんだ。店の商品も根こそぎ貰っちまおうぜ」
そういってゲスに笑うごろつき達は、早速家捜しをしようと行動を開始する。
しかし、その前に男が彼らを止めた。
「今表に置いてある宝飾品は全てイミテーションだ。
本物の宝石は作業部屋かバックヤードの倉庫にあるはずだ」
「あぁ、成る程。あの強突く野郎が人通りの多い表に本物の宝石並べる筈がねぇわな」
従業員だと名乗った男の言葉に納得して、ごろつき達は呆れる程素直に従う。
正直裏家業に携わる者達とは思えない程の素直さ(?)である。
「例の宝の隠し場所は恐らくどこかにある隠し扉の奥だ。詳しい場所は流石に解らないが、怪しいのは奴の書斎だと思う」
手を貸せるのはここまでだ、そう言って男はごろつき達に背を向ける。
盗人を手引きした以上、ここには居られない。
そんな意思を背中で語る男に、ごろつき達はそこから哀愁を感じ取った。
バルトレッティの性格と悪辣ぶりを考えれば、従業員として働く者の苦労と苦悩も解ろうと言うもの。
ごろつき達の目には、男に対する憐憫が浮かんでいた。
「まぁ気ぃ落とすなよ。この仕事が終わったら儲けでパーっとやろうぜ!!」
「縁があったらまた一緒に仕事やろうや」
「……………あぁ」
ごろつき達の場違いな励ましの言葉に、男は背を向けたまま小さく頷く。
その声は微かに震えていた。
その後、ごろつき達は男から貰った情報を元に、バルトレッティが隠し持っている財宝を探しに、奥へと進んでいく。
従業員は全員自宅に帰っているとはいえ、奥に進む二人の足音はごく僅かにしか聞こえない。
そんな小さな音が完全に耳に届かなくなった頃、その場に残った男は小さく肩を震わせて────嗤った。
「────あんたらとの縁なんて、端からないっつーの」
嘲笑のみで彩られたその声は、男のものとしては少々高いものだった。
裏口から出て行くと思われた男は店内に向き直ると、足音を立てずしかし素早い動きで通路を進む。ごろつき達とは反対の廊下を進み、潜った入り口の先にあったのは表の店舗だった。
光に満ちた昼間との違い、夜の闇に沈んだ商店内部は、煌びやかさも荘厳さもない、張りぼてのような印象を抱かせる。
男は棚に並べられた宝飾品の一つを無造作に手に取ると、つまらなさそうに床に放り投げた。
ただ豪華なだけで品もない宝飾品、それもイミテーションになど用はない。
男はそれらに見向きもせず、店の西側にある木造の椅子に目を向けた。
ウィンドウを覆うカーテンから月の光が向けて、薄ぼんやりと店内を照らしている。
暗闇に慣れてきた目には十分な明るさで、そのお陰でそこにあるのが椅子だけだと理解するには十分すぎた。
「────まぁ、想定内…」
そう呟いて、男は視線を正面に向ける。
毛足の長い絨毯のお陰で足音を立てずに扉の前まで移動すると、カーテンに触れる事なく外の様子を窺おうと耳を澄ました。
若干のざわつきを聞き止めてニマリと笑うと、男の手は扉の内鍵を開けてしまった。
「……準備完了。こっちも急がないとね」
フフン、と笑って呟き、そのまま来た道を戻る。
廊下に出ると奥の方からごろつき達の楽しげな声が僅かに耳に届いた。
どうやら商品に取り付ける本物の宝石でも見つけたらしい。
それにも意に介さず、男は周囲を見回しながら廊下を進んだ。
廊下は暗闇に覆われていたが、夜目に慣れた今は薄ぼんやりと内装が見える。
表の無駄な豪勢さに比べて、バックヤードは質素というより他にない。
余計なところに金はかけない、と言う店主のがめつさがそこから滲み出ているように感じた。
それに対して軽い嫌悪感を抱きながら奥の廊下を右折すると、仄かな明かりが更に奥から届いて来る。
廊下の奥は突き当たりになっていて、そこには一枚の扉と足元を照らす間接照明が灯されていた。
「随分と贅沢な使い方してんなぁ。富豪気取りかっつーの」
金の事しか頭にない強突くジジイのクセに。
そう内心で呟くと、忌々しい店主の醜悪顔が脳裏を過って、非常に不快な気持ちになった。
うぜぇ顔思い出しちまった、と付け足すように呟かれたその声は明らかに男のものではない。
男(?)は気を取り直し手前へと進むと、間接照明に照らされた扉の前に立つ。
誰もいない筈の店内に、未だに灯されている明かり。
それが何を示唆しているのかを理解している男(?)は、極力音を立てないようゆっくりと扉を開いた。
「大当たり♪」
その先にあったのは、地下へと続く石造りの螺旋階段。
下へと続く階段は、等間隔で光に照らされている。
その照明の数は多く、いくら照明魔導具が一般にも普及されて久しいとはいえ、こんな場所にこれ程多くの照明を着けると言うのも、贅沢と言うか金の無駄と言うか…。
若干呆れながらも光に誘導されるように、男(?)はゆっくりとした足取りで下へと降りて行く。
もう間もなく雨期も終わりに差し掛かり、暑くなり始めている時期だと言うのに、地下と言う場所柄か、下れば下る程空気が冷えていく。
足元から来る冷気を不快に感じつつひたすら階段を下ると、その先にあったのは一枚の扉だった。
なんの変哲もない普通の扉。
しかしその扉はごく僅かに開いており、その隙間から目映い光が漏れ出ていた。
それと共に、誰かがぶつぶつと呟く声も耳に届き、男(?)は内心で『やっぱり』と呟いてからその扉に手をかけた。
「ふ…ふふひひ…っ。これはまた素晴らしい装飾だ。見たところアゴニア調の細工だな。
むむっ、こっちは古代キーリア式の装飾か!?
人形にばかり気を取られていたが、こちらも中々……」
音を立てずに扉を開けば、一人の男がこちらに背を向けてぶつぶつと呟いていた。
その手元には目映いばかりに光を放つ装飾品が数点並んでおり、男…バルトレッティはそれらを鑑定しながら恍惚とした表情で眺めている。
時折、肩を小さく震わせながら、うひひひと言う実に気色の悪い笑い声を上げている。
その後ろ姿を見て、男(?)は「うへぇ」と言いたげな表情で顔を歪めた。
バルトレッティは完全に財宝にのみ意識を向けて、男(?)の侵入に一切気付いていなかった。
これ幸いと室内を見渡せば、回りには溢れんばかりに多種多様な財宝が並べられていた。
黄金の彫像、宝石の散りばめられた宝冠、細かい彫り物が施された純銀の器、大きな壺。
細工の見事な鞘に収まった剣、細かい刺繍が全面に施された外套。
アクセサリーに関して言えば、店で売られているものよりも高価で品の良い物がずらりと並んでいる。
正に見たまんまの宝の部屋だった。
しかし男(?)はそれらに目を奪われる事なく周りを見渡すと、丁度良いのがあったと言うように、黄金と宝石で彩られた剣を手に取る。
大の大人でも振り回すのに両手を使うような大振りなもので、男(?)はその剣を抜かずに鞘を持つ。
そしてゆっくりと、バルトレッティの背後に接近した。
その途中、男(?)の視界に“目的の宝”が入り、男(?)フードの下で再びイヤらしい笑みを浮かべる。
“それ”の澄んだ真紅が見つめる中、男(?)はバルトレッティの頭目掛けて剣を振り下ろした。
「ぅが………っ!?」
完全なる不意打ちで後頭部を殴られたバルトレッティは、短い呻き声をあげて昏倒する。
バランスを崩した躯が椅子から落ちて、床に財宝と共に倒れ、派手な音が上がった。
今の一撃であっさり気を失ったバルトレッティを見下ろし、男(?)の口元はニンマリと笑みに歪んだ。
「はっ!このあたいをコケにした報いだよ!この強欲変態成金ジジイ!あースッキリした!!」
そう言って、本性を現した外套の人物は、勢いよくフードを取り去る。
その下から現れたのは侮蔑と嘲笑に歪んだ少女…イルザの顔だった。
彼女は楽しげにそう言うとやたらと底の厚い靴を履いた足で、バルトレッティの頭を踏みつけた。
「これに懲りたらもう二度と人を見下さず、クズはクズなりに底辺這いつくばって生きるんだね。
最も、もう二度と陽の下を歩けなくなるけどね!」
キャラキャラ笑いながら重そうな厚底靴で、バルトレッティの頭を実に楽しそうに踏みにじる。
余程加減なく殴られたのかバルトレッティが起きる様子はなく、一応死んではいないのか小さな呻き声は上がっていた。
「おっと、こうしちゃいらんない」
予定では“そろそろ”この店内は騒々しくなる。
そうなる前に目的を果たしてここからずらからなければ。
イルザは再びフードで顔を隠すと、鈍器に使ったものも含めて、三本程剣を選び、それを所持してきた袋の中に収めていく。
ついでとばかりに目についたアクセサリーを数点、適当に掴んでウェストポーチに詰め込んだ。
そして最後にここに来た最大の目的である、一部始終をその赤い眼で見つめていた“白銀の人形”を抱え上げた。
「待たせてごめんねぇ。さぁ、あたいと一緒にここから出ようねぇ」
そう人形に語りかけて頬擦りする勢いで抱き締める彼女の姿は、いかんともし難い痛さがある。
しかし、いつまでもそんな事で時間を食ってる暇はないと気持ちを切り替え、イルザは剣を入れた袋と人形を外套の中に入れる。
そして昏倒したバルトレッティをその場に放置して、来た道を戻って行く。
「締め切っちゃうと暑いだろうし、開けといてあげるねぇ。あたいってばやっさしぃ~」
何て白々しい事を言いながら、イルザは扉を全開にして階段を駆け上がっていった。
地上付近まで戻ってくると、隠し部屋の外から複数人の男が揉める声が届いてくる。
その内の二つが先程ここに手引きした“餌”のごろつき達のものだと気付いた。
「なに?もう見つかってんの、あのグズ共!どんだけどん臭いんだっつの。
つかあいつらも仕事早すぎんでしょ」
そう小声で悪態をつきながらも、空いた手で懐からブローチを取り出し、外套の喉元に装着した。
紫色の淡い光を仄かに放つ石が嵌め込まれたそのブローチは、装飾品としては質素なものだ。
しかし、見るものが見ればそれがただのブローチではないと解るだろう。
ブローチがしっかりついているのを確認し、イルザは周囲を確認しつつ廊下に出た。
「ちくしょおぉぉぉ!何で開かねぇんだ!?」
「クソッタレがぁぁぁ!何で気付かれたんだよ!!」
「大人しくしろ!!」
地下に通じる扉周辺にはまだ人影はないが、廊下の奥から男達が騒ぐ声が届いてくる。
焦りと怒りの声に嘆きすら加わっているのは、ごろつき達のもの。
そして騒ぎ立てるごろつき達を取り締まっているのが、この街の憲兵だ。
どうやら上手く“餌”に食い付いてくれたらしい。
後は“下”のメインを食わせてやれば…。
イルザはニタリと嗤うと、声を張り上げた。
「た、大変だ!地下室で誰か倒れているぞ!!」
「何だって!?」
男らしく聞こえるよう低く作った声で言うと、仕事熱心な憲兵の一人が即座に反応する。
それは連鎖的に他の憲兵にも伝わり、中には捕えたごろつきに疑惑を向ける者もいるようだ。
ごろつき達が必死に否定する声が聞こえてきた。
「ホント、お仕事熱心で助かるよ、まったく。
────“影覆いし紗”」
憲兵達の行動が手に取るように理解出来、イルザは至極楽しげに呟く。
それと同時にある魔術を発動させた。
起爆言と共に喉元のブローチから淡い光が放出され、それと同時に複雑な紋様の陣が浮かび上がる。
その直後、まるで空気に溶け込むようにイルザの姿と気配が消えていく。
トレジャーハンター達がよく使用する隠密系の魔術である。
効果はほんの数分だが、この場を抜けるだけなら十分だった。
完全に姿を眩ませて廊下の角に身を寄せると、イルザの前を数人の憲兵が走り抜けていく。
お膳立てするように扉を全開にしておいたので、憲兵達は何の迷いもなく地下へと飛び込んでいった。
それを無言のまま見送ると、今度は奥の廊下から二人の憲兵に連行されるごろつき二人が歩いて来た。
「おい、待ってくれ!!俺らは確かに宝石は盗んだが、誰も傷付けちゃいねぇ!!
地下だってどこにあんのか何て知らねぇよ!!」
「あいつだ!!あの従業員とか言ってた黒マントの男!!
俺たちゃあいつに利用されたんだ!!」
「話は後でゆっくり聞いてやる。いいから歩け!」
「いい加減黙らないと、口にも『拘束』の呪をかけるぞ!?」
一番後ろの憲兵の鋭い声と言葉に、ごろつき二人は顔を青くして押し黙った。
二人の両手には鈍色の手枷が嵌められており、中央の石が橙色の光を放っている。
あれは魔術の一つ、“妨害する壁”という結界術を応用した術式拘束具である。
本来は結界で対象と大気中のマナを遮断する事で、一切の攻撃を封じる術。
それを応用して作られたのが、ごろつき達に嵌められた手枷である。
橙色の石に刻まれた術式を何段階かに分けて発動させる事で、枷一つで完全に動きを封じたり、口を塞ぐ事も出来るのだ。
口も拘束されると何をやっても口を動かせなくなり、しゃべる事はおろか呼吸もままならなくなる。
最悪の場合そのままの状態で数日放置されれば、食事も、水すら容易に摂取出来なくなる。
それを知っているからこそ、ごろつき二人は押し黙ったのだ。
一気に静まり返った廊下に、男四人の足音が上がる。
しかし、彼らはその中にもう一人分の靴音が混じっている事に、気付いていなかった。
彼らと入れ違う形で裏口までまんまと辿り着いたイルザは、憲兵達が表に出て行ったのを見計らい、裏口の封印術式を解除した。
トレジャーハンターとして、一時的に扉を封印する術は心得ているが、ただのごろつき達では術式の存在にすら気付かなかったようだ。
先程まで壁のように閉ざされていた扉は今度はいとも容易く開き、イルザはそのまま裏道を通って一本別の通りに向かう。
閑静な高級店街で起きた大捕物に、夜半という時間でありながら野次馬が出来上がっている。
それも予測していたイルザは表通りに出る前に素早く外套を脱ぐと、その中に人形を隠して鞄のように小脇に抱えた。
盗んだ剣を入れた袋は、紐を持って肩に担ぐ。
様々な事情、仕事の内容により、夜半から街の外に出掛ける冒険者は少なくない。
今のイルザの姿も、そう言った冒険者に見えていて、野次馬に紛れ込んでも、誰の目にも止まらなかった。
「────えぇい放せ!放さんか!!貴様ら私を誰だと────」
風にのって耳障りな男の、甲高い声がここまで届く。
どうやら無事悪徳商人も捕まったらしい。
その事実に内心で『ざまぁ』と笑いながら表には出さず、興味ない風を装って野次馬から離れた。
喧騒から離れてしまえば街中は夜の静寂に包まれており、商店街の酒場は未だに賑わいを見せている。
そこで酒と料理を楽しむ者達からすれば、高級店街での大捕物など酒の肴にもならない。
それ以前に興味もないのだろう、結構な騒ぎの筈が誰も気に留めていなかった。
当然のように、夜遅くに街の門に向かって歩いていく冒険者の姿になど、気を留める者はいない。
暗がりのせいでその容姿は非常に捕えにくく、その存在に気付いたとしても記憶に残らなければ意味はない。
ましてや酒の入った者の記憶に残りようもなく、彼女は盗品を持ったまま堂々と大通りを通り抜けていった。
街の検問所に至っても同様である。
商業の街であり国境に近い事もあって、入国には相応の審査が必要となる。
しかし、それは入国時の話であり、街の外に出るだけなら身分証の提示だけで通り抜ける事が出来る。
無論、その身分証がなければ相応の審査や手続きが必要となるのだが。
イルザも身分証となるギルドカードを門番に提示すると、特に何事もなく通してもらえた。
「夜には野盗とかも出るから、道中気を付けて」
などという注意までもらって。
「はぁい。ありがとうございまぁす」
目一杯愛想を振り撒き、猫撫で声と媚び媚びの笑顔で返答する。
イルザの本性を知る者なら『きめぇ』の一言で終わるだろうが、門番の男はそんなもの知る筈もない。
…が、門番の表情は若干…否、かなり引いたような苦々しい笑顔になっている。
イルザの“必殺悩殺笑顔”は、本人が思っているのとは全く真逆の効果を生んだようだ。
しかし、イルザは効果覿面だったと本気で思い込んでおり、上機嫌で街の外へと歩いていく。
その後ろ姿を、門番はなんとも言えない微妙な表情で見送っていた。
「すんません!急いでるんで!!」
「えっ?あ、あぁ、どうぞ」
「どうも!!」
イルザが門を抜けてから数分後、一人の冒険者が慌てた様子で検問所に駆け込んできた。
フード付きで丈の短いケープのような外套を纏った、長身の男だ。
人相はフードで判断がつかないが突き出すように提示されたギルドカードの名前は、ここ最近で見慣れたものだった。
男の勢いに押される形で通行を許可すると、余程急いでいたのか男は弾丸のように飛び出していく。
そして街の外の道に出ると、何かを探すように周りを見回した後、あっという間に西の方角へと走って行った。
一方、一足先に街を出てきたイルザは、街の西側にある森へと身を隠していた。
ラトニスの西にあるアーリアス大森林は、古い森であるが故に余り人が立ち入らない地である。
街での窃盗事件で己に嫌疑がかからないよう策は練ったが、念には念を入れて人目につかない所にいかなければならない。
それに何より、この森には己が見つけた遺跡がある。
森の奥地にある岩窟神殿が、発見者である自分のものだと信じ込んでいるイルザにとって、姿を隠すには丁度良い場所だった。
ひとまず森の奥まで分け入り、少し空間の開いたところに辿り着く。
そこで立ち止まると、イルザは我慢の限界と言うように笑いだした。
「あーっはっはっはっはっはっは!!きゃ──────ぁっはははははは!!」
何とも聞いていて不快になりそうな甲高い笑い声が、夜の森の静寂を切り裂く。
果てには「おーほっほっほ」何て笑いだしそうな程、イルザの気分は最高潮にまで昂っていた。
それと言うのも、何もかも思い通りに事が運んだからだった。
最大の目的である白銀の人形を手に入れた。
最も腹の立つバルトレッティの悪行も白日の下に曝し、憲兵に逮捕させた。
不法侵入、窃盗の罪はあのごろつき達が被ってくれる。
そして何の憂いもなく街の外に出られた。
その全てが計画通りに進み、イルザはまさに最高潮にまで高揚しているのだ。
「あぁもう、最ッ高!!どいつもこいつも軽く騙されてくれちゃって!ほんと、単純なやつばっか!!」
特に気分が晴れたのが、バルトレッティが憲兵に捕縛された姿を見た時だ。
これまでずっと貴族の後ろ楯を利用して、幾度となく罪を免れてきた男だ。
そんな悪徳商人が言い逃れも許されずに逮捕、連行される様は、実に愉快で何よりの愉悦だった。
これでも下準備が大変だったのだ。
成功しなければ、大枚をはたいた意味がない。
「それにしてもあのグズ共もダメダメだね。流石は頭の悪いちんぴら風情だよ。
顔も名前も解んない相手の口車に、簡単に乗っちゃうんだからさ!」
クックッと楽しげに嘲笑し、ごろつき達の無様な姿を思い出してまた嗤う。
イルザがあの二人に目をつけたのは、楽な儲け話を探しているという低俗さを持っていたからだ。
ちんぴらに毛が生えた程度の二人に、例の外套姿で今回の計画持ちかけたのだ。
『バルトレッティは自分の店に古代の宝をたんまり隠し持っている。
いずれも悪どい手を使って手に入れたもの。
手引きはするから根こそぎ奪ってしまえ』
…と言って。
思慮深い者だったらまず確実に話を持ちかけたイルザを疑う内容だが、頭の構造が単純だった彼らはあっさりこの話に食い付いた。
その上、イルザが立てた計画に深く考えようともせず飛び付き、これで俺らも大金持ちだ、と笑っていた始末だ。
余りに単純で短絡過ぎて、拍子抜けしたくらいである。
裏口の鍵の事や、地下の宝物庫。
バルトレッティが夜な夜な地下に籠り、従業員は全ていなくなる事などの内部事情は、本物の従業員から人を使って聞き出したのだ。
酒と美女に弱いその男は、イルザが大枚はたいて雇った女詐欺師にあっさり堕ちて、どうでも良い情報までペラペラとしゃべってくれた。
果てには愚痴まで始まってしまい、それを聞き続けた女に精神的苦痛を受けたからと追加料金を要求されてしまったが…。
思った以上の出費にはなったが、必要な情報も得た。
雇った女は、余計な事を話せば騙した貴族に居場所を伝える、と脅して黙らせてある。
こちらの線から自分が疑われる事はないだろう。
女は結局自分のミスでカモにした貴族に居場所がバレ、ラトニスから逃げ出しているし…。
そして最後に、今回の計画を“偶然”聞いてしまった風を装って、計画書に手紙を添えて、憲兵の詰め所に投函したのだ。
何時に、何人の男が、誰の商店に侵入し、何を盗むか。
その全てを己の事を伏せて詳細に書き記せば、生真面目な憲兵だったら悪戯とは思わない筈。
予想通り、憲兵達は突入してきてくれたのだ。
無論、憲兵を呼んだのは脱出の隙を作るためだけではなく、バルトレッティ秘蔵のお宝を見つけてもらうためだ。
あれらは全て、バルトレッティが違法に所持している古代の遺物である。
今頃は遺跡調査団体の調査員の手により、本物かどうか鑑定されている事だろう。
あれだけのお宝を憎らしい調査団体に持っていかれるのは気に入らないが、欲張ればその分足が付いてしまう。
何より目的である人形が手に入ったのだ、今はそれで十分だった。
「うふふふふふ。やっぱり思い通りにいくと気分が良いねぇ!
これでこの人形はあたいのものだ!!」
そう誰もいない場所で宣言し、イルザは外套で包んでいたものを月下に掲げる。
風に靡く白銀の髪がふわりと揺れ、月光を浴びて美しく艶めく。
月光に晒された真紅の瞳は、柘榴石の如く煌めき見る者を魅了する。
斯くして、白銀の人形────ノアの身柄は、悪辣な少女の手に渡ってしまった 。
─────いーやー!!誰か────助けて────────ぇ!!
そんな悲痛な叫びは、誰の耳にも届かない。
……と、思われた。
人間の耳には届かない悲鳴が上がった直後、その人影は森の茂みから飛び出してきた。