序章:陽色に染まる海
“それ”は“最後”の記憶なのか、“最初”の記憶なのか……。
目の前に誠謐たる光景が広がる。静かで、温かで、優しく、清らかで、…けれど、孤独で、冷ややかで、寂しい、そんな場所。
微かに聞こえてくる潮騒の音。延々と続く真白い砂浜、静かに打ち寄せる波は穏やかで、遥か彼方の水平線は静かに凪いでいる。
雲一つない空はどこまでもどこまでも続いていて、この場所を優しく包み込んでいた。
水平線の向こうにあるのは太陽だろうか。半分だけ顔を出し、空を、海を、砂浜を、この場所の全てを平等に照らしている。
その全てを平等に、温かな緋色に染めていた。
何て事はない、どこかで見たことがあるような、黄昏時の海岸線の風景。
どこか物悲しくて、初めて見る筈なのに、どこか懐かしくもある。そんな場所。
何故、こんな所にいるのか。
ここはどこなのか。
己は、どこから来たのか。
これから、どこに行くのか。
己は、一体何者なのか────。
浮かび上がる問いは、一つ一つ、潮騒と共に答えもなく消えていく。泡沫が消えるように、ぱちん、ぱちんと…。
否、答えは初めから己の中にあるのだ。ただそれらも、砂が波に浚われるように、ゆっくりと“己の中”から消えていく。
陽の色に染まった波は、もうすぐそこまで来ている。先へ進むために不要な“もの”を洗い流そうと…。
一つ、二つ。
ふわり、ふわりと白い光が波間から、緋色の空へと昇っていく。明ける事も、暮れる事もない、緋と白の空を越えて、その“先”へ進むため…。
行かなければならない。
己も、共に、あの空の“先”へ…。
細波が優しくも無情に、平等に押し寄せる度に、己の中から消えていく“何か”…。
あぁ、でも、待って。待って欲しい。
大切な“もの”があったのだ。己の全てを引き換えにしても良いと思う程に、大切な“もの”が…。
どうか、どうか。“それ”だけは消えないで。消さないで。壊さないで、“それ”だけは…。
それさえ叶うのであれば、他は何も…。
────それが、君の望み──────?
望み……。そう、望み。それだけが、それだけで良い。
だって、とても大切だったから。何を引き換えにしても、守ろうと思ったものだから…。
永劫を共にと、願ったものだから……。
それさえ叶うなら、他は何も望まない。何も………。
────それが“君”の望みなら、叶えよう。その“願い”と共に。
ふわり、ふわりと。
下から新たな光が舞い踊るように、空へと昇っていく。小さな、小さな、白と、黒の…。
あぁ、ここにいた。
────不思議なヒト。対価と願いが釣り合わない。
────だから、“君”が“ここ”で生きる術を得られたら……。
────“それ”を“君”に返そう。“君”の新しい“願い”と共に…。
新たな白い光が三つ。水泡のようにプカリと浮いて、遊ぶように空を舞う。
それらは溶け込むように“己の中”に入ってきて、ゆっくりと眠りにつく。
やがて、陽色の世界は、音もなく白へと塗りつぶされていく。
“己”の全ても、無と言う“白”へ……。
あぁ、消えていく。全て、すべてが白へと変わり、ゆらり、ゆらりと浮上していく。
あぁ、でも、もう少し。もう少しだけ待って。
あなたは、誰───?
────僕は…………────。
聞こえない。
何も、聞こえない。
何も見えなくて、何も、感じない。
ゆっくり、ゆっくりと全てが混濁していく。
淡雪が溶けて消えていくように、とろり、とろりと────…。