第3話 奇跡の力
第2話 羊飼いの親子
改稿後、後半を付け足しました。その続きです。
切り妻屋根の頂上に足をかけ、悠然とたたずむ姿。
遠目に見える影は線が細く、表情は不明瞭ながら、先ほどの激怒は薄れているように見えた。
彼は何も言わなかった。怒りもなじりもしない。ただじっとこちらを見ているだけだ。どこか不気味で、しかしティアナの目は彼に釘づけられていた。
一方弟のマルクは、その不気味さを警戒してか――あるいは単純に足がすくんだか、威勢を張っていたわりにティアナの影に隠れてしまい、体を強張らせていた。その足元に、寄り添うヤンも。
やがて、ぶっきらぼうな声が降ってきた。
「……何してる」
「こっちのセリフだよ! 」
間髪入れずに弟が反応した。
「なんで屋根なんかに上ってるんだよ! ていうかなんでこの家なんだよ! 」
緊張が解けた途端に破竹の勢いだ。ティアナの背後から飛び出し、挑発しにかかる。ティアナはひやひやして頭上を窺った。
彼は首を落とし、眉をひそめてこちらを睨んでいた。だがそれだけだ。それ以上は動かず、表情を固めたまま低く答えた。
「文句があるのか」
やけに落ち着いた口調だった。喧嘩腰でないぶん余計に見下された気分になる。弟は一瞬ひるんだが、すぐに気を取り直した。
「ある! ここは今日のぼくたちの寝床だ。おまえみたいなのが上にいたらおちおち寝てられない。 ていうか何してたんだよ? 何か妙なことじゃないだろうな」
「あ? 」
不穏な怒気が混じる。ティアナの、それから弟の肩がびくんと縮んだ。相手は眉を針金のように吊り上げ……たが、またもすぐに静まった。腕を組みそっぽを向く。
理由は分からない、けれど何か違うとティアナは思った。なぜか怖くないとも。不意に口をついた。
「そこは危ないです。降りてきてくれませんか? 」
相手は目を見開いた。邪気のない声、飾りのない言葉。
「……フン、おまえに指図される筋合いはない。俺がどこに立ってようが俺の勝手だろ」
「いえ、そうじゃなくて、そこ本当に危ないですから。心配なんです」
「……」
相手はさらに黙りこくった。ティアナもじっと静かに見上げた。2階建ての屋根と地面と、その間にまっすぐ視線が結ばれた。
弟がティアナの袖を引っ張る。
「もういいじゃん。単に高い所が好きなんだよ。バカと煙は何とやらってあれだよ」
「なっ……」
再び彼の目が吊り上がり、何かまくしたてようと口を開く。しかし、やはりそれも飲み込んだ。眉をぎゅっと寄せ、深く深くため息を吐く。
「チッ……人がせっかく……」
「え? なんて言ったんですか? もう、お願いだから降りてきてください」
消え入る語尾を追いかけて、ティアナは一歩前に出た。そして、
「――私さっきのこと怒ってませんから」
そう言った。途端に相手はくわっと顔を上げた。
「はあ!? 」
顔をしかめ、目を三角にしてティアナを睨んでくる。もはや怒気を隠す様子もなく、どさりと地面に飛び降りた。
つかつかティアナの眼前に迫ってくる。近くで見ると、かなり若い顔だった。ティアナとさして変わらない。
「何言ってんだ」
「え」
「怒ってないってなんだ。俺が何か気にしてるとでも言いたいのか? 何様のつもりだ。自意識過剰か」
「いえ、その……」
ティアナは後ずさった。後ろの弟にぶつかってしまう。弟は鼻を押さえながら、しかし若干面白がる目でのぞきこんだ。
「え? どういうこと? 」
「マルク、お願いだから、今は黙ってて」
「なんだその態度。いい加減にしろよ」
「え、いや……」
掴みかかるような勢いで詰問してくる。そこへ、割って入る声があった。
「フェリクス! こんな所にいたのか」
続いてひづめの音も。アンドレアス、と呼ばれた彼はつぶやいた。
曲がりくねった細い道を軽快に走らせ、ひらりと馬から舞い降りる。その軽い身のこなしに反し、がっしりと筋肉質な男だった。歳はティアナの父と同じかやや上――と考えて、ティアナは気付く。彼には一度会っている。門の前、最後尾から親子に助け舟を出してくれた騎士。名はアンドレアス、というらしい。そして若い方は、フェリクスと。
「やっと見つかった。馬を置いていなくなるな。おまえが所在不明ではどうしようもないだろうが」
「そうは言っても、じっとしてたって……やっぱり今回はハズレじゃないのか? 」
「おばばに限ってそれはない、そう何度も言ったろう。それに今回はそれ1つだけじゃない。とにかく焦るな。なんだ、またおまえは下民に八つ当たりを……」
言いながらアンドレアスはティアナたち姉弟に目を向けた。交互に見比べ、おや、と語気をゆるめる。
「さっきの子供か。また絡まれたのか、運の悪い」
はっはと快活に笑う。不機嫌なフェリクスを一瞥し、おかしそうに2人に向き直った。
「さっき注意した所なんだがな。こいつ、探索中に1人で十分とか言って突っ走って、方向を失ったあげくに迷子になったんだ。そのうえちょっと無茶をやって、馬に振り落とされ……」
「おい! 何べらべら喋ってんだ! 」
フェリクスは食ってかかるが、言えた立場か、とアンドレアスは飄々かわす。
「あの」
「だいたい俺は馬なんかない方が好都合なんだ。それをわざわざ……」
「そう言っていつも全く乗らないな。だからこういうことになる」
「あの! 」
ティアナは珍しく声を張った。フェリクスが振り向いて、勢いのまま怒鳴る。
「なんだ、うるっせえな! 」
「……怪我をしてるんですか? 」
ティアナは身を乗り出し、目を見つめて尋ねた。含みのない瞳が間近に迫り、フェリクスは固まる。
「……してねえよ。ちょっとすりむいただけだ」
「それを怪我というんだろう」
アンドレアスが呆れて嘆息する。
「よかったら薬を塗りましょうか? もしまだ手当てをしていないなら」
「だから要らねえって」
「やってもらいなよ。姉ちゃん薬塗るのは得意だよ」
弟まで援護に入った。さっきまで蛇蝎のごとく反発していたのに、いつの間にか普通に気遣っている。
「ほう、丁度いい。我々が言っても聞きゃせんからな。下民の娘にでもやってもらえ」
アンドレアスまで面白がって加勢し、フェリクスはとうとう諦めた。
「……ったく」
近くの石段にフェリクスを腰かけさせ、その前にしゃがんで、ティアナはポケットから薬袋を取り出した。弟の言葉はあながちお世辞でもなく、傷の手当てはティアナの数少ない特技の一つだった。親子3人で旅する中、薬を持ち歩くのはいつしか彼女の担当になった。
ふと、フェリクスが口を開いた。
「おまえ、王族に会いたいのか? 」
「え? 」
急に何を、と戸惑って、それから思い出した。屋根のフェリクスと対面する前の、弟と2人の会話。どうやらそこから聞いていたらしい。弟がぼそりと愚痴った。
「立ち聞きとか……」
「あ? 」
「いや別に」
睨みあげられるとさっさと引っ込んだ。あまり怖がっていないのは、アンドレアスとのやり取りを見て、フェリクスに対し余裕ができたのだろう。
一方ティアナは、薬を塗り広げながらぼんやりと考えていた。王族様には会ったことがない、だから神官様に話を聞きたい、そう思っていた。自分は王族に会いたいのだろうか。
「いつか一度くらいは、とは思いますけど……騎士様は? 」
「え? 」
「会ったことがあるんですか? 」
問い返した。フェリクスの返事は、なぜか一拍遅れた。
「……それは、まあ」
「そうですよね。王都からいらっしゃったって、聞きました。そういえば魔物がどうとかも……」
傷口に布を当てながら、ティアナはなにげなく尋ねた。
「本当なんですか? 魔物が来るって。どこに出るとか、いつ出るとか、前もってわかるなんて」
顔をあげると、今度は長いこと押し黙っている。ティアナは首をかしげた。代わりに答えたのは背後のアンドレアスだった。
「……下民の嬢ちゃんには関係ないな」
強く、はっきりと、切り上げるような調子。ティアナの心臓はどきりと冷えた。
アンドレアスのことは気さくで親切だと感じていた。だから、つい甘えてしまったのだろうか。ティアナは内心恥ずかしく思った。
何も言えなくなったティアナから、アンドレアスは目を離す。
「さて、行くぞ。おまえの馬はないが……とりあえず途中までは歩いてもらう」
「はあ? そんなことしなくても俺は……」
「駄目だ、無闇に使うな。ほら、さっさと立て」
背を向けて馬に歩み寄るアンドレアス。フェリクスもゆっくりと立ち上がった。しゃがんだままのティアナを見やる。
「……おい」
呼ばれてティアナも体を起こした。顔をあげ、目を合わせる。微かに眉を下げるフェリクス。それを見つめて、ティアナはくしゃりと笑顔になった。
フェリクスはやや目を逸らし、ためらいがちに口を開いた。
「……、……あ」
それを重低音が遮った。
ゴーン、ゴーン、ゴーン……
前触れもなく、街を震わせる鐘の音。それは時刻を知らせる鐘ではない。ヤンが毛を逆立て、しきりに吠え始めた。弟が不可解そうにあたりを見回す。
「何これ? なんでこんな時間に……」
「来やがった」
アンドレアスは鋭く絞り出した。素早く馬に飛び乗る。こちらを振り返りざま、早口に告げた。
「フェリクス、すぐそこの門だ。おれは下に合流する。おまえは先に行け、上からだ」
言うが早いか、走り出して視界から消え去った。ティアナと弟は茫然と見送る。
フェリクスもやおら歩きだした。ハッとしたティアナが思わず声をかける。
「あの、まさか」
「そうだ。……魔物だ」
ティアナは目をみはった。嘘ではなかったのだと、本当に魔物が街に来るのだと、その実感が宙を浮いて捕まらない。
「……そういえば」
再度歩みを止めて、フェリクスはこちらに体を向けた。
「おまえ言ってたな。王族には不思議な力があると。神の子孫はその力を受け継いでいると」
「?」
ティアナは困惑した。こんなときに何を言い出すのだろう。怪訝に見返す。
「確かに言いましたけど、でもそれが一体……え? 」
一陣の風が体を撫でた。それはくるくると周りを取り囲み、徐々に強まり、フェリクスを囲んで渦を巻きはじめた。ティアナは風に弾かれてよろける。次の瞬間、目を疑った。
空を踏むフェリクス。なめらかに地を離れ、体を浮かせ、木の葉のように軽やかに舞い上がる姿がそこにあった。
「せっかくだから教えておく」
二の句の継げないティアナを、フェリクスは遥かな頭上から見下ろす。
「これが王族に伝わる力。血で伝え、選ばれた者のみが発現する、奇跡の力」
回りに回って高みへ上ったその影は、鳥のように夕空を滑った。
「風の神ウェントス。風を操る神の力だ」