第2話 羊飼いの親子
改稿後、後半を大幅に追加しました。
街に入ってすぐ脇に逸れた細道、ぽつんと建つ羊小屋にて。
門前の嵐をくぐり抜けた親子は、しかし屋根の下に入ってなお、その爪痕を引きずっていた。
「何なんだよ、あの野郎! 」
未だ腹の虫が治まらない、弟マルク。
「もうやめなさい。騎士に盾突いたっていいことはないんだから。懲りなさい」
もはや疲れたという顔で、呆れて諭す父、ハーゲン。
そして。
「魔物が来るって本当かな? 本当に来たらどうしよっか。ねえヤンー」
傍らの犬に話しかけながら、羊を手入れするティアナ。ピリピリする2人を意に介さず、過ぎ去った嵐のことなど忘れたという態度だ。
「姉ちゃん! 怒ってないのかよ! 姉ちゃんが一番ひどいこと言われてたんだろ! そうやってホケホケしてるから、ああいうのがもっと調子に乗るんだ! 」
急に矛先を向けられ、さすがにティアナもたじろいだ。
「怒ってないことないよ、もちろん。でも、結局誰にもけがはなかったし、あの一瞬だけのことだったし」
まあ別に、となだめるようなティアナの笑顔に、姉ちゃんはそんなんだからとぼやく。そもそもあの騎士に噛みついたのは姉を庇うためだったのに、落胆するのも無理からぬことだ。
「いや、ティアナは怒ってたぞ。見てなかったのか? 羊を蹴られたとき、すごい顔してたぞ」
「すごい顔? 」
怪訝に問い返す弟に、父はぐっとかがんで目を合わせた。
指で両目の端をつりあげ、口をぱっかり開き、鼻の穴まで膨らます。
「こーんな」
「ぶほっ」
たまらず吹き出す弟。頑なにむくれていた頬がゆるむ。続けて変な顔はティアナの方にも向けられる。
「もう、私そんな顔してないよ。ちょっとびっくりしただけだよ」
「いいや、ほらほら、くぉーんな」
今度は口をすぼめ、目尻を下に引っ張った。もはや完全に遊びに入っている。咎めるティアナさえついつい笑ってしまう。
「わっはは、すごい。姉ちゃん自分でもう1回やってみてよ。ほらもう1回」
「だから、私はしてないってば! 」
弟の怒りも落ち着いてきたらしい。父は体を起こし、さらりと続けた。
「こんな顔するもんだから、あの騎士もびびっちゃったんだな。……もしくは、王都の人だというから、何か勝手が違ったのかもしれない」
確かにあのときの剣幕はちょっと驚くものだった。ティアナの顔がそれほどカンに障ったのか、王都から来たばかりで居心地が悪かったか。
「または、単純に私の羊の扱いが悪かったのよ。道を全部は空けなかったもの。これからは気をつける」
ティアナはふわりと笑った。その様子を見て、父も安心したようにほほえみ返す。
「……けどムカつくもんはムカつく」
そんな2人を交互に見上げ、弟がこぼした。
「我慢するのぼくたちばっかりじゃん。なんであいつらあんなに偉そうなの? 」
先ほどの興奮は治まったものの、やはり不満はくすぶるらしい。すると父は、少しおどけて言った。
「そりゃ、強いからさ」
「強い? 」
目をみはる弟。
「そう。強いものは上に、弱いものは下に。自然の摂理ってやつだ。弱肉強食だな」
「なにそれ。ぼくたち狼に食われる羊ってこと? 」
弟は目を剥いた。その羊たちを目の前にして何をいうか、と父に小突かれる。
「だがまあ、そんなものだ。ちょっと刃向かっただけで命を取られることもあるしな。さしずめさっきのマルクは、狼の群れに突進する無謀な羊だ」
にやりとからかわれ、弟はますますむくれた。しかしふと、父は真面目な顔になった。
「だが、そうならないこともある。強いほうが弱いほうを食うのではなく、守ってくれることが。たとえば、私たち羊飼いと羊。たとえば、騎士と下民」
「守る? あいつらが? 」
いぶかしむ弟に、父は深くうなずいた。
「いま騎士たちがやっているのがそうだ。もし本当に魔物が来たら、身を挺して庇ってくれるさ。……たぶんな。もし守ってくれなかったら」
「くれなかったら? 」
「……仕方がない。自分で自分を守るしかない」
弟はがっくりと息を吐いた。
「……なんだ、つまんない。そこは、守らないような奴はぶっ飛ばす! とか言ってくれるかと思ったのに」
やたら好戦的な息子の様子に、父は肩をすくめた。ティアナはただ微笑んで見守るだけ。そこへ不意に、父が水を向けてきた。
「ティアナだったらどうする? 」
父と目が合った。その表情は軽かったが、どこか真剣な問いのようにも思えた。
ティアナは眉を寄せて考え込む。もし守ってくれなかったら。もし誰も、他に、守れる人がいなければ。
――そうだ。
顔を上げる。その表情は明るく、声は思いがけず強くなった。
「私が守る。騎士さんも自分も、みんな」
目の前の2人を見やる。
父は呆気に取られていた。弟も意表を突かれて黙っている。が、すぐにぴしりと指摘した。
「いや、無理でしょ。姉ちゃん弱いんだから。ぼくより6つも上なのに、力も足の速さもほとんど一緒じゃん」
「あはは、そうだった」
ティアナは苦笑する。弟の運動神経が優れているせいもあるが、ティアナの方がからっきし駄目なのだ。弟のうろんな目には返す言葉もない。
しかし父はどこか楽しそうにしていた。ティアナとマルク、2人の頭に手を乗せる。
それから3人は細々と作業を済ませ、並んで外へ出たのだった。
目の前にそびえる壁から長い影が伸びていた。首を傾ければ、石の水平線の上に赤みがかった空が広がっている。
ティアナと弟マルク、そして犬のヤンは、道端で父の背を見送っていた。彼は街の中央にある神殿へ挨拶に向かったのだ。
ティアナたちは一つの街に定住しない。羊の食む草を求めてあちこち移動し、野宿することもあれば街にも住む。だから普通の人のように一つの神殿に生涯を捧げることはない。その代わり色々な神殿を訪れて、そのたび神官の保護を受けていた。
宿所への道をたどりながらティアナが言った。
「あまり出歩くなっておふれ、明日にはなくなってるかな?今日はお父さんだけに行ってもらったけど、私たちもまたお祈りにいかないと」
「やだなあ。神官様って話長いし、あれこれうるさいし。面倒くさい」
「また、そういうこと言わないの。神官様は騎士様よりももっと偉い、王族様に近い人なんだからね」
口を尖らせる弟をたしなめる。この国のあらゆる街に必ず一つは作られる神殿。そのそれぞれに、王族の命で遣わされるのが神官だ。街を護衛する騎士たちも、みな神官の下に所属する。
「でもどっちも最初は下民だったんでしょ? あとから王族が取り立てたんだって、前に聞いた」
「そうだよ。騎士様も神官様も元は私たち下民と一緒で、血筋的には王族様だけが特別。なんてったって神の血を引く一族だもの」
ティアナは、何度も神殿で聞いた王族の話を、適当に要約した。
「……ふーん。じゃあさ、さっきの父さんの話でいうと、いちばん偉い王族は騎士より強いってこと? 剣や馬をたくさん持ってる騎士よりも」
予想外の切り返しにティアナは驚いた。ずいぶん父の話に影響を受けたらしい。
「うーん? どうだろう。王族様ってお城の中にずっといるんじゃなかったっけ? そのお城の周りには騎士様がたくさんいて、守りを固めてる、って聞いたような……」
「じゃあ王族より騎士のほうが強くない? 父さんやっぱり間違ってるじゃん。まったく」
弟は頬をふくらませた。本人のいないところで話が妙な方向へ転がりかけて、ティアナは慌てる。
「いやいやそんなことない。なんかきっと凄い力があるんだよ。ほら聞いたことあるでしょ、王族の噂。伝説の神様たちみたいに山を作るとか、川を溢れさせるとか」
弟は半目になった。
「姉ちゃん適当言ってない? そんなの嘘だよ。子供をだますおとぎ話だよ。じゃあ姉ちゃん見たことあるの?いつ?どこで?」
「それはないけど……もう、マルクはすぐそうやって」
ティアナはため息をついた。気づくともう宿所の前だ。ティアナは立ち止まり、両手を腰に当てて弟に向き直った。
「よし、明日神官様に聞いてみよう。マルクも一緒に行くんだよ」
「えー」
露骨にげんなりされる。
「面倒だなあ。ここの神官様ってどんな人だっけ。ていうか何の神様の神殿だっけ? 」
「ええと、何だったかな。確か……」
言われてティアナがぼんやりと記憶をたぐり寄せていた、そのとき。
弟の顔色がぎょっと変わった。その目は上を、ティアナの頭を飛びこえてさらに上を見つめている。ティアナは背筋に寒さを感じながら意を決して振り向き、頭上を仰いだ。
木組みの2階建て、宿所となる小さな家。その屋根の上に、ゆらりと立つ影があった。
なぜそんな所に、何をしている、そうした疑問がぷくぷく湧いては泡のように吹き飛ぶ。そのシルエットと眼光には見覚えがあった。――さっきもこうして睨まれた。
馬上から散々こき下ろしたあの騎士は、今度は屋根から、黙ってティアナを見下ろしていた。