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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

おにおん

おにおん

作者: 久坂草香

 ぬめりの落ちた浴槽の、きゅっきゅっとした感触を楽しみ、微笑む男がいる。オニオン=ピースだ。

 男の趣味は乳白色の浴室を曇り無く楽しむことで、黴取り洗剤の軽い塩素臭は彼のたのもしい友人。

 一滴分の跡ものこすまじとガラスと格闘しているときだった。

「……あれ?」

 脱衣場へと繋がるドアが半開きとなっていたことを鏡越しに知る。 浴室内を見渡すグレイアイ。訝かしみながらもドアノブを押しやって、パタンと軽やかな音を立てて閉める。

 手にしたスポンジを強く握って力を緩めるのを繰り返し、ワシュワシュと泡立て、浴室のランプのあかりをうけて、虹色を宿す泡の表面を眺めて目を細めた。


 そして鏡に向き直った。

「…………」

 愛人だったチーズ=グラタンが唐突に置き手紙もなく出て行って破局を迎えてからというもの、同居人などいない独り身には少々広すぎる2LDKだ。人がいよう筈もない。だというのに、鏡の向こうの扉の曇り硝子に何か影が映り込む。 背筋をかけのぼる寒さが左右の顎をとおって頬にまで到達した。戦慄に引き締まる顔。軽く逆立つ毛髪。

「チ、チーズか? 鍵、置いてけよ。俺達……もう、終わったんだろ」

 そうだ。そうに違いない。結婚してオニオングラタンスープになりましょうね、と約束した彼女だ。戻ってきてくれたのか。悪寒が馬鹿馬鹿しいことのように思え、スポンジを浴槽の蓋の上に置き、オニオンははにかみながら扉を開けた。

 これからまた始める。そういう気になってくれたのではないかと期待していた。

『チーズなら……俺の腹の中、いた……クマー』

 それはどこの百貨店の玩具売り場でも見かける熊のぬいぐるみの姿を辛うじてとどめていた。

 腹の裂け目からこぼれるのはコットンではなく、はらわた。ボタン状であるべき右目は、少なくとも左目はそうであるというのに、視神経でぬいぐるみとつながり、垂れ下がる血管の浮いた眼球。はち切れんばかりの肉と臓物がかわいらしいクマのぬいぐるみの中に詰まっていそうな姿。

 その声は対象との位置関係を示す立体感がない。奇妙な立ちくらみをおぼえさせながら、オニオンの頭の中に直接響いた。

「は……、はは、俺、ゆ、夢でも見て……。あっ、はは。嫌な夢だな。早く覚めろよ」

『お前、固そう。でも、俺、赤身……好き』

 不気味に蠢動し、膨れ上がっていく人形が、瞬く間に天井に頭をこすりつけるようなサイズになる。 夢にしては、やけにリアルだな。その場にへたり込んだオニオンはそのような事を考えて、裂けていくかわいらしい×印の口の裏側から剥き出しとなる鋭利な歯列と、こぼれ出てくる細い触手状の何本もの舌を呆然として眺め、ふと、悟った。


 ──ああ、これ、本物、だ──



『ア゛ァアイ゛ィッ!!』

 浴室に響き渡る絶叫。黴の跡一つないユニットバスの壁面に飛び散る血飛沫。その朱色がまだ生きているのだと叫ぶ。拳の強い痛みを感じて、オニオンは目を開けた。確かな手応え、拳の向こうで潰れるトゥーボールズエンワンソーセージ。

 悶絶しているのは、オニオンではない。人形もどきの怪物だ。

「そうかい……てめえが、チーズを殺したってのかい」

 豹変。

『ひっ、ひふっ!?』

 ハングリーベアゴーストは、幾多の犠牲者をその手にかけた時とは違い、剥き出しの憎悪を双眸に宿し、力強く床を踏みしめる男の存在の前におののいて、数歩よろめくようにして後退りながら、股間を両手で押さえた。

「そうかい! そうかい! そうかい!」

 つま先で、抉り込むように、股間を狙っての金砕三連蹴(トリプルチンクラッシャー)

 ガードするベアの手そのものが、オニオンの狂気にやられ、大事なアレを破壊する凶器となる。

『ま、待づっ! ぐまっ!』

「いいかいクマさん。……我慢の限界ってもんがあるんだよぉ! チーズを食っただぁ? ならこいつも食らっとけ! 絶技・玉葱目潰し汁(ウォニオンスプラッシャー)!」

『ヒギャァアア! 目っ、目がぁあああ』

「丈夫そうだなあ。良かったなぁ。ええ? おい。……簡単にゃ死ねねえだろう。ヒッ、ヒヒ……。チーズの仇はたぁっぷり、ねっぷり、どぉっぷり、とだぁ」

 破顔一笑。くまがその笑みに宿る狂気に負け、しゅるしゅると萎む。

 その小さな人形の体をひっつかみ、台所に駆け込んだオニオンは、骨切り包丁の鉈のような肉厚の刃に舌を這わせて、目を大きく大きく開く。四つん這いで逃げようとするハングリーベアゴーストの背中にヒッププレスからのマウントで動きを封じ、上肢からはじめて、四肢を薪割りの要領で切断した。


 以後、毎夜、オニオン=ピースの住まう020号室からは、許しと救いを求める何者かの声なき声が響き渡る。いつしか、町の者はそこを鬼怨-おにおん-の棲家と呼んで恐れた。

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