火多流 -ほたるー
「わあ、すごい!」
「きれいだね!」
長男の悠太と長女の結衣がはしゃぐのも無理はない。産まれて初めての蛍を見たのだから、子どもとして当然の反応だろう。横浜で蛍が見られる場所は限られている。おそらくほぼ全てが人工的に飼育されて放流された蛍だろう。けれど、夏の夜を頼りなく彩る光は、放流かどうかなど関係がない。蛍は間違いなく蛍だ。
ふと、肩に力を感じた。妻の美希がもたれかかってきたのだ。ベンチに腰かけて蛍を見ながら、はしゃぐ子どもたちを見つめるのも悪くない。高志はそう思った。
「私も、初めてなの。蛍を見るの」
「そうか、美希は横浜育ちだもんね。栃木にはいくらでもいたよ、昔は」
宇都宮生まれの高志と、横浜生まれの美希が結婚したのは九年前だ。同い年だから二人とも二十六だった。自分の肩にもたれかかる妻を見て、高志は随分昔の思い出がよみがえってしまい、その思い出を必死に打ち消した。ごまかすようについつい口をついて言葉が出てくる。普段はあまり自分から話題を振ることはないのに。
「蛍って、俺の地元では火が多く流れるって書くこともあったんだ」
「ひがおおくながれる?」
「うん。火曜日の火に、多い少ないの多、流れるの流で火多流」
「何か意味があるの、それ?」
「分からない」
「なにそれ」
言って美希は、高志の腕に自らの腕をまわした。子どもたちは蛍観賞で勝手に盛り上がってくれている。妻とこういう風に落ち着いた時間を過ごしたのはいつ以来だろう。高志は目の前の蛍をまた眺めた。決して速くはない、ゆったりした速度で流れる光は尾を引き、確かに火に見えなくもない。先人はうまいことを言ったものだ。
気づけば、美希は寝息を立てている。子育てや家事を全部押し付けているのだから、日ごろの疲れが出たのだろう。高志は美希の頭に、そっと掌を添えた。自分の肩から彼女の頭が落ちないように。そうしてから、やはりどうしても過去の記憶がよみがえってしまって仕方なかった。少しくらい瞑想にふけってもいいだろう、高志の脳裏は二十年前に戻った。
* * *
中学校の時、高志は剣道部に所属していた。決して強くはなかったが、入部してしまったので仕方なく三年間を過ごした。高志は中肉中背で、顔が良いわけでもない。成績は多少良かったが、目立つタイプではない。そんなわけで「彼女」と呼ばれる存在が出来たのは、大学に入って、今の妻である美希が初めてだった。
けれど、妻以外でも一度だけある。付き合うとか付き合わないとか、彼氏とか彼女とか、そんな体験が。あれは中学三年の夏、三年生が部活を引退する直前だった。
部活の帰り、高志は汗が張りついたままの肌を不快に思いながら、自宅への道を歩いていた。高志は他の生徒と帰る方向が一緒ではないので、誰かと一緒に帰ることはほとんどなかった。
「ますぶち!」
呼ばれる声に振り返ると、自転車に乗った同じ部で同学年の佐藤由加がいた。
「おう、佐藤。どうしたの、自転車で」
「ちょっと、親に買い物頼まれて」
由加は中学校のすぐ近くに住んでいるから、高志よりも早く帰宅して、自転車で買い物に出たのだろう。
「増渕、暇?」
「は?」
「暇でしょ? 付き合ってよ?」
「買い物に? やだよ」
「違うよ。すごい場所があるんだよ。いいから後ろに乗って」
そう言うと由加は、自転車の荷台を示した。女の運転する自転車で二人乗りなどしたことがない。けれど高志は、言われるままに乗った。女の子と二人乗りするという初めての行為に心が躍ったのだろうか。いや、由加の物言いに、有無を言わさない迫力があったからだ。由加はそんな女子生徒だった。
佐藤由加は、三年間クラスが一緒で同じ剣道部だったが、特に高志と仲が良かったわけではない。彼女はどちらかというと成績が悪く、目鼻立ちがはっきりとした可愛らしい顔つきをしていたが、制服はあまり清潔な感じではなかった。季節ごとにクリーニングに出されていないような。親が無頓着なのかと高志は思っていたが、家が貧乏なのだとクラスメイトが教えてくれた。由加はたまに頬にあざを作ってくることもあった。父親が酒乱だという噂もちらほらと聞こえてきた。
中学二年の時、何であったかは忘れたが、授業でペアを作らなければならなかった時、由加は一人はみ出していた。その頃には、いじめられるほどではなかったが、男子も女子も由加を避けていた。由加の父親が酒乱で、母親は水商売をやっていたからだ。生徒の親たちが、あの子とは関わらないようにしなさい、とでも入れ知恵をしたのだろう。
高志は自分の机を由加の机にぶつけるようにつけた。由加がのけ者にされているのが見ていられなかった。
「ありがとう、増渕」
顔をつぶすように、由加は笑った。その笑顔を見ていると恥ずかしくなり、高志は思わず顔を背けた。
それから、何度か同じように由加を救ってあげることがあった。偽善者のようで後ろめたかったが、由加は毎回必ず顔をつぶすように笑った。元々端正な顔立ちだったから、由加のその笑顔は可愛らしく、胸が変に熱くも痛くもなった。
由加は自転車を走らせる。結構なスピードだ。時おり段差を越える際など、自転車は跳ねるように振動した。その度に高志は由加の腰をつかんだ。女子の身体に触れていることが恥ずかしく、高志はすぐにその手を離した。
「しっかり、つかまってなよ!」
由加はそう言った。けれど、彼女の腰を抱き続けるのがたまらなくて、高志は段差を越える時以外はすぐに腰から手を離した。
自転車が停まり、二人は自転車を降りた。向かい合うと、昨年までほとんど同じ背丈だったのに今は高志の方が明らかに背が高い。勿論、剣道部の稽古の時にも分かっていたことだが、改めて制服で向き合うとまた違う印象を受ける。
「佐藤。なんだよ、いきなり連れて来て」
「ごめんごめん。見せたいものがあったから。ついて来て」
高志の制服、半袖のワイシャツの袖を、由加は引っ張って先導した。
「そんなとこ、引っ張るなよ」
「うん」
由加はそう返事をして、やたらと自然に高志の二の腕に自分の掌を移した。高志は特に嫌がらなかった。由加の指の熱が、意外に不快ではなかったから。
夜の林の中に、由加と高志は入っていった。街灯も何もない林は暗いというどころではない。何がどこにあるのか一切分からない。木の根か何か、固い物につまづいて、高志は転びそうになった。とまどうこともなく進んでいく由加の背中を見て、何度もここを訪れているのだと思った。高志は由加の掌を握った。そうしなければ、どこに行ってしまうか分からなくて怖かったからだ。
「着いたよ」
由加の声で、足元ばかり見ていた視線を上げた。途端に信じられない光が目の前を覆い、高志は思わずつぶすように目を細めた。
「ごめん、びっくりした? でもすごいでしょ?」
テレビや写真、図鑑でさえ見たこともない光景だった。視界の端から端まで全てを蛍の放つ光が埋めていた。何百匹か何千匹、何万匹もいるのだろうか。とにかくさっきまで真っ暗闇だったことが信じられない。隣にいる由加でさえ、緑がかった黄色に照らされて光って見える。
「とおちゃんが魚釣り好きだから、この場所を見つけたんだよ」
そう言って由加は、また続けた。
「増渕と、見たかったんだ」
由加は高志に横顔を向けた。手を握ったままだったことに気付いたが、今さら振りほどくきっかけもなくてそのままにした。いつの間にか二人は沼の縁の土手に腰を掛けていた。
「あたしが、学校で一人の時、何度も助けてくれたよね」
由加の体温を掌で感じながら、高志はいくつかの情景を思い浮かべた。
「お前は何も悪くないだろう? 俺は、別に、偉いことをしたわけじゃねえよ」
「嬉しかった。あたし、あんたのことが好き」
そう言い終わると、由加は自分の頭を高志の肩にもたせかけた。手を握り合いながら、女の子に身体を預けられている、そんな今の状態が信じらずに、高志は何も言葉を発することが出来なかった。
「後で殴ってもいいから、今はこのままにさせて」
由加の頬のあざを、高志は思い浮かべた。そして由加は言葉をつなげる。
「ほたるって、火が多く流れるって、書くこともあるんだって」
「え」
答えとはいえないような答えを気に留めずに、由加は続けた。
「火曜日の火と、多い少ないの多、流れるの流、それで火多流って書くんだって」
「ふうん。どんな意味?」
話している間にも目の前の蛍は、光を動かし続けながら舞う。動かしているといっても、その数が膨大だからどの蛍がどこに移動したのか皆目分からない。夜の闇などそもそも存在しなくて、蛍の光色に全部が染められたかのうようだ。
「蛍の光って、死んだ人の魂なんだって。死んだ人が、生きていた時に関係があった人に、蛍になって会いに来るんだって」
「うそ。そうなの」
「ほんと。おばあちゃんが、蛍を見て拝んでるもん」
「なんで」
「おじいちゃんが戦争で死んだから。毎年夏になると、蛍になっておじいちゃんが還ってくるんだって。だから蛍を見ると、おばあちゃんは手を合わせて拝んでる」
火が多く流れる。確かに、蛍の光は尾を引くようにゆっくりと流れるので、火が流れるとも表現できるかもしれない。これだけ多くの蛍であれば火が多く流れると言ってもおかしくはないだろう。
「あたし、引っ越すんだ」
「え」
「とうちゃんとかあちゃん、別れるみたいで。かあちゃんの実家が那須だから、そっちに」
「そっか」
意味のある受け答えをできない自分が、無性に憎らしかった。
「増渕、ありがとう。忘れないよ。あんたのこと」
肩にかけられていた力が、強められたのを感じた。握られている掌も、より一層力を入れられたのが分かった。だからといって十五歳の高志には、どうすることもできなかった。大人になった今だったら、すぐに唇を交わしていたかもしれないが、その当時の二人にはそんな知識も経験も大胆さもなかった。二人で土手に座りながら、ただ蛍の大群をずっとずっと一緒に眺めていた。
* * *
――火多流
蛍の光が本当に死んだ人間の魂なら、今、目の前に舞う光のどれかは、由加のそれなのだろうか。高志は自分の肩で居眠りを続ける美希を横目で確かめ、静かに思った。
高志が高校に上がって数か月経った頃だった。由加の死を知ったのは。薬物中毒の母親に道連れにされた最期は、少しの間同じ中学の卒業生の間で話題になったが、しばらくして話題としての意味を失って消えていった。
――俺は、忘れてないよ。お前の掌の暖かみと、お前の肩の重み。忘れるもんか。あの火多流の凄まじさ、あれはもう二度と、もう一生見ることはできないだろう?
「おとうさん、泣いてるー!」
娘の結衣が叫ぶ。ああ、しまった。高志は掌の甲で、涙を拭った。
「おかあさんと二人きりになってなんか嬉しくてさ、ついつい」
居眠りから起きた美希が、怪訝な顔で高志を振り向いて言う。
「本当に? 何か切ない記憶でも、思い出してたんじゃないの?」
さすがに女は鋭い。高志は言い返せずに、ただ目の前の蛍を見ていた。あの時と比べれば貧弱な光だが、その光一つ一つを追うように眺めた。
「でもいいや。今日は気分がいいから、許してあげる」
美希はそう言うと再び高志の肩に頭をもたげた。子どもたちに見られることもいとわない。とは言っても、子どもたちはまた蛍を追いかけながら走り回っているのだが。
蛍の一匹が、高志の膝の上にとまった。羽を広げたり閉じたりしながら、淡く光を放つ蛍を高志はじっと見つめた。
俺は、何とかやってるよ。
無言でそうつぶやいた瞬間、蛍は高志の膝からゆっくりと舞い上がった。