神の予言
満月の輝く夜、ぼんやりと暗闇の世界を照らす。
結局あれから心の中の湖が枯れ果てるまで泣き尽くした。
まるでうさぎの目みたい赤くなった瞳と、蜂に刺された様にぶくぶくと腫れぼったくなってしまった瞼のせいで視界がぼやけてしまっている。
多分真っ暗な廊下の真ん中辺りを歩いているはずなんだけど・・正直今はそんな事をいちいち把握して進むほどの余裕なんか無いけど、そのギリギリな精神状態を繋ぎ止めていてくれる存在が隣に居る。
「ごめんね。こんなつもりじゃなかったんだけど・・・」
「構わん」
コカトリスも一緒にオレンジ色の日が沈むまでずっと隣に立っていてくれた。
『コツコツ・・』
夜の校内に私ら二人の足音だけが床を伝って暗闇の先に響く。
元々ビビりなので幽霊や七不思議の怪談を連想させる場所は苦手だけど、コカトリスも居るので不思議と安心して廊下を歩けている。
”・・結局の所、彼も似たような存在なんだけど・・・”
そんな細かい事が一切気にならないのは余裕の無さが爆発して泣きすぎたから逆に気が抜けてしまっているのかも。
実際、寝起きみたいに痒くも無い頭を触ってみたりして何かを紛らわそうとしている。それはきっと心に三日月みたいな穴が開いたままで喪失感が残っているんだよ。
だから正直今は喋りたく無い・・いっその事アンドロイドみたいに心も機械的に処理出来れば楽なのに・・・。
それでもパソコンのバクみたいにプログラムが強制終了したこの脳みそを復旧して現実世界に戻さなきゃいけない。
「・・あの・・その・・ね、コカトリスには昨日から色々と謝んなきゃいけない事がいっぱいあったんだけど」
「気に病むな」
その凛々しい顔は複雑な事を考えているのか?ただ濃ゆいだけなのか?分からないまま取り敢えず強烈な威圧感を正面先に放ったまま歩き続けた。
「・・・陰陽師から依頼を受けた時、最初は断ろうと思ってな。知らぬ女の恋仲を裂くなど気が進ぬだろう?」
(・・え?そうだったの??)
「神との契約もあって渋々引き受けたが、お主が見つからない事にして仕事を終わ
らせるか悩んでおった。しかしまさか本人から召喚されるとは思わんかったぞ」
つまりコカトリスはいきなり現れた訳では無くて、自分で強制的に引っ張って来ちゃったという事か。
事態に気が付いて内心『やっちまった!』と唇を噛むこっちの仕草にコカトリスは苦笑いをしている。
「・・しかし今は告げて良かったと思っておる」
「え?何でよ?」
「告げようが告げまいが其処で結果は変わらぬ。しかしお主の心づもりは変わる事であろう。松野の身を案じて離れる事も出来れば、強引に寄り添い悲運に自分を責め続ける人生を送るも善し、天を仰ぎ神を呪うも善し。偶然の様で必然的に選択肢を増やしたのだろう」
(・・・いや、結局離れるか、滅びるかしか無くない?)
足を止めて窓の外を見た。
その先に見える校庭ではまだサッカー部がライトに照らされながらボールを追いかけて走り回っている。
あの中では梅原さんがずっと見守っているんだろう。
「私は何も知らなくても付き合えなかったよ」
俯いたらまるで重力に変動が起きたかのように足が重くなった。
何歩かニュートンに逆らってNASAに反旗を翻そうとした頃、隣にコカトリスが居ない事に気づいた。振り返ったら、今度はその鋭い眼差しは窓では無くてずっとこちらに向けている。
「どうしたの?」
「某は告げて良かったと思っておる」
いつになく真剣な空気だけど、敢えて二重に言って更に追い打ちをかける意味が分からない。
「はぁ、ありがと…」
溜息を一つはいて目の前の階段を降りると、この鉛の様な空気を空に吐き出したくなって出口を目指した。
・・・・
・・
・
誰も居なく静まり返った玄関を出ると外の風はまだ冷たい。
小刻みに震えながらバックから取りだしたマフラーで首元が暖くなると心までホッとした。
(この寒さや温かさを分かち合える人が私にも出来ればいいのにな・・)
「おい、小春・・」
思わず「はっ♡」っと振り返ったけど、運命のときめきの代わりに後ろからコカトリスが小声でこの上無いモブ臭を醸していた。
「急に小声でどうしたの?」
「人の気配がするから某はしばし隠居する。何かあったらまたその桃色の箱で呼んでくれぃ」
そう言うとコカトリスの体は少しづつ透明に消えてゆく。
同時に校庭ではサッカー部が練習を終えて解散したらしく、部員の誰かが一人走って来た。
「あれは・・・松野君?」
暗くて遠くからだと顔はよく見えないけど、女の勘は間違いない。
「あれ、桜さん!」
(ほら来たぁあああっ!!!)
・・とは言ってもこの状況で交わせる言葉なんてそう多くは無いから言葉に詰まった。
「お疲れ様・・・」
正直あんなに泣いた後で一体何から話したら良いかなんてさっぱり分かりません。
勿論松野君がそのことを知る訳も無く、私の表情に気づかず案外ケロッとしている。
「おう!遅くまで残って、何か部活でもやってたっけ?」
常に毅然としてるんだよね。異性と話すの慣れてんのかな?
でも、いつもと違ってその社交的な口ぶりとは裏腹に、足の動きが少しだけ鈍く見えた。
”様子がおかしい・・・”
彼は入り口の前にある水道の蛇口を捻ると、ソックスをめくって膝を水にあてがった。
私だってマフラーを巻いてやっとの思いで寒さを凌いでる夜に、練習後の一服にしてはいくら爽やかな松野君でも弾け過ぎているので只ならぬ気配を感じる。
「部活はやってないよ。ってかどこか怪我でもしたの?」
「いやぁ・・試合中にスライディングしたら擦り剥いちゃってさぁ。元々ドジだし、熱中するとそういうのわからなくなるんだよ」
私の質問に対して軽い表情でおどけて見せるのに対して、水の色が濃く見える。察するに結構深く擦り剥いてしまったはず。
汚れた足を土の付いた野菜の様に洗い流している本人を黙って見るのが忍びなくじれったい。そして、いくら待ってみても頼みのマネージャーが現れない。
「あれ?梅原さんは?」
理由が理由なので早く来て欲しいワケですが・・。
「あぁ、今日は塾があるから部活が終わってから急いで帰ったよ」
『ズコーっ!!』
こういう時のためのマネージャーが来ないとサッカー部で他に手当てする人間は居ない・・でも、このまま放っておくのも気が引ける。
「あの、ちょっと待ってて」
「え?」
水に浸ったままの松野君を置いて、急いでサッカー部の部室に救急箱を取りに行く。割と入口から近い所なのですぐに取って戻ってこれた。
「ぜぇ、ぜぇ、お待たせ!」
息を切らしてたどり着くと松野君は蛇口から足を離して立って居る。箱の中から消毒液と絆創膏を出した。
「さ、足を出して!」
「え?いや、これくらいは自分で・・」
関わりの少ない人から世話をされる事に気恥ずかしさを感じたのかな?
さっきまで社交的だった松野君がためらっている・・でも、ここは問答無用で治療させて頂く。
「ほら!いいから、いいから!」
「何か悪いな」
申し訳なさそうに差し出して来た美しい足・・剥製にしたい所だけど丁寧に処置して一丁上がり!
「はい、完成!」
「良かった・・・ありがとう」
松野君はにこにこと笑いながらソックスをめくり上げた。
(良かった・・・)
そんな無邪気な顔を見て落ち着いたら、再び夜の冷たい風を感じる・・・。
これにて業務終了、帰らなきゃ。
「じゃあ私、行くね」
他の部員達の気配もするし、そろそろ退散しなくちゃ。
「あぁ、桜さんっ!!」
「また明日ねっ」
折角声を掛けてもらえて嬉しい反面、名残惜しさを必死で断ち切って部室に戻って内側からドアを閉めた。
「ふぅー、これ以上関わったらまた涙を流してしまう所だったよ・・」
救急箱を部室に戻して玄関を通ると誰も居ない。
(・・ま、そりゃそうだよね)
別に見返りを求めていたわけでもないので自己満足をして胸を張って歩く。
校庭の真ん中に片付け忘れたサッカーボ-ルがまるで「残念でした」とあっかんべーしてるように見える。
「余計な御世話だよ。とりゃ!」
満月の様なボールを思いっきり蹴っ飛ばすも、重力に遮られて月までは届かなそう・・。
威力の無いヘナちょこシュートはそのままコロコロと校門の方へ転がって止まったので、追いかけて手に取ると正面に人影が・・。
「・・あれ、松野君?」
「よっ!さっきはありがとう」
サッカー部で指定された青色のジャージを上から着込んだ松野君が校門の前で立っ
て居た。
(あちゃ~っいまのシュート絶対見られてたよ・・・)
さっきは怪我の治療で頭がいっぱいだったから普通に話せたけど、今度は違うシチュエーション。
『ガクガク・・・』
ボールを持っていた手がダサいくらい固くなっているのが自分自身の感覚で分かった。
「あ、足はもう大丈夫?」
こんな事ならもうちょい上手い空気の作り方を香織に習っておけばよかった。気まずい会話のしじまを埋めるためにここは牽制で挙動不審な自分をごまかしてみる・・。
「あぁ、おかげさまで血も止まった気がする。ありがとう!」
「・・・ぶべらっ!!」<嬉しい吐血>
一善のお礼にしてはお釣りが来るくらいの屈託の無い笑みを見せてくれた。こういう時に自分も負けないくらい素直な性格だったら良かったのに・・大切な時ほどあっけない言葉しか思いつかない。
「どう致しまして・・」
だって・・そんな顔をされたら直視出来ずに少しだけ俯いてしまう。
(でも・・ちょっと嬉しいかも)
この瞬間をくれた恋の女神とコカトリスをパシっている神様は同一人物なのかな?どちらにしてもマジ感謝!
でもそんなおいしい時間をくれた、気まぐれな女神の愛撫もここまで・・。
「・・・じゃあ、私・・行こうかな・・」
(ちょっと一緒に居れただけでもう十分だよ)
後ろ髪をひかれながらもボールを松野君に渡して背を向ける。
(今日は良い事と悪い事が一緒に起きたけど、終わり良ければ全て良しってね)
おかげで様でさっきまで泣いて腫れていた顔もちょっとほぐれた気がする。少しだけ微笑みながらローファーの底をコツコツ鳴らして校門を出て帰路へと足を進める。
・・・・・・・
・・・・・
「ねぇ!」
後ろから聞き間違えるはずの無い声が私の背中にぶつかって来た。
「うぇっ?」
思わず反射的に振り返ると松野君がこっちを見て立って居る。
(な、何で!?)
彼はこちらが考えをまとめる時間をくれないまま重そうなエナメルバックを肩に背負って歩いてきた。”先程の治療に欠陥的な医療ミスでもあったのか?”何をされるもか分からずに不安を抱えたものの、時既に遅くもう目の前に立って居る。
「あ・・あのさぁ」
躊躇無く歩いてきた割りに松野君の声が少し震えているように感じる。
握り拳にも力が入ってる所から考えるにやはり私は何らかの理由で彼をこの上なく憤慨させてしまって、その代償にこれからボコられるのだろう。確かに身に覚えならいくつかあるのだ。
・・・・・・・・・・・・・
通り過ぎさまに松野君の髪の毛から流れるリンスの香りをさり気なく嗅ごうとしたり
自分の名札の上に”梅原”と書いた紙を貼りマネージャーに成りすまそうとした所を顧問の先生に抓み出され
たり・・・かわいいイタズラは何回かしている。
どうやらその罪を清算する時が来たようだ。粛清の覚悟を決めて歯を食いしばりながら目を閉じた。
・・・・・・・・・・・・
(早く殴れ!私はここだ!!)
瞳を閉じたまま松野君の気配だけは感じるが、何もしてこない。
「あのさ、何で目を閉じてるの?」
「はい?」
その言葉で瞳を見開くと彼は首を傾げて不思議そうにこっちを見ている。手にも力が入っていない。
「良かったらさっきのお礼に何か飲みの物でもおごらせてよ」
予想外の言葉に拍子抜けした。これには開いた目も口もふさがらないってもんだ。
「えぇ、でも・・」
もう、塞がらない目がドライアイになってしまう。
「よし。行こうぜ」
松野君がどもる私の肩をポンとたたくと、そのまま家の方へ歩いてく。
一方的に流れるやりとりに合わせ、ただ、ただ早足にその背中を追いかけた。
・・・・・・・・
・・・・・
・・・
夜の街は満月に負けない明かりを灯している。
ビルの蛍光灯やマンションのカーテンから透ける色とりどりの生活感溢れる光に、走る車の黄色と赤のテールランプ。交差点で交わる人々も騒々しい。
このカラフルな世界にリンクして私の心の中も万華鏡みたいに”きらきら”の美しい破片がぐるぐると回転している。
まさに魔法だ、代官山あたりで使えそうなおしゃれ魔法・・なーんてね、今はまだMP不足。
ちょっとは酔いしれたいけど、生憎、今の私にはその美しい破片を塵取りで寄せ集める作業で精一杯。
(バクバク・・)
実際は初めて男の人について行く焦りの気持ちの方がはるかに上。
大通りから外れた閑静な住宅街に入るとぼんやりとした光を放つ自販機が一台立ってて、松野君がポケットの財布から小銭を取る。
「何飲む?」
「う~ん、じゃあこれ」
正直、学校という仕事を終えた後はコーラで一服したいトコロだけど万が一に松野君とのトーク中にゲップが出てしまうと命とりなので、安全に飲みきれそうな小さいペットボトルのお茶を買ってもらう事にした。
”ホッカホカ”
手に取るととても暖かく、それを見た松野君も同じ物にしたみたい。やっぱりペアルックとかは致命的にダサいので引くけど飲み物が一緒なのは小さな幸せを感じる。
「じゃあ、いただきます」
「おう」
ほぼ同じタイミングで飲んだら周りが静か過ぎて『ごくごく』と自分達の飲む音だけが聞こえる。
温かい物が体の中を流れていく感覚を直接感じて心が落ち着くと白い息が”ふぉわ”っと夜の闇に吸い込まれていく。
そこに交わる周りの景色
明かりの入っている家からはご飯の匂い
アパートからはコンクリートの匂い
少し風が吹けば木に付く葉が揺れ、一旦息を吐いて見渡すと普段流してしまう様なことでも色々と鮮明に脳に伝わった。
ここで星が見えたら良かったんだけど、残念な事に周りの建物やら街灯の明かりでそこまで良くは見えない。
「う~ん、もうちょい灯りが少なければ星もちゃんと見えるのにね」
私の言葉に釣られて財布をしまった松野君も暗い空を見上げた。
「確かに周りが明るすぎるな・・・そうだ!」
何を閃いたか迷い無く歩き出す。
「行こう」
「どこへ?」
「もうちょい灯りのない場所」
また轍を先導するために彼が背を向けて歩く。
”もうちょい灯りのない場所”
(ちょちょちょちょっとおおおおおおお)
お茶をバックにしまうとホットドリンクよりも熱を持った状態で足早にその後ろ姿を追いかけた。
・・・・・・・・・
・・・・・・・
・・・・・
・・
住宅街の近くに河川敷があるんです。
ここは通学路にも使われているし、真下が団地なのでジョギングをしている近隣住民や部活動の練習でも多くの人が通るコミュニティーライン。
まぁ、夜もいい時間なので遠くのオレンジ色の街灯の下に聳える橋から車の音がするだけで、今は誰も通ってないけど・・・。
「ほらやっぱここならよく見える」
坂を登りきって満足そうに夜空を見上げる彼の言う通り、周りの灯りが少なくなった分、空が街の何倍も”キラキラ”と輝いている。
「・・・ホントだね!」
人工では出せない煌めきがここにある。月の光に反射する川のせせらぎに心の奥の鉛もすぅーっと消えて行くのがわかる。
澄んだ世界観に色んな意味で胸を撫で下ろして感激している内に松野君は再び歩き出したけど、今度はこっちに合わせてゆっくりと進んでくれたのですぐに隣まで追いつけた。
「何だか毎日忙しくて余裕も無くなるけど、こういう時間もたまにはいいもんだなぁ」
・・・・・・
(へぇ、松野君もそういう事を考えるんだ)
彼が組んだ手を後頭部に回したので、逆に私は組んだ腕を前に伸ばす。
「うん、そうだね。私なんか急ぎ過ぎてピザまんを持ったままコケたらピザ団子ってあだ名付けられちゃったからね」
「そうなのっ?」
こちら側の赤裸々白書にリラックスしたのか松野君が仲の良い友達と話す時に出す笑顔を見せてくれた。
「桜さんって面白いね。小、中学校も一緒だったのに今まで会う機会が無かったよな」
確かにそうだ。同じ建物の中に居ても共通で過せる時間が無いとやはり絡める回数も極端に下がる。事実、折角同じ年に生まれても接点が無いまま卒業するまで話さないでしまった人は他にもたくさんいる。
「そうだねぇ・・こればかりはタイミングだよね」
「そうそう!タイミングって重要だと思う。今のサッカーのチームとかもすげぇ感じるもん!」
出会い、運命、縁、タイミング・・・私が他のサッカー部員から”RPGゲームのレベル上げのバイトを引き受ける”という、しょうもない主従関係を作っている間に掴み所の無い感覚を今、松野君は確かに感じ取っていたらしい。
「今のチームにもそういう事があるの?」
「うん。スポ少の頃からやってるけど監督の采配やら、その日のコンディションやらですぐメンバーは変わっちゃうから一試合一試合の関係は深いよ。そのまま進学して学校が変わっちゃった事で試合相手になる友達もいるし・・・皮肉かもしんないけどやっぱり人の繋がりって読めないからその分、瞬間的な時間が逆に濃いもんだなって思ったね」
出来る事ならコカトリスともこういう濃い話がしたかった・・・。
経験を用いた松野君の熱論は水に濡れた砂の様に私の心に沁みていく。
元々、一期一会の価値尺度は人それぞれだけど、パズルのピースみたいな物を拾い集め続けている内に今の人間関係が形成されたのかもしれないもしれない。
もし、あの時、クラス替えで香織と別の教室になっていたら。
もし、あの時桜の木の下でサッカーボールがぶつかってなかったら。
もし、あの時寝ぼけてスマホを指でスライドしていなければ。
本当は今の仲良しメンバーの誰とも会えて無かった可能性もある。そしたら私は何をするにも今の私では無く、別の人間関係の中で生まれた別の私として動き、最悪の場合一人ぼっちだったのかもしれない・・・。
(やっぱ、みんなに会えて良かった!)
そう信じて目を閉じてから春の空気を吸い込んだ。
・・・・・・・・
・・・・・・・
・・・・・
・・・
それから友達の事、好きなテレビや映画の事、いわゆる世間話を繰り返しては長く続く河川敷をひたすら二人で歩き、それはもう幸せそのものである。
しかしここで決定的なミスに気付く。しばらく話に夢中になりすぎて本来降りるべき坂を大分通り過ぎてしまったのだ。
急いで最寄りの坂道を降りて小道をくぐり抜けるが松野君の家からはちょっと離れてしまった。
「あぁ、ごめんね松野君」
「いや、いいよ。全然気にしないで」
松野君はさっぱりした口調で笑ってくれるけど・・元々足を怪我してたわけだし、部活をやって疲れてるわけだし・・・なんだかすごく申し訳ない。
これで私ん家も同じくらい離れていれば良かったけど、なんせ目の前がもう玄関だったので尚更気まずい。
「あぁ、じゃあ私は家ここだから・・」
「おう、今日はありがとな!」
松野君が手を振って歩きだす。
「ねぇ、親に車出せるか聞いてみようか?」
別に私が運転するわけではないのに少しでも労わりたかった。
「いや、良いよ。そこまで遠いわけでもないし。じゃあまた明日、学校でな」
「そっか・・うん、バイバイ!」
名残惜しい別れをして松野君の背中が遠くなって行くのをずっとその場で見守る。
遠くなっても尚、視線で追いかけ続けるふわふわな気持ち。これが俗に言う夢見心地ってやつなのかな?
(・・楽しかったなぁ)
小さくなって行く松野君の背中が交差点を曲がり完全に見えなくなった。
・・・叶わない夢なことは分かっている。
もうそこは誰も居ない住宅街の道路
街灯と家の窓から流れ込む灯りでまた星が見えずらくなった空の下
私は軽く息を吐いて、少し幸せな余韻を残して家に入った。
「ただいまぁ」
・・・・・・
・・・・・
・・・・
・・・
ご飯を食べて部屋に戻ればコカトリスがベッド上であぐらをかいて座っている。
「ただいま・・・お腹空いてない?」
瞑想をしていたコカトリスの右目がゆっくりと開く。
「いや、大丈夫だ。某に空腹の概念は存在しない」
確かに神や霊が物理的に食物摂取した話を聞いたことは無い。
「じゃあ何も食べないで過ごすの?」
取り敢えずドアを閉めて勉強用の椅子に逆向きに腰かける。
「基本的にはそれでも構わないが、味が恋しくなった時。お供え物ってあるだろう?あれで食事をとるんだ。ちなみにその時のお主達の信仰具合で味が再現される度合いが変わる」
コカトリスの霊界豆知識を椅子の背もたれに腕を掛けながら聞いていた。
「置くだけじゃダメって事?」
「うむ、やはり置くだけで気持ちがこもってないと、どんな高級食材を出されても全然味がしないんだよ。正直それよりだったら心のこもった握り飯の方がはるかに美味い」
たまに宗教団体に大金を積むことで自分の忠誠心を現わそうとする信者もいるけど、実際の所は人も神も礼節や思いやりに重点を置いた方が心が満たされて良い気持ちになるみたい。
他にも顔のタイプで優劣を判断する面食いな神が居たら嫌だなとか考えたけど、少なくてもコカトリスを使ってる神様は違うみたいなので、私は安心して胸を撫で下ろした。
・・・ちなみにクラスの男子は『小春は胸が無い』と馬鹿にするけど、恐らく奴等は心に貧乏神が巣食ってひもじい精神状態なのだろう。
まぁ、どちらにせよ、そんな生まれ持ってのステータスだけで人を判断する様な失礼な奴は、既に神では無く悪霊認識なので高級食材どころか握り飯もやらないんだけどね!
「・・・ところで、例の坊主とはちゃんと仲直りできたのか?」
「なっ、坊主って松野君の事!?失礼なっ」
怒って両手を上げた私を見るとコカトリスは瞑想を止めて、ただのあぐら座りになった。
「その元気な様子だと上手く修正できたみたいだな」
(ハっ!)
悟られた感じが少し恥ずかしく、上げた腕をそっと椅子に戻す。
「・・うん・・でもちゃんと労われきれなかったし・・迷惑かけちゃったかな?」
もしかしたら今もまだ帰路の途中かもしれない、少し罪悪感もある。
「なぁに、本当に怪我が辛かったらむしろお主を置いて帰ってるだろ?本人が望んでとった行動だ」
・・・う~む、そう言ってもらうと少し気が楽になる。
「なら良かった・・・コカトリス・・今日はありがとね」
”にこにこ”
コカトリスには色々と精神的に励ましてもらって、辛い事もあったけど最終的には良い一日なったと思うのでお礼に素直な気持ちで最高に優しい笑みを見せた。
「・・・うむ、30点」
目の前の鳥男は興味無さそうに無表情で腕を組む。これには女のプライドが黙っていられない。
「な、なぬを!大体あんたの目だってシャープ過ぎて微笑んでるんだか怒ってるんだかさっぱり分かんないじゃない。15点よ15点!!」
この発言に憤慨したコカトリスがすごい勢いで立ち上がる。
「貴様ぁ、このコカトリスの神眼を馬鹿にしたなっ。神の前でお主の様な小便臭い小娘の笑顔など3点だ3点!人間社会でいえば赤点ってやつだろ。馬鹿め!ばーか、ばーか」
何故、赤点という単語を知っている・・・!?さてはコイツっ、私が学校に行っている間にミニテストの成績表を見やがったな。
「こぉのおおクOどりぃぃいい!!」 ※Oの部分はモザイク音である
・・・この後、醜い争いはお互いの笑顔の評価点数がマイナスになるまで続き、気付けば二人の微笑みの価値は逆境からのスタートというレベル設定になっていた。
そんな中、松野君を巡って事件が起きていた事など私は全く気付かなかったのだ。
・・・・・・・
・・・・・
・・・
・・
ぼやけた意識の中
気が付くと、自分は時代劇に出て来る様な大きなお城の中で白地に淡いピンクの桜模様の入った高貴な着物を着飾っている。
金粉を壁に貼り付けたような雅な部屋の中、緊張した重々しい空気を吸い込み息を呑む。少しでも音を立ててはいけない気がする。
もしも音を立ててしまったら今、自分の目の前で決闘しようと火花を散らして睨み合っている二人の青年の逆鱗に触れてしまうだろう。
出来る事ならば一秒でも長く時間を稼ぎたかったが、遅かった。その火花はこちらの予想よりも早く着火して刃を出し合う。
「やめてぇええ!!」
叫ぶ声を無視して二人が走りあって衝突する。
・・・・・・・
・・・・・
・・・・
・・・
「はっ!!」
爽やかな朝とは対照的にじっとりと寝汗をかいていた。
「・・・夢オチか」
取り敢えず平和な朝に安堵の息をつくが、夢の内容を思い返すと目覚めが悪い。睨み合った二人の顔がフラッシュバックして頭の中に蘇る。
(あの二人、まさか)
そう、その二人に松野君と竹本の面影ある。同一人物とは言わないが、別人とも言えないくらい似ている。
(でも何で・・・?)
訳が分からないまま、うなされてぼさぼさになった頭をかきながら時計を見る。割と早く起きたみたいなのでこういう時はシャワーを浴びて心を整理するに限る。
ベットから出て背伸びをする、振り向くと隣で私より早く起きたと思われるコカトリスが背中を向けてこそこそ手を動かしている。
「おはよう。何してるの?」
気になるので私は挨拶がてらコカトリスの横から顔を覗かせた。すると彼は『びくぅっ』という効果音そのままの速さで振り向いた。
「おぉ、お主、おるならば『おる』と申せ!」
そんな事を言われてもここは私の部屋じゃん・・。居て当然な事を忘れるくらい焦ってるようだけどすぐにその理由がわかった。
「あれぇ、コカトリス。何を持ってるの?」
その手には私が普段愛用している手鏡がしっかりと握りしめられている。
「何って、身だしなみを整えているのだっ。身だしなみを!いつ何処へ赴いてもてもいいようにな」
コカトリスは相変わらず焦った声で必死に紳士をアピールしてくるが、私は嘘をついた子供を見るような目でその姿を眺めてほほ笑んだ。
「ふーん、身だしなみねぇ」
「な、何だよ!基本だろ、基本っ。お主だって毎日確認する事ではないか!」
本人はいたって真剣に自身を擁護する。
(何てわかりやすい性格・・そろそろ引導を渡してやろう)
「いい笑顔は出るようになった?」
わざとらしく笑顔で聞く私の表情とは裏腹にコカトリスの顔は真っ赤になり、蒸気機関車のように頭から湯気が出た。
「はぁっ?何言ってるのだお主は!全然訳が分からんわ!」
「笑顔だよ、え・が・お。練習してたんでしょ?」
多分昨日の言い合いで自分の表情に自信を失くして、私が眠っている間にこっそり練習していたのだろう。
「お主なぁ、身だしなみと申しておるであろう?早く湯あみして参れ」
コカトリスが鏡を机に置いて気怠そうに頭をかくと何か閃いたかの様に振り返る。
「嗚呼そういうお主こそ、寝言で・・・ふははは」
形勢逆転の予感に寒気がしてくる。
「な、何よ。私が変な事でも言ったっていうの?」
悔しいがこれはもう相手のペースだ。出来れば乗りたくない話だけど把握しておかないと気になってシャワー所じゃない。
「お主は寝ても覚めても『松野くぅぅん』って頭の中は恋愛しかないのか?」
「あわわわわわわわわわっ!!!」
恥かしくて慌てふためく私を見てコカトリスが腰に手を当て大笑いする。
どうやら昨日の事が嬉しすぎたのか寝言で出してしまったらしい。これには”しまった!”という感情も言葉に出来ないまま自分の目頭を手でおさえるしかない。
「どうだ愚か者!これに懲りたら神の使いを愚弄するなどという愚行は今後慎むんだな。がははは!」
この悪意に満ちた邪顔が神の使いの”いい笑顔”だというのならば天国なんて平成の世の中より性質が悪い所なんだろう。
「フンだっ!夢に出て来る様な異性も居ないくせにっ。もうシャワー浴びてくる!」
恥かしいので顔を両手で遮ったまま部屋を出る。一瞬手の隙間から見えたコカトリスの顔が曇ってた気もしたがこっちもそれどころでは無く、そのままお風呂場へと足を急がせた。
・・・・・・・・
『ざぁぁあああああ』
勢いのある音と一緒にシャワーの先端部分から程よい温かさのお湯が体に流れてくる。寝汗と一緒にコカトリスにからかわれて焦っていた気持ちも心地よく流されて行くのが分かった。
「ふぅ生き返る」
そのままお気に入りのポテンシャル《自分的にはまだシャンプーの仲間だと思っている》で頭を丁寧に洗いながら夕べの夢の内容を思い返す。
(あれは一体なんだったんだろう・・・。松野君は私の願望だったかもしれないけ
ど、竹本までキャスティングした覚えはない・・)
失礼かもしれないけど、隣の席の竹本君は悪態がひどくコミニケーションを取る術もないので学校生活以外の場では一切自分の記憶には出てこないモブキャラである。
(しかも戦国時代の様な格好って・・。出来ればもっとかわいいフリルの付いたドレスが良かったのにな)
私は勿論の事、二人の青年も着物の下に袴を履いて、手には刀物を握りしめていた。カッターナイフみたいな短刀を握りしめていた竹本っぽい奴も物騒だが、松野君っぽい方に関しては重そうな甲冑まで装備していたから逆に萎える。どうせ夢ならもっと洋画に出て来る様な騎士とお姫の関係で出演した方がおいしいと思うのに非常に残念結果に終わってしまった。結局二人が現代の雰囲気を保てたのは髪型だけだったし。
(まぁ、所詮は夢か)
そう、結論現実ではないのだ。曖昧な偽の記憶に陶酔していても拉致があかないので、シャンプーを終えた後の髪をタオルで拭きながらお風呂場から出た。
体にバスタオルを巻いたまま洗面所のドライヤーで髪を乾かす。洗面台の上の鏡を見ると、当たり前だが自分の姿が映っている。鏡の中のもう一人の髪が温風にさらされてふわっと舞い上がる様子を見ながら現実という帰路に着く。
着替えのために部屋に戻ると冷静さを取り戻したコカトリスが座禅を組んでいた。朝日に照らされて妙に神々しい。
「ねぇ」
「・・・・・・・・」
瞳を閉じたままのコカトリスはピクリともしない。
「私、ブレザーに着替えたいんだけど・・」
「・・・・・・・・」
あくまでもどかない気だ。せっかくなので座禅が終わるまで待っててあげたいんだけど、こっちも時間が無いので強制排除する他無い。
コカトリスの襟元を手で握り、部屋の外のベランダまでぐいぐいと引っ張る。
「・・・・・・・・」
この間全く姿勢を崩さないまま本当に意識が別世界に行ってしまっているかの様に喋らない彼を一人窓の外に残し、カーテンを閉める。
タイムロスをしない様にボタンの掛け違いに気を付け、紺色のハイソックス履いて完結。いつもと同じ流れ作業で自己最短記録を更新したまま急いでベランダに出ると既にコカトリスの目は開いていた。
「お待たせ」
「・・・・・・・・」
まだ黙ったまま姿勢を崩さずに太陽を見つめている。多分無視とかじゃなくて彼なりの一連の動作の途中なのだろう。恐らく私で言うところのソックスを履く辺りの〆の作業に入ったんだと思う。
その真っ直ぐな瞳に釣られて一緒に黄金色の朝日を見ているといつもより心の中が清々しい気持ちになった。
「・・・今日も学校に行ってくるのか・・・」
「うん、そろそろ時間だから行ってくるよ」
お互いあえて姿勢を変えずに言葉を交わして、朝の一時を終えた。
・・・・・・・
・・・・・・
・・・・
・・・
登校中の道で春の交通安全指導にしてはいつもより多くパトカーが走っている気がしたが、何が起きたかさっぱりわからずにいた。
(どうせ私には関係の無い事だろう)
安易な気持ちで学校までの坂道を上り続ける。
・・・・・・・・・
学校に着くといつにも増して教室が騒々しい。うるさいのは一緒なんだけど空気が少し強張っている気がする。
取り敢えずいつも通り机に鞄を置いて席に座ると、後ろの席の香織から肩をたたかれた。
「ねぇ、小春。昨日の事件聞いた?」
「事件?何それ?」
さっぱりわからない。松野君と帰って、コカトリスと揉み合いになって・・・それだけの事。
「何かね、夕べ近くで車の玉突き事故があったみたいで。その衝撃で先頭車両が歩道にツッコんじゃったみたいだよ」
朝のパトカーの多さも、その事故に関する物だったとすれば理由が合致する。
「物騒だね。人が巻き込まれたら大変だよね」
他人事みたいな口調かもしれないがこれ以外言いようが無い。しかし香織の表情がまるで当事者の様に曇ったまま。
「小春、それがねぇ・・・」
珍しく気まずそうにどもる。もしかして香織の親戚に関係する事件だったのだろうか?
「あぁ、ごめんねもしかして気を悪くしたなら謝るよ。私、そういうのどうも鈍くて」
地雷を踏んでしまった気がして、焦って謝るが香織の顔がより一層険しい表情になる。
「いや・・そういう事じゃなくて・・」
彼女が向ける顔の方向が変わる。
「え?」
その目線の先には松野君の机がある、そして本人の姿が無い。
「そのぉ、事故った場所がね・・・松野君の家の傍で、帰り道の途中に通る場所なんだって・・」
夜の事故、松野君家への帰路途中で発生・・・。嫌な予感に胸が騒ぐ。
「連絡は?」
残念ながら私は松野君の番号を知らない。確認したくても術を持たない。
「それがねサッカー部の人達が昨日の夜から掛けてるけど通じないんだって」
不安を大きくする要素ばっかりが増えてくる。
『キーンコーンカーンコーン』
結局松野君が教室に訪れないまま朝読書の時間を示す鐘の音が校内に鳴り響いてしまった。
(そんなっ・・もしかして、私が一緒に居たから?コカトリスの言った通りに・・・)
自分が関わった責任かもしれない、思わず俯いて考え込んでしまう。
「悲劇のヒロイン気取ってんじゃねぇよブス」
この暗い空気を引き裂いた声は意外にも隣で本を広げ始めたのは竹本。にしても、こっちも本気で落ち込んでいる時に悪態をぶつけられたらもう黙っていられなかった。
「何よっ、朝から失礼じゃない?クラスメイトのこと心配して悪い!?」
感情的になって大きくなってしまった声が教室に響いて周りが少しだけ騒ついた。
「小春ぅ・・・」
「あっ!ごめん・・」
香織になだめられて自分を取り戻した後に皆に手を合わせて謝ると教室はだんだん静けさを取り戻した。
そういった外界を遮断して竹本も何事も無かったかのように本を読んでいる。
「まだ、松野が事故に遭ったって決まったわけじゃない。いつもみたいに落ち着いて待ってりゃいい。それとも、お前はあいつに事故が起きた不幸なシーンをずっと想像し続けるつもりか?」
目線を愛読書に向けたまま彼は冷静な忠告を突き付けて来る。
「そんな事言ったって・・・」
勿論言ってる事は分かってるけど感情を鎮める事が出来ない。
(竹本の言う事は正解かもしれなけど、人間そんな簡単にスイッチを切り替えられるはずが無いじゃんよ)
「あいつは無事にちゃんと来る。少なくても俺はそう思っている」
いつもと同じく本を読み続ける姿は何ら変わりない、いつに無く冷静な感情の中に熱さを秘めている気がする。
「竹本君・・・」
私よりも早く反応したのは香織だった。私も含めて香織の周りの人間は全員焦っていたので唯一状況を落ち着いて判断出来る竹本に思わず声が出てしまったのだろう。
「・・・そうだね私も松野君の無事を信じるよ」
小声で香織がそう言って祈り始めた。
「香織・・・」
何だろう、独りじゃない感覚。
彼女の祈る姿を見たらさっきまで”松野君に何か不吉な事が遭ったら!?”とか、増してや”その責任がどうやら”とか・・余裕が無くて本題からズレてしまっていた事に気づいた。
結局、竹本の言う通り私は悲劇のヒロインだったのかもしれない。今まで喜劇のヒロインのポジションだったんだからやはり憂いに満ちた顔など辛気臭いだけなのだ。
(よ・・よし、だ・だ・だ・・だ大丈夫!松野君は何事も無くケロッとした顔で来る
よ・・・ね!?)
正直まだ心臓はバクバク言っているけど、もう悩むのを止めないと松野君に対しても失礼かもしれない。
同じ時間を過ごすなら明るく考えた方が自分らしい選択である。
香織に続いて私も静かに心の中で祈った。
・・・・・・
しばらくして担任の先生が教室に入ってきたのを見計らってクラスメイトの一人が質問を切り出した。
「先生、松野は?」
「あぁ、松野は・・・」
「「・・・・・・・・」」
教室の中が静まり返る。
「病院に行ったよ」
「「・・・・・・・」」
息が詰まるような一言だった。
(嘘だ、嘘だ。・・・)
だが、担任は慌てる事無く教卓に日誌を置いた。
「さっき、玄関で会ったからそろそろ入って来るんじゃないか?」
「!!!」
皆、担任の一言に振り回され続けて餌でからかわれる犬の様に一喜一憂する。
「じゃあ、松野の怪我は大した事無いんですか?」
生徒の真剣な質問に先生は一瞬ポカンとする。
「おいおい、松野は朝一で近所の公立病院に湿布をもらいに行っただけだぞ」
「!!!」
意味が解らず今度は皆がポカンとする。事故の怪我の治療が湿布程度?その真相を解明してくれる音がした。
『ガラガラ』
「おはようございます」
皆が後ろを振り返るとそこには松野の姿があった。
「「「松野ぉ!無事だったのか?」」」
クラス中が口をそろえた第一声に渦中の張本人もポカンとする。
「無事って、軽く捻っただけで」
同じサッカー部の仲間が一目散に駆け寄った。
「車をよけて捻ったのか?」
「車?」
どうやらこの二人の会話には物凄い温度差があるようだ。
「だってお前、昨日の事故に巻き込まれて病院に・・」
心配そうに見つめる仲間の顔を見て松野君が苦笑う。
「おいおい、勝手に人を事故に巻き込んじゃって。俺は無事だったよ。この湿布は昨日部活中に捻った場所の痛みが取れなかったから知り合いの先生にもらって来たやつだよ」
彼が手に持ってた湿布を見てサッカー部員達は唖然とする。
「だったら、何で電話に出ねーんだよ」
だんだん口調が強くなって来る仲間の質問攻めに松野君が頭をかく。
「いやぁ、その事故があってから同じように安否を確認しようとしてる人で溢れて回線が混雑してたんじゃないか?俺も他の用事で先輩に掛けたけど繋がらなかったし、病院の中はケータイ禁止だし、学校はHR中だろうし」
「だって、お前・・」
一人が文句を言いかけようとした時。
「あっ」
もう一人の部員が己のケータイを見て声を上げていた。
「松野からメールが来てた」
『今日は病院行ってから来ます。朝の自主練はいけません』
部員達が顔を見合わせる。どうやら電波の不具合からセンター便になって隠れていたらしい。焦ると自分を見失うし、案外予想外の事が起きると人は傷付かないために実際より悪い状況を自然と考えてしまう習性があるみたいだ。
先生が笑いながら手を叩く。
「よし、解決した所で出席を取るぞ!」
その間私は香織と顔を見合わせ笑っていた。気付けば彼女の手も握ってしまっている。
だって嬉しかった、純粋に嬉しかったのだ。毎日顔を合わせていたクラスメイトがまたこうして元気にやって来た。ただそんなマンネリな平和がとても嬉しかったのだ。
在りがちな日常に絶対なんて存在しない。毎日が脆くも確実に積み重なった”偶然”を敷いて生きている。そんなレールの上に今乗っているのは幸か、不幸かわからないが少なくてもこの瞬間は幸せな方の時間に浸っていた。
落ち着いた時に竹本の冷静な判断を思い出して振り返る。
「・・・・・・・・」
やはり彼は何事も無かったかの様に澄ました顔で前を見ているが私はこっそりその手をちょんちょんと叩くと、彼は体勢を変えず目線だけをこちらに向けてきた。
「ありがとう」
心からのお礼の気持ちを伝える。竹本は照れたのか、馬鹿臭く思えたのか目線を前に戻した。
「・・・当たり前の結果だ」
聞き取るのがやっとの声で放たれた一言を私と香織は胸にしまい笑いあった。
そのままサッカー部員達から離れて席に着いた松野君と目があう。
『ドキン!』
死語?でも一年前と同じような感覚。ただ一つ違うのはその後に松野君が微笑んでくれた事だ。
昨日の一件から友達として認識してくれる様になったという事だろうか。
”無事でよかった”
何はともあれこの一言に尽きる朝だったと思う。
そのままHRが終ってたまたま一人で次の授業の準備をしていると、珍しく松野君の方からこっちの席に歩み寄ってきた。
「桜さん」
んんっ!?私に用?ミラクル続きだぜ。
「どうしたの?」
あえて、そっけない返答をしてみる。だって”この女がっついてる”とか思われたら嫌じゃん。
「桜さんにお礼が言いたくて」
「???」
さすがにこれは素で”?”が付く話である。
「実はさ、昨日なんだけど。確かに俺が帰る道で事故が起きたんだ。時間的に言ってもあのままいつもみたいに帰ってたら確実に巻き込まれてたよ」
「!!!」
まさにこの展開は素で”!”が付く話である。また開いた目と口が塞がらない。
(まさか)
脳内映像として蘇る昨日の帰り道の事。オレンジ色の夕日に照らされながら泣いたり、月に向けてサッカーボールを蹴ったり、河川敷で他愛も無い会話をひたすら繰り返したこと。
「昨日、一緒に帰ってなかったら俺、死んでたかもしれない。桜さん、本当にありがとう」
そう言って松野君は深く頭を下げた。いきなりの彼の姿勢に一瞬クラスメイトの視線が集まってしまい、こちら側としても正直焦るが、これが・・この誠実さが”松野実”君なのだ。少しだけこそばゆくなるが悪い気もしない。
「なら、その儲けた命でサッカー頑張ってね」
今、言える私なりの精一杯誠実な言葉だ。その意味に気づいた松野君が頭を上げるとニコリと笑いだす。
「これが俺とサッカーの縁を表したタイミングか」
結局河川敷に行ったのも、そこから予想より長く歩いてしまったのも彼のサッカー好きがもたらしたハプニングだが、そのハプニングがこのタイミングで起きたから今、再びサッカーが出来るのだ。
(松野君とサッカーは持ちつ持たれつの関係なんだ)
私も納得してコクリと頷いてみる。そして穏やかな時間の中で一つの事実に気づく。
”一緒に帰ってなかったら俺、死んでたかもしれない”
あの日から今まで私は、松野君の命を奪ってしまう存在だと思い続けていた。だがこうして彼は生きている。
まだ此処に居ても良いって事かな?
・・・・・・・・・・
だとすれば違う、きっと違うんだ。あの時コカトリスが諭した予言は今まで想像していた端的な恋愛ものでは無い。
きっともっと深淵な理由が奥で絡まっているか、ただのほら吹きのどちらかだ。・・ただ、どちらだろうと私の進む道は見えて来たけど・・・。
そう、自分が彼の傍でこの笑顔の輪に入れているならするべき事はただ一つ。
その”するべき事”を確認をしたくなって後を振り向いた私の目の中には、笑顔で見守ってくれる聖母の様な香織の姿が優しく映った。
一昨日まで必死に追いかけて、昨日は諦めて、また一つの決意に振り回してしまって本当に申し訳ないが、その分頑張ろうと思える。だから逆にもし香織が恋愛の岐路に立ったらその時は全力で支える覚悟だ。このモラルのやり取りは学校のテストとは反対に答えなど存在しない。
青くても抽象的にでも流れる時間の中で自分自身の答えを出したいのだ。お幸せな頭かもしれなけど、だからこそ今日の朝日みたいに引くくらい無駄に眩しい光とも向き合えた。そう、やんわりと掴み所が無く、でも底から力強い感覚。
いやぁ、まさか自分家のベランダがターニングポイントなるとは思わなかったけど・・・。
でもそれがコカトリスへの返信。
”私が松野君を護って見せる”
これから運命とか、恋の女神の気まぐれとか行動を起こした代償にどんな危機が起きようとも彼が許してくれる限り私が護って行く。
決して意地になっている訳ではないがこのまま諦めて他の人と付き合う自分は好きにはなれないだろう。
簡単に言うと”女としての誇りを持ち続けたい”と心の中で思いながら、再びドライアイになった目に専用目薬を射し込んだ。
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その頃、コカトリスは瞑想を続けていた。
何かを悟した様にそっと瞳を開けて日常が繰り返されるであろう街並みを見定める。
「小春、俺はお前に告げて良かったと思っている」
キツく鋭い目が一瞬和らぐ、まさにその表情はこの世界で笑顔と呼ばれるものだった。
今日も一日を始めるためにやんわりと太陽が昇り続ける。
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そのまま休み時間が終わる直前、教室の中から窓の外の日差しを手でかざしながら見つめた。
「らしくないか・・・」
光とか、誇りとか、自分の世界観を超えたフレーズに恥かしくなり少し後悔した。
少しずつ校庭の木に目線を移すと桜の花が咲き始めてピンク色に染まりつつある。その色の鮮やかさに溜息を一つ。
「ま、いいか!」
結果オーライ!だってあの憂鬱も、涙も全部散ったよ。桜吹雪みたいにね。
『キーンコーンカーンコーン』
きっとここから私の戦いが始まるんだろう。
その前に今は目の前の授業に出て来る”数2”の教科書と死闘を繰り広げている。
ー次回へと続くのであります(〟`ω・〟)\ー