母親に似ていると言われた日
人は、ときどき、自分でも気づかないところで誰かを求めているのかもしれません。
スーパーの搬入口は、いつも段ボールの匂いがした。
潰れた青果の甘い腐臭に、洗剤の匂いが混じっている。
夏になると、それが少し強くなる。
春樹は、その匂いを三年近く嗅ぎ続けていた。
美咲がバックヤードに入ってくると、匂いが変わる気がした。
もちろん、何も変わってはいない。
ただ、春樹にはそう感じられた。
「春樹くん、今日も暑いね」
美咲はロッカーを開け、ステンレスのボトルを取り出した。
休憩室の共用ポットではなく、いつも自分で沸かした麦茶を持ってくる。
「それ、家で作ってるんですか」
「うん。麦茶パックで煮出すだけやけどね。ペットボトルのやつ、
なんか味が薄く感じてしまって」
美咲は紙コップに麦茶を注いだ。
「飲む?」
「いいんですか」
「いっぱいあるし」
春樹は両手で受け取った。
麦茶はよく冷えていた。
美咲は誰にでもそうしていたのかもしれない。
けれど春樹は、もうそんなことを考えなくなっていた。
春樹の母は、彼が三歳のときに死んだ。
事故だったと祖母から聞いたのは、小学校に上がってからだった。
それまでは病気だと思っていた。
母の写真は一枚だけ残っている。
白いブラウスを着て、少し眩しそうに笑っている。
春樹は、その人の声を知らない。
怒ったときの声も、眠る前にどんな言葉をかけてくれたのかも知らなかった。
祖父母は春樹を丁寧に育ててくれた。
だから不幸だったわけではない。
それでも、ときどき、知らない人の写真を眺めるような気持ちで母の顔を見ることがあった。
美咲は四十六歳だった。
息子がいる。春樹と同じくらいの年だと、以前聞いたことがある。
「春樹くん、うちの息子と同い年くらいちゃう?」
そう言ったとき、美咲は笑っていた。
「あんまり喋らへんけどな、あの子」
その目に、特別なものはなかった。
ただ、パート先にいる若い男の子を見る、ごく普通の目だった。
変わっていったのは、いつからだったのか。
美咲自身にも、よくわからなかった。
春樹が休憩時間になると、美咲の隣に座るようになった。
美咲が腰を痛めて休んだ翌日、ロッカーを開けると、湿布薬が入っていた。
小さなメモが添えられていた。
――腰、痛そうだったので。
名前はなかった。
けれど、字を見れば誰のものかわかった。
美咲はそのメモを、しばらく捨てられなかった。
家では、息子と半年近く口をきいていなかった。
大学を出て就職した会社が合わず、いまは実家にいる。
美咲が何か言えば、舌打ちが返ってくる。
食卓には三人分の椅子がある。
けれど、三人が揃うことはほとんどなくなった。
ある朝、美咲が息子の前に麦茶を置いた。
「冷蔵庫に入れといたから」
「いらない」
息子はスマートフォンから顔を上げなかった。
美咲は何も言わず、ボトルを自分のほうへ戻した。
その日の休憩時間、春樹が隣に座った。
「美咲さん、最近眠れてます?」
「なんで?」
「目、疲れてるから」
美咲は一瞬、返事をしなかった。
「そう?」
「はい」
春樹はそれ以上言わなかった。
その夜、美咲は鏡を見た。
目尻に細い皺がある。
髪には白いものが混じっている。
別に、いつもの自分だった。
なのに、その顔をいつもより長く見ていた。
二人は、客の途切れたレジで話すことが増えた。
春樹は祖父母のことを話した。
美咲は息子のことを話した。
春樹は美咲の話を途中で遮らなかった。
相槌も少ない。
ただ聞いている。
それだけなのに、美咲にはそれがありがたかった。
ある夜、閉店作業をしているとき、春樹が言った。
「美咲さんって、うちの母親とちょっと似てるかもしれません」
「え。写真とか見たことないのに、よう言うわ」
「なんとなくです」
「どこが?」
春樹は少し考えた。
「喋り方とか」
それから、少し間を置いて、
「あと、麦茶くれるときの感じとか」
と言った。
美咲は笑った。
「そんなんで似てるって言われてもなあ」
春樹も笑った。
それで話は終わった。
家に帰ってから、美咲はもう一度、鏡を見た。
翌日から、美咲は麦茶を少し多めに作るようになった。
誰かに頼まれたわけではない。
ボトルの底に少し余っていると、なんとなく安心した。
春樹が休憩室に入ってくると、美咲は自然に紙コップを二つ出した。
「飲む?」
「ありがとうございます」
春樹は受け取った。
その指が、美咲の指に一瞬だけ触れた。
どちらも何も言わなかった。
美咲は視線を紙コップに落とした。
春樹の手は、自分の息子より少し大きかった。
そのことに気づいてから、美咲は春樹の手を見ないようになった。
春樹も、自分の手を一度見た。
何か言おうとして、やめた。
シフトの終わったあと、二人で店の前のベンチに座ることも増えた。
「私、あの子に嫌われてるんかな」
「そんなことないと思いますよ」
「そうかな」
「たぶん」
春樹の返事には、根拠がなかった。
それでも美咲は、それ以上聞かなかった。
九月に入ったある日、閉店後の駐車場で、美咲の車が動かなくなった。
「バッテリーかな」
春樹がボンネットを開けた。
美咲は少し離れたところから、その背中を見ていた。
やがてエンジンがかかった。
「ありがとう。助かったわ」
「家まで送ります」
「ええよ。悪いし」
「まだ調子悪いかもしれないから」
美咲は断りきれず、助手席に座った。
車の中には、芳香剤と埃と、若い男の匂いがした。
ドアを閉めた途端、美咲は自分の手を膝の上で握った。
春樹は何も言わなかった。
ラジオもつけなかった。
信号が赤になる。
車が止まる。
後部座席に、ステンレスのボトルが置かれていた。
「麦茶?」
「はい」
「まだ入ってる?」
「少しだけ」
春樹は前を向いたまま答えた。
「美咲さんがくれたやつです」
信号が青になった。
車が動き出す。
美咲は窓の外を見た。
何も言わなかった。
家の前に着くと、美咲はシートベルトを外した。
「ありがとう。気いつけて帰りや」
「はい」
ドアを開ける。
降りる。
閉める。
振り返ると、春樹の車はまだそこにいた。
美咲は手を上げた。
車はしばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと角を曲がって見えなくなった。
玄関を開ける。
居間には息子がいた。
「おかえり」
息子が言った。
それは、久しぶりに聞く声だった。
「ただいま」
美咲は靴を脱いだ。
冷蔵庫を開ける。
麦茶のボトルが一本、残っていた。
朝、息子に戻されたものだった。
美咲はそれを取り出した。
しばらく眺めてから、流しに捨てた。
夜、布団に入っても眠れなかった。
暗い部屋の中で、今日の車内を思い出していた。
春樹の声。
ステンレスのボトル。
自分の名前を呼ぶ声。
美咲は目を閉じた。
明日は早番だった。
麦茶を作らなければならない。
そう思ってから、少しだけ迷った。
いつもより多く作ろうか。
それとも、いつも通りにしようか。
翌朝。
美咲は台所に立った。
やかんに水を入れる。
麦茶のパックを一つ取り出す。
そこで、手が止まった。
冷蔵庫を開ける。
空になったステンレスのボトルが入っていた。
美咲は、それをしばらく見ていた。
捨てようとして、やめた。
ボトルを手に持ったまま、台所の窓を見る。
朝の光が、流しの中に細く落ちていた。
美咲はボトルを冷蔵庫に戻した。
そして、もう一度、麦茶のパックを手に取った。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




