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第8話 ハッシュタグ 悪い魔女です


「……木戸くん。人間の脳は、過度なストレスから逃避するために現実を都合よく改ざんする機能が備わっていると聞いたことがありますか? 彼の場合はその機能が暴走して、お花畑という名の異世界に転生してしまったようですね」


私は「残業する必要はありませんよ」と言ったのだが、〈その瞬間〉を見届けるために残っている木戸君を振り返っていった。


「所長。夜の十時に、相手のSNSの裏アカウントを大型モニターに映し出して監視するのはやめてください。しかも、なんでポップコーン食べてるんですか。完全に映画館のテンションじゃないですか」


帝都の一等地、『九条院法律事務所』の所長室。

私がキャラメル味のポップコーンをサクサクと頬張りながら見つめているモニターには、写真共有SNSの画面がデカデカと表示されていた。


『プリンセス・リナ号でシャンパンパーティー!明宏さん最高! #真実の愛の勝利。#悪い魔女は退治した #これからは二人のパラダイス!』


写真には、私が先日『和解』という名目で仮差押えを一時的に解除してあげた六十フィート級の大型クルーザーの船上で、水着姿でドン・ペリニヨンのグラスを掲げる道明寺明宏と佐々木莉奈の姿が写っていた。


「木戸くん、この『ハッシュタグ 悪い魔女』というのは、十中八九私のことですね。名誉毀損の継続的行為の証拠として、スクリーンショットを高画質で保存しておいてください。追加の慰謝料の算定根拠にします」


「……所長、もう相手のライフはゼロ、どころかマイナスに突入してますよ。これ以上むしり取ったら、本当に骨しか残りませんよ。というか、残り一千万の借金が残ってるのに、なんであんなに豪遊できるんですか? 普通、毎月百万の分割払いって結構な精神的負担ですよ?」


木戸くんが頭を抱えているが、私には彼らの思考回路が手に取るようにわかっていた。


「だからこそ、です。つまり彼は最初から、第一回目の支払いすらする気がなかったのですよ。『とりあえず頭金の二千万を払ってマンションの凍結さえ解けば俺の勝ちだ。どうせ口約束の分割払いだ。少しごねればあの女も諦めるだろう』と。彼のアタマの構造は、極めてシンプルかつ単細胞生物レベルで予測が容易です」


「いや、ただの口約束じゃなくて、直ちに強制執行される公正証書に実印押してるんですけどね、あの人……」


「彼は文字を読むのが苦手なようですから、極小明朝体で書かれた執行認諾文言なんて目に入っていなかったのでしょう。さて、今日はその分割払いの第一回目の支払期日ですね」


私はデスクの上のカレンダーに目をやった。

本日の日付には、私が引いた美しい真紅の丸印が燦然と輝いている。


「現在、時刻は午後十一時。あと一時間でタイムリミットですが、当事務所の指定口座への入金は?」

「ネットバンキングで確認しましたが、当然、ゼロです」


その時、私のデスクに置いてあったスマートフォンが、ピコンと軽い通知音を鳴らした。

画面を見ると、明宏からのメッセージアプリの通知だった。


「おや。支払い期日ギリギリになって、ようやく焦り始めたのでしょうか。どれどれ」


私はスマートフォンを手に取り、彼からのメッセージを読み上げた。


『おーい結。悪いけど、今月は莉奈の誕生日でハワイに行くことになったから、分割の支払いは来月に回してくれよな! お前も親父からたっぷり小遣いもらってんだから、百万くらい誤差だろ?笑 じゃ、そういうことで!』


「…………」

「…………」


所長室に、数秒間の完全な沈黙が落ちた。


「うわぁ……」


先に口を開いたのは、顔を引きつらせた木戸くんだった。


「これ、借金の相手に送る文章じゃないですよ。スタンプまで使って……。完全に舐め腐ってますね。所長、さすがに怒っていいところですよ」


「怒る? なぜですか」


「えっ?」


私は黒縁メガネを中指でクイッと押し上げ、心の底からの極上の笑みを浮かべた。


「私は今、これ以上ないほどの喜びを感じていますよ。彼が『過失』や『うっかり忘れ』ではなく、『故意』に支払いを怠ったという完璧な証拠が、文章として残ったのですから。しかも私に『小遣いをもらっているのだから余裕だろう』と。つまり、私が経済的に困窮していないことを理由に、自らの債務不履行を正当化しようとしているわけです」


「ただのクズの言い訳ですよ、それ」


「ええ。これで心置きなく、一切の情けを容赦せず、フルスイングで物理攻撃を加えることができます。彼が自ら、法的な保護の枠組みから外れてくれたのですからね」


私はスマートフォンの画面をタップし、メッセージに『既読』をつけた。

そして、そのまま端末をデスクの上に裏返して置いた。


「返信はしません。既読無視です。言葉による交渉のテーブルは、ここで完全に撤去されました」


壁掛けのアンティーク時計が、チクタクと静かな音を立てている。

私はデスクの引き出しから、おもむろに一個五百円の高級カップラーメンを取り出し、ポットのお湯を注いだ。


「所長、こんな時間にラーメンですか?」


「ええ。これから訪れる最高の瞬間を祝うための、ささやかな晩餐です。木戸くん、法学部の授業で習った『期限の利益』という言葉を覚えていますか?」


「ええ。分割払いの契約などで、債務者が『期日が来るまでは全額を支払わなくてもいい』という、法律上のメリットのことですよね」


「はい。しかし、一度でも支払いを怠れば、そのメリットは一瞬にして消滅し、残金全額を一括で請求される。これが『期限の利益喪失』です」


私は箸を持ち、時計の秒針を見上げた。

まるで、カップラーメンの三分を待つかのように、相手の人生のタイムリミットを待つ。


「公正証書の第六条。『乙が分割金の支払いを一回でも怠った場合、乙は当然に期限の利益を失い、甲に対し残金全額を直ちに支払うものとする』。この『当然に』という言葉の恐ろしさを、彼は理解していなかったのです。私が催告、つまり『払え』という請求をする必要すらなく、自動的に一括払いの義務が発生するんですよ。魔法みたいで素敵でしょう?」


「所長、その魔法、黒魔術ブラックマジックにしか見えないんですけど……。相手、これからハワイに行く気満々ですよ? 空港のチェックインカウンターでクレジットカードが止まってて、顔面蒼白になる姿が目に浮かびます」


「あら、私の再発動する仮差押えの方が早いですから、せいぜい成田空港のベンチで夜明かしするぐらいで済みますよ」


午後十一時五十八分。

……五十九分。

秒針が進む音が、こんなにも甘美なメロディに聞こえたのは初めてだ。ベートーヴェンの第九、歓喜の歌に匹敵するカタルシスである。


「午前零時。……はい、入金確認できませんでした」


私はカップラーメンの蓋をベリッと剥がし、芳醇なスープの香りを深く吸い込んだ。


「ゲームオーバーです。期限の利益は完全に喪失しました」


ズルズルッ、と美味そうに麺をすする私の姿は、悪魔が魂を喰らっているようにしか見えなかっただろう。

木戸くんは無言で胸の前で十字を切っていた。


◇  ◇  ◇


翌朝。

私は開庁時間と同時に、地方裁判所の民事執行センターの窓口に立っていた。

手には、分厚い申立書の束が握られている。


「おはようございます。債権執行の申立てに参りました」

「あ、九条院先生。おはようございます。いつも朝一番ですね」


顔見知りの書記官が、苦笑いしながら書類を受け取った。


「はい、債権執行ですね。……ええと、債務名義は執行認諾文言付公正証書。請求債権額は……残金の一千万円。第三債務者は……株式会社ブルーオーシャン・インベストメント。差し押さえる債権は、役員報酬請求権。……ん?」


書記官の手がピタッと止まり、メガネの奥の目が点になった。


「これ、債務者本人が、この第三債務者である会社の代表取締役になってますね?」


「はい。彼がお父様に内緒で設立したダミー会社です。彼自身が自分に支払っている役員報酬を差し押さえるという、極めて美しい自己矛盾の構図となっております」


「……相変わらず、九条院先生の案件は法的に完璧ですが……申立書から滲み出る債務者への殺意が強すぎて、審査の時にハンコを押す手が震えるんですよね……」


「殺意だなんて人聞きの悪い。私はただ、国家の正当な権利行使を迅速に行っているだけの善良な市民ですよ?」


私がにっこりと微笑むと、書記官は「善良な市民はダミー会社の役員報酬をピンポイントで差し押さえたりしません」とボヤきながら、受理印を力強くバンッ!と押してくれた。


事務所に戻ると、木戸くんが不安そうな顔で待っていた。


「所長……無事に受理されましたか?」


「ええ、完璧です。今日から数日以内に、裁判所から道明寺明宏のダミー会社宛てに、『おたくの役員の給料を差し押さえたから、今後は本人ではなく裁判所を通じてこちらに振り込んでね』という恐ろしい封筒が届きます。もちろん、彼宛てにも債務者への送達がなされます」


私はデスクの椅子に深く腰掛け、満足げに息を吐いた。


「あのダミー会社は、彼の隠し資産のすべての源泉です。そこからの資金供給が絶たれれば、六本木のマンションの管理費も、クルーザーの維持費も払えなくなる。……そして何より、裁判所からの『差押命令書』が会社に届くということは、彼がひた隠しにしてきた横領と借金の事実が、公的な文書として残るということです」


私が用意した現行法による包囲網は、今この瞬間、完全にその口を閉じたのだ。

彼はもう、どこにも逃げられない。

泣いて謝ろうが、親の権力を持ち出そうが、国家権力たる裁判所の強制執行を止めることは誰にもできない。


「それでは、現行法による『物理攻撃』を、心ゆくまで堪能させてもらいましょう」


黒縁メガネの奥で、魔王の瞳が妖しく光り輝いた。

お読みいただきありがとうございます。

自ら地雷を踏み抜いていくスタイル、嫌いではありません。

期限の利益は喪失しました。深夜のカップラーメンは最高ですね。


お待たせしました。次回、現行法による物理攻撃(タコ殴り)が炸裂します。

※次回は本日12:00過ぎに更新予定です!

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