第7話 知らぬ間に死刑執行同意書にサインします
「いいか結。俺がわざわざ足を運んでやったのは、お前が泣きついてきたからだ。そこを勘違いするなよ」
帝都グランドホテル、最上階のVIP専用ラウンジ。
一杯三千円のブルーマウンテンが注がれたマイセンのカップを前に、道明寺明宏はふんぞり返って腕を組んでいた。
相変わらず父親の金で仕立てた高級スーツを着込んでいるが、その顔色は高級ホテルのシーツよりも白い。さらに言えば、組んだ腕の指先は微かに震え、額には大粒の冷や汗が浮いている。
昨日の午後、私が放った『内容証明郵便』と『隠し資産の仮差押え』の凶悪コンボを食らった彼は、親バレと会社追放の恐怖で一睡もできなかったのだろう。
目の下に立派なクマを作った元婚約者の姿は、私にとってルーヴル美術館のどの絵画よりも美しく、芸術的な鑑賞に堪えうるものだった。
「……ええ、わかっておりますわ、明宏様。私も少々、やりすぎてしまったと反省しております。弁護士になったばかりで、つい法的な手続きを試してみたくなってしまって……」
私は伏し目がちに視線を落とし、膝の上で両手をギュッと握りしめた。
肩を震わせ、いかにも「強大な道明寺グループの報復に怯える、浅はかで哀れな令嬢」の演技。大根役者なりに頑張ってみる。まあ、木戸くんがいたら、吹き出しているだろう。
内心では、彼のあまりのわかりやすさと愚かさに、サンバのステップを踏みながら高笑いしたい衝動を必死に抑え込んでいた。
「ふんっ、当然だ! 親父の顧問弁護士団が動けば、お前なんか一捻りだからな! だが……まあ、俺も温情というものを知っている。今回だけは特別に、親父の耳に入れないで和解してやる」
「本当ですか……! ありがとうございます、明宏様」
私がパッと顔を上げて喜ぶと、明宏はさらに勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「ただし! 慰謝料五千二百万なんてふざけた額は絶対に払わん! いいか、俺が出せるのは二千万だ。それ以上は一円も出さない。これで手を打つなら、俺の懐からポンと出してやる」
彼は「俺の金」と威張っているが、実際には私が凍結していない、彼個人のささやかなヘソクリ口座の限界額なのだろう。
私の事前調査によれば、彼の流動資産の残高は二千五百万弱。見事なまでに想定内の着地点だ。
(さて、ここからが腕の見せ所です。彼に『交渉で勝った』という甘い優越感を与えつつ、地獄の釜の蓋を開けさせなければ)
「二千万……。ですが明宏様、私の名誉回復のためにも、せめて三千万はいただかないと、うちのお父様が納得しませんわ。どうか、お願いできませんか?」
「なっ、三千万だと!? だ、だからそんな大金、今すぐには……っ!」
「一括でなくても構いません。頭金として二千万。残りの一千万は、毎月百万円ずつの分割払いということでいかがでしょう? これなら、明宏様の毎月の役員報酬から十分に支払えるはずです」
私がすかさず提案すると、明宏はピタッと動きを止め、頭の中で必死に計算を始めた。
おそらく彼の脳内はこうだ。
『とりあえず二千万払って、あの忌まわしいマンションとクルーザーの仮差押えを解除させる。残りの分割払いは適当に何ヶ月か払ったフリをして、ほとぼりが冷めたらバックレてやればいい。どうせただの口約束だ』
「……チッ。まあいいだろう。お前の親父がうるさいなら仕方ない。頭金二千万、残りは分割で三千万。これで手打ちだ。さっさと仮差押えを解除する手続きをしろ」
「ありがとうございます……! 明宏様の寛大なお心に感謝いたします。では、後々のトラブルを防ぐために、簡単な『和解合意書』にサインをお願いできますか?」
私は黒のクラッチバッグから、あらかじめ用意しておいたA4用紙を数枚取り出し、テーブルの上に滑らせた。
明宏は「面倒くせえな」と舌打ちしながらも、胸ポケットから見せびらかすようにモンブランの高級万年筆を取り出した。
「これに名前を書けばいいんだな? おい、印鑑証明と実印も言われた通り持ってきたぞ。これでマンションの凍結は解けるんだろうな」
「はい。仮差押えの取り下げ手続きに必要ですので、こちらでお預かりいたします」
明宏は合意書の文面などろくに読みもせず、末尾の署名欄にスラスラと達筆で名前を書き入れ、実印をバンッ!と力強く押した。
そして、役所から取ってきたばかりの印鑑証明書を、得意げに私に手渡してきた。
「よし、これで終わりだ。二千万は明日の朝一番で振り込んでやる。……おい結、二度と俺と莉奈の前に顔を見せるなよ。弁護士バッジなんて飾り、俺たちエリートには通用しないってことを思い知れ」
「はい。心に深く、刻み込ませていただきました。……本当に、色々と『ごちそうさま』でした」
私は立ち去っていく明宏の後ろ姿を見送りながら、彼がサインした書類を愛おしそうに胸に抱いた。
ラウンジの窓から差し込む西日が、私の黒縁メガネをギラリと光らせる。
「さて。最高級のコーヒーも冷めてしまいましたし、事務所に戻りましょうか。今日は素晴らしい収穫祭ですからね」
◇ ◇ ◇
一時間後。
帝都の一等地に構える『九条院法律事務所』の所長室に戻った私は、デスクで事務作業をしていたパラリーガルの木戸くんの前に、満面の笑みでその書類をドンッと置いた。
「木戸くん、見てください! 明宏様ったら、私の用意した書類に一切の疑いを持たず、実印まで押してくれましたよ! 人間ってなんて素直で素晴らしい生き物なんでしょうか!」
「……所長がそこまでご機嫌ってことは、絶対にろくでもない書類にサインさせたんですよね。道明寺の坊ちゃん、とうとう臓器でも売らされるんですか? それともマグロ船に?」
木戸くんは恐る恐る、私が差し出した書類を手に取った。
そこには『和解合意書 及び 強制執行認諾文言付公正証書作成委任状』という、物騒なタイトルがデカデカと印字されている。
「なっ……!? こ、公正証書作成委任状!? しかも執行認諾文言付き!?」
木戸くんの裏返った悲鳴が、所長室に響き渡った。
「ええ。これさえあれば、私が明宏様の代理人として公証役場に行き、公証人の先生に『この借金証書を作ってください』と依頼することができます。印鑑証明書も実印もセットでいただいてきましたから、手続きは完璧です」
私はウキウキとしながら、紅茶の準備を始めた。
「いやいやいや! 所長、これ相手は意味わかってサインしたんですか!? ただの和解書じゃなくて、『もし私が支払いを一秒でも遅れたら、裁判をすっ飛ばして直ちに私の全財産を強制執行(差し押さえ)していいですよ』っていう、死刑執行の同意書じゃないですか!!」
「ええ、もちろんわかって……いないでしょうね。本文の第五条に『乙は、本件債務の履行を遅滞したときは、直ちに強制執行に服する旨を認諾する』と、六ポイントの極小明朝体で楚々と記載しておきましたが、彼は自分の万年筆のペン先の輝きに見惚れていて、全く読んでいませんでしたから」
私がポットからお湯を注ぎながら答えると、木戸くんは頭を抱えて机に突っ伏した。
「悪魔だ……。ここに現行法のバグを利用した悪魔がいる……。普通、こんな恐ろしい委任状、相手の弁護士が絶対に見逃しませんよ」
「だから『弁護士は同席させないで二人だけで解決しましょう』と提案したのです。弁護士費用をケチり、親に内緒で事を済ませようとした彼の自業自得というやつですね。……ああ、このダージリンは格別な香りがします」
「人の人生を合法的に終わらせる書類を肴に飲む紅茶が美味いわけないでしょ!!」
木戸くんのツッコミを心地よいBGMとして聞き流しながら、私は書類のさらに恐ろしい部分を指差した。
「木戸くん、第六条も見てください」
「ええと……『期限の利益喪失条項。乙が分割金の支払いを一回でも怠った場合、乙は当然に期限の利益を失い、甲に対し残金全額を直ちに支払うものとする』……。これ、借金とかの契約でよくあるやつですよね」
「はい。私はこの条項を、彼が絶対に『違反する』ことを前提に組み込みました。彼は頭金の二千万を払えば、仮差押えを解除してもらえると思っています。そして残りの分割払いは、適当な理由をつけて踏み倒す気満々でした。あの自信に満ちたアホな顔を見れば、私でなくてもわかります」
私はティーカップを置き、黒縁メガネを中指でクイッと押し上げた。
「私は約束通り、明日彼から二千万の入金が確認でき次第、マンションとクルーザーの仮差押えを一度『解除』してあげます」
「えっ? 解除しちゃうんですか? せっかく相手の首根っこを押さえたのに?」
「ええ。一度解放して、彼に『俺の勝ちだ! あの女を騙してやった!』という絶頂の喜びを味わわせてあげるのです。彼は浮かれて、莉奈さんと一緒にクルーザーで東京湾へ繰り出し、ドン・ペリニヨンで乾杯するでしょう」
「……」
「しかし、彼が分割払いの第一回目……来月末の期日を一日でも、いや一秒でもぶっちぎった瞬間。この『執行認諾文言付公正証書』が火を噴きます」
私は立ち上がり、窓際のブラインドを指先で下ろしながら、極めて論理的かつ冷酷に、その後の展開を解説した。
「期限の利益喪失により、残金一千万が一括請求に変わります。そして私は、裁判という面倒な手続きを一切省略し、公証役場で作ったこの証書を持って、そのまま地方裁判所の執行部へ直行します。……ターゲットは、彼が解除されて安心しきっているマンション、クルーザー、そして彼が役員を務めるダミー会社から彼自身へ支払われる『役員報酬』の全額です」
「役員報酬の差し押さえ……! それ、会社に裁判所から直接『お宅の役員の給料、差し押さえるからこっちに振り込んでね』って通知が行くやつじゃないですか!」
「その通りです。つまり、彼がお父様に必死に隠していた『ダミー会社の存在』『巨額の借金』『横領の事実』が、裁判所の強制執行という最も公的で、最も隠蔽不可能な形で、道明寺グループの経理部に直接叩きつけられるのです」
「ひっ……!」
木戸くんの喉から、先ほどの明宏と全く同じ、カエルが潰されたような悲鳴が漏れた。
「所長、それ……相手の社会的生命を、物理的にお父様の目の前でギロチンにかけるようなもんですよ。彼、完全に終わりますよ。自己破産どころか、勘当されて路上生活一直線じゃないですか」
「あら、私は極めて親切なエコ活動をしているつもりなのですが。裁判官の貴重なリソースを割くことなく、当事者間の合意(公正証書)のみで迅速に債権を回収する。現行法のシステムを最も効率的に運用しているだけですよ?」
「効率化の方向性がマフィアのそれなんですよ!! 『法に触れなければ何をしてもいい』って顔に書いてありますよ!!」
木戸くんが涙目で訴えかけてくるが、私には何が問題なのかさっぱりわからない。
ルールブックに「やってもいい」と書いてある必殺技を、最適なタイミングで発動させる。
これほど数学的で美しいカタルシスが、この世のどこにあるというのか。
「さあ、木戸くん。急いで公証役場へ向かいますよ。公証人の先生には、すでに四時にアポを取ってあります。明宏様の代理人として、私自ら、彼のために最高の『死刑執行同意書』を作成してきましょう」
私は書類と印鑑証明書を大切にアタッシュケースにしまい、軽やかな足取りで所長室のドアを開けた。
背後でパラリーガルが
「法律の知識を持ったサイコパスに権力を与えちゃダメだ……神様、どうか日本を救ってください……」
と本気で祈っているのが聞こえたが、私は気にしないことにした。
彼の言う通りだ。
愚かな男は、今日この日、自分の手で最高級の万年筆を使い、自らの人生を終わらせるボタンを押したのだ。
あとはただ、彼が『約束を破る日』を待つだけ。
カレンダーの来月末の日に付けられた赤い丸印が、まるで相手の破滅をカウントダウンする時限爆弾のタイマーのように、私の目には美しく輝いて見えたのだった。
お読みいただきありがとうございます!
サインしてしまいましたね……直ちに強制執行される死刑執行同意書に……。
木戸くんの胃痛がマッハですが、所長は絶好調です。
次回の更新から、いよいよラストスパートです!
※次回は明日(日曜)の07:00過ぎに更新予定です!




