第5話 登記簿はオープンで健全なエンターテインメントです
「木戸くん。不動産登記簿というのは、まるで人間の業を展示した美術館ですね。見ているだけで心が洗われるような、醜悪な欲望の連鎖が記録されています」
「所長、朝の九時から優雅にアールグレイを啜りながら、法務局のデータベース画面を見てうっとりするのはやめてください。完全に悪役の趣味ですよそれ」
帝都の一等地、『九条院法律事務所』の所長室。
私が大型モニターに映し出された無機質な文字列の羅列を眺めて微笑むと、出社したばかりのパラリーガルである木戸くんが、疲れた顔でツッコミを入れてきた。
「悪役とは心外ですね。私はただ、国家が管理する公的な記録を閲覧しているだけです。誰でもわずかな手数料を払えば見られる、極めてオープンで健全なエンターテインメントですよ」
「普通の人にとって、登記簿謄本はエンターテインメントには分類されません。で、今日はまた誰の資産を丸裸にしているんですか。例の道明寺の坊ちゃんですか?」
木戸くんが私のデスクの前に立ち、モニターを覗き込んだ。
「ええ。彼に対する慰謝料および損害賠償請求の訴状はすでに完成していますが、裁判で勝訴判決を得たところで、相手が『お金がないから払えません』と開き直ったり、財産を他人の名義に移して隠したり逃げたりしては意味がありませんからね」
「いわゆる『無い袖は振れない』ってやつですね。勝訴判決の紙切れだけあっても、実際に回収できなければ弁護士の負けと同じですから」
「その通りです。ですから私は、彼に内容証明郵便という宣戦布告の爆弾を投下する前に、彼の首根っこ……つまり『差し押さえ可能な隠し資産』を完全にロックオンしておくことにしたのです」
私はマウスを操作し、一つの法人登記の画面を拡大した。
「木戸くん、この『株式会社ブルーオーシャン・インベストメント』という会社を見てください。設立は三年前。資本金はわずか三百万円。本店所在地は、港区の雑居ビルの一室になっています」
「はあ。よくあるペーパーカンパニーっぽい名前と規模ですね。これが何か?」
「この会社の代表取締役の欄をよく見てください」
「ええと……代表取締役、道明寺明宏。……って、坊ちゃんの名前じゃないですか!」
「ご名答。彼は父親である道明寺グループ総帥の目を盗み、自分個人のダミー会社を設立していたのです」
私がさらりと事実を告げると、木戸くんは目を丸くした。
「いやいや、ちょっと待ってください! なんで所長は、星の数ほどある法人の中から、坊ちゃんがコッソリ作ったダミー会社を一発で見つけ出せたんですか!? 探偵でもそんなの何日もかかりますよ!」
「もちろん一発で見つけたわけではありませんよ。昨日の夜、お風呂上がりにドライヤーで髪を乾かしながら、道明寺グループの関連企業およそ百五十社の役員名簿と、過去十年分の不動産取引履歴を頭の中でクロスリファレンスしていたら、不自然な資金の動きと住所の重複に気づいただけです」
「ドライヤーの片手間でビッグデータ解析みたいなことしないでください!! 人間の脳の処理能力を超えてますよ!!」
木戸くんが頭を抱えて叫ぶが、私にとっては九九の暗唱レベルの単純作業である。
なぜ彼がそこまで驚いているのか、いまいちピンとこない。
「まあ、そんなことはどうでもいいのです。重要なのは、このブルーオーシャン・インベストメント社が『何を所有しているか』です。木戸くん、次の画面を」
私は画面を切り替え、今度は不動産登記簿と、小型船舶の登録情報を表示した。
「……ええと、港区六本木の超高級タワーマンションの最上階ペントハウス。そして、横浜のクルーザーポートに停泊している六十フィート級の大型クルーザー。所有者はどちらも、このダミー会社になっていますね」
「その通りです。そして、クルーザーの登録名を見てください」
「船名……『プリンセス・リナ号』。……うわぁ」
木戸くんが、この世の終わりでも見たかのように顔を引きつらせた。ドン引きである。
「ダサい。圧倒的にダサいですね。愛人の名前をクルーザーにつけるなんて、昭和の成金バブル親父でもやりませんよ。しかもこれ、億単位の買い物ですよね?」
「道明寺グループの経費から巧妙に資金を迂回させて購入したのでしょう。脱税および会社法違反の特別背任の匂いがプンプンしますね。道明寺のおじ様が知ったら卒倒するでしょう」
私は紅茶を一口飲み、ふふっと楽しげに笑った。
「さて、これで彼の『アキレス腱』は完全に見えました。彼が佐々木莉奈さんと現在同棲している愛の巣は、この六本木のペントハウスです。そして、週末になればプリンセス・リナ号で東京湾をクルージングして、シャンパンを空けているわけです」
「なるほど。じゃあ、裁判を起こして勝ったら、そのマンションと船を差し押さえて競売にかけるわけですね」
「木戸くん。それでは遅すぎます。私が訴状を送った瞬間に、彼は慌ててこのダミー会社の代表権を第三者に譲渡したり、不動産を売却して現金化して海外に逃がす可能性があります。悪党というのは、逃げ足だけは無駄に速いものですから」
「じゃあ、どうするんですか?」
「裁判を起こす『前』に、裁判所に頼んでこれらの資産をいきなり凍結してしまうのです。民事保全法に基づく『仮差押え』の手続きですよ」
私が黒縁メガネを中指で押し上げると、メガネの奥の瞳がキラリと光った。木戸くんが一歩後ずさりする。
「仮差押え……。相手に一切の通知を行わず、ある日突然、裁判所の命令で不動産の登記簿に『差押』の赤い文字を刻み込み、売買を完全に不可能にするという、あの奇襲攻撃ですか」
「ええ。訴訟の判決が出るまでの間、相手の財産を人質に取る最強の合法ロック魔法です。これが発動すれば、彼はマンションを売ることも、クルーザーを動かすことも、銀行口座からお金を引き出すこともできなくなります。完全なる経済的包囲網の完成です」
「でも所長、仮差押えって、もし所長が裁判で負けた時のために、裁判所に『担保金』を預けなきゃいけないですよね? 相手の資産がマンションとクルーザーで数億円規模なら、裁判所に積む担保金も数千万円単位になりますよ!?」
木戸くんの指摘はもっともである。
仮差押えは強力な武器だが、濫用を防ぐために、債権者(私)は高額な供託金を法務局に預ける必要があるのだ。
「ああ、そのことでしたら心配無用です」
私はデスクの引き出しから、一枚の紙切れを取り出してヒラヒラと揺らした。
「今朝、父にお願いして、私の個人口座に『お小遣い』を少しだけ振り込んでもらいましたから。一億円ほど」
「お小遣いの桁がバグってる!! 九条院グループの総帥、娘の復讐劇のスポンサーとして有能すぎませんか!?」
「『道明寺の小僧を物理的に沈めるための弾薬代だ。足りなければ遠慮なく言え』と、満面の笑みで即金で振り込んでくれました。持つべきものは、理解のある優しいお父様ですね」
私はにっこりと微笑みながら、手元のキーボードを軽快に叩き始めた。
「さあ、裁判官に提出する保全命令申立書の作成は、すでに私の頭の中で終わっています。10分でプリントアウトして、今日の午後には地方裁判所の保全部にねじ込んできますよ」
カチャカチャカチャ、と、私の指先が恐ろしい速度でキーボードの上を舞う。
それはまるで、獲物の息の根を止めるための死の宣告書を綴る、冷酷な魔王のタイピングだった。
「……所長。一つだけ聞いてもいいですか」
「なんでしょうか、木戸くん」
「その仮差押えが裁判所に認められたら、道明寺の坊ちゃんはどうなるんですか?」
「とてもシンプルです」
私はタイピングの手を止めず、モニターを見つめたまま答えた。
「ある日突然、彼が佐々木莉奈さんとイチャイチャしている六本木のペントハウスの登記簿に『仮差押え』が登記されます。そして数日後、私が彼宛てに送りつける『内容証明郵便』が届く。彼はパニックになり、優秀な弁護士を雇おうとするでしょう。しかし、彼個人の銀行口座も、ダミー会社の口座も、すべて私が同時に凍結します」
「……つまり?」
「彼は、私に対抗するための弁護士費用を、ATMから一円も引き出すことができなくなるのです。親に泣きつけばダミー会社の横領がバレて勘当される。自分の金は一円も動かせない。そして手元には、私からの莫大な慰謝料請求書だけが残る」
私は最後にターンキーをターンッ!と勢いよく叩き、プリントアウトの指示を出した。
「これを法曹界の専門用語で『詰み(チェックメイト)』と呼びます」
複合機から、猛烈な勢いで申立書が印刷されていく音が響き渡る。
木戸くんは完全に顔面を蒼白にし、胸の前で十字を切った。
「道明寺明宏……。来世では、絶対に敵に回してはいけない相手を見極める知能が持てるといいな……」
パラリーガルの心からの哀悼の意をBGMに、私は印刷されたばかりの真新しい申立書を手に取り、うっとりと目を閉じた。
「さあ、舞台の準備は完全に整いました。いよいよ明日、彼らに『絶望』という名の手紙を配達してもらいましょうか」
郵便配達員が運ぶ一通の赤い判子の押された封筒。
それが、愚かな裏切り者たちの人生を根底から破壊する、終わりの始まりの合図となるのだ。
お読みいただきありがとうございます!
ドライヤーの片手間でダミー会社を特定する魔王さま。そして「仮差押え」という名の理不尽なまでの合法ロックが発動しました。
次回、彼らのもとに爆弾が投下されます。
※次回は本日19:00.過ぎに更新予定です!




