第2話 予備試験はソシャゲガチャより良心的
「いらっしゃいませ。当司法試験予備校へようこそ……って、お嬢様? あの、道を間違えられていませんか?」
都内で最も合格実績の高い大手司法試験予備校の受付で、事務員の女性が目をパチクリとさせていた。
無理もない。ここはどう見ても、黒縁メガネに地味な紺色のワンピースを着た、花も恥じらう(?)女子大生が一人でふらりと立ち寄る場所ではない。周囲を見渡せば、目の下に濃いクマを作った六法全書を抱える受験生たちが、ゾンビのように虚空を見つめながらブツブツと判例を暗唱している。
「道なら合っています。一番難しくて、一番手っ取り早く弁護士資格が取れるコースをお願いします」
「えっ? ええと、法科大学院を経由せずに最短で司法試験の受験資格を得るとなると、『予備試験』の合格を目指すことになりますが……合格率は例年わずか四パーセントの超難関ですよ?」
「あら、百人中四人も受かるんですか? 最近流行りのスマートフォン向けゲームの最高レア排出率が〇・一パーセントであることを考えれば、ほぼ全員受かるようなものですね。良心的なシステムです。運営様に感謝を」
「国家の最高峰の試験をソシャゲのガチャと比較する人を初めて見ました」
事務員さんが引きつった笑顔で差し出してきた入塾願書に、私はスラスラと名前を書き込んだ。
昨晩の婚約破棄イベントから一夜明け、私の心はこれまでにないほどの清々しさに満ち溢れていた。
「うすらぼんやり令嬢」と陰口を叩かれることが多い私だが、一度決まった目標を逃したことはない。常に最短コースを選んで、一目散に到達まで邁進するバーサーカーモードに入るのだ。その方がご飯がおいしい。
さっそくテキスト一式と、鈍器のような分厚さの『六法全書』を受け取った私は、その足でうきうきと予備校の自習室へと向かった。
机の上に真新しい六法全書をドーンと置く。ページを開くと、そこには極小の文字で法律の条文がびっしりと印刷されていた。普通の人ならこれを見ただけで眩暈を起こすらしいが、私の目は爛々と輝いていた。
(……なんて面白いの! やっぱりこのジャンル、早くに手を出せばよかった。最高のエンターテインメントじゃないですか)
私は夢中で民法のページをめくっていく。
第七百九条『故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う』。
(なるほど。故意または過失、権利侵害、損害の発生、因果関係。この四つのピースさえ揃えれば、相手の財布から現金を強制的に引きずり出す魔法の呪文が発動する、と。しかも第七百十条を使えば、精神的苦痛という目に見えないものまで現金化できるのですね。……フフッ、素晴らしい。お腹が空いてきました)
私はまるで極上のフレンチレストランのメニューでも眺めるかのように、うっとりと六法全書を読み耽った。
読み始めると止まらない。条文が、判例が、学説が、スポンジが水を吸うように私の脳内にスルスルと入り込んでくる。
それはそうだろう。なぜなら私にとって法律の勉強とは、単なる暗記ではなく、『いかにしてあの浮気御曹司を追い詰めるか』という壮大なシミュレーションゲームに他ならないのだから。
私の頭脳は高速で六法全書の条文を咀嚼しながら、同時並行していくつものシミュレーションを走らせていた。テーマパークでいくつものアトラクションを同時に体験するような上機嫌ぶりで。
(仮に、奴が親の会社名義の資産を私的流用していた場合、会社法第四百二十三条の役員の株式会社に対する損害賠償責任を追及するよう株主に唆せば、背任罪との合わせ技で社会的に抹殺できますね。……ああっ、ダメです。それでは私が直接手を下すカタルシスが減ってしまいます。やはり民事保全法による仮差押えからの、強制執行ルートが一番美しくてえげつないですね)
「……あの、九条院さん?」
「はい、なんでしょうか」
ふと声をかけられ顔を上げると、このクラスを担当するというベテラン講師の吉野先生が、なぜかハンカチで滝のような冷や汗を拭っていた。
「さっきから、一人で六法全書を読みながら邪悪な笑みを浮かべてブツブツと『差押え』だの『執行』だの呟いていますが……まだ入塾初日ですよね? 普通は憲法の基本的人権のあたりから勉強するんですが」
「憲法も素晴らしいですが、即効性のある物理攻撃手段としては、やはり民事訴訟法と民事執行法のコンボが最強だと、確信いたしました。ところで先生、仮に『公衆の面前で無実の罪をでっち上げられ、一方的に婚約を破棄された』という事案の場合、相手が親のすねかじりのボンボンだったとして、最も相手の精神を破壊できる差し押さえのタイミングはいつだとお考えですか?」
「なんでそんなに具体的で殺意の高い事案を想定しているんですか!? 怖いよ! 君、本当にお嬢様なの?」
怯える吉野先生に首を傾げながら、私は再びテキストに視線を落とした。
本当に、法律というのはパズルみたいで面白いです。もっとギアを上げて読んでみましょう。
こうして、夢中で読みふけっていると、1時間あまりで『六法全書』を読み終えてしまった。
もちろん細部まで理解できた訳では無いが、映像としてはすべて脳に格納できた。
私は一度読んだことはもちろん、聞いたことも忘れたことがない。
そして一晩寝れば、情報がいい感じに整理されて、自由に内容が引き出せるようになるはずだ。
手元には、基本書、判例集、論証集に演習書、まだまだ楽しめる本がいっぱいある。
新しいおもちゃ(殺傷力マックス)を与えられた子供のように、私は最高にウキウキしていた。
◇ ◇ ◇
それからの一ヶ月間で、私の人生は一変した。
朝食を食べながら刑法を読み、ランチタイムに民事訴訟法の判例をオカズにして白米を食べ、お風呂に入りながら会社法の条文を口ずさむ。
楽しい。すごく楽しい。面白いライトノベルの続きが気になって夜更かししてしまうのと同じ感覚だ。
だが、私のその『少し本気を出した』状態は、周囲から見れば明らかな異常事態だったらしい。
「お父様、お呼びでしょうか」
ある日の夜、私は九条院家の広大な屋敷の奥にある、豪奢な執務室に呼び出された。
マホガニーの重厚なデスクの向こう側に座っているのは、九条院グループの総帥であり、私の父である九条院厳だ。
彼は眉間のシワを深くし、ひどく思い詰めたような顔で私を見た。
「結よ。……お前、道明寺の小僧に婚約破棄されたショックで、どうかしてしまったのか?」
「はい? 私は至って健康ですが。食事もおいしくいただいています。それに、今日も模擬試験で全国一位を取りました」
「それがおかしいと言っているのだ! お前は確かに凝りだすと、ものすごい集中力でその分野をカンストしていくが、司法試験予備校に入ってまだ二ヶ月だぞ!? なぜお前は、何年も浪人している法学部生たちをごぼう抜きにして、答練で満点ばかり取っているんだ! おまけに講師が『娘さんの書く起案は、法的な隙が一切ない完璧なものですが、被告に対する殺意が高すぎて採点していて震えが止まりません』と泣いている、という報告を受けておるぞ!」
どうやら、私の新しい、ささやかな趣味(法的タコ殴りシミュレーション)が、父にバレてしまったらしい。
「結、無理をするな。あんなバカな小僧のことは忘れなさい。どうしても腹の虫が治まらないというなら、お父様が九条院の全資本を投じて、明日中に道明寺グループの株を買い占めて乗っ取ってやる。なんなら東京湾の底に沈めてもいいぞ?」
「あらあら。お父様、お心遣いは感謝いたします。ですが、お金の暴力で相手を潰すのは、ハエをバズーカで撃ち落とすようなもの。私の好みからいうと、あまり楽しくないというか、もったいないというか」
私は黒縁メガネを中指で押し上げ、ふふっと優雅に微笑んだ。
「本当のお楽しみは、ハエ自らに『私の羽を毟り取ってください』という法的拘束力のある書面にサインさせ、国家権力を使って合法的に羽をもぐことにあるのです。どうか、あの獲物は私の個人的な実験動物として残しておいてくださいませ」
「……我が娘ながら、末恐ろしいモンスターを生み出してしまった気がする」
父は顔を引きつらせて深くため息をついたが、それ以降、私の趣味の勉強(復讐準備)に口出しすることはなくなった。
そして迎えた、司法試験予備試験。
7月の短答式試験。合格率は2割強と言われるが、基本的には私の大好物である「暗記ゲー」である。憲法・民法・刑法など法律基本7科目の条文を、条番号付きで即座に引用したり、趣旨や原則・例外も口頭で説明するのは朝飯前。憲法・民法・刑法など主要科目の判例集に載っている判例なら、「その事案なら最判○年○月○日、○○事件でこう判示している」と日付と事件名まで自然に出てくる、なんなら法務省の過去問(司法試験・予備試験)の年度・科目・テーマを「年号と論点」で整理して一覧表にできる私には、楽勝だった。
9月の論文式。合格率はおおむね17〜20%で予備試験最大の山場といわれる試験会場で、私は開始三十分で猛烈な暇を持て余していた。
(問題文が親切すぎますね。これなんか、『この論点を使って被告を訴えなさい』って、おいでおいでしてくださってる。現実のクズ男はこんなにユーザーフレンドリーに証拠を残してくれないんじゃないかしら?)
退屈のあまり、私は残りの一時間半、解答用紙に完璧な論述を書き終えた後、机に突っ伏して優雅に昼寝を満喫した。
試験官が何度か「具合が悪いのか」と声をかけてきたが、「いえ、簡単すぎて眠いだけです」と正直に答えたら、なぜか殺意のこもった目で見られた。解せぬ。
1月の口述式試験を経て、結果は当然のごとく、ぶっちぎりの首席合格。
その勢いのまま、翌年の本試験(司法試験)も、ただの確認テストのような感覚で通過してしまった。
面接や司法修習でも、私は裁判官や検察官の教官たちから「百年に一人の天才的な法的思考力」「しかし、なぜか強制執行の手続きについて語る時だけ、瞳孔がガンギマリになっているのが心配」という極端な評価を受けつつも、無事にすべてのカリキュラムを最優秀の成績のまま修了した。
婚約破棄イベントから、いったいいくつの夜を越えたでしょうか。人生で一番楽しい一時であったと言っても過言ではなかった。
私はついに、胸に燦然と輝く『ひまわりと天秤』の黄金のバッジを手に入れたのである。
「……ふう。やっと第一部、クリアーですね」
ここまでは下ごしらえ。
これからようやくメインディッシュにむかえる。
九条院家の顧問弁護士をつとめる法律事務所に、半ば押し掛け的にしばらく所属し、一通りの実務を経験した後。
帝都の一等地に立つ、高級オフィスビルの一室。
『九条院法律事務所』と書かれた真新しいプレートが掲げられたその部屋が、私の完全なる城になった。
アンティーク調の重厚な家具。壁一面の法律書。そして、デスクの上に置かれた最高級のダージリンティーの香りが、私の神経を心地よく研ぎ澄ませていく。
弁護士バッジを指先でなぞりながら、私はデスクの引き出しから一つのファイルを取り出した。
ファイルには、『道明寺明宏 及び 佐々木莉奈』というラベルが貼られている。
「弁護士法第二十三条の二。『弁護士は、受任している事件について、所属弁護士会に対し、公務所又は公私の団体に照会して必要な事項の報告を求めることができる』……いわゆる、弁護士会照会」
私は魅惑的な呪文を唱えるように、その条文を口にすると、自然と笑みがこぼれた。
多くの人は、弁護士は法律とロジックで戦うと思っている。しかし本当はもう一つ武器がある。
事実だ。
だからこそ、弁護士には事実を自ら収集するための力が与えられている。
この黄金のバッジには、絶大な権力が付与されているのだ。
たとえば金融機関の口座情報、携帯電話の発信履歴、ホテルの宿泊記録。一般人では決してアクセスできない個人情報の奥底まで、私は合法的に手を突っ込み、事実を引きずり出すことができるのだ。そして収集したデータを組み合わせることで、通常なら知り得ない真実を浮かび上がらせ、無数の証拠によって立証可能にする。
「明宏様。莉奈さん。長らくお待たせいたしました」
私は冷めきった紅茶を一口飲み、彼らのファイルに向けて、極上にして最悪の微笑みを浮かべた。
「首を洗って待っていて、とお願いしましたよね? ……現行法という名のギロチンの刃は、もうとっくに研ぎ上がっておりますよ」
地味で冴えない令嬢の皮を被った弁護士による、情け容赦のないリーガル・リベンジが、今、静かに幕を開けた。
お読みいただきありがとうございます。
無事に(?)お嬢様弁護士が誕生しました。お父様もスポンサーとして有能すぎますね。
次回、いよいよ元婚約者のアリバイを客観的証拠で粉砕しにかかります!
※次回は本日21:00過ぎ頃に更新予定です!




