減らなかったもの 後編 /戻ったもの・戻らなかったもの
翌朝、学校はいつも通りの顔をしていた。
チャイムは鳴る。廊下は軋む。誰かが扉を乱暴に閉めて、ミセス・ブラウンが遠くで「廊下は歩きなさい!」と叫ぶ。
──世界は、ちゃんと音を返してくる。
昨日までの「変な静けさ」が嘘みたいに、些細な生活音がやけに多い。
コップを置く音、椅子が擦れる音、ページをめくる音。
それらが、わざとらしいほどに「戻った」と主張していた。
ローワンはそれを眺めながら、ひとつだけ確認する。
誰も、昨日のことを深追いしない。
「原因不明の一時的な現象。被害なし」
報告書に書かれたその一文が、校舎中に薄い膜を貼ったみたいに。
面倒ごとを避ける膜。考えないための膜。
──助かった。で終わるやつ。
終わってはいない、と言いたい気持ちはあった。
でも、言うための言葉が足りない。
足りないのは言葉だけじゃない、とローワンは思う。
教室の入口の床。
朝、エルマとメイヴが半歩避けた場所。
今朝も、誰かが同じように「そこ」を跨いで入ってきた。
自然すぎて、誰も気づかない。
ローワンは、黒板ではなく床を見た。
何もない。
なのに、そこだけ空気が一瞬遅れる。
視線がそこを避ける。足先がわずかに避ける。
──戻っていない。
誰も「戻っていない」と言わないだけで。
*
ホームルーム。ミスター・ハートが出席を取る声はいつも通り、少しだけ面倒くさそうで、少しだけ優しい。
「ローワン」
返事をしなくても、先生は続けた。
それで成立する空気が、この町にはある。
エルマはノートの端をいじりながら、何度も入口の床に視線を送っていた。気にしているのに、気にしていないふりをしている。
メイヴはあくびを噛み殺して、面白がる準備だけはしている。
フィンはすでに「境界」という単語を頭の中で組み立てている顔だった。
ニアムは──
ニアムは、いつもより背筋が伸びていた。
マフラーに触れないようにしている癖は変わらないのに、目の焦点だけが少し違う。
減っている。
ローワンは、そう思った。
何が、とは言えない。
けれど「同じじゃない」ことだけは見える。
先生がチョークで黒板に線を引く。
粉が落ちる。生徒が笑う。
全部、普通。
普通なのに、ローワンは確信する。
昨日の歌で、終わったものと、終わらなかったものがある。
終わったのは現象。
終わっていないのは──人の中身。
*
休み時間。
エルマがニアムの机に寄って、言いにくそうに笑った。
「……今日、平気?」
ニアムは「平気」という言葉を少し、口の中で転がしてから頷いた。
「平気」
返事は簡潔だった。
でも、いつもの「嫌そうな間」がない。
メイヴが軽口を挟む。
「昨日、英雄だよ。歌って世界を救う女」
「救ってない」
ニアムは即答した。
即答しすぎて、逆に軽い。
フィンが眼鏡を押し上げる。
「救ったかどうかは定義によるね。少なくとも現象は終わった」
「終わったなら、それでいいじゃん」
メイヴが笑う。
「終わったなら、パン食べていい?」
「それは別事件」
エルマが即答した。
会話はいつもの形に戻る。
戻ることが安心になる。
安心が、疑問を追い払う。
その流れの中で、ニアムがふと立ち上がった。
「水、取ってくる」
いつもなら誰かが言う。
「大丈夫?」とか、「無理しないで」とか。
言う側も言われる側も、面倒くさくても言う。
でも誰も言わなかった。
言わなかったことに、誰も気づかなかった。
ローワンだけが、喉の奥に小さく引っかかるものを感じた。
ニアムが教室を出る。
入口の床──あの「そこ」を、迷いなく踏み越えた。
踏み越えたというより、踏み抜いた。
躊躇がない歩き方だった。
エルマがその背中を見て、何か言いかけた。
でも言葉にならないまま、唇を閉じた。
フィンはノートに何かを書きつける。
メイヴは肩をすくめて笑った。
「今日は減ってない、って言ってたし」
言ったのはメイヴ。
いつもなら、そんな言い方をしない。
言い方がどこかニアムに似ていた。
ローワンは、息を吸った。
世界が戻ったふりをしているのに、会話の形まで少しずつ変わっていく。
戻らなかったものが、じわじわ広がっている。
*
昼休み。
中庭のベンチで、紙袋やランチボックスが開かれる。サンドイッチ、スコーン、冷めたチップスの匂い。誰かが紅茶をすすって、誰かがコーラをこぼす。
いつも通りの、どうでもいい昼。
そのはずだった。
ニアムがいつもより大きめに笑った。
メイヴの冗談に、笑う。
フィンの理屈に、笑う。
エルマの「パン基準」に、笑う。
笑い方が、軽い。
軽いのが悪いわけじゃない。
でも。
軽すぎる。
ローワンは、ニアムの笑い声の「前」を探す。
いつもならそこにある、ためらいの影。
笑っていいのか、今笑うべきか、という微かなブレーキ。
それが、ない。
ニアムは突然、話題を切り替えた。
「……さっき、階段のとこ、みんな避けてた」
エルマがフォークの動きを止めた。
「見た?」
「見た」
「見ない方がよかったやつじゃない?」
「そうかも。でも、見た」
言い方が、昨日の歌のあとと同じだった。
確定させる言い方。
見てしまったものを、見なかったことにできない言い方。
フィンが静かに言う。
「観測、だね」
ニアムはその言葉に反応しなかった。
反応しないのが、妙に怖い。
メイヴが笑って流そうとする。
「まあまあ。避けるのって礼儀かもよ。ほら、見えない柱とかさ」
「礼儀って何に対して」
エルマが言って、口を閉じる。
言葉が引っかかるのを、自分で止めたみたいに。
ローワンは、ベンチの脚の影を見た。
影の形が一瞬、揺れた気がした。
霧が薄いのに、影だけが濃い。
森の方向から、誰かが見ている感覚がある。
精霊の音が、遠くでチチチッと鳴った。
『記録済』
耳元じゃない。
背中の少し後ろ。
空気の向こう側から落ちてくる言葉。
誰が記録するのか。
何を記録するのか。
ローワンは、答えを求めなかった。
答えを求める行為が、すでに「触れる」ことになると知っている。
*
放課後。
生徒は昨日の騒ぎを忘れたふりで帰っていく。教師は安心したふりで職員室に戻る。
校舎は平和だった。
平和なほど、気持ち悪い。
エルマたちが先に外へ出て、ローワンは少し遅れて廊下を歩いた。
例の「そこ」で、足が止まる。
何もない。
なのに、空間だけが一段だけ冷たい。
触れたら、指先の感覚が一つ消えそうな場所。
ローワンは手を伸ばしかけた。
──触るな。
昨日は精霊が言った。
今日は言わない。
言わないのが、いちばん怖い。
ローワンは指先を引っ込めた。
触れなかった。
触れなかったことが、選択になる日が増えている。
背後から足音。
「ローワン?」
エルマだった。
追いついてきた息が少しだけ荒い。
走っていないのに荒いのは、たぶん心が走っているからだ。
「……さっき、止まってた」
「うん」
「触るつもりだった?」
「わからない」
わからない、は嘘じゃない。
昨日までなら「やめたほうがいい」が先に来て、手は伸びなかった。
でも今は、伸びる。伸びてしまう。
それをローワンは、自分のこととして嫌悪した。
エルマが笑って誤魔化そうとする。
「ほら、何もないし。帰ろ」
何もないと言うと安心する。
安心するために言う。
言いながら、彼女もまた半歩避けた。
何もないはずの場所を。
ローワンは、視線を落とした。
床の石目の隙間に、小さな欠けがある。昨日より少しだけ深い。
誰も見ない欠け。
誰も触れない欠け。
ローワンはその欠けを、記憶に刻んだ。
説明できないものを、説明しようとせずに。
ただ、忘れないために。
「助かったんだよね」
エルマが言う。
自分に言い聞かせる声だった。
ローワンは返事をしない。
返事をすると、どちらかが確定する。
助かったのか。
助かったふりをしただけなのか。
校門を出ると、霧が薄く流れていた。
森はいつも通り、黒い影としてそこにある。
訂正しない。
今日も訂正しない。
だから、ローワンは思う。
森は「何が起きたか」よりも、「何をしなかったか」を数えている。
触れなかった。
止めなかった。
言わなかった。
──戻ったもの、戻らなかったもの。
その境目だけが、今日の現実だった。
ローワンは歩き出す。
振り返らない。
振り返ったら、そこに「あった」ことになってしまう気がしたから。
それでも、記憶だけは置いていく。
ここに。
なかったはずの場所に。




