表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
モーンの森の事件録━━ケルトの森で  作者: 宮生さん太


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/20

減らなかったもの 後編 /戻ったもの・戻らなかったもの


 翌朝、学校はいつも通りの顔をしていた。


 チャイムは鳴る。廊下は軋む。誰かが扉を乱暴に閉めて、ミセス・ブラウンが遠くで「廊下は歩きなさい!」と叫ぶ。

 ──世界は、ちゃんと音を返してくる。


 昨日までの「変な静けさ」が嘘みたいに、些細な生活音がやけに多い。

 コップを置く音、椅子が擦れる音、ページをめくる音。

 それらが、わざとらしいほどに「戻った」と主張していた。


 ローワンはそれを眺めながら、ひとつだけ確認する。


 誰も、昨日のことを深追いしない。


 「原因不明の一時的な現象。被害なし」

 報告書に書かれたその一文が、校舎中に薄い膜を貼ったみたいに。

 面倒ごとを避ける膜。考えないための膜。


 ──助かった。で終わるやつ。


 終わってはいない、と言いたい気持ちはあった。

 でも、言うための言葉が足りない。

 足りないのは言葉だけじゃない、とローワンは思う。


 教室の入口の床。

 朝、エルマとメイヴが半歩避けた場所。

 今朝も、誰かが同じように「そこ」を跨いで入ってきた。


 自然すぎて、誰も気づかない。


 ローワンは、黒板ではなく床を見た。


 何もない。

 なのに、そこだけ空気が一瞬遅れる。

 視線がそこを避ける。足先がわずかに避ける。


 ──戻っていない。


 誰も「戻っていない」と言わないだけで。


 *


 ホームルーム。ミスター・ハートが出席を取る声はいつも通り、少しだけ面倒くさそうで、少しだけ優しい。


「ローワン」


 返事をしなくても、先生は続けた。

 それで成立する空気が、この町にはある。


 エルマはノートの端をいじりながら、何度も入口の床に視線を送っていた。気にしているのに、気にしていないふりをしている。

 メイヴはあくびを噛み殺して、面白がる準備だけはしている。

 フィンはすでに「境界」という単語を頭の中で組み立てている顔だった。


 ニアムは──


 ニアムは、いつもより背筋が伸びていた。

 マフラーに触れないようにしている癖は変わらないのに、目の焦点だけが少し違う。


 減っている。


 ローワンは、そう思った。

 何が、とは言えない。

 けれど「同じじゃない」ことだけは見える。


 先生がチョークで黒板に線を引く。

 粉が落ちる。生徒が笑う。

 全部、普通。


 普通なのに、ローワンは確信する。


 昨日の歌で、終わったものと、終わらなかったものがある。


 終わったのは現象。

 終わっていないのは──人の中身。


 *


 休み時間。

 エルマがニアムの机に寄って、言いにくそうに笑った。


「……今日、平気?」


 ニアムは「平気」という言葉を少し、口の中で転がしてから頷いた。


「平気」


 返事は簡潔だった。

 でも、いつもの「嫌そうな間」がない。


 メイヴが軽口を挟む。


「昨日、英雄だよ。歌って世界を救う女」


「救ってない」


 ニアムは即答した。

 即答しすぎて、逆に軽い。


 フィンが眼鏡を押し上げる。


「救ったかどうかは定義によるね。少なくとも現象は終わった」


「終わったなら、それでいいじゃん」


 メイヴが笑う。


「終わったなら、パン食べていい?」


「それは別事件」


 エルマが即答した。


 会話はいつもの形に戻る。

 戻ることが安心になる。

 安心が、疑問を追い払う。


 その流れの中で、ニアムがふと立ち上がった。


「水、取ってくる」


 いつもなら誰かが言う。

 「大丈夫?」とか、「無理しないで」とか。

 言う側も言われる側も、面倒くさくても言う。


 でも誰も言わなかった。


 言わなかったことに、誰も気づかなかった。


 ローワンだけが、喉の奥に小さく引っかかるものを感じた。


 ニアムが教室を出る。

 入口の床──あの「そこ」を、迷いなく踏み越えた。


 踏み越えたというより、踏み抜いた。

 躊躇がない歩き方だった。


 エルマがその背中を見て、何か言いかけた。

 でも言葉にならないまま、唇を閉じた。


 フィンはノートに何かを書きつける。

 メイヴは肩をすくめて笑った。


「今日は減ってない、って言ってたし」


 言ったのはメイヴ。

 いつもなら、そんな言い方をしない。

 言い方がどこかニアムに似ていた。


 ローワンは、息を吸った。

 世界が戻ったふりをしているのに、会話の形まで少しずつ変わっていく。


 戻らなかったものが、じわじわ広がっている。


 *


 昼休み。

 中庭のベンチで、紙袋やランチボックスが開かれる。サンドイッチ、スコーン、冷めたチップスの匂い。誰かが紅茶をすすって、誰かがコーラをこぼす。


 いつも通りの、どうでもいい昼。


 そのはずだった。


 ニアムがいつもより大きめに笑った。

 メイヴの冗談に、笑う。

 フィンの理屈に、笑う。

 エルマの「パン基準」に、笑う。


 笑い方が、軽い。

 軽いのが悪いわけじゃない。


 でも。


 軽すぎる。


 ローワンは、ニアムの笑い声の「前」を探す。

 いつもならそこにある、ためらいの影。

 笑っていいのか、今笑うべきか、という微かなブレーキ。


 それが、ない。


 ニアムは突然、話題を切り替えた。


「……さっき、階段のとこ、みんな避けてた」


 エルマがフォークの動きを止めた。


「見た?」


「見た」


「見ない方がよかったやつじゃない?」


「そうかも。でも、見た」


 言い方が、昨日の歌のあとと同じだった。

 確定させる言い方。

 見てしまったものを、見なかったことにできない言い方。


 フィンが静かに言う。


「観測、だね」


 ニアムはその言葉に反応しなかった。

 反応しないのが、妙に怖い。


 メイヴが笑って流そうとする。


「まあまあ。避けるのって礼儀かもよ。ほら、見えない柱とかさ」


「礼儀って何に対して」


 エルマが言って、口を閉じる。

 言葉が引っかかるのを、自分で止めたみたいに。


 ローワンは、ベンチの脚の影を見た。

 影の形が一瞬、揺れた気がした。


 霧が薄いのに、影だけが濃い。

 森の方向から、誰かが見ている感覚がある。


 精霊の音が、遠くでチチチッと鳴った。


『記録済』


 耳元じゃない。

 背中の少し後ろ。

 空気の向こう側から落ちてくる言葉。


 誰が記録するのか。

 何を記録するのか。


 ローワンは、答えを求めなかった。

 答えを求める行為が、すでに「触れる」ことになると知っている。


 *


 放課後。

 生徒は昨日の騒ぎを忘れたふりで帰っていく。教師は安心したふりで職員室に戻る。


 校舎は平和だった。

 平和なほど、気持ち悪い。


 エルマたちが先に外へ出て、ローワンは少し遅れて廊下を歩いた。

 例の「そこ」で、足が止まる。


 何もない。

 なのに、空間だけが一段だけ冷たい。

 触れたら、指先の感覚が一つ消えそうな場所。


 ローワンは手を伸ばしかけた。


 ──触るな。


 昨日は精霊が言った。

 今日は言わない。


 言わないのが、いちばん怖い。


 ローワンは指先を引っ込めた。

 触れなかった。


 触れなかったことが、選択になる日が増えている。


 背後から足音。


「ローワン?」


 エルマだった。

 追いついてきた息が少しだけ荒い。

 走っていないのに荒いのは、たぶん心が走っているからだ。


「……さっき、止まってた」


「うん」


「触るつもりだった?」


「わからない」


 わからない、は嘘じゃない。

 昨日までなら「やめたほうがいい」が先に来て、手は伸びなかった。

 でも今は、伸びる。伸びてしまう。


 それをローワンは、自分のこととして嫌悪した。


 エルマが笑って誤魔化そうとする。


「ほら、何もないし。帰ろ」


 何もないと言うと安心する。

 安心するために言う。

 言いながら、彼女もまた半歩避けた。


 何もないはずの場所を。


 ローワンは、視線を落とした。

 床の石目の隙間に、小さな欠けがある。昨日より少しだけ深い。


 誰も見ない欠け。

 誰も触れない欠け。


 ローワンはその欠けを、記憶に刻んだ。

 説明できないものを、説明しようとせずに。

 ただ、忘れないために。


「助かったんだよね」


 エルマが言う。

 自分に言い聞かせる声だった。


 ローワンは返事をしない。

 返事をすると、どちらかが確定する。


 助かったのか。

 助かったふりをしただけなのか。


 校門を出ると、霧が薄く流れていた。

 森はいつも通り、黒い影としてそこにある。


 訂正しない。

 今日も訂正しない。


 だから、ローワンは思う。


 森は「何が起きたか」よりも、「何をしなかったか」を数えている。


 触れなかった。

 止めなかった。

 言わなかった。


 ──戻ったもの、戻らなかったもの。


 その境目だけが、今日の現実だった。


 ローワンは歩き出す。

 振り返らない。


 振り返ったら、そこに「あった」ことになってしまう気がしたから。


 それでも、記憶だけは置いていく。


 ここに。

 なかったはずの場所に。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ