減らなかったもの 中編 /歌った瞬間
歌う前に、ニアムは必ず息を数える。
一、二、三。
四で吸って、五で止めて、六で吐く。
意味があるのかは、正直わからない。
昔、誰かに教わったわけでもない。
楽譜に書いてあるわけでも、学校で習ったわけでもない。
ただ、最初に歌った日から、そうしてきた。
数えないと、始められない。
数えると、まだ引き返せる気がする。
今日は、その「引き返せる気がする」感覚が、やけに軽かった。
以前にも、軽い現象はあった。
歌わなくても済んだ日も、短く歌って終わった日も。
そのあと、必ず小さな違いが残った。
授業中、発言する前にちょっとだけ遅れたり。
帰り道、角を曲がる前に立ち止まったり。
笑う直前に、「今笑っていいのかな」と思ったり。
些細すぎて、誰にも気づかれない違い。
でもニアム自身は、それを「減った」とは呼ばなかった。
──残っている、と感じていたからだ。
怖さでも、躊躇でもない。
その前にある、もっと曖昧な何か。
やめておこう、考えてみよう、という余白。
今日は、その余白が最初から少ない。
歌う前なのに、もう終わったみたいな気分になる。
引き返せる感じが、うまく想像できない。
それが、少しだけ楽だった。
楽であることが、怖いと感じる前に。
少ない、というより──
最初から用意されていないみたいだった。
*
現象は、校舎の北側に集中していた。
風が通らないはずの廊下で、空気だけが逆流している。
声を出すと、返ってくるまでに、ほんのわずかな遅れがある。
足音が、床に落ちる前に消える。
大きな異変ではない。
誰かが悲鳴を上げるほどでもない。
「気にしなければ済む」範囲の、いつものやつ。
「……歌うやつ?」
エルマが、いつもの調子で聞いてくる。
軽い声だ。
冗談めいていて、でも逃げ道を残している声。
ニアムには、その軽さがありがたかった。
「たぶん」
そう答えながら、喉に触れないようにする。
触れると、思い出してしまうからだ。
──歌うと、減る。
それを、はっきり知っているのは、ニアムだけだった。
減るのは、力じゃない。
体力でも、声でも、寿命でもない。
もっと曖昧で、もっと人間的で。
名前をつけにくいもの。
だから誰にも説明できないし、説明しようとすると、たぶん減るものが増える。
「今回、そんなに重くなさそうだよね」
フィンが、周囲を観察しながら言った。
理論を確認する目だ。
いつも通り、「歌えば終わる」現象として見ている。
「境界も、崩れてない」
「安定型だね」
メイヴが肩をすくめる。
彼女はいつも、終わった後の話を先にする。
ローワンは、何も言わなかった。
ただ、床の一点をじっと見つめている。
ニアムは、その視線から目を逸らした。
見られると、減るものが増えそうな気がした。
*
歌う前に、ニアムは少しだけ考える。
今回、減ってもいいものは何だろう。
怖さ。
迷い。
立ち止まる理由。
どれも、できれば残しておきたい。
でも、全部は無理だと、もう知っている。
歌うたびに、何かは必ず引き抜かれる。
選べない。
拒否もできない。
だから歌う前は、いつも少しだけ祈る。
どうか今日、減るのが、今の自分にとって致命的じゃありませんように。
「……大丈夫?」
エルマの声。
心配している声。
信じている声。
ニアムは、うなずいた。
うなずくくらいなら、まだ減らない。
笑っても、まだ大丈夫。
でも──
歌うと、減る。
一、二、三。
四で吸って、五で止めて、六で吐く。
空気が、重い。
終わっていない現象の重さだ。
歌声は、最初は小さい。
言葉にならない音。
旋律だけの、細い線。
それでも、空気が応える。
揺れる。
戻ろうとする。
ニアムは思う。
──今回は、ちゃんと終わる。
誰も泣かない。
誰も減らない。
そういう終わり方だ。
音が伸びる。
世界が、少しだけ静かになる。
音が伸びるにつれて、空気が応答を変える。
最初は、揺れる。
次に、整う。
最後に──静かすぎる場所ができる。
ニアムの内側にも、同じ順番が来た。
緊張がほどけ、集中が続き、その先で考えが減っていく。
「続けていいのか」を考える場所が、先に消えた。
止めたい、とは思わない。
続けたい、とも思わない。
ただ、歌っている。
歌っている、という事実だけが残る。
止める理由が思いつかないのではなく。
止めるという選択肢が、最初から用意されていない感じ。
それが異常だと気づく判断も、もう遅れている。
音は、優しい。
優しすぎて、判断を撫でて消していく。
──ここまで来たら、終わる。
終わる、という考えだけが残った。
その瞬間。
胸の奥で、何かが切れた。
痛みはない。
衝撃もない。
ただ、判断が一つ消えた。
「やめたほうがいいかもしれない」
その感覚。
それが、すっと抜け落ちた。
歌は、続く。
続いてしまう。
止める理由が、なくなったから。
*
現象は、終わった。
空気が戻る。
音が揃う。
廊下の奥で、誰かが息を吐く。
「……終わった?」
誰かが言う。
ニアムは、うなずいた。
うなずくことは、まだできる。
エルマが肩の力を抜く。
フィンが頷く。
メイヴが軽口を叩く。
「今回は早かったね」
「安定してた」
「成功だ」
その言葉を聞いたとき、ニアムは安心した。
──成功した。
その認識が、すんなり入ってきた。
不思議なくらい、引っかからない。
胸の奥にあったはずの「本当にこれでよかったのか」という感覚が、見当たらない。
探そうとしても、「探す必要がある」という判断すら浮かばない。
ローワンだけが、ニアムを見ていた。
視線が、少しだけ遅い。
ニアムは、その意味を考えようとして──やめた。
やめたほうがいい、という判断が、もうないから。
*
その後の時間は、平穏だった。
午後の授業で、先生が質問を投げた。
「わかる人?」
ニアムは、手を挙げた。
自分でも少し驚くほど、迷いがなかった。
以前なら、正解かどうかより先に、「今、手を挙げるべきか」を考えたはずなのに。
答えは合っていた。
先生は頷き、クラスも流した。
それだけの出来事。
なのに、胸の奥がやけに静かだった。
失敗していない。
成功している。
それなのに、引っかかる感じがない。
放課後、廊下で誰かがぶつかりそうになった。
「ごめん」
反射的に言葉が出る。
相手も「いいよ」と言う。
以前なら、その一瞬のあとで、「今の言い方、大丈夫だったかな」と思ったはずだ。
今日は、思わなかった。
必要がない、と感じた。
その感覚が自然すぎて、自然すぎること自体に、疑問が浮かばない。
歌えばいい。
歌って終わらせればいい。
その考えが、生活の底に静かに沈んでいった。
授業は再開され、生徒たちはすぐに日常へ戻った。
「今回、楽勝だったね」
「前より安定してる気がする」
誰も疑問を持たない。
ニアムも、疑問を持たなかった。
持てなかった。
放課後、楽譜を整理しているとき、ふと手が止まる。
何かを、確かめ忘れている気がした。
でも、それが何かはわからない。
わからないまま、ページを閉じる。
不安はない。
焦りもない。
ただ、以前なら必ずあったはずの「一度立ち止まる感じ」が、ない。
歌えばいい。
歌えるなら、歌う。
それで終わる。
その考えが、あまりにも自然だった。
*
後日、報告書にはこう記された。
原因不明の現象。
ニアムの歌唱により解決。
被害なし。
『誤差範囲内』
──次回も同様の処理が可能。
誰も異議を唱えなかった。
観測者は『解決』と記録した。
ニアム自身も、それを否定しなかった。
否定する理由が、もうなかったから。
歌は、成功した。
成功したはずだった。
ただ一つだけ。
ニアムは、「次に歌うこと」を少しも怖がらなくなっている自分に、まだ気づいていなかった。




