減らなかったもの 前編
その朝、エルマは「何も起きていない」ことに、ほんの少しだけ引っかかった。
校門の前の石畳は乾いている。霧も薄い。空気は冷たいが、刺さるほどじゃない。
いつも通りの朝だ。
いつも通りすぎて、逆に拍子抜けする。
「……平和?」
独り言みたいに呟くと、背後から靴音が近づいてきた。
「平和って言うと壊れるやつじゃない?」
メイヴだった。スカーフを首に巻き直しながら、欠伸をひとつ噛み殺す。
「昨日も平和って言ってた?」
「言ってない。昨日はまあまあ」
「じゃあ今日はまあまあ以下?」
「なんで基準が下がるの」
「この町だから」
それで納得できてしまうのが、少し悔しい。
二人で校門をくぐる。
足元に、何かを避ける必要はない。
半歩ずれることも、立ち止まることもない。
──ちゃんと、触れている。
エルマはそれを、無意識に確認していた。
触れている、という感覚は、この町では案外あてにならない。
それでもエルマは、今日は「ちゃんと触れている」と思えた。
校門の鉄柵は冷たく、指先が少しだけ痺れる。
石畳の凹凸は、靴底越しでもわかる。
誰かの肩にぶつかれば、ちゃんと謝る声が返ってくる。
そういう当たり前の感触が、今日は途切れない。
──触れたのに、何も起きない。
それが確認できるだけで、胸の奥が少し緩んだ。
最近は、「触れたかどうか」よりも、「触れていいのか」を考える時間のほうが長かったからだ。
触れたら減る。
触れたら、何かがずれる。
触れたら、あとで説明できないことになる。
そういう日が続くと、触れられるだけで、ほっとしてしまう。
今日がそういう日であることを、エルマは少しだけ願っていた。
願うくらいなら、まだ大丈夫だ。
願いが叶うかどうかを、深く考えなくて済むうちは。
*
校舎に入ると、音がちゃんとある。
靴底が床を叩く音。
扉が軋む音。
誰かが椅子を引きずって、すぐにミセス・ブラウンに怒鳴られる声。
「廊下は歩きなさい!」
「歩いてます!」
「音がうるさい!」
「理不尽!」
いつもの朝だ。
エルマは安心して、教室へ向かった。
安心していることに、少しだけ警戒しながら。
フィンはすでに席にいて、ノートを開いている。
ローワンは窓際に立ち、外を見ている。
ニアムはマフラーを首にかけたまま、机に突っ伏していた。
「おはよ」
声をかけると、ニアムが顔を上げる。
「……おはよ」
声は普通だ。
掠れてもいないし、重たくもない。
「今日は歌うやつ?」
エルマが軽く聞くと、ニアムは眉を寄せる。
「何も起きてないのに?」
「一応確認」
「今のところ、歌わなくていい」
「そっか」
そのやり取りを、フィンが聞き取っていた。
「現象は未発生、ってことでいい?」
「未発生」
「境界も安定してる」
「朝から境界って言うのやめて」
メイヴが席に座りながら言った。
「普通でいいじゃん、普通で」
普通。
その言葉が、エルマの中で小さく尖る。
普通すぎるのが、この町ではたまに一番怖い。
*
一時間目が始まる直前、教室の後ろで小さな騒ぎが起きた。
「え?」
「ちょっと待って」
「今の見た?」
振り向くと、一年生の女子が、机の脚を指差して固まっている。
「消え……てない?」
「何が」
「消えてないけど……増えてない」
「は?」
意味がわからない、という顔。
ミスター・ハートが溜息混じりに歩み寄る。
「どうした」
「机の脚が……」
先生は机を見る。
脚は四本ある。
減っていない。壊れてもいない。
「……何も問題ないようだが」
「ですよね」
一年生は首を傾げながら席に戻った。
「気のせいか」
「気のせいだね」
教室はそのまま授業に戻る。
でもエルマは、机の脚をもう一度見た。
確かに四本ある。
最初から四本だった。
なのに、「増えていない」という感覚だけが、変に残る。
ローワンが、後ろからぽつりと言った。
「……増えない」
「何が」
「何も」
答えになっていない。
でもローワンは、それ以上何も言わなかった。
判断しない、というより、保留している顔だった。
*
午前中、似たようなことが何度か起きた。
似たような違和感は、授業の合間にも顔を出した。
チャイムが鳴る前に、皆が自然と立ち上がったり。
ノートを閉じるタイミングが、なぜか揃ったり。
教師が注意するより先に、ざわめきが収まったり。
誰かが指示したわけじゃない。
決まりが増えたわけでもない。
ただ、「そうするものだ」と全員が同時に思ったみたいだった。
それを不気味だと感じる前に、便利だと思ってしまうのが、この町の悪い癖だ。
「今日は静かだね」
「集中できる」
そんな声が上がるたび、エルマは心の中で数を数えた。
一、問題なし。
二、支障なし。
三、被害なし。
減っていない。
壊れていない。
誰も困っていない。
だからこれは、
現象と呼ぶほどのものじゃない。
そう判断してしまえるくらいには、日常の形を保っていた。
黒板の文字が「消えない」。
ドアの取っ手が「外れない」。
階段の段数が「合っている」。
全部、問題はない。
全部、当たり前。
なのに誰かが毎回、「あれ?」と首を傾げる。
「減ってないよね」
「減ってない」
「じゃあいいか」
その会話が、何度も繰り返される。
減っていない。
でも、増えてもいない。
エルマは昼休みに、フィンに聞いた。
「これって、何か起きてる?」
フィンはサンドイッチを半分に割りながら答える。
「起きてると言えば、起きてる」
「どっち」
「未満だね」
「何の」
「現象の」
説明になっていない。
「でも」
フィンは続けた。
「対処はできてる」
「何もしてないけど」
「触れてる」
エルマは手元を見る。
紙袋を開け、パンを持ち、かじる。
ちゃんと触れている。
食べている。
パンは消えない。
「……ほんとだ」
メイヴが笑った。
「今日は平和だね」
今度は、エルマは否定しなかった。
*
放課後。
五人は校舎裏に集まっていた。
習慣みたいなものだ。
「一応確認しとく?」
エルマが言う。
「歌は?」
ニアムが首を振る。
「今日は必要ない」
「減らない?」
「減らない」
ローワンは、地面を見ていた。
石の割れ目。
苔。
蟻の行列。
すべて、いつも通りだ。
「判断は?」
エルマが聞くと、ローワンは少し考えてから答えた。
「……しない」
「しない?」
「する理由がない」
それは、正しい。
今のところは。
風が吹く。
木が鳴る。
遠くで誰かが笑う。
町は、ちゃんと動いている。
何も減っていない。
でも、何も増えていない。
それで済ませていい日だ、と全員が思った。
エルマは、その「全員」に自分も含めていいのか、ほんの一瞬だけ迷った。
迷った、というより──迷おうとした。
でも、その考えはすぐに消える。
疑問を続ける理由が、今日は見つからない。
疑わなくていい。
立ち止まらなくていい。
そういう空気が、穏やかに流れている。
それは安心だった。
安心すぎて、引っかかる場所が見当たらない。
引っかからないこと自体が、少しだけ、引っかかった。
エルマも、そう思った。
エルマはそのとき、
なぜか「見られていない」気がしていた。
理由はない。
確信もない。
ただ、今日は何かに数えられている感じがしなかった。
それが正しいのかどうか、考える必要もないくらいには、安心してしまっていた。
だからこの日は、「減らなかった日」として、記憶に残った。
──あとから振り返ると、それがいちばん危ない種類の日だったとわかるのだけれど。
今は、まだ誰も気づいていない。




