表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

なかったはずのものに、誰も触れなかった


 その朝、エルマは最初に「変だ」と思ったのに、すぐに自分を黙らせた。


 校門の前の石畳が、いつもより濡れて見えたからだ。雨が降ったわけでもない。霧が濃いわけでもない。ただ、濡れているように見える。


 ──見えるだけ。


 そういう日は、この町にはある。


「おはよ」


 背後から、メイヴが軽い声で追いついてきた。スカーフを首に巻き直しながら、あくびを噛み殺している。


「今日、平和?」


「平和だといいね」


「平和って言ったら負けるやつ?」


「パン事件で学んだ」


「学びがパン基準なの、人生が軽い」


「軽くないとやってられない日もある」


 メイヴは笑って、校門をくぐった。


 その瞬間、二人とも同じ動きをした。


 ──半歩、避ける。


 そこに何があったのか、エルマは説明できない。いや、説明したくない。説明すると「ある」ことになってしまう気がした。


「今、避けた?」


 エルマが聞くと、メイヴは肩をすくめる。


「避けたね。なんか…ほら。ほら、あるじゃん」


「ほらって何」


「ほらはほらだよ。言葉にすると負ける」


「それもパン事件で学んだの?」


「これは人生」


 エルマは眉をひそめたまま、校舎へ入った。


 廊下は、昨日と同じくらい賑やかだった。足音も戻っている。扉は軋み、椅子は引きずられ、誰かの笑い声が天井に跳ね返る。


 ──全部、普通。


 それなのに。


 誰もが、ある一点を避けて歩いている。


 まるで、そこに何かがあるみたいに。


 *


 教室では、ミスター・ハートがいつもの調子で出席を取っていた。


「エルマ」


「はい」


「フィン」


「います」


「メイヴ」


「眠いけどいます」


「ニアム」


 窓際の席で、ニアムが小さく手を挙げた。マフラーの端を指でいじりながら、喉に触れないようにしている。


「……今日は、減ってない」


 ぽつりと言ってから、自分で口を閉じた。


「何が?」


 エルマが聞くと、ニアムは首を振る。


「言うと減りそうだから」


「その理屈、怖い」


「減るのは、もっと怖い」


 ローワンは返事をしなかった。いつも通りだ。ただ、窓の外ではなく、教室の入口の床を見ていた。


 ミスター・ハートが黒板にチョークを当てた。


 ──キィ。


 普通に音が鳴る。普通に粉が落ちる。普通に授業が始まる。


 なのに、エルマの視界の端で、生徒がまた避けた。


 教室に入ってくる一年生が、扉のところで一瞬よろけたあと、何もないはずの場所を跨いで席へ向かっていく。


 自然すぎる動作。


 自然すぎて、誰も突っ込まない。


 エルマの耳元で、精霊が鳴いた。


 ──チチチッ。


『触るな』

『触らない』

『正しい』


「……何が正しいの」


『触れない』

『記録』


 精霊の返事は、今日も端的だった。


「ねえ、フィン」


 休み時間に、エルマはフィンの机に身を寄せた。


「みんな、何か避けてない?」


 フィンは眼鏡を押し上げ、少しだけ考えた。


「避けてるね」


「何を?」


「……そこにあるはずのもの」


「あるはずのものって何!」


「それがわからないのが問題」


 メイヴが横から顔を出した。


「わかるよ」


「わかるの?」


「あるはずって感覚がわかる。物じゃないかもしれないけど」


「最悪の答え方」


 ニアムが小声で言った。


「歌うやつ?」


「歌わない!」


 エルマは即答した。昨日の続きを、今日もう一回やる気はない。


 ローワンが、机の端に指を置いたまま言った。


「……誰も触らない」


「だから何に」


 ローワンは少しだけ首を傾ける。


「触れないって、決めてるみたいだ」


 言い方が嫌だった。誰が決めたのか、が抜けている。


 *


 昼休み。中庭へ向かう廊下が、妙に渋滞していた。


 生徒が、二列で進んでいる。

 しかも、同じ場所で必ず半歩右へ寄る。


 まるで、そこに見えない柱でも立っているみたいに。


「これ…全校でやってるの?」


 エルマが呟く。


「やってるね」


 メイヴが笑いをこらえる。


「面白すぎない? 誰も説明できないのに、全員で同じことしてる」


「集団催眠?」


「集団礼儀」


「礼儀って何に対して」


 そこへ、ミセス・ブラウンが廊下の向こうから現れた。


 生活指導担当の歩き方は、いつも音で脅す系だ。なのに今日は、音を立てているのに、存在感がさらに増している。


「そこ! 詰まらない!」


 ミセス・ブラウンが叫ぶ。


「廊下は右側通行!」


「右側に寄ってます!」


「寄りすぎ!」


 生徒が慌てて動くが、結局同じ地点で、全員が同じように半歩避ける。


 ミセス・ブラウンも、避けた。


 しかも、ものすごく自然に。


 本人だけが、一瞬遅れて固まった。


「……今、私、避けた?」


 沈黙が落ちた。


 誰も答えない。

 答えると「ある」ことになってしまう。


 ミセス・ブラウンは唇を引き結んで、いつもの結論に逃げた。


「よし! 原因不明のときは、規則で締める!」


「締まるのそれ!?」


 メイヴが吹き出した。


「本日、廊下のその辺は立入禁止です!」


「その辺ってどの辺ですか!」


「その辺はその辺です!」


 先生がその辺を指差した指先は、空中で止まった。

 まるで触れてはいけないラインでもあるみたいに。


『正しい』

『触るな』


 精霊が満足そうに鳴く。


「精霊、先生を味方につけるな!」


 *


 中庭のベンチで、五人は弁当を広げた。

 パンを見た瞬間、全員がエルマを見たのは言うまでもない。


「見ないで」


「パンがトラウマ」


「パンは生活」


「音は文化」


「張り合うなって」


 エルマは紙袋を開け、いつものように一口食べた。

 普通の味だ。普通の昼だ。普通に笑える。


 だから余計に。


 みんなが、同じ方向を見ないようにしているのが気になった。


 中庭の端。

 校舎の壁際。


 そこに本来は、何があったんだろう。


 ──花壇? 掲示板? 像?


 エルマが視線を向けかけると、メイヴがフォークで小さく机を叩いた。


「やめときな」


「何を」


「見たら『そこにあった』ことになる」


「なにそれ」


 フィンが淡々と補足する。


「観測だね」


「またそれ」


「見るだけじゃない。確定する行為」


 ニアムが喉に指を当てないまま言った。


「確定させると…歌うことになる」


「どういう因果」


「そういう因果」


 ローワンが床に落ちたスコーンのくずを指で拾って、じっと見た。


「……昨日は、音が消えた」


「うん」


「今日は、違う」


「違うって何が」


 ローワンは少しだけ眉を寄せる。


「なかったことが増えてる」


 エルマは背中が冷えた。


 なかったこと。


 つまり、存在の穴。


 ローワンは続けなかった。その代わり、ぽつりと一つだけ言った。


「……触れないのは、優しさじゃない」


 言葉が、喉の奥に引っかかった。


 *


 放課後。


 校舎の出口で、また全員が半歩避けた。

 朝よりも自然で、昼よりも確信がある避け方だった。


 ミスター・ハートが、職員室から顔を出す。


「今日は妙に通行が整然としているな」


「整然って言う?」


 エルマが言うと、先生は真面目に頷いた。


「混乱しているときほど、人は整然としたがる」


「哲学やめて」


「現実だ」


 先生は廊下のその辺を見て、言いかけて止まった。


「……そこは、気をつけてな」


「そこってどこですか」


「そこだよ」


 先生は、説明を諦めた顔をした。


 五人が校門へ向かう途中、ローワンだけが最後尾で足を止めた。


 エルマも止まった。


「ローワン?」


 ローワンはそこを見ていた。


 何もない空間。

 なのに、夕方の光がそこで一度だけ歪んで見える。


 ローワンが、手を伸ばしかけた。


 ──触るな、と精霊が言った気がした。


 でも、今日は精霊が鳴かない。


 代わりに。


『記録済』


 耳元ではなく、背中の少し後ろ。

 誰かの声でもない。

 空気の向こう側から落ちてくる言葉。


 エルマは息を止めた。


「何を?」


 返事はない。

 ただ、ローワンが指先を引っ込めた。


 触れなかった。


 触れなかったことが、ここで一番大きな行為になった。


 フィンが振り返る。


「来ないの?」


 ローワンはちょっと間を置いて、首を横に振った。


「……今日は、いい」


 その言い方が、妙に重かった。


 ニアムが小さく息を吐く。


「今日は…歌わなくてよかった」


 メイヴが冗談めかして笑う。


「良かったじゃん。平和で」


 エルマは笑えなかった。

 平和なら、誰も同じ場所を避けない。


 校門を出ると、霧が少しだけ濃くなっていた。

 森はいつも通り、黒い影としてそこにある。


 訂正しない。

 今日も訂正しない。


 だからこそ、エルマは思ってしまう。


 ──森は、見ているだけじゃない。


 見なかったことさえ、数えている。


『今日』

『触れなかった』

『選ばなかった』


 精霊が、静かに鳴いた。


「ねえ、それって…」


『正しい』

『でも、増える』


「増えるって何が」


 答えはない。



 五人は歩き出す。

 笑いながら帰れる日だったはずなのに、誰も声を大きくしなかった。


 誰も減らなかった。

 誰も失わなかった。


 それ以上、確かめる理由もなかった。


 ローワンは、あの場所をもう一度は見なかった。


 それが正しいかどうかを、彼自身も確かめなかった。


 なかったはずのものに、誰も触れなかった。


 ──そうしてこの日は、何事もなく終わった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ