なかったはずのものに、誰も触れなかった
その朝、エルマは最初に「変だ」と思ったのに、すぐに自分を黙らせた。
校門の前の石畳が、いつもより濡れて見えたからだ。雨が降ったわけでもない。霧が濃いわけでもない。ただ、濡れているように見える。
──見えるだけ。
そういう日は、この町にはある。
「おはよ」
背後から、メイヴが軽い声で追いついてきた。スカーフを首に巻き直しながら、あくびを噛み殺している。
「今日、平和?」
「平和だといいね」
「平和って言ったら負けるやつ?」
「パン事件で学んだ」
「学びがパン基準なの、人生が軽い」
「軽くないとやってられない日もある」
メイヴは笑って、校門をくぐった。
その瞬間、二人とも同じ動きをした。
──半歩、避ける。
そこに何があったのか、エルマは説明できない。いや、説明したくない。説明すると「ある」ことになってしまう気がした。
「今、避けた?」
エルマが聞くと、メイヴは肩をすくめる。
「避けたね。なんか…ほら。ほら、あるじゃん」
「ほらって何」
「ほらはほらだよ。言葉にすると負ける」
「それもパン事件で学んだの?」
「これは人生」
エルマは眉をひそめたまま、校舎へ入った。
廊下は、昨日と同じくらい賑やかだった。足音も戻っている。扉は軋み、椅子は引きずられ、誰かの笑い声が天井に跳ね返る。
──全部、普通。
それなのに。
誰もが、ある一点を避けて歩いている。
まるで、そこに何かがあるみたいに。
*
教室では、ミスター・ハートがいつもの調子で出席を取っていた。
「エルマ」
「はい」
「フィン」
「います」
「メイヴ」
「眠いけどいます」
「ニアム」
窓際の席で、ニアムが小さく手を挙げた。マフラーの端を指でいじりながら、喉に触れないようにしている。
「……今日は、減ってない」
ぽつりと言ってから、自分で口を閉じた。
「何が?」
エルマが聞くと、ニアムは首を振る。
「言うと減りそうだから」
「その理屈、怖い」
「減るのは、もっと怖い」
ローワンは返事をしなかった。いつも通りだ。ただ、窓の外ではなく、教室の入口の床を見ていた。
ミスター・ハートが黒板にチョークを当てた。
──キィ。
普通に音が鳴る。普通に粉が落ちる。普通に授業が始まる。
なのに、エルマの視界の端で、生徒がまた避けた。
教室に入ってくる一年生が、扉のところで一瞬よろけたあと、何もないはずの場所を跨いで席へ向かっていく。
自然すぎる動作。
自然すぎて、誰も突っ込まない。
エルマの耳元で、精霊が鳴いた。
──チチチッ。
『触るな』
『触らない』
『正しい』
「……何が正しいの」
『触れない』
『記録』
精霊の返事は、今日も端的だった。
「ねえ、フィン」
休み時間に、エルマはフィンの机に身を寄せた。
「みんな、何か避けてない?」
フィンは眼鏡を押し上げ、少しだけ考えた。
「避けてるね」
「何を?」
「……そこにあるはずのもの」
「あるはずのものって何!」
「それがわからないのが問題」
メイヴが横から顔を出した。
「わかるよ」
「わかるの?」
「あるはずって感覚がわかる。物じゃないかもしれないけど」
「最悪の答え方」
ニアムが小声で言った。
「歌うやつ?」
「歌わない!」
エルマは即答した。昨日の続きを、今日もう一回やる気はない。
ローワンが、机の端に指を置いたまま言った。
「……誰も触らない」
「だから何に」
ローワンは少しだけ首を傾ける。
「触れないって、決めてるみたいだ」
言い方が嫌だった。誰が決めたのか、が抜けている。
*
昼休み。中庭へ向かう廊下が、妙に渋滞していた。
生徒が、二列で進んでいる。
しかも、同じ場所で必ず半歩右へ寄る。
まるで、そこに見えない柱でも立っているみたいに。
「これ…全校でやってるの?」
エルマが呟く。
「やってるね」
メイヴが笑いをこらえる。
「面白すぎない? 誰も説明できないのに、全員で同じことしてる」
「集団催眠?」
「集団礼儀」
「礼儀って何に対して」
そこへ、ミセス・ブラウンが廊下の向こうから現れた。
生活指導担当の歩き方は、いつも音で脅す系だ。なのに今日は、音を立てているのに、存在感がさらに増している。
「そこ! 詰まらない!」
ミセス・ブラウンが叫ぶ。
「廊下は右側通行!」
「右側に寄ってます!」
「寄りすぎ!」
生徒が慌てて動くが、結局同じ地点で、全員が同じように半歩避ける。
ミセス・ブラウンも、避けた。
しかも、ものすごく自然に。
本人だけが、一瞬遅れて固まった。
「……今、私、避けた?」
沈黙が落ちた。
誰も答えない。
答えると「ある」ことになってしまう。
ミセス・ブラウンは唇を引き結んで、いつもの結論に逃げた。
「よし! 原因不明のときは、規則で締める!」
「締まるのそれ!?」
メイヴが吹き出した。
「本日、廊下のその辺は立入禁止です!」
「その辺ってどの辺ですか!」
「その辺はその辺です!」
先生がその辺を指差した指先は、空中で止まった。
まるで触れてはいけないラインでもあるみたいに。
『正しい』
『触るな』
精霊が満足そうに鳴く。
「精霊、先生を味方につけるな!」
*
中庭のベンチで、五人は弁当を広げた。
パンを見た瞬間、全員がエルマを見たのは言うまでもない。
「見ないで」
「パンがトラウマ」
「パンは生活」
「音は文化」
「張り合うなって」
エルマは紙袋を開け、いつものように一口食べた。
普通の味だ。普通の昼だ。普通に笑える。
だから余計に。
みんなが、同じ方向を見ないようにしているのが気になった。
中庭の端。
校舎の壁際。
そこに本来は、何があったんだろう。
──花壇? 掲示板? 像?
エルマが視線を向けかけると、メイヴがフォークで小さく机を叩いた。
「やめときな」
「何を」
「見たら『そこにあった』ことになる」
「なにそれ」
フィンが淡々と補足する。
「観測だね」
「またそれ」
「見るだけじゃない。確定する行為」
ニアムが喉に指を当てないまま言った。
「確定させると…歌うことになる」
「どういう因果」
「そういう因果」
ローワンが床に落ちたスコーンのくずを指で拾って、じっと見た。
「……昨日は、音が消えた」
「うん」
「今日は、違う」
「違うって何が」
ローワンは少しだけ眉を寄せる。
「なかったことが増えてる」
エルマは背中が冷えた。
なかったこと。
つまり、存在の穴。
ローワンは続けなかった。その代わり、ぽつりと一つだけ言った。
「……触れないのは、優しさじゃない」
言葉が、喉の奥に引っかかった。
*
放課後。
校舎の出口で、また全員が半歩避けた。
朝よりも自然で、昼よりも確信がある避け方だった。
ミスター・ハートが、職員室から顔を出す。
「今日は妙に通行が整然としているな」
「整然って言う?」
エルマが言うと、先生は真面目に頷いた。
「混乱しているときほど、人は整然としたがる」
「哲学やめて」
「現実だ」
先生は廊下のその辺を見て、言いかけて止まった。
「……そこは、気をつけてな」
「そこってどこですか」
「そこだよ」
先生は、説明を諦めた顔をした。
五人が校門へ向かう途中、ローワンだけが最後尾で足を止めた。
エルマも止まった。
「ローワン?」
ローワンはそこを見ていた。
何もない空間。
なのに、夕方の光がそこで一度だけ歪んで見える。
ローワンが、手を伸ばしかけた。
──触るな、と精霊が言った気がした。
でも、今日は精霊が鳴かない。
代わりに。
『記録済』
耳元ではなく、背中の少し後ろ。
誰かの声でもない。
空気の向こう側から落ちてくる言葉。
エルマは息を止めた。
「何を?」
返事はない。
ただ、ローワンが指先を引っ込めた。
触れなかった。
触れなかったことが、ここで一番大きな行為になった。
フィンが振り返る。
「来ないの?」
ローワンはちょっと間を置いて、首を横に振った。
「……今日は、いい」
その言い方が、妙に重かった。
ニアムが小さく息を吐く。
「今日は…歌わなくてよかった」
メイヴが冗談めかして笑う。
「良かったじゃん。平和で」
エルマは笑えなかった。
平和なら、誰も同じ場所を避けない。
校門を出ると、霧が少しだけ濃くなっていた。
森はいつも通り、黒い影としてそこにある。
訂正しない。
今日も訂正しない。
だからこそ、エルマは思ってしまう。
──森は、見ているだけじゃない。
見なかったことさえ、数えている。
『今日』
『触れなかった』
『選ばなかった』
精霊が、静かに鳴いた。
「ねえ、それって…」
『正しい』
『でも、増える』
「増えるって何が」
答えはない。
五人は歩き出す。
笑いながら帰れる日だったはずなのに、誰も声を大きくしなかった。
誰も減らなかった。
誰も失わなかった。
それ以上、確かめる理由もなかった。
ローワンは、あの場所をもう一度は見なかった。
それが正しいかどうかを、彼自身も確かめなかった。
なかったはずのものに、誰も触れなかった。
──そうしてこの日は、何事もなく終わった。




