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歌わなかった日


 その朝、チャイムが鳴らなかった。


 正確に言えば、鳴ってはいたらしい。

 電気系統に異常はなく、記録上も正常作動。

 ただ、誰も聞かなかった。


「……遅刻扱い、どうなりますか?」


 教室の前で、エルマが手を挙げる。


「チャイムが鳴らなかったので、理論上は──」


 ミスター・ハートは途中で言葉を切り、こめかみを押さえた。


「いや、ややこしいから全員セーフでいい」


「雑」


「柔軟と言ってほしい」


 その瞬間、後ろの席でメイヴが手を叩いた。


「先生、足音もしないよ」


「……は?」


 ハートは一歩、前に出た。

 確かに、床が鳴らない。

 石張りの廊下なのに、靴底の音が消えている。


「静かでいいだろう」


「逆に怖いです」


 ニアムが小声で言った。


「歌うやつ?」


「まだ早い」


 エルマが即答する。


 校内は、異様に静かだった。

 声は聞こえる。笑い声もある。

 だが、物が触れる音だけが抜け落ちている。


 最初は、誰も困らなかった。

 むしろ、楽しかった。


 ドアを閉めても音がしない。

 椅子を倒しても、誰も気づかない。


「授業中に消しゴム落としても、怒られない世界だ」

「最強じゃん」


 小さな悪ふざけが、次々に試される。

 注意する教師も、どこか調子が狂っていた。


「……静かにしなさい、と言っても意味がないわね」


 ミセス・ブラウンはそう言ってから、眉をひそめた。


「聞こえないって、想像以上に落ち着かないものよ」


 その言葉を、生徒は半分も聞いていなかった。

 静けさは、注意力を奪う。


 音がないだけで、世界に触れている実感が薄れていくことを、誰も言葉にできなかった。


 音が消えたせいで、校内の秩序は逆に崩れた。

 静かすぎて、みんな調子に乗った。


「聞いて、私の忍者歩きが完全体になった」


 メイヴが廊下で忍び足を披露する。披露する意味はない。音がないからだ。


「それ、元から忍んでない」


 エルマが言うと、メイヴは胸を張った。


「違うよ。忍者は忍ぶフリが大事なんだよ。見せびらかす技術」


「忍者、怒るよ」


 その横で一年生が、椅子を引きずった。

 ──無音。

 本人が一番驚いて固まる。


「え、今の……出た? 音、出た?」


「出てない」


「じゃあ俺、世界に触れてない?」


「触れてる。悲しいことに触れてる」


 さらに悪いことに、生活指導のミセス・ブラウンが聞こえないのをいいことに、無言で背後に立つ技を習得してしまった。

 生徒が振り向いた瞬間に、そこにいる。


「……」


「うわぁぁぁ!」


「静かに!」


「無理です!」


 叫び声だけは元気に響く。

 音が消えたのに、叫びは増える。理不尽だった。


「……これ、この前のパン事件より大事じゃない?」


 メイヴが言う。


「パンは生活」


「音は文化」


「張り合うな」


 フィンは床にしゃがみ、指で軽く叩いた。

 無音。


「範囲は校舎全体。境界は曖昧だね」


「また境界」


 エルマは溜息をついた。


『揃ってる』

『でも、薄い』


 耳元で精霊が鳴く。


「薄いって何」


『厚み』

『足りない』


「抽象的すぎる」


 午前中のうちに、噂は全校に広がった。


 噂は、正確さを必要としなかった。


「音が消えた」

「いや、足音だけ」

「いや、鍵も鳴らない」


 情報は漏れて、増えて、混ざる。


「じゃあ、歌えばいいんじゃないの?」

「前も歌で解決したよね」

「ニアム先輩のやつ」


 名前が出た瞬間、ニアムは一度だけ視線を伏せた。


 誰も責めていない。

 誰も強制していない。


 ただ、期待だけが揃っていく。


「別に、すぐじゃなくてもいいよ」

「昼休みとかで」

「短いやつで」


 「短い」という言葉が、どれだけ曖昧で、どれだけ重いか。


 ニアムは、喉に手を当てた。

 何も起きていないのに、そこだけが少し、冷たかった。


「音消失事件だ」

「次は何が消える?」

「パン?」

「パンはやめて」


 なぜかパン基準で語られる。


 生活指導担当のミセス・ブラウンが廊下に立ち、声を張り上げた。


「走らない! ……いや、走っても聞こえないけど!」


「説得力がない!」


 体育教師は腕を組んだ。


「音がないなら、運動に集中できるのでは?」


「無理です」


 事務員は淡々と言った。


「苦情が三件来てます。『不安』だそうです」


 不安は、音よりもよく響いた。


 昼休み。

 いつもの五人は、中庭のベンチに集まっていた。


 中庭は、音がなくても賑やかだった。

 ボールが跳ねる気配、走る勢い、笑い声の残響だけが宙に残る。


「音ないのに、疲れるね」


 メイヴがベンチに背中を預ける。


「集中し続けるからだと思う」


 フィンが言った。


「静かすぎると、人は無意識に世界を確認し続ける」


「確認って?」


「ちゃんと存在してるかどうか」


 その言葉に、エルマは空を見上げた。

 風は吹いているのに、木の葉が鳴らない。


 ──世界は、ある。

 でも、触った手応えだけが薄い。


 その違和感が、まだ誰の問題にもなっていないことが、いちばん不気味だった。


「結論から言うと」


 フィンが指を組む。


「歌えば終わる」


「だよね」


 メイヴが頷く。


「いつも通り」


 エルマも頷いた。


 全員が、ニアムを見る。


「……歌うやつ?」


「そう」


「短いのでいい」


「被害ゼロ」


「お願いします」


 視線が集まる。

 ニアムはマフラーに指をかけたまま、少し考えた。


「……今回は、まだいい気がする」


 空気が止まった。


「え?」


「どういう意味?」


「歌わないってこと?」


 ニアムは首を振る。


「歌える。でも、今じゃない」


「理由は?」


「ない」


 理由がないのに、誰も強く言えなかった。


『待て』


 精霊が、珍しく短く言った。


「……精霊まで?」


 エルマは眉をひそめる。


 その時、ローワンが立ち上がった。


 沈黙が、長くなり始めていた。


 誰も急かさない。

 でも、誰も話題を変えない。


 「歌えば終わる」という選択肢だけが、テーブルの中央に置かれたままだった。


 ニアムは、その選択肢を見なかった。

 見ないことで、均衡を保っていた。


『今じゃない』


 精霊の声は、命令ではなかった。

 忠告でも、警告でもない。


 ただの、確認だった。


 ──それでも、

 選ばれなかった選択肢は、確かにそこに残り続ける。


 ローワンは、それを見ていた。

 歌われなかった理由ではなく、歌われなかった事実そのものを。


 だから、立ち上がった。


「……終わらせる」


「歌わずに?」


 フィンが聞く。


 ローワンは頷いた。


「試す」


 誰も止めなかった。

 それが、いつもの流れだった。


 ローワンは、校舎の中央階段に向かった。

 音が消えている場所と、そうでない場所の境目。

 彼は、そこに立つ。


 何かを置くような仕草。

 何かをずらすような、ほんの一瞬の動き。


『……』


 精霊が黙る。


 数秒後。


 誰かが歩いた。


 ──コツ。


 音が戻った。


「あ」


「戻った?」


「戻ったよね?」


 校舎全体に、少しずつ音が染み戻っていく。

 扉の軋み。

 椅子を引く音。

 ざわめき。


「……終わった?」


 メイヴが言う。


「終わったね」


 エルマが答える。


 フィンだけが、ローワンを見ていた。


「今の、歌より前にやった?」


 ローワンは少し考えた。


「歌わなくても、終わるなら」


 その一言で、話は終わった。


 午後の報告書には、こう書かれた。


 ──原因不明の一時的な現象。被害なし。


 教師たちは安堵し、生徒たちはすぐに飽きた。


「つまんなかったね」

「パンの方が面白かった」


 それで終わりだった。


 放課後。

 中庭に残ったのは、五人だけ。


「……本当に、よかったのかな」


 エルマが言う。


「よかったでしょ」


 メイヴは軽い。


「誰も減ってない」


 フィンも頷く。


 ニアムは喉に手を当てた。


「今日は……減ってない」


 ローワンは何も言わず、森の方を見ていた。


『記録済』


 精霊が、静かに告げる。


「何を?」


『今日』

『判断』

『選ばなかったもの』


 霧が、少しだけ揺れた。


 だが森は、まだ訂正しない。


 この日は、何も起きなかった日として、記録された。


 ──それが、いちばんの問題だと、まだ誰も気づいていなかった。


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