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終わらなかった炉 後編


 ──終わらない火は、まだ、何も語っていない。


 語っていないのに、暖かい匂いだけが先に届く。

 家が見えるより前に、喉の奥に火の甘さが残った。


「匂いだけは、ちゃんと火だね」


 メイヴが鼻をすする。


「火って、匂いで判断するもの?」


 エルマが言うと、後ろのミセス・ブラウンが頷いた。


「火事は匂いでわかります」


「教師の自信、要らない方向で強い」


 体育教師が腕を組む。


「まずは消火器の位置を確認する」


「確認しなくていいです。火事じゃないので」


「火は火だ」


「火は火だけど、火事じゃないんです」


 言っている間にも、引率軍団の後ろで生徒がじわじわ増えている。

 見学禁止と叫んだわりに、禁止が「集合」の合図になってしまっている。


「ミセス・ブラウン、あれ」


 事務員が小声で言う。


「半学年、ついてきてます」


「見学は禁止です!」


 ミセス・ブラウンは声を張る。


 すると生徒側が張り返す。


「禁止だから見に来たんです!」


「禁止の意味わかってる!?」


「わかってるから来たんです!」


 意味がわからない。


 フィンが、エルマの耳元で淡々と言った。


「観測者が増える」


「増やしてるのは先生と生徒だよ」


 ローワンが家を見て、短く呟く。


「……薄い」


『薄い』

『境界、薄い』


 精霊まで同意する。


「今日はみんな薄いしか言わないね」


『数』

『重い』


「数が重いって何」


 精霊は答えない。

 答えないくせに、空気だけをぴんと張る。


 *


 家は、町の外れ、森に向かう道の途中にあった。

 古い石の家。低い屋根。枯れた薔薇。

 門の横に、苔むした石柱が一本。


「それ」


 フィンが石柱を指差した。


「刻まれてる」


「また刻み」


 エルマが顔をしかめる。


「この町、刻みすぎじゃない?」


「刻み文化ですか?」


 事務員が真面目に聞く。


「文化じゃありません」


 メイヴが即答した。


 ニアムが小さく息を吐く。


「意味がわかってなくても残す。残ってるから効く」


「効くって言い方やめて。薬みたい」


 ローワンは石柱の苔をじっと見た。


「……欠けてる」


「欠けてる?」


 エルマが覗き込む。


 確かに、刻みの一部が削れている。

 時間が削ったというより、抜き取られたような空白だった。


 その瞬間。


「みなさん、何を……」


 玄関の扉が開いて、若い母親が顔を出した。

 目の下に影。眠れていない影。

 そして、戸口から、暖かい空気が漏れる。


「……来てくれたの?」


 頼んだ覚えはない、という顔。

 でも、来るのが当然だとも思っている顔。


「呼ばれたので」


 エルマが曖昧に言うと、ミセス・ブラウンが一歩前に出た。


「学校の生活指導担当です」


「……学校?」


 母親が目を丸くする。


「生徒が勝手に火を見るのは危険です」


「火事じゃないんです。危なくないんです」


 母親が慌てて言う。


 体育教師が、さらに一歩前に出る。


「危なくない火があるか」


「あります!」


 母親が叫んでしまって、はっと口を押さえた。


 エルマは額を押さえた。


「……すみません、先生たちが勝手に増えました」


「増えたのは、生徒もね」


 メイヴが後ろを見る。


 門の外で、生徒たちが首を伸ばしている。

 まるで劇場の開演を待っている。


『見る』

『測る』

『比べる』


 精霊が、楽しそうでもなく、嫌そうでもなく呟いた。


「今それ言う?」


 エルマが小声で言うと、精霊は鳴いた。


『記録』


「やめて」


 *


 リビングの暖炉は、確かに燃えていた。

 炎は小さく揺れているのに、消える気配がない。

 煙も出ない。焦げもない。

 なのに、ずっと炉の時間が続いている匂いだけがある。


「……熱いのに、燃え移らない。煙も出ない」


 母親は言った。


「最初はありがたかったの。寒いし、あの子も風邪ひいてたし」


 母親の背後から、子どもが顔を覗かせた。

 頬が赤い。熱ではなく、暖炉の近さで赤い。


「ずっと、ここにいるの?」


 エルマが聞くと、子どもはこくりと頷いた。


『赤いの、正しい』

『でも、続きすぎ』

『増えない』


「増えないってなに」


 精霊は答えない。

 答えないくせに、火の前でざわつく。


 フィンが暖炉の前にしゃがみ込んだ。

 炎ではなく、周囲の空気を見る。


「閉じてる」


「閉じてるって、何が」


「終わりが来ないように、ここだけ閉じてる」


「終わりが来ないのが、問題?」


 母親が戸惑ったように言う。


「便利じゃない? 火が消えないんだよ?」


 メイヴがさらっと言った。


「終わらない便利って、だいたい壊れる」


「脅さないでください」


 母親の声が尖る。


「私はただ、普通に暮らしたいだけなのに」


「そういう人ほど巻き込まれるんだよね」


 エルマが言って、すぐ後悔する。

 慰めになってない。


 ニアムが部屋の隅を見た。


「……それ」


 棚の上に、小さな木片が置いてある。

 細長く削られ、側面に刻み。


「それ、どこから?」


 母親が目を逸らす。


「庭。石柱の近く。昔からあった。お守りみたいなものだって……祖母が」


 ローワンが木片を拾い上げた。

 刻みは古いのに、手垢がついている。


「触った?」


 ローワンが聞くと、母親はためらって頷いた。


「……触った。あの子が熱を出して。火を強くしたくて。炉に入れたら、火が安定したの」


 フィンが顔を上げる。


「入れたの?」


 母親は小さく頷いた。


「それから、消えない」


 ニアムが息を吐く。


「歌じゃない。刻みのほう」


「説明すると長い」


 エルマが先に言った。


「でも、だいたい昔の約束」


『約束』

『返す』

『まだ』


「返すって何を」


 精霊は答えない。

 代わりに、火が小さく揺れた気がした。


 *


「他にもある?」


 メイヴが聞くと、母親は棚の奥から二つ取り出した。

 似たような木片。刻みが微妙に違う。


 フィンが見比べる。


「三つで一組」


「一組だと何が起きるの」


「閉じる」


「今もう閉じてるよね?」


「閉じ続ける」


 フィンの言い方が少し嫌だった。

 閉じるならまだ分かる。閉じ続けるは、想像したくない。


「終わらせる方法ある?」


 エルマが聞くと、精霊が鳴いた。


『終わり、戻せ』

『流せ』

『欠けてる』


「欠けてるって何」


『終止』


「終止?」


 エルマが呟くと、フィンが頷いた。


「終わりの印がない。だから、終われない」


 母親が焦って言う。


「じゃあ、どうすれば」


 ニアムが石柱のほうを見た。


「外。門の石」


「また外? 寒いんだけど」


 エルマがぼやくと、体育教師が反応する。


「寒いなら走れ」


「今それ言う!?」


 玄関を出ると、霧が濃くなっていた。

 門の脇の石柱。苔の下に刻み。


 ローワンが手袋を外し、苔をこすった。

 刻みが少しだけはっきりする。


「欠けてる」


 フィンが言った。


「本来は、四つ目が入ってた」


「なくなったの?」


「たぶん、誰かが取った」


「誰かって」


「昔の誰か」


 メイヴが言う。


「そして、返し忘れた」


『返せ』

『返せ』

『それ、返せ』


 精霊が、さっきより強く鳴く。


「だからうるさいって!」


 エルマが叫びかけて、口を押さえた。

 門の向こうで、生徒がざわついている。


「今の聞こえた?」


「エルマが叫んだ」


「叫んだね」


「火のせい?」


「火のせいにできる?」


「できない」


 ミセス・ブラウンが、こめかみを押さえる。


「……私の勤務記録に残る案件が増えていく」


『記録済』


 精霊が、妙に嬉しそうに言った。


「精霊、先生の味方しないで」


 *


「じゃあどうするの」


 母親が言う。


「足りない印を探す? 作る?」


 フィンは首を振った。


「作っても同じにならない。これは土地の印」


「じゃあ詰み?」


「詰みって言うな」


 メイヴがエルマを叩いた。


 ローワンが石柱を見つめていた。

 彼の目は、決める前の目だ。


「家の中にある」


「え?」


「取ったものは、近くに置く」


 ローワンは迷いなく家の裏へ回った。

 エルマたちは慌ててついていく。先生たちもついてくる。生徒は門で止められて、恨めしそうに見ている。


 裏庭は荒れていた。枯れた蔦、落ちた枝。

 その隅に、石を積んだ小さな祠みたいなもの。急いで作ったような不格好。


 ローワンが石を一つ持ち上げる。

 中から、小さな木片が出てきた。


「……あ」


 母親が息を呑んだ。


「それ……祖母が隠した。触るなって。だから私は……」


「触った」


 メイヴが淡々と確認する。


 母親は泣きそうな顔で頷いた。


「だって、あの子が……」


「責めない」


 エルマは先に言った。


「責めても火は消えない」


『終わる』

『返る』

『流れる』


 精霊が、急に前向きになる。


「精霊、単純すぎない?」


『返した』

『返したから』


「返すって、ここに戻すこと?」


 フィンが頷いた。


「戻すだけじゃない。終わりの手順を戻す」


「手順って、具体的に」


 ニアムが口を開いた。


「火を、落とす」


「落とす?」


「終わらせる歌がある。短いなら」


 ニアムの顔が渋い。

 歌いたくないのに、歌えるから頼られる。これも、誤解だ。


「短いなら、いい?」


 エルマが聞くと、ニアムは肩をすくめた。


「嫌だけど、やる」


 *


 ローワンが木片を四つ並べる。

 フィンが石柱の刻みと同じ向きに揃える。

 母親が、祠の前で息を止める。


 ニアムは短く息を吸って、喉を震わせた。


 歌声は大きくない。言葉も、はっきりしない。

 それでも空気が変わる。

 霧が一瞬、薄くなる。


 ──そして。


 家の中から、ぱち、と小さな音。


 暖炉の火が、初めて揺れた。


 小さくなって、息をするみたいに、ふっと消えた。


 母親が立ち尽くす。


「……消えた」


「消えたね」


 エルマは言った。


「よかった。火事にならなくて」


 体育教師が、なぜか悔しそうに頷く。


「消火器、出番なし」


「出番あってたまるか」


 ミセス・ブラウンが息を吐いた。


「……これで終わり?」


『終わり』

『戻る』

『順番』


 精霊が鳴いた。


 母親が、そこでやっと泣き出した。

 泣き方が、疲れていた。


「これで、普通に……」


 普通という言葉が、ひっかかった。

 エルマは何も言わない。


 *


 その夜。


 母親の家で、子どもが眠ったあと。

 隣の部屋で、祖母が静かに息を引き取った。


 長く寝たきりだったらしい。

 火が消えたのと、同じ夜だった。


 誰も驚かなかった。

 誰も怒らなかった。

 ただ、そうなった。


 *


 帰り道、五人──と、なぜか少し離れて教師たちも歩いていた。

 門のところで止められていた生徒は、解散しきれずに噂だけが残った。


「結局、何だったんですか!」


 誰かが叫ぶ。


 ミセス・ブラウンが叫び返す。


「火は消えました!」


「何が原因なんですか!」


「……ええと、古い約束です!」


「雑すぎ!」


 エルマは胃が痛くなった。


 森の手前で、五人は足を止めた。

 霧がまた戻ってきている。森は黒いまま、そこにある。


「ねえ」


 エルマが言う。


「これ、解決?」


「解決」


 フィンが言う。簡潔だ。


「でも、あの家……」


「普通に戻った」


「普通ってなに」


 メイヴが笑う。


「死ぬってことじゃない?」


「軽く言うな」


「軽く言わないとやってられない」


 メイヴはそう言って、ポケットに手を突っ込んだ。


 ニアムは喉を押さえている。

 歌うたびに、何かが減るみたいな癖がある。本人は言わない。


 ローワンは森のほうを見ていた。

 行ける距離にある。

 でも、行く理由はない。


 ──チチチッ。


 エルマの耳元で、精霊が鳴いた。


『また来る』


「はいはい」


 エルマは返して歩き出す。

 返しながら、胃が痛かった。


『記録済』

『今日』

『ここ』

『人数』


 精霊が、最後にそれだけ囁いた。


 ローワンが、誰にも聞こえない声で言う。


「……数えられてる」


「誰に?」


 エルマが聞いたが、ローワンは首を振った。


「気のせい」


 気のせい、のはずなのに。


 あの家の火が終わった瞬間。

 門の外で騒いでいた生徒たちの声が、ほんの一瞬だけ途切れた。

 まるで、誰かが数を確かめ終えたみたいに。


 モーンの森は、訂正しない。


 だから、こちらが油断したぶんだけ。

 正確に──見ている。


 それが一番、嫌だった。


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