終わらなかった炉 前編
放課後のパブは、学生が来る時間帯じゃない。
それでもエルマは、迷いなく木の扉を押して中に入った。
「また来たのかい」
カウンターの奥で、主人が言う。
責めるでもなく、驚くでもなく、ただの確認だった。
「コーラある?」
「あるよ。氷は?」
「少なめで」
「今日は湿度が高い」
「少なめで」
「じゃあ三つ」
「多い」
主人はフン!と言ってから、氷を二つ入れた。
「妥協だ」
「交渉成立」
このやり取りだけ見れば、どこにでもある英国の田舎だ。
石造りの壁、低い天井、古い写真。
壁に掛かっている鹿の角も、初見ならただの飾りに見える。
──チチチッ。
エルマの耳元で、小さな音がした。
「ちょっと待って。今、人と話してる」
もちろん、誰にも聞こえない。
「今日の精霊、せっかちだね」
返事はない。
代わりに、少しだけ空気が暖かくなった気がした。
カウンターの端では、常連たちが昼間の出来事を話している。
「例の家、まだ灯りが消えないらしい」
「炉の火か?」
「そう。三日もだ」
「三日なら、まだ若い」
「若い火ってなんだ」
「勢いがあるって意味だろ」
「薪代、浮くな」
「羨ましいな」
誰も声を潜めない。
誰も「呪い」だとか「神の怒り」だとか言わない。
ただ、一言。
「昔から、あそこはそういうことが起きる」
「昔は、火の神さまの気まぐれだって言われてたな」
「今は誰も、そんな言い方しないが」
それだけで話は進む。
その時だった。
エルマは、ふと視線を感じた気がした。
誰かに見られている、というほど強いものじゃない。
ただ、見落とされていない、という感覚。
カウンターの奥でも、入口の扉でもない。
視線の位置が、どうにもはっきりしない。
常連のひとりが、ぽつりと呟いた。
「……最近さ。夜になると、窓の外がやけに静かじゃないか」
「静か?」
「犬も鳴かないし、鳥も落ちてこない」
誰も怖がらない。
誰も理由を探さない。
「森が、聞いてるだけだろ」
そう言って、話は終わった。
エルマだけが、グラスを持つ手を止めた。
──聞いてる?
『見てる』
精霊が、訂正する。
「どっちでも嫌なんだけど」
『終わってない』
『流れてない』
「はいはい」
エルマはグラスを受け取りながら、小さく返事をした。
「まだ、だってさ」
「……誰に言ってるんだい」
「独り言」
主人は深く突っ込まない。
この町では、独り言が多い人間のほうが、案外まともだ。
「で」
主人がグラスを拭きながら言う。
「学校の子たち、詳しいんだろ」
エルマは一口、コーラを飲んだ。
炭酸がちょうどいい。氷が二つで正解だった。
「詳しくないよ」
「でも、前も何とかしたじゃないか」
「勝手に終わっただけ」
「結果オーライだ」
「それ言い出すと何でもありになる」
主人は肩をすくめた。
「じゃあ、ちょっと見てきてくれ」
お願いですらなかった。
断れる雰囲気でもない。
『また来る』
「はいはい」
エルマはグラスを置き、立ち上がる。
外に出ると、霧が出始めていた。
学校の裏手の森はすぐそこだ。
ただの森。
ただの帰り道。
──のはずなのに。
精霊たちは、もうざわざわしている。
「……ほんと、放っておいてくれない」
そう言いながら、エルマはいつもの道を歩き出した。
*
学校に戻る途中、寄宿棟の角でフィンを見つけた。
制服の上にコートを羽織り、鞄を片手に、まるで最初から待っていたみたいに立っている。
「また呼ばれた?」
開口一番それだった。
「うん。炉が三日消えないって」
「火事にはならない?」
「ならないっぽい」
「じゃあ、厄介なやつ」
フィンは歩き出しながら、ちらりと森のほうを見る。
彼の視線はいつも、見えない線を追っているように見える。
「メイヴは?」
「図書室。『呼ばれたなら行け』って言ったら、笑ってた」
「いつもの反応だね」
──チチチッ。
エルマの耳元で、精霊が鳴く。
『境界、薄い』
『今、行くな』
『でも、行く』
「矛盾してない?」
精霊は無視した。
寄宿棟の玄関前で、ローワンが靴紐を結んでいた。
座ったまま、顔を上げない。
「行く」
フィンが言うと、ローワンはそれだけで立ち上がった。
「ニアムは?」
「音楽室。呼んだら来る」
フィンが携帯で短いメッセージを打つ。
この町の電波は、森に近づくほど気まぐれになる。今日は、たぶん大丈夫だ。
図書室の窓が開いて、メイヴが身を乗り出す。
「また? ほんとに?」
「ほんとに」
「今度は誰が『詳しい』って言ったの」
「パブの主人」
「あの人か。断れないね」
メイヴは軽く笑って、ローワンを見た。
「壊す?」
「見てから」
ローワンは短く返す。
彼の言葉はいつも少ない。少ないぶん、余計な意味がつかない。
音楽室の扉が開いて、ニアムが出てきた。
マフラーを巻き、喉を押さえながら言う。
「歌うやつ?」
「まだわかんない」
「歌うのは、嫌」
「わかってる」
エルマは手をひらひらさせた。
「はい、今日の遠足メンバー集合。目的地、消えない炉」
その瞬間だった。
「ちょっと待ちなさい」
背後から、聞き覚えのある声が飛んできた。
振り返ると、生活指導担当のミセス・ブラウンが腕を組んで立っている。
表情は「事件を期待している教師」のそれだった。
「放課後の集団行動は、事前申請が必要です」
「遠足じゃないです」
エルマは即答した。
「調査です」
「何の?」
「炉の」
一瞬の沈黙。
「……暖房設備点検?」
「たぶん違います」
「違うのに行くの?」
「呼ばれたので」
ミセス・ブラウンは深く息を吸った。
「また、呼ばれた……」
この町の教師は、その言葉に弱い。
「なら、引率をつけます」
「え?」
「事故防止です」
五分後。
なぜか、生徒指導補佐・体育教師・事務員が集まっていた。
「生徒が勝手に火を見るのは危険だ」
「火事対応マニュアルは持ったか?」
「そもそも、炉ってどこの?」
エルマは額を押さえた。
「……ちょっとした様子見なんです」
「様子見で五人も動くの?」
「いつも五人です」
「いつも?」
そのやり取りを、廊下の向こうから生徒たちが見ていた。
「なにあれ」
「またエルマたち?」
「次は火?」
「パンから火?」
噂は早い。
十分後、半学年が校門付近に集まっていた。
「見学はダメです!」
ミセス・ブラウンが叫ぶ。
「遠足じゃありません!」
「じゃあ何ですか!」
「……よくわからないけど、危なくないやつです!」
それが一番信用されない説明だった。
フィンが小声で言う。
「これ、もう事件扱いだね」
「違うって言ってるのに」
「違うって言うほど、事件に見える」
ローワンがぽつりと呟いた。
「……増えた」
「何が」
「見てる数」
エルマはその言葉を、聞かなかったことにした。
「持ち物は?」
メイヴが聞く。
「胃薬」
「現実的」
「誰用?」
「全員用」
フィンが真面目に頷いた。
「それは正しい判断だ」
「君たち、本当に生徒?」
「生徒だよ。ギフテッドだけど」
言った瞬間、空気が少しだけざわついた。
『言うな』
『呼ぶな』
『寄るぞ』
「はいはい、言わない。言わないけど、もう寄ってるし」
エルマは溜息をついた。
森は、すぐそこだ。
近すぎて、誰も特別だと思わなくなる距離。
それが一番、厄介だと知っているのは──
たぶん、彼らだけだった。
*
町外れへ向かう途中、ローワンが一度だけ足を止めた。
「……取られてる」
エルマは、足を止めた。
「取られてるって、何が?」
ローワンは答えない。
ただ、視線だけを森から町へ、町から学校へと滑らせる。
『数』
『重なってる』
精霊の声が、珍しく曖昧だった。
「重なってるって、どういう意味」
『見る』
『測る』
『比べる』
フィンが眉をひそめる。
「……観測、か」
「何それ」
「見るだけじゃない。違いを記録する行為」
ニアムが小さく息を吐いた。
「嫌なやつ」
「歌わなくていい?」
「今はいい」
メイヴが笑って肩をすくめる。
「観測するだけなら、無害じゃない?」
その時。
町のほうで、誰かが立ち止まった。
ただの通行人。
帽子を被った老人。
買い物袋を持った女性。
──なのに。
一瞬だけ、全員の視線が同じ方向を向いた。
森でも、学校でもなく。
エルマたちの足元。
『記録済』
精霊が、初めてそう言った。
「……何が?」
『今日』
『ここ』
『人数』
ローワンが、低く呟く。
「……数えられてる」
「誰に?」
答えは、なかった。
霧が、少しだけ濃くなった。
それでも森は、まだ黙っている。
──今はまだ、物語は始まったばかりだ。
「何が?」
エルマが聞き返す。
ローワンは答えず、ただ森の方向を見ている。
『薄い』
精霊が、小さく鳴いた。
それが何を意味するのか。
まだ、誰も確かめていない。
──終わらない火は、
まだ、何も語っていない。
火は、神に属するものだと、誰かが言った。
だから終わらないのだと。




