表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

終わらなかった炉 前編


 放課後のパブは、学生が来る時間帯じゃない。

 それでもエルマは、迷いなく木の扉を押して中に入った。


「また来たのかい」


 カウンターの奥で、主人が言う。

 責めるでもなく、驚くでもなく、ただの確認だった。


「コーラある?」


「あるよ。氷は?」


「少なめで」


「今日は湿度が高い」


「少なめで」


「じゃあ三つ」


「多い」


 主人はフン!と言ってから、氷を二つ入れた。


「妥協だ」


「交渉成立」


 このやり取りだけ見れば、どこにでもある英国の田舎だ。

 石造りの壁、低い天井、古い写真。

 壁に掛かっている鹿の角も、初見ならただの飾りに見える。


 ──チチチッ。


 エルマの耳元で、小さな音がした。


「ちょっと待って。今、人と話してる」


 もちろん、誰にも聞こえない。


「今日の精霊、せっかちだね」


 返事はない。

 代わりに、少しだけ空気が暖かくなった気がした。


 カウンターの端では、常連たちが昼間の出来事を話している。


「例の家、まだ灯りが消えないらしい」

「炉の火か?」

「そう。三日もだ」

「三日なら、まだ若い」

「若い火ってなんだ」

「勢いがあるって意味だろ」

「薪代、浮くな」

「羨ましいな」


 誰も声を潜めない。

 誰も「呪い」だとか「神の怒り」だとか言わない。


 ただ、一言。


「昔から、あそこはそういうことが起きる」


「昔は、火の神さまの気まぐれだって言われてたな」


「今は誰も、そんな言い方しないが」


 それだけで話は進む。


 その時だった。


 エルマは、ふと視線を感じた気がした。

 誰かに見られている、というほど強いものじゃない。

 ただ、見落とされていない、という感覚。


 カウンターの奥でも、入口の扉でもない。

 視線の位置が、どうにもはっきりしない。


 常連のひとりが、ぽつりと呟いた。


「……最近さ。夜になると、窓の外がやけに静かじゃないか」


「静か?」


「犬も鳴かないし、鳥も落ちてこない」


 誰も怖がらない。

 誰も理由を探さない。


「森が、聞いてるだけだろ」


 そう言って、話は終わった。


 エルマだけが、グラスを持つ手を止めた。


 ──聞いてる?


『見てる』


 精霊が、訂正する。


「どっちでも嫌なんだけど」


『終わってない』

『流れてない』


「はいはい」


 エルマはグラスを受け取りながら、小さく返事をした。


「まだ、だってさ」


「……誰に言ってるんだい」


「独り言」


 主人は深く突っ込まない。

 この町では、独り言が多い人間のほうが、案外まともだ。


「で」


 主人がグラスを拭きながら言う。


「学校の子たち、詳しいんだろ」


 エルマは一口、コーラを飲んだ。

 炭酸がちょうどいい。氷が二つで正解だった。


「詳しくないよ」


「でも、前も何とかしたじゃないか」


「勝手に終わっただけ」


「結果オーライだ」


「それ言い出すと何でもありになる」


 主人は肩をすくめた。


「じゃあ、ちょっと見てきてくれ」


 お願いですらなかった。

 断れる雰囲気でもない。


『また来る』


「はいはい」


 エルマはグラスを置き、立ち上がる。


 外に出ると、霧が出始めていた。

 学校の裏手の森はすぐそこだ。


 ただの森。

 ただの帰り道。


 ──のはずなのに。


 精霊たちは、もうざわざわしている。


「……ほんと、放っておいてくれない」


 そう言いながら、エルマはいつもの道を歩き出した。


 *


 学校に戻る途中、寄宿棟の角でフィンを見つけた。

 制服の上にコートを羽織り、鞄を片手に、まるで最初から待っていたみたいに立っている。


「また呼ばれた?」


 開口一番それだった。


「うん。炉が三日消えないって」


「火事にはならない?」


「ならないっぽい」


「じゃあ、厄介なやつ」


 フィンは歩き出しながら、ちらりと森のほうを見る。

 彼の視線はいつも、見えない線を追っているように見える。


「メイヴは?」


「図書室。『呼ばれたなら行け』って言ったら、笑ってた」


「いつもの反応だね」


 ──チチチッ。


 エルマの耳元で、精霊が鳴く。


『境界、薄い』

『今、行くな』

『でも、行く』


「矛盾してない?」


 精霊は無視した。


 寄宿棟の玄関前で、ローワンが靴紐を結んでいた。

 座ったまま、顔を上げない。


「行く」


 フィンが言うと、ローワンはそれだけで立ち上がった。


「ニアムは?」


「音楽室。呼んだら来る」


 フィンが携帯で短いメッセージを打つ。

 この町の電波は、森に近づくほど気まぐれになる。今日は、たぶん大丈夫だ。


 図書室の窓が開いて、メイヴが身を乗り出す。


「また? ほんとに?」


「ほんとに」


「今度は誰が『詳しい』って言ったの」


「パブの主人」


「あの人か。断れないね」


 メイヴは軽く笑って、ローワンを見た。


「壊す?」


「見てから」


 ローワンは短く返す。

 彼の言葉はいつも少ない。少ないぶん、余計な意味がつかない。


 音楽室の扉が開いて、ニアムが出てきた。

 マフラーを巻き、喉を押さえながら言う。


「歌うやつ?」


「まだわかんない」


「歌うのは、嫌」


「わかってる」


 エルマは手をひらひらさせた。


「はい、今日の遠足メンバー集合。目的地、消えない炉」


 その瞬間だった。


「ちょっと待ちなさい」


 背後から、聞き覚えのある声が飛んできた。


 振り返ると、生活指導担当のミセス・ブラウンが腕を組んで立っている。

 表情は「事件を期待している教師」のそれだった。


「放課後の集団行動は、事前申請が必要です」


「遠足じゃないです」


 エルマは即答した。


「調査です」


「何の?」


「炉の」


 一瞬の沈黙。


「……暖房設備点検?」


「たぶん違います」


「違うのに行くの?」


「呼ばれたので」


 ミセス・ブラウンは深く息を吸った。


「また、呼ばれた……」


 この町の教師は、その言葉に弱い。


「なら、引率をつけます」


「え?」


「事故防止です」


 五分後。


 なぜか、生徒指導補佐・体育教師・事務員が集まっていた。


「生徒が勝手に火を見るのは危険だ」


「火事対応マニュアルは持ったか?」


「そもそも、炉ってどこの?」


 エルマは額を押さえた。


「……ちょっとした様子見なんです」


「様子見で五人も動くの?」


「いつも五人です」


「いつも?」


 そのやり取りを、廊下の向こうから生徒たちが見ていた。


「なにあれ」

「またエルマたち?」

「次は火?」

「パンから火?」


 噂は早い。


 十分後、半学年が校門付近に集まっていた。


「見学はダメです!」


 ミセス・ブラウンが叫ぶ。


「遠足じゃありません!」


「じゃあ何ですか!」


「……よくわからないけど、危なくないやつです!」


 それが一番信用されない説明だった。


 フィンが小声で言う。


「これ、もう事件扱いだね」


「違うって言ってるのに」


「違うって言うほど、事件に見える」


 ローワンがぽつりと呟いた。


「……増えた」


「何が」


「見てる数」


 エルマはその言葉を、聞かなかったことにした。


「持ち物は?」


 メイヴが聞く。


「胃薬」


「現実的」


「誰用?」


「全員用」


 フィンが真面目に頷いた。


「それは正しい判断だ」


「君たち、本当に生徒?」


「生徒だよ。ギフテッドだけど」


 言った瞬間、空気が少しだけざわついた。


『言うな』

『呼ぶな』

『寄るぞ』


「はいはい、言わない。言わないけど、もう寄ってるし」


 エルマは溜息をついた。


 森は、すぐそこだ。

 近すぎて、誰も特別だと思わなくなる距離。


 それが一番、厄介だと知っているのは──

 たぶん、彼らだけだった。


 *


 町外れへ向かう途中、ローワンが一度だけ足を止めた。


「……取られてる」


 エルマは、足を止めた。


「取られてるって、何が?」


 ローワンは答えない。

 ただ、視線だけを森から町へ、町から学校へと滑らせる。


『数』

『重なってる』


 精霊の声が、珍しく曖昧だった。


「重なってるって、どういう意味」


『見る』

『測る』

『比べる』


 フィンが眉をひそめる。


「……観測、か」


「何それ」


「見るだけじゃない。違いを記録する行為」


 ニアムが小さく息を吐いた。


「嫌なやつ」


「歌わなくていい?」


「今はいい」


 メイヴが笑って肩をすくめる。


「観測するだけなら、無害じゃない?」


 その時。


 町のほうで、誰かが立ち止まった。


 ただの通行人。

 帽子を被った老人。

 買い物袋を持った女性。


 ──なのに。


 一瞬だけ、全員の視線が同じ方向を向いた。


 森でも、学校でもなく。

 エルマたちの足元。


『記録済』


 精霊が、初めてそう言った。


「……何が?」


『今日』

『ここ』

『人数』


 ローワンが、低く呟く。


「……数えられてる」


「誰に?」


 答えは、なかった。


 霧が、少しだけ濃くなった。


 それでも森は、まだ黙っている。


 ──今はまだ、物語は始まったばかりだ。


「何が?」


 エルマが聞き返す。


 ローワンは答えず、ただ森の方向を見ている。


『薄い』


 精霊が、小さく鳴いた。


 それが何を意味するのか。

 まだ、誰も確かめていない。


 ──終わらない火は、

 まだ、何も語っていない。


 火は、神に属するものだと、誰かが言った。

 だから終わらないのだと。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ