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モーンの森の事件録━━ケルトの森で  作者: 宮生さん太


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20/20

まだ明るいうちに後編


 夕方が近づくにつれて、家の中の音が増えていった。


 食器の触れ合う音。オーブンのタイマー。姉が階段を上り下りする足音。

 どれも、帰省した家の普通の音だった。


 ローワンはリビングの端の椅子に座り、窓の外を見ていた。庭の草はまだ短く、ところどころに白い花が混ざっている。


 母がキッチンから顔を出す。


「晩ごはん、ラムにしようと思うんだけど、いい?」


「うん」


 イースターが近いと、いつもそうなる。

 母は料理の準備をしながら、鼻歌を小さく口ずさんでいた。

 姉が買い物袋を抱えて戻ってくる。


「見て、これも買っちゃった」


 袋の中から、色のついた小さな飾りがいくつも出てくる。卵の形。リボン。金属の鈴。


 ローワンは視線を落とした。


 飾りはテーブルの上に並べられていく。姉は楽しそうに配置を変え、どこに置くか真剣に悩んでいる。


「このへんかな?」


 母が笑う。


「好きにしていいわよ」


 父は新聞から顔を上げない。あたりまえの光景だった。


 ローワンは椅子の背に体を預ける。空気が、少しだけ重い。


 窓辺の百合。テーブルの飾り。玄関のリース。

 視界に入るものの数が、じわじわ増えていく。


 触れなければ大丈夫。そう思いながら、手を膝の上で組む。

 姉がふと振り向いた。


「ローワン、これ見て」


 小さな銀色の十字架だった。首から下げるタイプらしい。


「教会で配ってたの。お守りみたいなやつ」


 差し出される。ローワンの呼吸が止まりかける。

 でも表情は変わらない。


「……似合うと思ったんだけど」


 姉の声は本当に優しい。何も知らない優しさ。

 ローワンはゆっくり首を振った。


「いい」


「そっか」


 姉はあっさり笑って、テーブルに置いた。

 その瞬間、母の視線が一度だけローワンをかすめる。ほんの一瞬。すぐに鍋へ戻る。

 何も言わない。それがこの家のやり方だった。


 夕暮れの光が部屋に差し込んで、飾りの影が長く伸びる。

 ローワンは立ち上がった。


「ちょっと外行ってくる」


 玄関を出ると、空気はひんやりしていた。

 庭の端まで歩き、ローワンは息を吐く。外のほうが静かだった。

 遠くの教会から鐘の音が聞こえる。町のどこかで、子どもたちが笑っている。


 イースターの前の週末。みんなが浮き立つ時期。

 ローワンは空を見上げた。


 春の空は、広すぎる。

 何かが近づいている気配はない。ただ、境目が薄くなっているだけ。

 それがいちばん厄介だった。家の窓を見る。


 灯りの中で、姉が飾りを手に笑っている。母が皿を並べている。父はテレビをつけたらしい。


 あの中にいることはできる。

 まだ、できる。


 ローワンは目を閉じた。


 触れなければ壊れない。

 近づかなければ大丈夫。


 それでも。胸の奥で、小さな違和感が静かに積もっていく。砂みたいに。

 目を開けると、庭の白い花が風で揺れていた。

 ローワンは視線をそらし、ゆっくり家へ戻った。



 台所から、焼けた肉の匂いが流れていた。

 ローズマリーと、少し焦げた脂の匂い。オーブンの中でラムがゆっくり火を通されている。イースターが近い家の匂いだった。


 ローワンはダイニングの椅子に腰を下ろしながら、指先だけをテーブルの縁に置いた。木の感触。冷たい。そこだけ確かめる。


「もう少しでできるわよ」


 母が言う。いつもと同じ声。


 父は新聞を半分に折って、姉は何か楽しそうに話している。教会のこと。街の飾りのこと。誰それが帰ってくるとか、そういう話。


 ローワンは頷くだけだった。


 笑うところでは、少しだけ口角を上げる。それで十分だった。

 皿が並ぶ。白いソース。焼いた根菜。ラムの薄い湯気。


 ナイフを取る前に、一瞬だけ手が止まった。理由はない。

 ただ、肉の表面に反射した光が、妙に鋭く見えた。


「どうしたの?」


 姉が言う。


「なんでもない」


 ローワンは切り分ける。音は静かだった。

 食事は普通に進む。美味しいね、と誰かが言う。

 復活祭の話。街のミサの話。去年の失敗談。笑い声が混ざる。


 ローワンも相槌を打つ。


 でも、気づけば言葉は短くなっていた。質問には答える。けれど、その先を続けない。

 皿の上のラムは柔らかかった。噛み切るたび、肉汁が広がる。


 春は本来、温かいもののはずだった。なのに、指先だけが少し冷える。

 姉が立ち上がって、棚の上の飾りを直そうとした。


「それ、手伝おうか?」


「いいよ、平気」


 ローワンの視線が、ほんの一瞬だけ動いた。

 飾りは、白いリボンと小さな十字。どこにでもある、イースターの飾り。

 ただの飾りだった。ただ、それだけなのに。


 ローワンは視線を皿に戻す。何も言わない。

 言葉にすると、形になる。形になると、動き出してしまう。だから、言わない。


 食事が終わりに近づくころ、家の中は少しだけ熱を帯びていた。

 オーブンの余熱。食後の紅茶の湯気。家族の声。全部、いつもの光景。

 ローワンはナプキンをたたんだ。


「もう食べないの?」


「うん」


 短い返事。椅子を引く音が、小さく響いた。


「部屋にいる」


 誰も止めなかった。階段を上がる。

 一段ずつ、音を立てないように。

 部屋の扉を閉めると、家の声が遠くなった。


 窓の外はまだ薄明るい。春の夜は遅く来る。

 ローワンはベッドに腰を下ろし、手を見た。


 何も起きていない。壊れてもいない。だから、大丈夫。


 そう思う。けれど。


 下の階から笑い声が上がるたび、空気の密度が少しずつ変わっていくのがわかった。イースターは、まだ始まっていない。なのに、もう近い。


 ローワンは静かに息を吐いた。

 その呼吸だけが、今の自分がここにいる証拠みたいだった。


 そして、誰にも気づかれないように。少しだけ、距離を取ることにした。



 朝の光はまだ薄かった。

 キッチンには焼いたパンの匂いが残っている。昨日の夜の続きみたいな静けさだった。窓の外では、どこかの家の庭に飾られた白い百合が揺れている。


 ローワンは席に座ったまま、湯気の立つマグを両手で持っていた。


 家族の声は普通だった。今日の天気のこと。買い物のこと。教会の予定。どれも、いつもの朝にある話。


 少し間を置いて、ローワンは言った。


「今日、戻る」


 ナイフの音が一瞬だけ止まった。でも、それだけだった。

 父は頷き、母は「そう」とだけ答える。姉は目を瞬かせて、それから笑った。


「もう? 早いね」


 悪気のない声だった。

 ローワンはパンをちぎる。


「うん」


 それ以上、理由は言わない。

 母は立ち上がり、包み紙を取り出していた。昨日焼いたチーズスコーンを、静かに紙袋へ入れていく。


「途中で食べなさい」


 ローワンは頷いた。

 距離は、もうできていた。誰もそれを壊さない。


 車はゆっくり家を出た。

 春の朝の道は明るい。町の中心へ近づくほど、イースターの飾りが増えていく。黄色いリボン。卵の絵。白い花。昨日より少しだけ濃くなった春。

 父がハンドルを握ったまま言う。


「学校まで送ろうか?」


 ローワンは窓の外を見た。

 石造りの家並みが流れていく。教会の塔が一瞬見えて、すぐに曲がり角で消える。


「駅まででいい」


 短く答える。

 父は何も言わなかった。ただ小さく頷いた。それで話は終わった。


 駅は思ったより人が多かった。

 休暇に出る人、戻る人。スーツケースの音。子どもの声。紙袋の中で卵がぶつかるような柔らかい音。


 車から降りると、ローワンは荷物を肩にかけ直す。


「気をつけてな」


「うん」


 ローワンは少しだけ笑った。それから、軽く手を上げる。

 行ってくる。そういう動きだった。

 父も同じように手を上げた。


 ローワンは振り返らずに歩き出す。背中に視線を感じながら、改札を越える。


 そこで境界ができる。家は、向こう側に残る。



 列車の窓の外に、春の景色が流れていた。牧草地。羊。低い石垣。遠くに森。

 ローワンは目を閉じるでもなく、ただ見ていた。

 頭の中には何も置かない。考え始めれば、理由が形になる。形になったものは、動かなくなる。


 それは避ける。ただ、戻るだけだ。


 昼を少し過ぎたころ、列車は駅に着いた。

 ホームに降りると、風が冷たかった。学校のある町の空気は、少しだけ乾いている。歩き出してから、ローワンは気づく。胸の奥の張りつめたものが、少しだけ軽くなっている。


 まだ何も終わっていない。けれど。

 ここから先は、自分で選べる。


 ローワンは荷物を肩にかけ直した。

 駅を出て少し歩いたところで、ローワンは足音に気づいた。


 軽い靴音。急がない歩き方。並んだ影を見て、顔を上げる。ニアムだった。

 ローワンは何も言わない。ニアムも何も言わない。ただ、歩幅だけが自然に揃った。


 町の通りにはイースターの飾りが店先に吊るされ、黄色いリボンが風に揺れていた。遠くで誰かが笑っている声がする。


 ニアムは横を見ない。ローワンも見ない。


 駅から学校へ向かう道は、ゆるく上りになっている。春の光がまぶしくて、影が短い。

少しして、ニアムが紙袋を揺らした。


「お昼、買いすぎた」


 それだけ言う。

 ローワンは小さく息を吐いた。


「そう」


 ニアムは笑わない。ただ歩く。会話は続かない。無理に続けない。

 その静けさの中で、ローワンは気づく。さっきまで肩の奥に残っていた硬さが、少しずつ薄れていく。


 理由を聞かれない。説明しなくていい。

 それだけで、十分だった。


 道の先に校舎の屋根が見えた。まだ明るい。森の影も長くなりきってはいない。ローワンは一瞬、視線を横へ流す。


 森は春の光を受けて静かに揺れている。何も言わず、ただそこにある。


「戻ってきたんだね」


 ニアムがぽつりと言った。ローワンは少し間を置いて頷いた。


「うん」


 それだけ。ニアムはそれ以上言わなかった。

 寄宿舎の近くでニアムが立ち止まる。


「またね」


 軽く手を振る。ローワンも同じように手を上げる。それで別れる。


 背中が離れていく気配を感じながら、ローワンは寄宿舎の方へ歩き出した。

 心の中で、ひとつだけ言葉が浮かぶ。


 戻ってきた、ではない。帰ってこられた。


 その感覚が、静かに胸の奥に落ち着いた。


 寄宿舎は休暇中の静けさだった。

 完全に静かではない。どこかの部屋から笑い声がする。階段を降りる足音もある。けれど、音の密度が薄い。


 ローワンはその空気を吸い込む。

 遠くに森。近くに校舎。

 どちらも見える位置で立ち止まったとき、廊下の奥に気配があった。


 フィンが壁にもたれて、こちらを見ている。何も言わない。

 ローワンも言わない。ただ、視線が一度だけ合う。それで足りた。


 ローワンは小さく頷く。

 フィンも同じように頷く。


 言葉はない。でもそこには、境界が静かに閉じる感覚があった。

 フィンは何も言わなかった。ローワンも、言わない。


 廊下の窓から差し込む光が、床の上に長く伸びていた。休暇中の寄宿舎は、時間までゆっくり歩いているみたいだった。


 フィンが壁から背中を離す。それが「おかえり」の代わりだった。


※ケルト文化圏のイースター:春の訪れを祝うイースターは、古い大地の信仰とキリスト教の習慣がゆるやかに重なった行事とも言われる。冬の終わりと新しい季節の始まりを感じる、大切な節目のひとつ。

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