パンはだいたい、誰かが食べている
購買のパンが消えている。
それだけの話だった。
それだけの話なのに、エルマは朝から機嫌が悪かった。
「……ない」
購買の棚をもう一度見る。
見ても増えない。棚は棚のままだ。
「私の、パン……」
隣でフィンが首をかしげた。
「君のパン、ってどれ」
「決まってるでしょ。茶色い紙袋に入った、チーズとハムのやつ」
「それ、毎日買ってない?」
「毎日買ってる。だからこそ、ないと困る」
「理屈が食欲寄りだね」
「うるさい」
棚には、甘い菓子パンと、歯が折れそうなライ麦パンが残っている。
「……仕方ない」
エルマは、甘い菓子パンを手に取った。
「それで妥協するの?」
「しない」
一口かじる。
「……違う」
「何が」
「人生」
メイヴが吹き出した。
「パンで人生語らないで」
「これは事件後遺症」
次にライ麦パンを持つ。
「それはやめたほうが」
「食べ物を差別しない」
一口。
「……硬っ!」
エルマは無言で固まった。
「顎、大丈夫?」
「これは……武器」
『武器ではない』
「精霊、そこは否定するんだ」
エルマは静かに棚に戻した。
「私、消えるパンを取り戻す」
「決意が重い」
どちらも今の気分じゃない。
後ろからメイヴが覗き込んできた。
「また消えた?」
「また?」
「今日で三日目」
「三日も?」
ニアムがマフラーを押さえながら言った。
「昨日も消えてた。私の前の人が取ろうとしたら、なかった」
「誰かが早く来て買っただけじゃない?」
「違う」
フィンが即答した。
「一個だけ。毎日同じ種類。時間もだいたい同じ」
「それ、もうパンのストーカーじゃん」
「言い方」
エルマは頭を抱えた。
購買のパンは、数が決まっている。
一個だけ、毎日、同じ時間に消える。
「実験しよう」
フィンが真顔で言った。
「なにを」
「パンの消失条件を洗い出す」
「洗い出さなくていい!」
「まず仮説①。購入直後に消える」
「それ、ただの怪奇現象」
「仮説②。持ち主が油断した瞬間」
エルマはパンの棚を睨んだ。
「……今?」
フィンが頷く。
「今は見られている。だから消えない」
「じゃあ見なきゃいいの?」
「そう」
「え、じゃあ私が目を閉じたら」
エルマが目を閉じた瞬間。
『見る』
「精霊が見てる!」
『義務』
「義務って何!」
メイヴが笑いをこらえながら言った。
「じゃあ全員で目を閉じよう」
「購買で?」
「購買で」
「不審者!」
五人が一斉に目を閉じた。
「……今、誰か取った?」
「見えない」
「見えないからわからない!」
「この実験、意味ある?」
店員が咳払いをした。
「……買わないなら、どいてもらっていいですか」
全員、即解散した。
「……事件じゃん」
「事件だね」
「でも被害者、エルマだけ」
「十分事件でしょ!」
ローワンは壁にもたれて、無言で棚を見ていた。
「……食べてない」
「誰が?」
「人間が」
「それ、推理?」
「観測」
短い。説明がない。
『食べた』
『守った』
『規則』
エルマの耳元で、精霊が鳴いた。
「ちょっと待って。今、聞こえた」
『規則』
「……規則?」
エルマは嫌な予感がした。
「パンに規則あったっけ」
『歩くな』
『食べるな』
『廊下』
「……あ」
思い当たる節が、山ほどあった。
*
この学校には、やたら細かい校則がある。
その中に、誰も守っていないものが一つあった。
──廊下での食べ歩き禁止。
「……ちなみに」
メイヴが手を挙げた。
「昨日、廊下でクッキー食べた」
『違反』
「知ってた」
ニアムが小声で続く。
「私も。のど飴」
『違反』
「薬!」
『甘い』
「厳しすぎる!」
フィンが眼鏡を押し上げる。
「僕は、理論上は食べていない。移動しながら口に入れただけ」
「それ食べてる!」
『高度違反』
「高度違反!?」
ローワンがぽつりと言った。
「……去年、パン落とした」
全員が振り向く。
「それ言うの今!?」
『記録済』
「精霊、何年分覚えてるの」
『全部』
「怖い!」
エルマは天を仰いだ。
「私たち、思った以上にワルだった……」
「誰も守ってないよね」
メイヴが即答した。
「先生も見て見ぬふり」
「パンくらい、いいじゃん」
ニアムがぼそっと言う。
『よくない』
精霊は、はっきり言った。
「うわ、校則ガチ勢」
『守れ』
『昔の約束』
「昔の約束ってなに」
『パン』
『落とす』
『汚す』
「……床?」
フィンが頷いた。
「昔、この校舎は教会の付属施設だった。床は清浄な場所だった」
「今はただの廊下だよ?」
『今も床』
「理屈が古い!」
エルマは叫んだ。
「じゃあ何? 精霊がパン没収してるの?」
『没収』
『保護』
「保護って言えば聞こえはいいけど!」
メイヴが笑う。
「じゃあ返してもらおう」
「どうやって」
「ちゃんと食べればいい」
「……ちゃんと?」
「座って。皿的な場所で」
「購買で?」
「購買で」
*
昼休み。
五人は購買前に並んでいた。
「……暇だね」
メイヴが言った。
「暇じゃない。張り込み中」
「張り込みって、座ってるだけじゃん」
ニアムが小さく言う。
「歌えば時間早く進む?」
「進まない」
「じゃあしりとり」
「張り込み中!」
「じゃあパン縛りしりとり」
「やめろ!」
「パン→ンジャメナ」
「急に地名!」
「ン→ン?」
『規則違反』
「しりとりに規則あるの!?」
ローワンが静かに言った。
「……見られてる」
全員、姿勢を正す。
一年生が通り過ぎた。
「先輩たち、何してるんですか」
「……社会科見学」
「購買の?」
「購買の」
一年生は納得した顔で去った。
「納得したよ……」
「この学校、平和だね」
五人は購買前に並んでいた。
不自然すぎる光景に、周囲の生徒がざわつく。
事態が動いたのは、昼休みの後半だった。
「ちょっと、そこの君たち」
背後から声がした。
振り向くと、副担任のミスター・ハートが立っていた。腕を組み、明らかに「面倒ごとに巻き込まれた教師の顔」をしている。
「何をしているのかね」
「張り込みです」
エルマが即答した。
「……何の」
「パンの」
ちょこっとの沈黙。
「パン?」
「消えるんです」
「消える?」
「毎日」
「一個だけ」
フィンとメイヴが補足する。
ミスター・ハートはこめかみを押さえた。
「……校内で問題が起きていると聞いたが」
「起きてます」
「でも被害、パン一個です」
「しかもエルマの」
「私の!」
先生は深く息を吸った。
「よし。では全校に通達を出そう」
「え?」
「購買前での滞留禁止」
「パンを持ったままの移動禁止」
「食べるなら座って食べること」
ざわっ、と周囲がどよめく。
「パン警戒令だ」
「やば、戦時体制」
「そんなに重要?」
『正しい』
精霊が満足そうに鳴いた。
「精霊、先生に協力するな!」
その結果。
その日の午後、校内は異様な光景になった。
生徒たちが、ベンチに整列してパンを食べている。
立ち食いゼロ。
歩き食いゼロ。
「……宗教画?」
メイヴが呟いた。
「平和すぎて怖い」
ニアムが頷く。
ミスター・ハートは遠くから満足そうに見ていた。
「よし。これで解決だな」
誰も反論できなかった。
「エルマたち何してるの」
「事件?」
「パン事件らしい」
「平和すぎ」
エルマは例のパンを買った。
紙袋を両手で抱える。
『見る』
「見るな」
『見る』
「見てもいいけど、食べるからね」
エルマは購買前のベンチに座った。
廊下じゃない。
ちゃんと座っている。
「……食べます」
一口かじる。
何も起きない。
『……』
「どうしたの」
『規則』
『守った』
「守ったよ?」
『床』
『落とすな』
「落とさないよ!」
エルマは必死で食べきった。
沈黙。
精霊が、静かになった。
「……終わり?」
『……』
「黙るの怖いんだけど」
フィンが言う。
「満足したんだと思う」
「満足の基準、厳しすぎない?」
ローワンが首をかしげた。
「次は?」
『次も』
『守れ』
「脅しだよね?」
『忠告』
「余計怖い!」
*
その日の放課後。
購買のパンは、消えなかった。
二日後も。
三日後も。
誰も困らなかった。
誰も感謝しなかった。
エルマだけが、異様に平和だった。
「明日も買える……」
『守れ』
「はいはい」
こんな事件でいい。
こんな日常がいい。
ローワンは、購買の奥を一度だけ振り返った。
棚も、床も、いつも通りだ。
誰もいない。
「……見てた」
小さく呟いた声は、誰にも拾われなかった。
「何か言った?」
エルマが聞くと、ローワンは首を振る。
「気のせい」
そう言って歩き出した。
彼はもう一度、同じ場所を見なかった。
誰も泣かない。
誰も減らない。
森が黙っているうちは。
モーンの森は、
こういうどうでもないことで、
こちらを油断させるのが得意だった。
それが、いちばん厄介だと、
まだ誰も本気では思っていなかった。




