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モーンの森の事件録━━ケルトの森で  作者: 宮生さん太


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19/20

まだ明るいうちに 前編


 朝から、寄宿舎の廊下は少しだけうるさかった。


 引きずられるスーツケースの音。紙袋が擦れる音。遠くで誰かが名前を呼ぶ声。窓の外では、車のドアが開いて、閉まる音が何度も続いていた。

 迎えに来た親たちが、玄関の前で立ち止まる。


「久しぶり」


「背、伸びたんじゃない?」


「早く乗りなさいってば」


 笑い声もあったし、ため息もあった。でも、それは祝祭の音ではない。

 年に何度か繰り返される、いつもの光景だった。


 ローワンは階段の手すりに手を置いたまま、その流れを見ていた。


 誰かが駆け下りていく。抱きしめられる。荷物を渡される。

 またひとつ、扉が閉まる。


 駅へ向かう列車組は、先生の後ろに静かに並んでいた。名簿を確認して、人数を数えて、歩き出す。淡々とした動き。毎回同じ。


 ローワンは、自分の足元を見た。

 いつも通り、荷物は最小限。小さな肩掛けカバンひとつ。


 廊下の向こうで、誰かが手を振った。

 ローワンも軽く手を上げる。それだけで、十分だった。


 別れを惜しむ声はない。引き止める人もいない。

 それが、この場所では普通だった。


 寄宿舎の前の駐車場は、ゆっくりと空いていく。

 エンジン音が減り、声の数が減り、残るのは風の音だけになる。


 ローワンの迎えの車は、駐車場の端に止まっていた。助手席の窓が少し開く。


「準備できたか」


「うん」


 ローワンはカバンを肩にかけると歩き出す。その途中、廊下を振り返った。意味はない。

 ただ、さっきまで開いていた扉がいくつも閉まっていた。


 名前の札が半分消えている。食堂の窓の向こうには、空いた席が見えた。

 まだ人はいる。残る子たちもいるし、寮長もいる。イースターをここで過ごす準備も始まっている。


 なのに、音だけが薄くなっていた。

 ローワンは何も言わずに車へ向かった。


 ドアが閉まる。シートベルトの金具が小さく鳴る。

 車はゆっくり動き出した。寄宿舎の建物が、窓の外で少しずつ遠ざかる。


 校舎。森の端。まだ残っている数台の車。

 ローワンは振り返らなかった。ただ、景色が後ろへ流れていくのを見ていた。


 イースターホリデーが始まった。



 道は単調だった。

 牧草地が続き、低い石垣が続き、羊がゆっくりと草を食んでいる。春の光はまだ薄く、色を強くしすぎない。町をひとつ抜ける。


 店先に黄色い飾りが増えている。窓辺に白い花。

 卵をかたどった紙飾りが、風に揺れている。


 ベーカリーの前を通ると、甘い匂いが車内まで流れ込んだ。イースターが近い。それは特別な知らせではなく、ただの季節の進み方だった。

 また町を抜ける。教会の塔が遠くに見える。鐘は鳴っていない。でも、空気は少しだけ澄んでいる。


「今年は早いな」


 前を見たままの声。


「そうだね」


「姉も帰ってる」


「うん」


 短いやりとり。それで十分だった。


 道が細くなる。

 見慣れた柵。低い生垣。ホーソーンの白い花が満開に近づいていく。ここにも境界がある。境界は森だけじゃない。その境界が入り乱れてくる。

 

 窓のカーテンの色。庭の端に、白い花がいくつか見えた。玄関の横に、小さな飾りが揺れている。イースターの密度が、ひとつ上がる。

 でも、まだ何も起きない。



 車がゆっくり減速して、見慣れた石造りの家の前で止まった。


 エンジンが切れると、急に音が遠くなる。

 さっきまで聞こえていた道路のざわめきが、扉一枚ぶん向こうへ押し戻されるみたいだった。


 庭はまだ冬の名残が残っている。でも、生垣のすき間には小さな花が点々と咲き始めていた。白い花。黄色のリボン。玄関脇の鉢にも、イースター用の飾りが控えめに置かれている。


 ローワンはシートベルトを外し、荷物をひとつだけ手に取った。


「着いたぞ」


 運転席から声がする。


「うん」


 短く答えて、ドアを閉める。


 空気は学校より少し湿っていて、土の匂いが近かった。遠くの教会の塔が、屋根の向こうに見える。鐘は鳴っていない。ただそこにあるだけだった。


 玄関の扉が開いた。


「おかえり!」


 姉の声だった。勢いよく顔を出して、すぐに笑う。髪をまとめるゴムの位置まで、昔から変わっていない気がした。


「久しぶりじゃん。背、伸びた?」


「わかんない」


 ローワンが言うと、姉は笑ったまま肩をすくめる。


「まあいいや、入って。寒いでしょ」


 後ろから母が現れて、軽く手を振った。


「おかえり、ローワン」


 それだけ。抱きしめたりはしない。距離の取り方は、家族みんながもう知っていた。


 ローワンは玄関マットの上で靴の底を軽くこすり、そのまま家の中へ入る。

 暖かい空気が頬に触れた。


 室内には甘い匂いが漂っていた。焼き菓子か、香辛料か。イースターの時期になると家に満ちる匂い。


 廊下の棚には卵の飾り。窓辺には白い百合。普段より少しだけ色が多い。


「荷物それだけ?」


 姉が後ろから覗き込む。


「うん」


「相変わらず軽いねえ」


 冗談っぽく言いながら、彼女はローワンの手から荷物を取り上げようとして、途中でやめた。思い出したみたいに。


「……自分で持つんだったね」


「平気」


 短く返す。


 母はそれを聞いて何も言わなかった。ただ、キッチンの方から声だけ飛ばしてくる。


「お茶いれるから、少し休んでなさい」


 ローワンは頷いた。


 家の中は賑やかだった。テレビの小さな音。台所で食器が触れ合う音。姉がどこかで歌っている気配。普通の家の、普通の帰省。


 それなのに、どこか空気の密度が違った。


 飾りの色。花の数。甘い匂い。

 外から見ていた春が、家の内側にまで入り込んでいる。


 ローワンは廊下の端で一瞬だけ足を止める。


 何かが嫌なわけじゃない。ただ、少しだけ近い。


「ローワン?」


 姉が振り返る。


「部屋、変わってないよ。行く?」


「……うん」


 歩き出す。

 階段の手すりには黄色いリボンが巻かれていた。姉の趣味だろう。


 家は変わっていない。家族も変わっていない。

 でも、春だけが少し近づきすぎている気がした。


 ローワンはそれを考えないことにして、部屋の扉を開けた。



 部屋は、出ていったときのままだった。

 机の上の古い本。窓際の小さなランプ。壁にかけたままの薄いコート。

 時間だけが少し積もっている感じがする。


 ローワンは荷物をベッドの端に置き、窓の外を見た。


 庭の向こうに石垣があり、その先にゆるやかな坂が続いている。さらに向こうには、小さな町の屋根が見えた。教会の塔はここからでもよく見える。


 穏やかな景色だった。

それなのに、視線を長く置いていられない。


 階下から姉の笑い声が聞こえる。


「ローワン、お茶!」


 呼ばれて、ローワンはゆっくり階段を降りた。

 テーブルにはマグカップが並び、焼き菓子が皿に盛られている。砂糖の粉が光っていた。


「今年はね、飾りちょっと頑張ったんだよ」


 姉が嬉しそうに言う。テーブルの中央には卵の飾り。小さな花。黄色いリボン。

 ローワンは椅子を引いて座る。


「へえ」


 それだけ。

 母は笑って、お茶を注いだ。


「学校はどう? 落ち着いてる?」


「うん」


 短い返事でも、誰も気にしない。

 会話は途切れず流れていく。姉が最近の町の話をして、父が仕事のことを少しだけ話す。


 全部、普通だった。


 ローワンはカップに触れる。温かい。

 その温度に集中していると、周囲の情報が少し遠のく気がした。


 視界の端に、白い花が入る。百合だった。背の高い花が、窓辺の光の中で揺れている。

ローワンは視線をずらした。


「ねえ、これ教会でもらったの」


 姉が言う。


「イースターだしさ。いい匂いするでしょ?」


「……うん」


 返事をしながら、ローワンは手を膝の上で軽く握る。

 花そのものが嫌なわけじゃない。ただ、存在が近い。家の中にあるものが、少しずつ増えていく感じがする。


 玄関の飾り。窓辺の花。テーブルの卵。

 春が、壁を越えて入り込んできている。


 姉は気づかない。母も父も、ただ季節を楽しんでいる。それは正しい。だからローワンは何も言わない。


 お茶を飲み終えるころ、姉が立ち上がった。


「ちょっと見せたいものあるんだよね」


 軽い声。

 ローワンは顔を上げる。


「何?」


「秘密」


 笑って言って、姉は別の部屋へ消えた。

 戻ってきたとき、手には小さな包みがあった。


「教会で配ってたの。かわいいでしょ?」


 包装紙の隙間から、金属の光がちらりと見えた。

 ローワンの呼吸が、ほんのわずか浅くなる。それを誰も気づかない。


 姉は純粋に嬉しそうで、母はキッチンへ向かっていて、父は新聞をめくっている。普通の家族の午後。


 ローワンは視線を包みから外した。


「……そうなんだ」


 それだけ言う。


 姉は少し首をかしげたけれど、深くは追及しなかった。

 窓の外では、春の光がゆっくり傾き始めている。まだ何も起きていない。


 でも、ローワンの中では小さな判断が、静かに形を作り始めていた。


※イースター(Easter):キリスト教で最も重要な祝祭のひとつ。春に祝われ、生命の再生や希望を象徴する。卵やうさぎは「新しい命」の象徴として知られており、国や地域によってさまざまな風習がある。


※イースターホリデー(Easter Holiday):イースター前後に設けられる春の休暇期間。英国では学校が数週間の休みに入り、家族で過ごしたり、春の行事を楽しんだりする時期になる。

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