まだ明るいうちに 前編
朝から、寄宿舎の廊下は少しだけうるさかった。
引きずられるスーツケースの音。紙袋が擦れる音。遠くで誰かが名前を呼ぶ声。窓の外では、車のドアが開いて、閉まる音が何度も続いていた。
迎えに来た親たちが、玄関の前で立ち止まる。
「久しぶり」
「背、伸びたんじゃない?」
「早く乗りなさいってば」
笑い声もあったし、ため息もあった。でも、それは祝祭の音ではない。
年に何度か繰り返される、いつもの光景だった。
ローワンは階段の手すりに手を置いたまま、その流れを見ていた。
誰かが駆け下りていく。抱きしめられる。荷物を渡される。
またひとつ、扉が閉まる。
駅へ向かう列車組は、先生の後ろに静かに並んでいた。名簿を確認して、人数を数えて、歩き出す。淡々とした動き。毎回同じ。
ローワンは、自分の足元を見た。
いつも通り、荷物は最小限。小さな肩掛けカバンひとつ。
廊下の向こうで、誰かが手を振った。
ローワンも軽く手を上げる。それだけで、十分だった。
別れを惜しむ声はない。引き止める人もいない。
それが、この場所では普通だった。
寄宿舎の前の駐車場は、ゆっくりと空いていく。
エンジン音が減り、声の数が減り、残るのは風の音だけになる。
ローワンの迎えの車は、駐車場の端に止まっていた。助手席の窓が少し開く。
「準備できたか」
「うん」
ローワンはカバンを肩にかけると歩き出す。その途中、廊下を振り返った。意味はない。
ただ、さっきまで開いていた扉がいくつも閉まっていた。
名前の札が半分消えている。食堂の窓の向こうには、空いた席が見えた。
まだ人はいる。残る子たちもいるし、寮長もいる。イースターをここで過ごす準備も始まっている。
なのに、音だけが薄くなっていた。
ローワンは何も言わずに車へ向かった。
ドアが閉まる。シートベルトの金具が小さく鳴る。
車はゆっくり動き出した。寄宿舎の建物が、窓の外で少しずつ遠ざかる。
校舎。森の端。まだ残っている数台の車。
ローワンは振り返らなかった。ただ、景色が後ろへ流れていくのを見ていた。
イースターホリデーが始まった。
*
道は単調だった。
牧草地が続き、低い石垣が続き、羊がゆっくりと草を食んでいる。春の光はまだ薄く、色を強くしすぎない。町をひとつ抜ける。
店先に黄色い飾りが増えている。窓辺に白い花。
卵をかたどった紙飾りが、風に揺れている。
ベーカリーの前を通ると、甘い匂いが車内まで流れ込んだ。イースターが近い。それは特別な知らせではなく、ただの季節の進み方だった。
また町を抜ける。教会の塔が遠くに見える。鐘は鳴っていない。でも、空気は少しだけ澄んでいる。
「今年は早いな」
前を見たままの声。
「そうだね」
「姉も帰ってる」
「うん」
短いやりとり。それで十分だった。
道が細くなる。
見慣れた柵。低い生垣。ホーソーンの白い花が満開に近づいていく。ここにも境界がある。境界は森だけじゃない。その境界が入り乱れてくる。
窓のカーテンの色。庭の端に、白い花がいくつか見えた。玄関の横に、小さな飾りが揺れている。イースターの密度が、ひとつ上がる。
でも、まだ何も起きない。
*
車がゆっくり減速して、見慣れた石造りの家の前で止まった。
エンジンが切れると、急に音が遠くなる。
さっきまで聞こえていた道路のざわめきが、扉一枚ぶん向こうへ押し戻されるみたいだった。
庭はまだ冬の名残が残っている。でも、生垣のすき間には小さな花が点々と咲き始めていた。白い花。黄色のリボン。玄関脇の鉢にも、イースター用の飾りが控えめに置かれている。
ローワンはシートベルトを外し、荷物をひとつだけ手に取った。
「着いたぞ」
運転席から声がする。
「うん」
短く答えて、ドアを閉める。
空気は学校より少し湿っていて、土の匂いが近かった。遠くの教会の塔が、屋根の向こうに見える。鐘は鳴っていない。ただそこにあるだけだった。
玄関の扉が開いた。
「おかえり!」
姉の声だった。勢いよく顔を出して、すぐに笑う。髪をまとめるゴムの位置まで、昔から変わっていない気がした。
「久しぶりじゃん。背、伸びた?」
「わかんない」
ローワンが言うと、姉は笑ったまま肩をすくめる。
「まあいいや、入って。寒いでしょ」
後ろから母が現れて、軽く手を振った。
「おかえり、ローワン」
それだけ。抱きしめたりはしない。距離の取り方は、家族みんながもう知っていた。
ローワンは玄関マットの上で靴の底を軽くこすり、そのまま家の中へ入る。
暖かい空気が頬に触れた。
室内には甘い匂いが漂っていた。焼き菓子か、香辛料か。イースターの時期になると家に満ちる匂い。
廊下の棚には卵の飾り。窓辺には白い百合。普段より少しだけ色が多い。
「荷物それだけ?」
姉が後ろから覗き込む。
「うん」
「相変わらず軽いねえ」
冗談っぽく言いながら、彼女はローワンの手から荷物を取り上げようとして、途中でやめた。思い出したみたいに。
「……自分で持つんだったね」
「平気」
短く返す。
母はそれを聞いて何も言わなかった。ただ、キッチンの方から声だけ飛ばしてくる。
「お茶いれるから、少し休んでなさい」
ローワンは頷いた。
家の中は賑やかだった。テレビの小さな音。台所で食器が触れ合う音。姉がどこかで歌っている気配。普通の家の、普通の帰省。
それなのに、どこか空気の密度が違った。
飾りの色。花の数。甘い匂い。
外から見ていた春が、家の内側にまで入り込んでいる。
ローワンは廊下の端で一瞬だけ足を止める。
何かが嫌なわけじゃない。ただ、少しだけ近い。
「ローワン?」
姉が振り返る。
「部屋、変わってないよ。行く?」
「……うん」
歩き出す。
階段の手すりには黄色いリボンが巻かれていた。姉の趣味だろう。
家は変わっていない。家族も変わっていない。
でも、春だけが少し近づきすぎている気がした。
ローワンはそれを考えないことにして、部屋の扉を開けた。
*
部屋は、出ていったときのままだった。
机の上の古い本。窓際の小さなランプ。壁にかけたままの薄いコート。
時間だけが少し積もっている感じがする。
ローワンは荷物をベッドの端に置き、窓の外を見た。
庭の向こうに石垣があり、その先にゆるやかな坂が続いている。さらに向こうには、小さな町の屋根が見えた。教会の塔はここからでもよく見える。
穏やかな景色だった。
それなのに、視線を長く置いていられない。
階下から姉の笑い声が聞こえる。
「ローワン、お茶!」
呼ばれて、ローワンはゆっくり階段を降りた。
テーブルにはマグカップが並び、焼き菓子が皿に盛られている。砂糖の粉が光っていた。
「今年はね、飾りちょっと頑張ったんだよ」
姉が嬉しそうに言う。テーブルの中央には卵の飾り。小さな花。黄色いリボン。
ローワンは椅子を引いて座る。
「へえ」
それだけ。
母は笑って、お茶を注いだ。
「学校はどう? 落ち着いてる?」
「うん」
短い返事でも、誰も気にしない。
会話は途切れず流れていく。姉が最近の町の話をして、父が仕事のことを少しだけ話す。
全部、普通だった。
ローワンはカップに触れる。温かい。
その温度に集中していると、周囲の情報が少し遠のく気がした。
視界の端に、白い花が入る。百合だった。背の高い花が、窓辺の光の中で揺れている。
ローワンは視線をずらした。
「ねえ、これ教会でもらったの」
姉が言う。
「イースターだしさ。いい匂いするでしょ?」
「……うん」
返事をしながら、ローワンは手を膝の上で軽く握る。
花そのものが嫌なわけじゃない。ただ、存在が近い。家の中にあるものが、少しずつ増えていく感じがする。
玄関の飾り。窓辺の花。テーブルの卵。
春が、壁を越えて入り込んできている。
姉は気づかない。母も父も、ただ季節を楽しんでいる。それは正しい。だからローワンは何も言わない。
お茶を飲み終えるころ、姉が立ち上がった。
「ちょっと見せたいものあるんだよね」
軽い声。
ローワンは顔を上げる。
「何?」
「秘密」
笑って言って、姉は別の部屋へ消えた。
戻ってきたとき、手には小さな包みがあった。
「教会で配ってたの。かわいいでしょ?」
包装紙の隙間から、金属の光がちらりと見えた。
ローワンの呼吸が、ほんのわずか浅くなる。それを誰も気づかない。
姉は純粋に嬉しそうで、母はキッチンへ向かっていて、父は新聞をめくっている。普通の家族の午後。
ローワンは視線を包みから外した。
「……そうなんだ」
それだけ言う。
姉は少し首をかしげたけれど、深くは追及しなかった。
窓の外では、春の光がゆっくり傾き始めている。まだ何も起きていない。
でも、ローワンの中では小さな判断が、静かに形を作り始めていた。
※イースター(Easter):キリスト教で最も重要な祝祭のひとつ。春に祝われ、生命の再生や希望を象徴する。卵やうさぎは「新しい命」の象徴として知られており、国や地域によってさまざまな風習がある。
※イースターホリデー(Easter Holiday):イースター前後に設けられる春の休暇期間。英国では学校が数週間の休みに入り、家族で過ごしたり、春の行事を楽しんだりする時期になる。




