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モーンの森の事件録━━ケルトの森で  作者: 宮生さん太


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18/20

バターが溶けるころ

 まだ朝と呼ぶには少し早い時間だった。


 寄宿舎の廊下は静かで、暖房の音だけがゆっくり響いている。

 フィンは目を開けたまま、天井を見ていた。起きる理由はないけれど、もう眠れないことだけはわかっている。


 窓の外は見ない。

 見れば、いろいろなものが入ってくる。


 鳥の数。風の曲がり方。誰かが目を冷ます気配。そういう、知らなくてもいいことまで。


 だから、目を閉じる。


 少しして、廊下を誰かが歩く音がした。先生だ。いつもより三歩ゆっくり。今日はパンを焼いている匂いがするから、朝食はホットクロスバンズだろうと、考える前にわかる。


 春が近づくと、食堂の匂いが変わる。

 シナモンとレーズン。甘い生地。溶けたバター。

 イースターが近いのだ。


 フィンは布団の中で小さく息を吐いた。


 春になると、少しだけ眠りが浅くなる。理由は、たぶんある。

 でも、それを思い出そうとはしなかった。


 窓の外が明るくなる前の時間。

 森の気配が一番近づく時間。


 それが過ぎれば、たぶん今日も普通の一日になる。だから、まだ起きない。



 食堂はいつもより甘い匂いがしていた。


 焼きたてのパンの匂い。少し焦げた砂糖と、溶けたバターの匂い。

ホットクロスバンズ。イースターが近い朝だけ、並ぶやつだ。


 トレイを受け取りながら、フィンは少しだけ息を吐いた。

 温かいものは、それだけで情報量が減る。

 隣に並んだローワンが、何も言わずにバターを取る。分厚く塗る。いつも通りだ。


 フィンも同じようにする。

 ナイフが表面をすべる。十字の筋にバターが染み込んでいく。湯気が立った。ちょっとだけ、安心する。


 テーブルにつくと、周囲はいつも通り騒がしかった。祭りの話。休暇の予定。家に帰るかどうか。


「うちは母さんが張り切ってるんだよね」


「卵探し、もう飽きたんだけど」


 笑い声。誰も悪くない。ただ、聞こえる。


 フィンはパンをちぎる。

 柔らかい。甘い。レーズンの味。

 普通の朝だ。そう思うことにする。


 ローワンが隣で食べている。こちらを見ない。

 フィンには、それがありがたかった。

 分かっているから、彼は見ない。


 食堂の窓の外には黄色い飾りが揺れている。

 去年も見た。一昨年も。ずっと。


 フィンは数えないようにする。回数を数えると、思い出すから。


「……帰らないの?」


 向かいの席の誰かが聞いた。悪気のない声。

 フィンは少しだけ間を置いた。


「うん」


 それだけ言う。


「そっか」


 相手はすぐ話題を変えた。みんな分かっている。

 理由は知らなくても、触れない方がいいことがあるのを。


 パンをもう一口。バターが指につく。


 そのときだった。


 窓の外、校門のあたりに、誰かが立っているのが見えた。保護者用の駐車スペース。見慣れないコート。


 フィンの手が止まる。情報が、一気に増えた。

 視界の端で、未来の可能性がいくつも重なっていく。


 立ち上がる自分。見ないふりをする自分。

 誰かの名前が呼ばれる声。春の風。全部が同時に来る。


 フィンは視線を落とした。

 パン。バター。ナイフ。今ここ。

 靴紐を結び直した朝を思い出す。先を見ない。まだ、朝は終わってない。


 ローワンが小さく言った。


「来てるな」


 フィンは頷くだけだった。


「……うん」


 声は思ったより普通だった。


 ローワンはそれ以上言わない。


 食べ終わるまで待つ。それが彼のやり方だった。

 食堂のざわめきは続く。誰も気づいていない。

 でも、フィンの中では少しずつ空気が変わっていた。


 春は、近づきすぎると距離感が分からなくなる。

 温かいはずなのに、手のひらの内側が冷える。


 フィンは最後の一口を飲み込んだ。


 バターが溶けるころ。たぶん、今日の朝は終わる。



 朝の冷たさはまだ残っていたけれど、道の端にはもう春の色が混ざっていた。

 学校へ向かう坂道を、フィンはローワンと並んで歩く。会話はほとんどしない。それでも、隣にいる気配は、ちょうどいい重さだった。


 遠くで羊の鈴が鳴っている。村の方からはパンを焼く匂いが流れてきた。イースターが近づくと、町の朝は少し甘い匂いがする。


 寄宿棟から学校までは、ほんの十分ほど。短い道だけど、春の朝は情報が多い。水の音。鳥の鳴き声。遠くの車。風に揺れる枝。


 フィンは視線を上げない。見すぎると、拾いすぎる。

 気配はただの気配じゃなくなる。原因や結果や、その先までつながってしまうから。


 靴の先だけを見て歩く。石の割れ目。昨日の雨の跡。小さな芽。そこで立ち止まった。


 しゃがみ込んで、靴紐をほどく。まだ緩んでもいないのに、もう一度、結び直す。指先に意識を集める。左右を揃えて、きつすぎないように引く。


 呼吸が少しだけ落ち着いた。考えすぎない。先を読まない。

 今は朝で、学校に向かっているだけだ。それ以上はいらない。


「また?」


 ローワンが言った。責めるでもなく、ただ確認する声。


「うん」


 フィンは立ち上がる。


「今日、多いから」


 ローワンは頷くだけだった。理由は聞かない。

 道の脇に、ラッパ水仙が咲いていた。昨日まではなかった気がする。春はそういう季節だ。


 フィンは見ないふりをする。花が咲く速度まで考え始めたら、きりがない。

 

 だから、歩き出す。校舎の屋根が見えてきた。遠くで笛の音がした。誰かが祭りの練習をしている。


 聖デイヴィッド祭の名残はまだ校舎のあちこちに残っていて、黄色い飾りが風に揺れていた。


 春は、人を浮かれさせる。それは分かっている。浮かれているときほど、境界は曖昧になる。


 もう一度、無意識に視線が下がる。靴紐は、きちんと結ばれていた。

 だから、今日は大丈夫だと思うことにする。そう決めるのも、自分の仕事だった。


 校門が見えてくるころ、風が少しだけ甘い匂いを運んできた。パンの匂いだ、とフィンは思った。

 購買が焼き立てを出す日は、だいたい朝の空気がこんなふうになる。



 昼休み。

 購買の前には列ができていて、誰かが笑いながら言った。


「もう休暇だもんな」


 春休み前の空気は、いつも少し浮ついている。帰省の話。予定の話。どこへ行くのか、何を食べるのか。


 フィンは列の最後で、焼き上がりから少し時間の経ったホットクロスバンズを受け取った。ほんの少し乾いている。でも嫌いじゃない。


 ベンチに座り紙を開く。バターを塗ると、表面のひびに沿ってゆっくり溶けた。まだ温かさは残っている。それで十分だった。

 ローワンが隣でパンをちぎる。朝も食べたのに、顔だけがそう言っている。


 エルマとメイヴが何か言い合って笑っていた。ニアムが窓の外を見ながら言う。


「もうすぐ休暇だね」


 ふいに、エルマがフィンを見る。


「フィンは?」


 フィンはバンズを一口かじる。少しだけ乾いている。けれど、口の中でバターが追いつく。


「いつも通り」


 それだけ言うと、誰もそれ以上聞かなかった。



 午後の授業は短かった。休暇前の金曜日は、先生たちも少し緩む。

 窓の外では、子どもたちが黄色い飾りを運んでいた。春の祭りは続いていく。


 フィンはノートの端に視線を落とす。余計な音を拾わないように、余計な意味を考えないように。

 わかりすぎるのは、疲れる。だから、考えない。


 授業が終わり、寄宿舎へ戻る道。ローワンが隣を歩いていた。


「今日は静かだな」


 ぽつりとローワンが言う。


「うん」


 フィンはそれ以上言わない。静かな日は、良い日だ。

寄宿舎の扉をくぐると、寮長に呼び止められた。


「フィン」


 ローワンが一度だけ視線を向けて、自室の方へ歩いていく。これも、毎年のことだった。


 フィンは寮長室へ入った。机の上に、小さな紙袋が置かれている。


「お母様に、カードとシムネルケーキはお渡ししましたよ」


 寮長の声は、いつも通りだった。フィンは頷くだけ、驚きはない。


 毎年、同じ金曜日。マザリングサンデーの少し前に、母は来る。そして、会わずに帰る。それが、いちばん穏やかだから。


「代わりに、これを預かっています」


 差し出された包みは軽かった。受け取ると、ほんのり甘い匂いがした。

 レモンと、焼き菓子の匂い。イースター・ビスケット。


「ありがとうございます」


 フィンはそれだけ言って部屋を出た。



 寮の自室へ戻る。部屋は静かだった。窓の外では、夕方の光がゆっくり色を変えている。


 机に包みを置く。明日、みんなで食べる。これは、自分ひとりで食べるものじゃない。


 椅子に座り、靴紐に手を伸ばす。ほどく動作は、結ぶときより少しだけゆっくりだ。きゅ、と音がして結び目がほどける。


 それだけで、一日が終わる気がした。

 包み紙が微かに鳴る。部屋の中に、甘い匂いが広がる。春の匂いだ。


 フィンはベッドに腰を下ろした。

 今日は、何も起きなかった。それが、いちばんいい。


 外で誰かの笑い声がした。遠くて、やさしい。フィンは目を閉じる。境界は、今は静かだった。



 土曜の授業は昼で終わる。

 校舎を出るころには、空気が少し甘かった。春の匂いというより、焼き菓子の匂いに近い。購買の方から漂ってきたのかもしれない。


 フィンは紙袋を抱えていた。中で、丸いものが重なっている音がする。


「持ってきたんだ」


 ニアムが覗き込む。


「イースター・ビスケット?」


「うん」


 フィンは短く答える。

 ローワンは聞かない。いつものことだからだ。紙袋の正体も、誰が持ってきたのかも、たぶん知っている。


 五人は石垣のそばに座った。風が強い。けれど寒くはなかった。

 袋を開けると、ふわっとレモンの匂いがした。


「これだよね」


 メイヴが言う。


「イースターって感じ」


 みんな一斉に手を伸ばす。遠慮はない。けれど必ず一枚だけ残る。

 最後に、フィンが取る。誰も見ていないふりをしている。


 口に入れると、砂糖が軽く歯に当たる。バターはもう溶けていて、指先が少しだけ光った。


「うーん」


 ニアムが頷く。


「これこれ」


 ローワンも小さく笑う。

 エルマは精霊の声を聞いていたけれど、今日は静かだった。春なのに、妙に。


 フィンはクッキーを半分に割る。欠けた断面を見ながら、何となく思う。

 今日は、何も起きない。そのはずだった。



 食べ終わっても、誰も動かなかった。


 土曜の午後は長い。授業が終わったあとも学校は閉まらないし、寄宿生も通学生も、なんとなく残っている。


「パブ行く?」


 メイヴが言う。


「行く」


 全員が当たり前みたいに立ち上がる。

 道を歩きながら、フィンは靴紐を結び直した。ほどけてもいないのに。靴紐を結んでいる間は、考えなくて済む。


 顔を上げると、エルマが少しだけこちらを見ていた。何も言わず、ただ見ている。儀式を見るように。


 昔からのフィンの癖、出会った頃にはもう始まっていた。フィンは先に歩き出した。



 パブは昼の光で明るかった。

 大人たちの声。グラスの音。窓際には犬が寝ている。


 五人は端の席を取る。ジュースを飲みながら、どうでもいい話をする。

 先生の癖とか、来週の祭りとか、誰が一番水仙似合わないかとか。


 笑い声が混ざる。平和だった。本当に。


 だから、フィンは少しだけ安心してしまった。


 その時だった。


 背中の奥で、何かがひっかかった。

 ただ、理解だけが先に来る。


 あ、と思う。


 何かが今、通り過ぎた。境界の向こう側を。誰も気づかない速度で。


 フィンは窓を見ない。グラスの水滴を指でなぞる。それ以上は、考えない。


「どうした?」


 ローワンが小さく聞く。


「……なんでもない」


 嘘ではない。言葉にしなければ、まだ 何でもないままだから。

 メイヴが笑う。


「ね。今日、ほんと平和だよね」


 フィンは頷いた。


「うん」


 それは本音だった。平和だった。

 ただ、ほんの少しだけ、何かが近づいている気がした。


 でも、それは今じゃない。


 今はまだ、バターの匂いが残っている。だからいい。

フィンはそう思って、残っていた最後の欠片を口に入れた。


※マザリングサンデー:英国で春に迎える伝統的な日。もともとは母教会を訪ねる習慣で、家族と過ごす日として親しまれている。


※シムネルケーキ:マザリングサンデーやイースターに食べられる英国の伝統的なフルーツケーキ。マジパンを使うのが特徴。


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