いい日だったね
朝の空気が、少しだけ柔らかかった。
エルマは校門をくぐって、足を止める。
耳元が、急に賑やかになる。
『ただいま!』
『ただいま!』
『咲いた!』
『見て!』
花の精霊たちが一斉に騒ぎ出した。
「……急にうるさい」
思わず呟くと、隣のメイヴが笑った。
「起きたんだね」
エルマは眉をひそめる。
「起きた?」
メイヴは前を指さした。
「ほら」
校舎の脇。石垣の隙間。小川へ続く斜面。黄色があふれていた。
ラッパ水仙が、一面に咲いている。
「……いつ咲いたの」
昨日まで、土しか見えなかった場所だ。
精霊たちはまだ騒いでいる。
『ただいま!』
『やっと出てこれた!』
『寒かった!』
エルマは少し考えてから言う。
「春に、ただいまって言ってるの?」
メイヴは首を振った。
「違うよ」
笑いながら言う。
「自分たちが言ってるの。冬のあいだ寝てたから」
風が吹く。花が揺れて、声が重なる。
『ただいま!』
それは春への挨拶ではなく、ここに戻った自分たちへの宣言だった。
春は、何も言わない。ただ、景色の中にいる。
その日が、後から思えば兆しだったとわかるのは、たぶんもっと先のことだ。
「いい日だね」
思わず、そう口にしてしまうくらい、朝は軽かった。
校舎の前の小川は昨日より速く流れている。水音が高い。石のあいだをすり抜ける音まで聞こえる気がした。
エルマは肩をすくめる。
「なんか、今日うるさくない?」
耳元で精霊たちがざわざわしている。言葉にならない声。春が近づくと、いつも少し増える。
隣でメイヴが笑った。
「いいことじゃん。賑やかって」
風が吹く。校庭の端にも黄色がちらりと見える。
ラッパ水仙は、この地方の人たちにとっては春を待ちわびる合図みたいな花だった。
「……昨日あったっけ」
ローワンがぼそりと言う。
「たぶん」
フィンはそれ以上言わない。
春は突然来る。ここではそういうものだ。
メイヴは花を見て、手を振るみたいに笑った。
「ただいまって感じだね」
エルマは首をかしげる。
「春って、ただいま言うっけ?」
「知らない。でも咲いた本人は言うんじゃない?」
なんとなくそれで納得してしまう。
朝のベルが鳴る。なんだか、今日はいい日になりそうな気がした。
*
最初に起きたのは小さなことだった。
「提出、来週まで延期する」
先生がそう言うと、教室がざわっと明るくなる。
「ラッキー!」
誰かが言って笑いが広がる。
「よかったね」
メイヴも一緒に笑った。
休み時間、なくしたはずのペンケースが机の奥から見つかる。
階段で転びそうになった子を、ちょうど通りかかった誰かが支える。
給食のデザートが一個余る。
小さな出来事が、みんなにとって都合のいい方へ転がっていく。
ニアムが小声で言った。
「今日なんか変じゃない?」
フィンが肩をすくめる。
「春だから」
フィンは紙袋の端を指で折った。
春だから。それで会話は終わった。
そう言えば、だいたいのことは終わる。それ以上説明しないで済む。
机の向こうでメイヴが笑っている。何も疑っていない顔だった。
フィンは視線を落とす。
今日は、小さなことがうまくいきすぎている。転びそうな子が転ばない。なくしたものが戻る。誰かの言葉が、ちょうどいいところに落ちる。
理由は、たぶんある。
あるけれど。言葉にした瞬間、それはもう止まらなくなる。
だから、言わない。
紙袋をもう一度折る。
折り目は、朝より少しだけ深くなった。
メイヴの笑い声が響く。
フィンは、聞こえないふりをした。
*
昼休み。
五人は石垣のそばでパンを食べていた。
森から降りてくる風はまだ冷たい。でも、もう冬の冷たさではない。
メイヴは頬杖をつく。
「今日、なんか好きだな」
「何が?」
エルマが聞く。
「全部」
あっさりした返事だった。
ローワンが丘の向こうを見る。
「羊、増えた?」
「いや、数は同じだろ」
フィンがすぐ返す。
でも、一瞬だけ全員が黙る。
メイヴだけは気づかず、パンの袋を折りながら笑う。
「だってさ、今日うまくいく気がするじゃん」
風が止まる。ほんの一瞬。
それからまた動き出す。
エルマは精霊の声を探ったけれど、何も言わなかった。精霊たちはただ忙しそうに飛び回っている。
「まあ、いいか」
ニアムが言う。
全員が頷く。
*
昼休みが終わりに近づくころ、校庭の向こうから笛の音がが聞こえた。
ティンホイッスル。少し高くて明るい音。誰かが練習しているらしい。
エルマは耳をすます。
「なんか今日、騒がしいね」
ニアムがパン屑を払う。
「来週、聖デイヴィッド祭だからじゃない?」
メイヴが言った。
そうか、とエルマは思う。
校舎の掲示板にも黄色い紙が増えていた。赤いドラゴンの絵。水仙の切り絵。小さな国旗。
春を迎える準備は、気づかないうちに始まっている。
ローワンが石垣にもたれて言う。
「またスープ配るんだろ。今年も」
「うん。リーキ入り」
メイヴが笑う。
「去年、フィンおかわりしてたよね」
「寒かっただけだ」
フィンは即答した。
そのやり取りが、普通で、安心する。
風が吹く。
校庭の端、まだ短い草の間に、水仙がひとつだけ揺れた。朝より確実に増えている。
エルマは目を細めた。
精霊たちは相変わらず忙しい。けれど騒ぎ方が少し違う。
『急いで』
『もう春』
『間に合う』
意味はわからない。ただ、浮き足立っている。
「ねえ」
エルマがメイヴを見る。
「今日、なんか願った?」
メイヴは首を傾げた。
「願い?」
「うん。なんでもいいけど」
少し考えて、メイヴは笑った。
「みんなが楽しい日になればいいな、とは思った」
それだけ、と肩をすくめる。
ニアムが何も言わずに目を伏せる。
フィンはパンの袋を折りたたむ手を止めない。
ローワンは遠くの丘を見ている。
誰も突っ込まない。
それが、この五人のやり方だった。
メイヴは善意でしか動かない。
だから、言わない。
言葉にすると、形になる。
形になったものは、止まらなくなるから。
ベルが鳴る。
立ち上がると、足元に落ちていた小さな水仙が見えた。
折れてはいない。誰かの鞄からこぼれたのかもしれない。
メイヴが拾って、そっと石垣の上に置いた。
「ほら、戻しておこ」
それだけ。
エルマは目を逸らした。戻した、と言ったのに。
そこに咲いていた花は、気づけば二本になっていた気がした。
でも、誰も数えない。
*
午後の授業は妙にうまく進んだ。先生の機嫌がいい。
隣の席の子が消しゴムを落とす前に、なぜか手が受け止める。
窓の外では、水仙の黄色が風に揺れている。どこか、祝祭の準備みたいだった。
春が近づくと、この土地は少し浮かれる。
冬を越えたことを、誰も大きな声では言わないけれど。
ただ、色が増える。
白と灰色しかなかった景色に、黄色が差し込む。気づけばそこかしこに。
メイヴはノートの端に水仙の絵を描いていた。
「聖デイヴィッド祭、好き?」
エルマが聞く。
「好きだよ」
メイヴは即答する。
「だって、みんな嬉しそうじゃん」
それだけ。嬉しいから、いい。その単純さが、メイヴの強さでもあり、危うさでもある。
授業の終わり、先生が言った。
「今年は祭りの日、全員水仙をつけること」
教室がざわめく。誰かが言う。
「まだ早くない?」
先生は窓の外を見る。
「もう咲いてるよ」
全員が振り向く。確かに、昨日より多い。
誰もその速度を不思議がらない。春だから。それで済んでしまう。
*
放課後。
五人はいつもの道を歩く。
小川の水が光を弾いている。石の間から、小さな芽が覗いていた。
メイヴがふと立ち止まる。
「ねえ」
「なに?」
ニアムが聞く。
「今日さ、なんか全部ちょうどよかったね」
ローワンが小さく笑った。
「珍しいな」
「うん。でも、たまにはいいじゃん」
メイヴは本気でそう思っている。
エルマは水面を見る。
流れの中に、逆らう小さな泡がひとつあって、すぐ消えた。
春は、こういう時に帳尻を合わせる。誰にも見えないところで。
それを知っているのは、たぶん自分たちだけだ。けれど、誰も言わない。
「いい日だったね」
メイヴがもう一度言う。
今度は全員が頷いた。
本当に、いい日だった。
帰り道、パブの窓から笑い声が漏れた。
犬が尻尾を振り、誰かが落とした財布は、別の誰かの手で静かに戻った。
小さなことが、ちゃんと戻る日だった。
少しだけ、出来すぎていたとしても。
*
夜。
エルマは窓を開けた。
精霊たちは静かだった。
春の夜なのに、妙なくらい。
遠くで川の音がする。
数を数える癖がある精霊が、小さく囁いた。
『……あれ?』
エルマは聞き返す。
「何?」
精霊は首を傾げるみたいに沈黙した。
『……わかんない』
それきり、何も言わなかった。
*
次の日。
学校で誰かが首をかしげる。
「昨日まであったやつ、どこいった?」
困っているわけではない。ただの疑問。別の誰かが笑う。
「まあ、いいじゃん」
話はそこで終わる。メイヴは窓の外を見る。水仙が風に揺れていた。にぎやかな春。
誰も困っていない。だから、きっと大丈夫。
「ね」
メイヴが言う。フィンは答える前に、靴紐を見た。
「昨日、いい日だったよね」
誰も反対しない。
風が吹く。花が揺れる。
どこかで、何かが少しだけ帳尻を合わせたことに、誰も気づかないまま。
※ 聖デイヴィッド祭:ウェールズの守護聖人の日。ラッパ水仙やリーキ(ポロネギ)をシンボルに春を迎える祝祭。




