春を渡す
校庭の芝は、冬の終わり方を知らないみたいに固かった。朝の霜が、日が出てもまだ光っている。吐く息だけが元気で、喉は少し痛い。
「今日、寒さのやる気すごくない?」
メイヴが手袋のまま指を鳴らす。
「やる気って何」
フィンが眼鏡を押し上げた。
「寒さが帰る気ないってこと。ね、エルマ」
「……うん。帰る気ない。居座ってる」
そう言った瞬間、耳元で精霊が鳴いた。
──チチチッ。
『まだ』
『まだ』
『まだ』
「うるさい! わかってる!」
エルマが小声で怒鳴ると、メイヴが笑いを噛み殺した。
「今日も寄ってきてるね」
「寄ってきてるっていうか、住み着いてる」
「かわいいじゃん」
「かわいくない。騒音」
ニアムはマフラーを引き上げながら、校舎の影を見た。
「……先生、来る?」
「来る」
ローワンが短く言う。
「来るって決めたの、誰」
「決めたのは、先生」
フィンが淡々と返す。
「決めたのは、理由がないのに理由がある日ってやつ」
その言い方が嫌で、エルマは足元の霜を踏んだ。音が遅れて鳴る。遅れ方が、昨日の森より優しいだけで、同じ種類の気配だ。
*
発端は、昼休みの掲示板だった。
春の募金のポスターに、誰かが薄い鉛筆で書いた線。
意味のない渦。名前でも落書きでもない、ただの線。
なのに、見た瞬間に寒くなる。
ミセス・ブラウンがそれを見て、眉を寄せた。
「これは……いつから」
「昨日はなかったと思います」
フィンが言う。
「思いますって言い方ね」
メイヴが突っ込む。
「断言できないのが嫌」
ニアムが小さく言った。
そして、エルマだけがはっきりと聞いた。
線の下で、精霊たちが口々に鳴くのを。
──チチチッ。
『間に合わない』
『遅い』
『渡せない』
「渡すって何」
エルマが訊いたとき、精霊は答えずに、同じ言葉を増やしただけだった。
『火』
『白い火』
『春』
『渡す』
その夜、ミセス・ブラウンが職員室から一冊の古いノートを持ち出してきた。
紙は黄ばんで、背表紙はもう割れかけている。
「あなたたちにだけ、見せます。……信じろとは言いません」
「先生、それ言うと逆に信じろって感じ」
メイヴが言って、すぐ真面目な顔になる。
ノートには、短い走り書きがある。
━━二月初め。冬が居座る年は、火を渡す。渡すのは、人ではない。けれど、人が場を整える━━
説明が少ない。正解のふりだけしている。
フィンがページをめくって、顔をしかめた。
「儀式の詳細がない」
「詳細があったら困るでしょ」
ローワンが言った。
「困るのは、学校の規則」
メイヴが言い切る。
「焚火だめ。煙だめ。魔術だめ。全部だめ」
「魔術禁止って校則にあるの?」
「今作った」
ミセス・ブラウンはため息をついて、声を落とした。
「丘の石塚の跡地。……あそこなら、火は目立ちません。風が強いから」
「風が強いのに火?」
ニアムが不安そうに聞く。
「火は燃やすためじゃない。渡す、ためだから」
先生は、言ったあとで自分の言葉に少し戸惑った顔をした。
大人が、判断を保留している顔。
エルマの耳元で精霊が鳴いた。
──チチチッ。
『間に合った』
『今夜』
『今夜』
*
丘へ向かう道は、草原の匂いが薄い。冬の匂いだ。濡れた土と、古い枯れ草の匂い。息を吸うと喉が冷える。
「ねえ、結局なにするの?」
メイヴが歩きながら言う。
「場を整えるって何」
「わからない」
フィンが言い切った。
「わからないのに行くの、すごいね」
「わからないのに放置すると、もっとすごいことになる」
ローワンが丘の中央を見た。草の色が、円形に違う場所。
石塚の跡地。夏至祭の輪の名残。
ニアムが小声で言う。
「……冬って、こういうふうに居座るんだ」
「居座るっていうか、ちゃんと残るって感じ」
エルマは言って、言い直す。
「残るっていうより……終わらない」
その言葉が空気を撫でた瞬間、丘の風が止まった。
止まったのに、冷たさだけが残る。
世界が、音をひとつ減らしたみたいに静かになる。
そこにいる。
姿はない。
音もない。
けれど、冬は、そこに座っている。
エルマは肩をすくめた。
怖い、というより、無機質だ。冷たい機械みたいに、ただある。
「……来てる」
メイヴが、珍しく声を落とす。
「来てるって言い方」
フィンが言う。
「違う。もう、いた」
ミセス・ブラウンはバッグから細い白い紐を取り出した。
「これを円に置きます。……輪になるように」
「円、好きだね、この土地」
メイヴが言って、笑いが少しだけ戻る。
「今日は円が必要」
フィンが言う。
「必要って何に」
「構造に」
五人は、草の色が違う場所を避けながら、紐を円に置いた。
踏み込まない。内側に立たない。
境界の作法。今までの事件で学んだ、嫌な優等生の知識。
ニアムが、喉元を押さえる。
「歌うの?」
「歌わない」
エルマが即答した。
精霊がわちゃわちゃ鳴く。
──チチチチチ。
『声、いらない』
『火』
『火』
『白い火』
「白い火って何」
メイヴが小声で聞く。
「火って赤かオレンジじゃない?」
「色じゃない」
ローワンが言う。
「意味のほう」
「意味って、いちばん信用できないやつ」
メイヴが言った。
フィンがポケットから小さなロウソクを出した。
「火種はこれで十分」
「え、準備良すぎない?」
「先生が持ってた」
フィンが視線をミセス・ブラウンに向ける。
先生は見ないふりをした。見ないふりの顔が、ほんの少し若い。
「……やるなら、今です」
ミセス・ブラウンが言う。
その声が、震えていないのがすごかった。
エルマはロウソクを見た。
小さい火。小さいのに、ここでは大きすぎる気がする。
「ねえ、エルマ」
ニアムが囁く。
「手、震えてる?」
「震えてない。……たぶん」
「たぶんって言った」
メイヴが腕を組む。
「儀式ってさ、もっとさ、すごい言葉とか必要じゃない?」
「言葉で固定すると、神話が固まる」
フィンが言う。
「固まったら?」
「次から、同じ形でしか動かない」
「つまり、来年もやらされる」
「それ」
ローワンが、円の外側に一つだけ、小さな石を置いた。
「何それ」
メイヴが聞く。
「ここまでの印」
ローワンは答える。
「踏み込まないための」
エルマは息を吸った。
寒い。冷たい。冬は静かに座っている。
精霊たちはうるさい。
うるさいのに、今だけは、エルマの背中を押している。
『間に合った』
『間に合った』
『渡す』
『渡す』
「渡すって、誰に」
エルマが小さく言うと、精霊が答えた。
──チチチッ。
『次』
『次へ』
『春へ』
エルマは、笑いそうになって止まった。
笑うのは早い。ここで笑ったら、冬がそれは違うって顔をする気がする。
「……やるよ」
エルマは言った。
「やるって何を」
メイヴが言う。
「やるって言うと、何かやったことになる」
フィンが釘を刺す。
「じゃあ、やらないをやる」
エルマは言い返した。
「インボルクの頃だ。火は、渡すために使う」
フィンが低く言った。
ロウソクに火をつける。
小さな炎が、瞬いた。
その瞬間、冬の存在が、少しだけ重くなる。
怒りではない。
ただ、均衡を保とうとする圧。
精霊たちが一斉に静まった。
──チチ……。
『今』
エルマはロウソクを円の外に置いた。
内側に入れない。捧げない。交換しない。
ただ、置く。
フィンが続けて、ロウソクの反対側に、同じ距離で小さな石を置いた。
「対称にする」
「なにそれ、数学?」
メイヴが囁く。
「構造だ」
「また構造」
ニアムは、息を整えて、ロウソクのそばに、白いリボンを結んだ。
ミセス・ブラウンが持ってきた紐の端を、ほんの少しだけ結び直す。
「先生、手、器用」
メイヴが言うと、先生は目を逸らした。
「黙りなさい」
ローワンは最後に、円の外側の石を、ほんの少しだけずらした。
「何してるの」
エルマが小声で聞く。
「ぴったりにしない」
「……なぜ」
「ぴったりは、成立する」
ローワンはそれだけ言った。
風が、一度だけ通った。
冷たい風じゃない。
軽い風だ。
冬が、そこから少しだけ退く。
退くというより、席を譲るみたいに、ずれる。
ロウソクの炎が、白く見えた。
色じゃない。温度でもない。
ただ、次へ渡る火。
「……ブリギッド?」
誰に向けたわけでもなく、そう零れた。
精霊が、久しぶりに嬉しそうに鳴いた。
──チチチッ!
『渡った』
『渡った』
『間に合った』
「間に合ったって、何に」
メイヴが聞く。
「春に」
ニアムが言った。
「春って、間に合うものなの?」
「間に合わないと、ずっと冬」
フィンが淡々と返す。
「それ、普通に嫌」
ミセス・ブラウンが、円の外側から丘を見た。
何も見えないはずなのに、先生の目が少しだけ柔らかくなる。
「……昔は、こういうのを思い出すだけでよかったんでしょうね」
「今は?」
エルマが聞く。
「忘れすぎた」
先生は短く言った。
「思い出すのにも、手順がいる」
ロウソクの火は、風に揺れて、消えなかった。
消えないのが、怖いというより、安心に近い。
冬の存在は、黙ったまま、丘から退いた。
怒らない。抗議もしない。
ただ、構造が満たされたから、席を譲っただけ。
優雅で、残酷なほど無関心。
エルマは、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
軽くなるのに、震えが残る。
初めてのことは、成功しても怖い。
「……帰ろう」
エルマが言う。
「やっと言った」
メイヴが息を吐く。
「これ、成功?」
「成立させなかったから、成功」
フィンが言う。
「その成功、わかりにくい」
「わかりやすい成功は、次が来る」
ローワンが淡々と返す。
丘を下りるとき、背中の視線はもうなかった。
代わりに、風が少しだけ、甘い匂いを運んだ。
土の匂い。濡れた草の匂い。
冬の匂いじゃない。
校舎の窓が、遠くで光っている。
いつもの学校。
いつもの町。
それが戻るだけで、十分だった。
翌朝、掲示板の渦線は薄くなっていた。
消えてはいない。けれど、目に入ってこない。
「解決、だね」
メイヴが言う。
「被害なし」
フィンが言う。
「誰も歌ってない」
ニアムが言う。
「先生も怒鳴ってない」
メイヴが付け足す。
「そこ基準なの?」
「大事」
エルマは笑ってから、少しだけ真面目な顔になる。
──今回も、誰も勝たなかった。
ただ、春が渡った。
それだけだ。
それだけで済んだ。
※インボルク(Imbolc)は、冬の終わりと春の訪れを告げる頃の祭り(地域差あり)
※ブリギッド(Brigid)は、火や詩、癒しなどに結びつけられる存在として知られる(解釈はいろいろ)




