狩りと角の王 前編
最初に騒いだのは、牧場主のオドネルだった。
「羊が消えた」
朝の職員室でそう言ったらしい、とミセス・ブラウンが渋い顔で伝えたのが発端だった。
町は小さい。
羊が一頭減れば、翌朝には噂になる。三頭となれば、夕方には物語になる。
「夜のうちに消えたそうです」
先生は続けた。
「吠える犬もいなかった。見張りも何も聞いていない」
聞こえなかった、というのが一番不気味だった。
「柵は壊れていない。血もない。足跡も途中で消えている。……あなたたち、こういう話に詳しいでしょう」
「雑なくくりですね」
フィンが即答した。
「否定はしませんが」
メイヴが肩をすくめる。
エルマは窓の外を見た。校舎の向こう、緩やかな丘の先に広がる草原。その向こうに、森がある。町の誰もが知っている森だ。けれど、誰も奥へは入らない。
「犬とか、盗難とかでは?」
ニアムが控えめに言う。
「犬なら羊は騒ぎます。盗難なら足跡が残る」
ミセス・ブラウンは腕を組んだ。
「警察は様子見だそうです。様子を見ている間に増えたら困るのは、牧場主です」
「増える前提なんだ」
メイヴが小さく呟いた。
ローワンは何も言わず、机の上に置かれた牧場の簡単な地図を見ていた。森に面した区画だけ、丸で囲われている。
「……森側ですね」
「ええ」
先生は頷く。
「柵のすぐ向こうが森です」
それだけで、五人は顔を見合わせた。
理由はない。だが、森側と聞けば、理由は十分だった。
*
放課後、五人とミセス・ブラウンは牧場へ向かった。
草原は広く、風が滑るように走っている。丘の上から見下ろすと、羊は白い点の群れにしか見えない。
丘の中央が、わずかに盛り上がっているのにエルマは気づいた。
「ここ、平らじゃないよね」
「石塚の跡だ」
ローワンが答える。
今は石はほとんど残っていない。ただ、草の色が円形に違う。外側より、内側がわずかに淡い。
「昔、夏至祭をやってたって聞いた」
ニアムが言う。
「火を焚いて、円を囲んで踊るやつ?」
「うん。古い地誌にある」
「円好きだよね、この土地」
メイヴが肩をすくめる。
フィンは丘を見回す。
「円は囲いでもあり、狩り場でもある」
「物騒」
「事実」
エルマは足元の草を踏む。
円の内側は、ほんの少しだけ音が遅い。
「昔は『狩り神の丘』って呼ばれていたらしい」
ローワンが言う。
「今は?」
「言わなくなった」
丘は穏やかだ。羊もいる。風もある。
だが、形は残っている。
囲いの形。
「平和だね」
メイヴが言った。
「今その単語使うの?」
エルマが即座に返す。
「だってさ、ほら」
確かに平和だった。羊はのんびり草を食み、空は高く、雲は薄い。空気は澄みすぎている。
澄みすぎている、のが嫌だった。
「消えたのは三頭です」
オドネルが言う。
「一晩で」
「三頭」
フィンが復唱する。
「数は正確ですか」
「当たり前だ」
オドネルは即座に答えた。
「数えるのが仕事だ。減るなら、理由があるはずだ」
怒鳴らない。だが、声の奥に焦りがある。
失うことに慣れていない人間の声だった。
「もちろんだ。数えない日はない」
牧場主の声は怒っているわけではない。ただ、困っている。
エルマは柵に近づいた。壊れていない。内側の地面も荒れていない。
「……血もない」
ニアムが小さく言う。
「犬なら、もっと騒ぎます」
羊は落ち着いている。怯えた様子がない。
「数は減っているのに、空気が減っていない」
フィンがぽつりと言う。
「それ、わかる」
メイヴが頷いた。
ローワンがしゃがみ込み、地面を指でなぞる。
「足跡はある」
「あるの?」
「途中まで」
五人は視線を追った。
羊の蹄の跡。草が踏みしだかれた線。柵の近くまで続いている。
そして、森に向かう手前で――消えている。
「……消えた、ってこういう意味?」
エルマが呟く。
足跡は途切れているのではない。唐突に終わっている。
森側には何もない。
「跳んだ、ってこと?」
メイヴが言う。
「三頭まとめて?」
「それは無理がある」
フィンは冷静だった。
ローワンは立ち上がり、森の方を見た。
風が、草を撫でている。森は動かない。
「……あっちです」
「森に入るの?」
ミセス・ブラウンの声が、わずかに低くなる。
「まだ入らない」
ローワンは答えた。
「縁まで」
森と草原の境は、思ったより曖昧だった。
だが、丘の円と森の影は、一直線に繋がっている。
「祭りは丘。狩りは森」
ニアムがぽつりと言う。
「合理的すぎる」
メイヴが嫌そうに言った。
ローワンは森を見つめたまま言う。
「合理的な構造は、今も使える」
風が、森の奥へ流れていく。
エルマは一瞬、ぞっとした。
囲うための地形。
追うための配置。
偶然ではない。
*
森の縁は、草原と違って影が濃い。
境界石がひとつ、半ば草に埋もれている。誰も手入れしないが、誰も動かさない石だ。
「古いですね」
フィンが言う。
「触るなよ」
メイヴが先に釘を刺す。
「触らない」
ローワンは石を越えず、地面だけを見る。
「……ある」
草の間に、細い跡。
「鹿?」
ニアムが言う。
蹄の跡は、羊より細く、整っている。
「鹿の足跡だね」
フィンが頷く。
「でも」
「でも?」
「綺麗すぎる」
確かにそうだった。
鹿の足跡は乱れていない。一直線でもない。むしろ──円を描いている。
森の入口を囲うように。
「これ」
エルマが言う。
「囲んでる?」
羊を追うのではない。追い詰める配置。
狩りの陣形。
ローワンが短く言った。
「……狩り場だ」
風が止まった。
その瞬間、森の奥で枝が鳴る。
パキン、と乾いた音。
全員が同時に顔を上げた。
見えない。けれど、何かがいる。
「先生」
フィンが静かに言う。
「ここから先は、危険です」
「……そうでしょうね」
ミセス・ブラウンは森を見つめたまま言った。
「私はここまでです」
それは撤退ではない。線引きだった。
五人は境界石の手前で止まる。
森の内側だけ、音が一拍遅れている。
風が吹く。
草が揺れる。
だが、その揺れが森に届くまで、わずかな間がある。
「……遅い」
フィンが呟いた。
「何が」
「反応」
森は動いている。
だが、こちらに合わせてから動く。
まるで、数え終えてから呼吸しているようだった。
鹿の足跡は、森の奥へ続いている。
その奥で、何かがこちらを見ている。
気配は荒くない。
怒りもない。
ただ、数えている。
エルマは、はっきりと理解した。
羊が消えたのではない。
選ばれたのだ。
「……ねえ」
メイヴが小声で言う。
「これ、やばい?」
「やばい」
フィンは迷わなかった。
「神話寄り」
「どの神話」
ローワンは答えなかった。
森の奥、わずかに光が揺れる。
鹿の角の影が、一瞬だけ見えた気がした。
高く、枝分かれした影。
優雅で、無機質で、理不尽な形。
エルマは息を飲む。
名を口にしない。
けれど、町の古い物語を思い出す。
森に王がいる。
角を戴く王。
狩りを司るもの。
枝がもう一度鳴る。
逃げるような音ではない。
知らせるような音でもない。
ただ、存在の確認。
五人は動かない。
森も動かない。
ただ一つ、確かなことがあった。
こちらの人数は、すでに把握されている。
そのとき、エルマは気づいた。
森に入ってから、精霊の声が一度もしていない。
いつもなら、囁きがある。
薄い笑いがある。
無責任な警告がある。
だが今は、何もない。
拒絶でもない。
歓迎でもない。
ただ、遮断。
胸の奥を、静かに測られる感覚があった。
触れられてはいない。
だが、数えられた。
対象ではない。
獲物でもない。
──では、何だ。
森の奥で、角の影がわずかに揺れた。
踏み出さない。
威嚇もしない。
ただ、構造としてそこにある。
鹿の足跡の円は完成している。
狩りは始まっていない。
だが、囲いは閉じている。
森は静かだった。
それは何も起きていない静けさではない。
選別が終わったあとの、優雅な静けさだった。




