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モーンの森の事件録━━ケルトの森で  作者: 宮生さん太


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13/18

狩りと角の王 前編


 最初に騒いだのは、牧場主のオドネルだった。


「羊が消えた」


 朝の職員室でそう言ったらしい、とミセス・ブラウンが渋い顔で伝えたのが発端だった。


 町は小さい。

 羊が一頭減れば、翌朝には噂になる。三頭となれば、夕方には物語になる。


「夜のうちに消えたそうです」


 先生は続けた。


「吠える犬もいなかった。見張りも何も聞いていない」


 聞こえなかった、というのが一番不気味だった。


「柵は壊れていない。血もない。足跡も途中で消えている。……あなたたち、こういう話に詳しいでしょう」


「雑なくくりですね」


 フィンが即答した。


「否定はしませんが」


 メイヴが肩をすくめる。


 エルマは窓の外を見た。校舎の向こう、緩やかな丘の先に広がる草原。その向こうに、森がある。町の誰もが知っている森だ。けれど、誰も奥へは入らない。


「犬とか、盗難とかでは?」


 ニアムが控えめに言う。


「犬なら羊は騒ぎます。盗難なら足跡が残る」


 ミセス・ブラウンは腕を組んだ。


「警察は様子見だそうです。様子を見ている間に増えたら困るのは、牧場主です」


「増える前提なんだ」


 メイヴが小さく呟いた。


 ローワンは何も言わず、机の上に置かれた牧場の簡単な地図を見ていた。森に面した区画だけ、丸で囲われている。


「……森側ですね」


「ええ」


 先生は頷く。


「柵のすぐ向こうが森です」


 それだけで、五人は顔を見合わせた。


 理由はない。だが、森側と聞けば、理由は十分だった。


 *


 放課後、五人とミセス・ブラウンは牧場へ向かった。


 草原は広く、風が滑るように走っている。丘の上から見下ろすと、羊は白い点の群れにしか見えない。


丘の中央が、わずかに盛り上がっているのにエルマは気づいた。


「ここ、平らじゃないよね」


「石塚の跡だ」


 ローワンが答える。


 今は石はほとんど残っていない。ただ、草の色が円形に違う。外側より、内側がわずかに淡い。


「昔、夏至祭をやってたって聞いた」


 ニアムが言う。


「火を焚いて、円を囲んで踊るやつ?」


「うん。古い地誌にある」


「円好きだよね、この土地」


 メイヴが肩をすくめる。


 フィンは丘を見回す。


「円は囲いでもあり、狩り場でもある」


「物騒」


「事実」


 エルマは足元の草を踏む。


 円の内側は、ほんの少しだけ音が遅い。


「昔は『狩り神の丘』って呼ばれていたらしい」


 ローワンが言う。


「今は?」


「言わなくなった」


 丘は穏やかだ。羊もいる。風もある。


 だが、形は残っている。


 囲いの形。


「平和だね」


 メイヴが言った。


「今その単語使うの?」


 エルマが即座に返す。


「だってさ、ほら」


 確かに平和だった。羊はのんびり草を食み、空は高く、雲は薄い。空気は澄みすぎている。


 澄みすぎている、のが嫌だった。


「消えたのは三頭です」


 オドネルが言う。


「一晩で」


「三頭」


 フィンが復唱する。


「数は正確ですか」


「当たり前だ」


 オドネルは即座に答えた。


「数えるのが仕事だ。減るなら、理由があるはずだ」


 怒鳴らない。だが、声の奥に焦りがある。

 失うことに慣れていない人間の声だった。


「もちろんだ。数えない日はない」


 牧場主の声は怒っているわけではない。ただ、困っている。


 エルマは柵に近づいた。壊れていない。内側の地面も荒れていない。


「……血もない」


 ニアムが小さく言う。


「犬なら、もっと騒ぎます」


 羊は落ち着いている。怯えた様子がない。


「数は減っているのに、空気が減っていない」


 フィンがぽつりと言う。


「それ、わかる」


 メイヴが頷いた。


 ローワンがしゃがみ込み、地面を指でなぞる。


「足跡はある」


「あるの?」


「途中まで」


 五人は視線を追った。


 羊の蹄の跡。草が踏みしだかれた線。柵の近くまで続いている。


 そして、森に向かう手前で――消えている。


「……消えた、ってこういう意味?」


 エルマが呟く。


 足跡は途切れているのではない。唐突に終わっている。


 森側には何もない。


「跳んだ、ってこと?」


 メイヴが言う。


「三頭まとめて?」


「それは無理がある」


 フィンは冷静だった。


 ローワンは立ち上がり、森の方を見た。


 風が、草を撫でている。森は動かない。


「……あっちです」


「森に入るの?」


 ミセス・ブラウンの声が、わずかに低くなる。


「まだ入らない」


 ローワンは答えた。


「縁まで」


森と草原の境は、思ったより曖昧だった。


 だが、丘の円と森の影は、一直線に繋がっている。


「祭りは丘。狩りは森」


 ニアムがぽつりと言う。


「合理的すぎる」


 メイヴが嫌そうに言った。


 ローワンは森を見つめたまま言う。


「合理的な構造は、今も使える」


 風が、森の奥へ流れていく。


 エルマは一瞬、ぞっとした。


 囲うための地形。


 追うための配置。


 偶然ではない。


 *


 森の縁は、草原と違って影が濃い。


 境界石がひとつ、半ば草に埋もれている。誰も手入れしないが、誰も動かさない石だ。


「古いですね」


 フィンが言う。


「触るなよ」


 メイヴが先に釘を刺す。


「触らない」


 ローワンは石を越えず、地面だけを見る。


「……ある」


 草の間に、細い跡。


「鹿?」


 ニアムが言う。


 蹄の跡は、羊より細く、整っている。


「鹿の足跡だね」


 フィンが頷く。


「でも」


「でも?」


「綺麗すぎる」


 確かにそうだった。


 鹿の足跡は乱れていない。一直線でもない。むしろ──円を描いている。


 森の入口を囲うように。


「これ」


 エルマが言う。


「囲んでる?」


 羊を追うのではない。追い詰める配置。


 狩りの陣形。


 ローワンが短く言った。


「……狩り場だ」


 風が止まった。


 その瞬間、森の奥で枝が鳴る。


 パキン、と乾いた音。


 全員が同時に顔を上げた。


 見えない。けれど、何かがいる。


「先生」


 フィンが静かに言う。


「ここから先は、危険です」


「……そうでしょうね」


 ミセス・ブラウンは森を見つめたまま言った。


「私はここまでです」


 それは撤退ではない。線引きだった。


 五人は境界石の手前で止まる。


 森の内側だけ、音が一拍遅れている。


 風が吹く。

 草が揺れる。

 だが、その揺れが森に届くまで、わずかな間がある。


「……遅い」


 フィンが呟いた。


「何が」


「反応」


 森は動いている。

 だが、こちらに合わせてから動く。


 まるで、数え終えてから呼吸しているようだった。


 鹿の足跡は、森の奥へ続いている。


 その奥で、何かがこちらを見ている。


 気配は荒くない。


 怒りもない。


 ただ、数えている。


 エルマは、はっきりと理解した。


 羊が消えたのではない。


 選ばれたのだ。


「……ねえ」


 メイヴが小声で言う。


「これ、やばい?」


「やばい」


 フィンは迷わなかった。


「神話寄り」


「どの神話」


 ローワンは答えなかった。


 森の奥、わずかに光が揺れる。


 鹿の角の影が、一瞬だけ見えた気がした。


 高く、枝分かれした影。


 優雅で、無機質で、理不尽な形。


 エルマは息を飲む。


 名を口にしない。


 けれど、町の古い物語を思い出す。


 森に王がいる。


 角を戴く王。


 狩りを司るもの。


 枝がもう一度鳴る。


 逃げるような音ではない。


 知らせるような音でもない。


 ただ、存在の確認。


 五人は動かない。


 森も動かない。


 ただ一つ、確かなことがあった。


 こちらの人数は、すでに把握されている。


 そのとき、エルマは気づいた。


 森に入ってから、精霊の声が一度もしていない。


 いつもなら、囁きがある。

 薄い笑いがある。

 無責任な警告がある。


 だが今は、何もない。


 拒絶でもない。

 歓迎でもない。


 ただ、遮断。


 胸の奥を、静かに測られる感覚があった。

 触れられてはいない。

 だが、数えられた。


 対象ではない。

 獲物でもない。


 ──では、何だ。


 森の奥で、角の影がわずかに揺れた。


 踏み出さない。


 威嚇もしない。


 ただ、構造としてそこにある。


 鹿の足跡の円は完成している。


 狩りは始まっていない。


 だが、囲いは閉じている。


 森は静かだった。


 それは何も起きていない静けさではない。


 選別が終わったあとの、優雅な静けさだった。


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