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モーンの森の事件録━━ケルトの森で  作者: 宮生さん太


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12/18

足音と消さない落書き


 それに最初に気づいたのは、誰だったかはっきりしない。


「……あれ、昨日こんなのあったっけ」


 放課後の廊下。ロッカー脇の掲示板の下、視線を落とさないと見えない位置に、黒い線が残っていた。チョークでもペンでもない、擦れたような文字。


「落書き?」


 メイヴが言って、すぐに眉をひそめる。


「いや、落書きっていうか……なんか変じゃない?」


 フィンが近づく。眼鏡の奥で、文字を一つずつ追う。


「英語、だね。単語自体は簡単。でも……」


「でも?」


「文法が合ってない。いや、合ってるとも言えるけど、意味が成立しない」


 エルマは一歩遅れて見た。

 文字は読める。でも、読んだ瞬間に意味が逃げる。


 ──読めるのに、確定しない。


 その感覚が、嫌だった。


「誰が書いたんだろ」


 メイヴが軽く言う。


「消せばいいんじゃない?」


 その声に応えるように、足音がした。


「何を消すんですか」


 ミセス・ブラウンだった。書類を抱え、眼鏡を鼻にかけたまま、廊下のこちらを見ている。


「ああ、先生。ここに落書きが」


「落書き?」


 近づいて、眉を寄せる。


「……これは、落書き?」


 エルマは、先生の視線の動きを見ていた。

 文字そのものではなく、文字の周囲を見ている。

 読もうとして、読めないものを見るときの目だった。


「……読めます?」


 エルマがそう聞くと、ミセス・ブラウンは少し考えてから頷いた。


「ええ。読めますよ」


 即答ではなかった。


「意味も?」


 今度は、答えが遅れた。


「意味、は……」


 先生は言葉を選び、掲示板から一歩離れた。


「意味を取ろうとすると、変ね」


 それは、この町では珍しい言い回しだった。

 大人が「わからない」と言う前段階の言い方。


「正しい単語が並んでいるのに、文として落ち着かない。

 読むたびに、主語がずれる感じがするわ」


 フィンが、ほんの少しだけ目を細めた。


「読む人によって?」


「ええ。たぶん」


 エルマの背中に、ひやりとしたものが走る。

 それは間違いではない。

 「固定されていない」という感覚だった。


 正しく読めないのではない。

 正しく読めてしまうからこそ、揺れる。


「……消した方がいいわね」


 ミセス・ブラウンはそう言ったが、声に確信がなかった。

 まるで、消すことで別の何かが動く可能性を、無意識に避けているように。


 エルマは思った。

 この落書きは、意味を伝えるためのものじゃない。

 「読もうとした」という事実だけを、残すためのものだ。


 先生がそう言った瞬間、エルマははっきりと違和感を覚えた。

 大人が「判断を保留した」音。


「消しましょう」


 ミセス・ブラウンはきっぱり言った。


「校内の落書きは放置しません。あなたたち、そこを押さえて」


 濡れた布で拭く。

 ──消えない。


 力を入れる。

 ──消えない。


「……?」


 先生がもう一度拭く。

 線は薄くならない。むしろ、目に入ってくる。


「おかしいわね」


 落書きは、雑というより中途半端に丁寧だった。

 勢いで書いた文字ではない。かといって、誰かに見せる前提でもない。


「……これさ」


 メイヴが壁を指さす。


「英語、だよね」


「英語だね」


 フィンは即答したあと、首を傾げた。


「でも、正しくない」


「スペル?」


「スペルは合ってる。単語も合ってる」


「じゃあ何がダメなの」


「文として成立してるのに、意味が確定しない」


 エルマはもう一度、壁を見る。

 読める。意味も、なんとなくわかる。

 なのに、読み取った瞬間に、解釈が一つに定まらない。


「命令文っぽいのに、命令されてる感じがしない」


 ニアムが言った。


「歌詞みたい」


「落書きに?」


「うん。意味より、流れが残るやつ」


 ローワンは一歩下がったまま、短く言った。


「……触るな」


「触ってないよ」


「見すぎるのも、触るのと同じだ」


 そのときだった。


 廊下の奥で、足音が鳴った。


 コツ。


 一歩分だけ。

 振り向いても、誰もいない。


「今、誰か来ました?」


 先生が言う。


「いえ」


 フィンが即答する。


 足音は、追ってこない。

 ただ、そこに混ざる。


 最初におかしくなったのは、数だった。


 五人で歩いている。

 なのに、足音が六つある。


「今、止まって」


 フィンが言う。


 全員が立ち止まった。

 それでも、足音は一つだけ遅れて鳴った。


「……今の、誰?」


「誰も動いてない」


 次におかしくなったのは、位置だった。


 廊下を曲がる。

 曲がった直後、同じ角度で足音がついてくる。


 振り返ると、音が遅れる。

 振り返らなければ、距離が詰まる。


「近い」


 メイヴが言った。


「来てる、よね?」


 答えは出ない。

 出せないまま、足音だけが増える。


 五人が動くと、足音も動く。

 止まると、遅れて止まる。


「……数、合わない」


 フィンが低く言った。


「何が」


「足音の数」


 ミセス・ブラウンは一瞬だけ黙った。


「……気のせいです」


 言い切りだった。

 大人の声だ。


「この件は私が報告します。あなたたちは教室に戻りなさい」


「先生が?」


「はい。職員室に行きます」


 そう言って、先生は歩き出す。


 足音が、一つ減った。


「……ねえ」


 メイヴが走りながら言った。


「これさ、落書きと足音、関係あるよね」


「ある」


 フィンは即答した。


「ただし、証明はできない」


「早くない?」


「できないものはできない」


 エルマは息を整えながら、廊下の壁を見た。

 あの文字。読めるのに、意味が確定しない線。


「落書きが原因?」


「原因、というより……媒介」


「なにそれ」


「意味を固定しないものは、境界の縁に近い」


 フィンは言葉を選んでいる。

 選びすぎて、わざと曖昧にしている。


「消そうとした時点で、こっちが踏み込んだ」


「じゃあ足音は?」


「人数が合わない」


 その言い方が、妙に冷静だった。


「五人で動いて、六人分鳴ってる。

 追ってこない。導かない。ただ、位置だけ合わせてくる」


「……ついてきてる、ってやつ?」


 メイヴが言うと、フィンは首を横に振った。


「違う。合わせてるだけ。

 こっちが正常だと決めた配置に」


 エルマは一瞬、嫌な想像をした。

 正常。正しい人数。正しい意味。


「つまり」


 ローワンが静かに言う。


「間違ってるままなら、動かない」


 フィンはそれに、はっきり頷いた。


「境界が絡むと、正そうとした側が負ける」


 減ったのに、空気は軽くならない。


「……ねえ」


 メイヴが小声で言う。


「今の、安心できるやつ?」


 できなかった。


 その直後、足音がまた鳴った。


 今度は、近い。


 廊下の角。

 掲示板の裏。

 見えないのに、距離だけがわかる。


「やばい」


 誰が言ったかわからない。


 走る。

 走ると、足音も走る。


「追ってきてる?」


「追ってない」


「じゃあ何!」


「……ついてきてる」


 階段を下りる。

 一段、遅れて足音。


 上がる。

 同じ。


「歌う?」


 メイヴが言う。


「ダメ」


 ニアムは即答した。


「今回は、違う」


 エルマは息を整えながら、壁を見た。


 あの落書き。


 意味を読もうとした瞬間から、始まった。


「……触らなきゃよかった?」


「違う」


 フィンが首を振る。


「消そうとしたのが、間違い」


「消さないと、落書きは残る」


「でも、正しく直そうとしたのが問題だった」


 足音が、すぐ後ろで止まる。


 エルマは、わかった。


「……間違ったままでいい」


 全員が、彼女を見る。


「読まない。直さない。消さない」


「放置?」


「無視」


 足音が、ひとつ、遠のいた。


「……ほんとだ」


 完全には消えない。

 でも、距離が開く。


 五人は、そのまま廊下を離れた。


 翌日。


 落書きは、薄く残っていた。

 誰も気にしない位置で。


 報告書にはこう書かれた。


 原因不明の落書き。被害なし。


「解決、だね」


 メイヴが言う。


「そうだね」


 エルマは答えた。


 誰も泣いていない。

 誰も歌っていない。


 それで十分なはずだった。


 ただ、エルマは思った。


 ──今回も、誰も何もしていない。


 その事実だけが、少しだけ、怖かった。


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