足音と消さない落書き
それに最初に気づいたのは、誰だったかはっきりしない。
「……あれ、昨日こんなのあったっけ」
放課後の廊下。ロッカー脇の掲示板の下、視線を落とさないと見えない位置に、黒い線が残っていた。チョークでもペンでもない、擦れたような文字。
「落書き?」
メイヴが言って、すぐに眉をひそめる。
「いや、落書きっていうか……なんか変じゃない?」
フィンが近づく。眼鏡の奥で、文字を一つずつ追う。
「英語、だね。単語自体は簡単。でも……」
「でも?」
「文法が合ってない。いや、合ってるとも言えるけど、意味が成立しない」
エルマは一歩遅れて見た。
文字は読める。でも、読んだ瞬間に意味が逃げる。
──読めるのに、確定しない。
その感覚が、嫌だった。
「誰が書いたんだろ」
メイヴが軽く言う。
「消せばいいんじゃない?」
その声に応えるように、足音がした。
「何を消すんですか」
ミセス・ブラウンだった。書類を抱え、眼鏡を鼻にかけたまま、廊下のこちらを見ている。
「ああ、先生。ここに落書きが」
「落書き?」
近づいて、眉を寄せる。
「……これは、落書き?」
エルマは、先生の視線の動きを見ていた。
文字そのものではなく、文字の周囲を見ている。
読もうとして、読めないものを見るときの目だった。
「……読めます?」
エルマがそう聞くと、ミセス・ブラウンは少し考えてから頷いた。
「ええ。読めますよ」
即答ではなかった。
「意味も?」
今度は、答えが遅れた。
「意味、は……」
先生は言葉を選び、掲示板から一歩離れた。
「意味を取ろうとすると、変ね」
それは、この町では珍しい言い回しだった。
大人が「わからない」と言う前段階の言い方。
「正しい単語が並んでいるのに、文として落ち着かない。
読むたびに、主語がずれる感じがするわ」
フィンが、ほんの少しだけ目を細めた。
「読む人によって?」
「ええ。たぶん」
エルマの背中に、ひやりとしたものが走る。
それは間違いではない。
「固定されていない」という感覚だった。
正しく読めないのではない。
正しく読めてしまうからこそ、揺れる。
「……消した方がいいわね」
ミセス・ブラウンはそう言ったが、声に確信がなかった。
まるで、消すことで別の何かが動く可能性を、無意識に避けているように。
エルマは思った。
この落書きは、意味を伝えるためのものじゃない。
「読もうとした」という事実だけを、残すためのものだ。
先生がそう言った瞬間、エルマははっきりと違和感を覚えた。
大人が「判断を保留した」音。
「消しましょう」
ミセス・ブラウンはきっぱり言った。
「校内の落書きは放置しません。あなたたち、そこを押さえて」
濡れた布で拭く。
──消えない。
力を入れる。
──消えない。
「……?」
先生がもう一度拭く。
線は薄くならない。むしろ、目に入ってくる。
「おかしいわね」
落書きは、雑というより中途半端に丁寧だった。
勢いで書いた文字ではない。かといって、誰かに見せる前提でもない。
「……これさ」
メイヴが壁を指さす。
「英語、だよね」
「英語だね」
フィンは即答したあと、首を傾げた。
「でも、正しくない」
「スペル?」
「スペルは合ってる。単語も合ってる」
「じゃあ何がダメなの」
「文として成立してるのに、意味が確定しない」
エルマはもう一度、壁を見る。
読める。意味も、なんとなくわかる。
なのに、読み取った瞬間に、解釈が一つに定まらない。
「命令文っぽいのに、命令されてる感じがしない」
ニアムが言った。
「歌詞みたい」
「落書きに?」
「うん。意味より、流れが残るやつ」
ローワンは一歩下がったまま、短く言った。
「……触るな」
「触ってないよ」
「見すぎるのも、触るのと同じだ」
そのときだった。
廊下の奥で、足音が鳴った。
コツ。
一歩分だけ。
振り向いても、誰もいない。
「今、誰か来ました?」
先生が言う。
「いえ」
フィンが即答する。
足音は、追ってこない。
ただ、そこに混ざる。
最初におかしくなったのは、数だった。
五人で歩いている。
なのに、足音が六つある。
「今、止まって」
フィンが言う。
全員が立ち止まった。
それでも、足音は一つだけ遅れて鳴った。
「……今の、誰?」
「誰も動いてない」
次におかしくなったのは、位置だった。
廊下を曲がる。
曲がった直後、同じ角度で足音がついてくる。
振り返ると、音が遅れる。
振り返らなければ、距離が詰まる。
「近い」
メイヴが言った。
「来てる、よね?」
答えは出ない。
出せないまま、足音だけが増える。
五人が動くと、足音も動く。
止まると、遅れて止まる。
「……数、合わない」
フィンが低く言った。
「何が」
「足音の数」
ミセス・ブラウンは一瞬だけ黙った。
「……気のせいです」
言い切りだった。
大人の声だ。
「この件は私が報告します。あなたたちは教室に戻りなさい」
「先生が?」
「はい。職員室に行きます」
そう言って、先生は歩き出す。
足音が、一つ減った。
「……ねえ」
メイヴが走りながら言った。
「これさ、落書きと足音、関係あるよね」
「ある」
フィンは即答した。
「ただし、証明はできない」
「早くない?」
「できないものはできない」
エルマは息を整えながら、廊下の壁を見た。
あの文字。読めるのに、意味が確定しない線。
「落書きが原因?」
「原因、というより……媒介」
「なにそれ」
「意味を固定しないものは、境界の縁に近い」
フィンは言葉を選んでいる。
選びすぎて、わざと曖昧にしている。
「消そうとした時点で、こっちが踏み込んだ」
「じゃあ足音は?」
「人数が合わない」
その言い方が、妙に冷静だった。
「五人で動いて、六人分鳴ってる。
追ってこない。導かない。ただ、位置だけ合わせてくる」
「……ついてきてる、ってやつ?」
メイヴが言うと、フィンは首を横に振った。
「違う。合わせてるだけ。
こっちが正常だと決めた配置に」
エルマは一瞬、嫌な想像をした。
正常。正しい人数。正しい意味。
「つまり」
ローワンが静かに言う。
「間違ってるままなら、動かない」
フィンはそれに、はっきり頷いた。
「境界が絡むと、正そうとした側が負ける」
減ったのに、空気は軽くならない。
「……ねえ」
メイヴが小声で言う。
「今の、安心できるやつ?」
できなかった。
その直後、足音がまた鳴った。
今度は、近い。
廊下の角。
掲示板の裏。
見えないのに、距離だけがわかる。
「やばい」
誰が言ったかわからない。
走る。
走ると、足音も走る。
「追ってきてる?」
「追ってない」
「じゃあ何!」
「……ついてきてる」
階段を下りる。
一段、遅れて足音。
上がる。
同じ。
「歌う?」
メイヴが言う。
「ダメ」
ニアムは即答した。
「今回は、違う」
エルマは息を整えながら、壁を見た。
あの落書き。
意味を読もうとした瞬間から、始まった。
「……触らなきゃよかった?」
「違う」
フィンが首を振る。
「消そうとしたのが、間違い」
「消さないと、落書きは残る」
「でも、正しく直そうとしたのが問題だった」
足音が、すぐ後ろで止まる。
エルマは、わかった。
「……間違ったままでいい」
全員が、彼女を見る。
「読まない。直さない。消さない」
「放置?」
「無視」
足音が、ひとつ、遠のいた。
「……ほんとだ」
完全には消えない。
でも、距離が開く。
五人は、そのまま廊下を離れた。
翌日。
落書きは、薄く残っていた。
誰も気にしない位置で。
報告書にはこう書かれた。
原因不明の落書き。被害なし。
「解決、だね」
メイヴが言う。
「そうだね」
エルマは答えた。
誰も泣いていない。
誰も歌っていない。
それで十分なはずだった。
ただ、エルマは思った。
──今回も、誰も何もしていない。
その事実だけが、少しだけ、怖かった。




