境界の外から戻った子 後編
翌日、学校はいつも通りだった。
チャイムは鳴り、廊下は少しだけうるさい。
誰かが扉を乱暴に閉めて、ミセス・ブラウンが怒鳴る。
──何も起きていない。
少なくとも、表向きは。
エルマはその「何も起きていない」を、きちんと感じ取れてしまう自分に、少しだけ安心していた。
足元は確かで、触れたものは消えず、立ち止まる理由もない。
「昨日の件、完全に収束だって」
フィンが、報告書を閉じながら言う。
声に引っかかりはない。
「被害なし、だよね」
メイヴが軽く言って、笑う。
その笑いに、迷いはなかった。
ニアムも頷いた。
頷くまでの間が、いつもより短い。
そのときだった。
エルマの頭の中が、ほんの一瞬だけ軽くなった。
軽い、というより、戻る。
戻るというより、取り戻す。
「やめたほうがいいかもしれない」という感覚が、喉元まで戻ってくる。
エルマは息を止めた。
フィンが眼鏡を押さえる。
メイヴが肩をすくめる前に固まる。
ニアムが喉に触れかけて、触れずに止める。
ローワンが一度だけ眉を動かす。
「……戻った?」
メイヴが小声で言う。
「何が」
「なんか、私、今考え直した」
フィンが低く言う。
「……検討の余地が戻ってる」
ニアムは笑わなかった。笑う前に、口を押さえた。
「……いやだ」
「何が」
「戻ってるのが」
ローワンが子供を見た。
子供は平気な顔をしている。平気すぎる顔。怖がらない顔。
怖がらないのが強いわけじゃない。違うだけだ。
エルマは理解したくない理解をしてしまう。
境界に入った時点で、何かが動いた。
自分たちは「使ってない」と思った。
でもそれは本当にそうだろうか。
──チチチ。
『境が』
『人数で』
『薄くなった』
勝手に交換が走った。
──チチチ。
『選択なし』
『合意なし』
『拒否なし』
戻った途端、精霊たちはうるさかった。
「ねえ」
エルマは子供に声をかける。声が震えないように、軽く。
「さっき、川、面白かったって言ったよね」
「うん」
「今も?」
子供は少し考えて、答えた。
「……わかんない。面白いって、どういうやつだっけ」
その一言で、全員の顔が固まった。
面白いの定義が消える。
それは、子供にとって致命的だ。日常の輪郭が削れる。
ニアムが息を数え始めた。声にしないで。指先だけで。
一、二、三。
そこで止まる。歌うためじゃない。止めるために数えている。
ローワンが、子供の肩に手を置いた。
置いてから、すぐに離した。触れたことで確定したくない。
「……帰ろう」
ローワンが言った。命令でも提案でもない。結論だけ。
*
学校へ戻る道で、メイヴが後ろを振り返った。
「……あれ、さ」
「言うな」
エルマが反射で止める。
「言わないと、ただの変な事故で終わる」
「事故で終わってほしい」
「終わらないのがこの町だよ」
フィンが淡々と挟む。
「通っただけ、って可能性がある」
「通っただけ?」
メイヴは口角を上げて、冗談みたいに言った。
「ケルピー、とか?」
誰も笑わなかった。
笑えないくらい、ちょうど合う言葉だった。
ニアムが小さく言う。
「……悪意はないのに?」
「悪意がないほうが危ない」
フィンが答える。
「避けられないから」
子供は黙って歩いていた。
黙っているのに、怖がっていない。
怖がらないのは勇気じゃない。何かが欠けている。
校門が見えたとき、子供が突然、車道へ一歩出た。
車は来ていなかった。
来ていないのに、その一歩が危ないと判断できない歩き方だった。
「危ない!」
エルマが腕を掴んで引き戻す。
引き戻してから、自分の心臓が遅れてドキドキしたことに気づく。
遅れて?──遅れが戻っている。自分の中のブレーキが戻っている。
その代わりに、子供の中のブレーキが消えている。
等価。
合計。
五人の少し分が、一人に乗る。
エルマは笑えなかった。
笑いの前にある躊躇が、戻ってしまったから。
*
その夜、子供は家に帰った。
「大丈夫そうだった」と大人は言った。
大丈夫そうに見えるのが一番怖いのに、誰も知らない。
翌朝、学校には報告書が一枚だけ回った。
原因不明の迷子。保護。被害なし。再発防止の注意喚起。
被害なし。
エルマはその四文字を見て、吐き気がした。
被害はある。しかも、見えないところに。
耳元で精霊が鳴いた。
──チチチッ。
『触れた』
『戻った』
『代価』
「代価って何」
精霊は答えない。
代わりに、遠く──森の方から、言葉にならない気配が落ちてくる。
見ている。
測っている。
比べている。
そして、記録している。
その記録が、誰のものかは、まだわからない。
ただ一つだけ確かなのは。
五人はこの日、力を使わずに解決したと思い込んだ。
その思い込みごと、危険だった。
ちいさな力が危険なのではない。
ちいさな力が、土地と繋がった瞬間に、勝手に質を変える。
そんなことは誰も思わなかったし、考えもしなかった。
そして誰かが、その代価をまとめて払うなど。
そんなことは今まで起きたこともない。
聞いたことさえない。
それでも、子供はどこかがおかしい。
エルマたちもどこかが違った。
だから、エルマは平和だと言わなかった。
言わなくても、壊れる日は来る気がする。
*
その日は、本当に何も起きていなかった。
少なくとも、五人の周囲では。
「今日さ、全部うまくいってない?」
メイヴが階段を二段飛ばしで降りながら言った。
「それフラグ」
「折る気で言ってるから大丈夫」
「折れてる人、見たことない」
エルマは笑いながら答えた。
笑える。ちゃんと。
笑う前に一瞬だけ入るはずの「今笑っていいのかな」という躊躇が、今日はきれいにない。
それが快適で、少し気持ち悪い。
ニアムは鼻歌を歌っていた。
声量は抑えているけど、音程が安定している。
「調子いい?」
エルマが聞くと、ニアムは即答した。
「いい」
即答すぎる。
ローワンはそれを横目で見て、何も言わなかった。
判断しない、をちゃんと続けている顔。
フィンはノートを閉じて言う。
「昨日の件、報告上は完全に収束」
「だよね」
「被害なし」
「よかった」
全員、自然に頷いた。
それで話は終わる。
終わるはずだった。
*
昼休み、中庭は騒がしかった。
サンドイッチの紙袋。
スコーンの粉。
誰かが落としたリンゴが転がる音。
「今日さ、エルマ」
メイヴが唐突に言う。
「何」
「私、変なこと考えた」
「やめて」
「次も大丈夫って」
エルマは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……それ、悪くない?」
「悪くないよね」
「悪くないけど」
ローワンが口を挟む。
「……次を前提にするのは、危ない」
「でもさ」
メイヴは肩をすくめる。
「昨日、何もしてないじゃん。歌ってないし。力も使ってない」
「そう」
「だから、被害なし」
理屈としては、正しい。
ニアムも頷いた。
「……私も、そう思う」
その言い方が軽い。
軽すぎる。
でも、エルマは止めなかった。
止める理由を、うまく見つけられなかった。
*
その日の放課後。
校門の外が少しだけ騒がしかった。
「救急車?」
「事故らしいよ」
「誰?」
誰かが言った名前に、エルマは足を止めた。
──昨日の、あの子。
川のところで座り込んでいた、低学年の子。
「階段から落ちたって」
「走ってたらしい」
「前見てなかったって」
完全に事故だった。
押した者も、誘導した者もいない。
不運。
よくある話。
五人は顔を見合わせた。
「……関係ないよね」
メイヴが言う。
「うん」
フィンも頷く。
「因果関係は認められない」
「昨日とは別件」
ローワンは何も言わなかった。
ニアムが、少しだけ遅れて言う。
「……意識は?」
「ないって」
「歩ける?」
「わからない」
エルマの胸の奥で、
昨日戻ってきたはずの躊躇が、また微かに震えた。
でも、五人は立ち止まらない。
立ち止まる理由が、共有できない。
*
翌日。
その子は学校に来なかった。
代わりに、先生が言った。
「しばらく入院するそうです」
「大事にはならない、って」
その言い方が、昨日と同じだった。
被害なし。
大事ではない。
五人は、普通に授業を受けた。
ニアムは発言が増えた。
メイヴは冗談が冴えた。
フィンは考えすぎなくなった。
ローワンは、判断を保留したままだ。
エルマだけが、教室の階段を見ていた。
あの子が落ちた段。
手すりはちゃんとある。
段差も普通。
危険な構造じゃない。
なのに。
「やめたほうがいい」という判断が、あの子の中にはなかった。
それだけのこと。
それだけで、人は落ちる。
*
放課後、五人はいつもの場所に集まった。
「……私たち、無事だね」
メイヴが言う。
「無事」
全員が頷く。
それは事実だ。
誰も削られていない。
むしろ、少し楽になっている。
だから余計に、誰も言えない。
代わりに誰かが払った、とは。
エルマは空を見上げた。
雲の形が、昨日より少しだけはっきりしている。
世界は元に戻っているように見える。
──見えるだけだ。
精霊が、遠くで鳴いた。
──チチチッ。
『等価』
『合算』
『誤差』
誤差。
その言葉が、いちばん怖かった。
五人は今日も帰る。
被害なし、と思いながら。
ただ、森だけは見ていた。
※ ケルピー:(スコットランド語でkelpie, kelpy) 馬の姿をした水の精霊Water Spirits




