境界の外から戻った子 前編
その日の昼休み、エルマは「平和だ」と口にしなかった。
口にすると壊れる。これまでの数々の事件で学んだ。学びが多いのに成績に反映されないのは納得いかない。
「今日、なんもないね」
メイヴが紙袋のサンドイッチを振りながら言う。具はチーズとピクルス。匂いが強い。
「なんもないって言うと来るやつ」
「でも来たら面白いでしょ?」
「面白さのコストが高い」
フィンが眼鏡を押し上げる。
「面白いと危険は両立するからね」
「真顔で言うな」
ニアムは喉元に手を近づけかけて、やめた。癖の手前で止める動作だけが残る。ローワンはいつも通り、遠くを見ている。
森ではなく、校庭の端の柵のほう。そこは川へ下りる小道の入口だった。
そこへ、ミセス・ブラウンの声が飛んできた。
「あなたたち! 昼休みに外へ行くんじゃありません!」
「外ってどの外ですか!」
メイヴが反射で返す。
「どの外でも!」
先生は言い切ってから、顔をしかめた。
「……今、誰か泣いてた?」
泣き声は確かにした。遠く、川の方から。声は小さいのに、耳の奥に残る泣き方だった。
エルマは立ち上がってしまっていた。
立ち上がってから、自分で舌打ちした。そういう日だ。
「行く?」
メイヴが笑う。
「行かないって言える空気?」
フィンがすでに周囲を観察している。校庭の端、柵、下り道。生徒は誰も近づいていない。
近づいていないのに、そこだけ人の視線が少ない。
ニアムが小さく呟いた。
「……歌うやつ?」
「違う。たぶん」
エルマは即答して、自分の声の速さに少し驚いた。止める前の余白がない。気にしないふりをして、歩き出す。
ローワンが遅れてついてきた。
「……行くんだ」
「行かないと、先生が行く」
「先生が行くの、面白いよね」
メイヴが言って、次の瞬間に真顔になる。
「でも、危ない」
面白いと危ないは両立する。フィンの言葉が刺さった。
*
川へ下る小道は、普段ならただの近道だった。
でも今日は、空気の温度がそこだけ違う。霧はないのに、湿り気だけがまとわりつく。
柵の向こうで、低学年の子が一人、座り込んでいた。制服のズボンの膝が泥で汚れている。手は震えていないのに、目が落ち着かない。
「大丈夫?」
エルマが膝を折って目線を合わせる。
子供は何度か瞬きをしてから、言った。
「……帰れない」
「どこから?」
「いつもの道」
それが一番困る答えだった。
いつもの道から帰れなくなるのが、この町の嫌なところだ。
フィンが静かに尋ねる。
「君、どこまで行った?」
「川のところまで。石があるとこ」
「石、って……境界の印っぽい石?」
子供は頷く。
「でも、いつも通れる」
「今日は通れなかった?」
「通れた」
子供は言葉を探して、眉を寄せた。
「……通れたけど、戻れなくなった」
その言葉に、エルマは小さく息を吸った。
通れたのに、戻れない。
それはこの町では、珍しくない。
珍しくないからこそ、対処が決まっているはずだった。
境界は越えるものじゃない。
越えてしまったら、戻るまでが一続きだ。
途中で止まることはないし、止まってはいけない。
なのに今、子供は「途中」にいる。
フィンの視線が、川沿いの空間を測るように動く。
メイヴは口元を歪め、冗談を探してやめた。
ニアムは何も言わず、喉から指を離している。
ローワンだけが、まだ何も壊していない。
エルマは気づいていた。
誰も、いつもの役割に入っていない。
入れないのではなく、
入る必要がないと思ってしまっている。
それが一番、危ない。
エルマの耳元で、精霊が鳴った。
──チチチッ。
『薄い』
『踏んだ』
『戻る、遅い』
「遅いって何」
精霊は答えない。答えないのがいつもの答えだ。
ローワンが小道の先を見た。川へ下る段差の途中、石が半分だけ露出している。苔がついていて、誰も気にしないような石。気にしないのが正しい石。
「……あそこ」
「行く?」
エルマが聞くと、ローワンは頷きかけて、止めた。
「行かないほうがいい、って言う?」
メイヴが口を挟む。
「言ってほしい。言ってくれたら帰れる」
ローワンは何も言わなかった。言わない、という判断が先に来ている。
ニアムが子供に毛布代わりのスカーフを渡す。
「寒い?」
「寒くない」
「じゃあ、怖い?」
子供はちょっと考えて、頷いた。
「怖い。でも、なんか……面白い、みたいな」
その言い方が危険だった。
面白さのコストが高い。ここでも。
フィンが小声で言う。
「探すなら、すぐ。境界は薄いまま固まることがある」
「固まるって何」
「戻れないが正解になる」
エルマの背中に寒いものが走る。
「……じゃあ、行くしかない」
ミセス・ブラウンに見つかったら怒鳴られる。怒鳴られるほうがマシだ。
五人は小道を下りた。足元は滑る。石は湿っていないのに、靴底だけが不自然に吸い付く。
川は穏やかだった。水面は普通。鳥もいる。何も起きていない顔。
なのに、音がない。代わりに、水の流れが遠い。
「ここ、歌う必要ある?」
メイヴが冗談めかして言い、すぐに黙る。冗談が冗談にならない空気。
ニアムは首を振った。
「……歌わなくていい。今日は」
その言い方が、少しだけ強かった。強いのが怖い。
エルマは石を見た。苔の下に、浅い刻みがある。ルーンのようにも見えるし、ただの傷にも見える。
フィンが指でなぞろうとして、止めた。
「触れない。今日は触れないほうがいい」
「触れるのが対処じゃないの?」
「触れるのは、人間側の礼儀。境界側の礼儀は別」
「礼儀って何に対して」
エルマが言いかけて、口を閉じた。
言葉にすると確定する。以前の事件で学んだ。先取りしているのが嫌だ。
ローワンが、川辺の草の揺れを見ていた。風は吹いていないのに、草が一度だけ倒れた。なにかが通ったみたいに。
エルマは見ないふりをした。
見ないふりをしたことが、すでに触れている気がして、胃が痛くなる。
「……子供、どこ」
メイヴが呟く。
エルマは振り返った。子供は上にいる。ちゃんと見える。毛布の代わりのスカーフを肩にかけて、こちらを見ている。
見えるのに、距離感だけがずれている。近いのに遠い。届きそうで届かない。
『入った』
『戻った』
『選んだ』
精霊が、やけに短く鳴く。
「誰が選んだの」
返事はない。返事がないのに、空気だけが「済んだ」顔をする。
その瞬間、子供がふらりと立ち上がった。
立ち上がって、何もない空間をまたいだ。
いや、またいだように見えた。
次の瞬間には、子供はエルマの目の前にいた。
距離が戻った。世界の歪みが揃った。
「……戻った」
メイヴが息を吐く。
「戻ったね」
フィンが頷く。
「歌ってない」
エルマが言って、笑いそうになって止まった。
笑うには、ほんの少しだけ早い気がした。
ローワンが子供の顔を覗き込む。
子供は泣いていない。
泣いていないのに、瞳が妙に乾いている。
「大丈夫?」
ニアムが聞くと、子供は首を傾げた。
「……大丈夫」
その答えが、あまりにも即座だった。
エルマは一瞬だけ、言葉を探した。
でも、探す必要はない気がしてしまった。
戻った。
泣いていない。
歌っていない。
それだけ条件が揃っていれば、この町では「解決」と呼んでいい。
「……帰ろう」
エルマはそう言った。
帰れるなら、それでいい。
五人はこの日、力を使わずに解決したと思い込んだ。
迷子は戻り、境界は閉じ、誰も泣かず、誰も歌わなかった。
それで十分だ、とエルマは思った。




