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モーンの森の事件録━━ケルトの森で  作者: 宮生さん太


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10/20

境界の外から戻った子 前編


 その日の昼休み、エルマは「平和だ」と口にしなかった。

 口にすると壊れる。これまでの数々の事件で学んだ。学びが多いのに成績に反映されないのは納得いかない。


「今日、なんもないね」


 メイヴが紙袋のサンドイッチを振りながら言う。具はチーズとピクルス。匂いが強い。


「なんもないって言うと来るやつ」


「でも来たら面白いでしょ?」


「面白さのコストが高い」


 フィンが眼鏡を押し上げる。


「面白いと危険は両立するからね」


「真顔で言うな」


 ニアムは喉元に手を近づけかけて、やめた。癖の手前で止める動作だけが残る。ローワンはいつも通り、遠くを見ている。

 森ではなく、校庭の端の柵のほう。そこは川へ下りる小道の入口だった。


 そこへ、ミセス・ブラウンの声が飛んできた。


「あなたたち! 昼休みに外へ行くんじゃありません!」


「外ってどの外ですか!」


 メイヴが反射で返す。


「どの外でも!」


 先生は言い切ってから、顔をしかめた。


「……今、誰か泣いてた?」


 泣き声は確かにした。遠く、川の方から。声は小さいのに、耳の奥に残る泣き方だった。


 エルマは立ち上がってしまっていた。

 立ち上がってから、自分で舌打ちした。そういう日だ。


「行く?」


 メイヴが笑う。


「行かないって言える空気?」


 フィンがすでに周囲を観察している。校庭の端、柵、下り道。生徒は誰も近づいていない。

近づいていないのに、そこだけ人の視線が少ない。


 ニアムが小さく呟いた。


「……歌うやつ?」


「違う。たぶん」


 エルマは即答して、自分の声の速さに少し驚いた。止める前の余白がない。気にしないふりをして、歩き出す。


 ローワンが遅れてついてきた。


「……行くんだ」


「行かないと、先生が行く」


「先生が行くの、面白いよね」


 メイヴが言って、次の瞬間に真顔になる。


「でも、危ない」


 面白いと危ないは両立する。フィンの言葉が刺さった。


 *


 川へ下る小道は、普段ならただの近道だった。

 でも今日は、空気の温度がそこだけ違う。霧はないのに、湿り気だけがまとわりつく。


 柵の向こうで、低学年の子が一人、座り込んでいた。制服のズボンの膝が泥で汚れている。手は震えていないのに、目が落ち着かない。


「大丈夫?」


 エルマが膝を折って目線を合わせる。

 子供は何度か瞬きをしてから、言った。


「……帰れない」


「どこから?」


「いつもの道」


 それが一番困る答えだった。

 いつもの道から帰れなくなるのが、この町の嫌なところだ。


 フィンが静かに尋ねる。


「君、どこまで行った?」


「川のところまで。石があるとこ」


「石、って……境界の印っぽい石?」


 子供は頷く。


「でも、いつも通れる」


「今日は通れなかった?」


「通れた」


 子供は言葉を探して、眉を寄せた。


「……通れたけど、戻れなくなった」


 その言葉に、エルマは小さく息を吸った。

 通れたのに、戻れない。

 それはこの町では、珍しくない。

 珍しくないからこそ、対処が決まっているはずだった。


 境界は越えるものじゃない。

 越えてしまったら、戻るまでが一続きだ。

 途中で止まることはないし、止まってはいけない。


 なのに今、子供は「途中」にいる。


 フィンの視線が、川沿いの空間を測るように動く。

 メイヴは口元を歪め、冗談を探してやめた。

 ニアムは何も言わず、喉から指を離している。

 ローワンだけが、まだ何も壊していない。


 エルマは気づいていた。

 誰も、いつもの役割に入っていない。


 入れないのではなく、

 入る必要がないと思ってしまっている。


 それが一番、危ない。


 エルマの耳元で、精霊が鳴った。


 ──チチチッ。


『薄い』

『踏んだ』

『戻る、遅い』


「遅いって何」


 精霊は答えない。答えないのがいつもの答えだ。


 ローワンが小道の先を見た。川へ下る段差の途中、石が半分だけ露出している。苔がついていて、誰も気にしないような石。気にしないのが正しい石。


「……あそこ」


「行く?」


 エルマが聞くと、ローワンは頷きかけて、止めた。


「行かないほうがいい、って言う?」


 メイヴが口を挟む。


「言ってほしい。言ってくれたら帰れる」


 ローワンは何も言わなかった。言わない、という判断が先に来ている。


 ニアムが子供に毛布代わりのスカーフを渡す。


「寒い?」


「寒くない」


「じゃあ、怖い?」


 子供はちょっと考えて、頷いた。


「怖い。でも、なんか……面白い、みたいな」


 その言い方が危険だった。

 面白さのコストが高い。ここでも。


 フィンが小声で言う。


「探すなら、すぐ。境界は薄いまま固まることがある」


「固まるって何」


「戻れないが正解になる」


 エルマの背中に寒いものが走る。


「……じゃあ、行くしかない」


 ミセス・ブラウンに見つかったら怒鳴られる。怒鳴られるほうがマシだ。

 五人は小道を下りた。足元は滑る。石は湿っていないのに、靴底だけが不自然に吸い付く。


 川は穏やかだった。水面は普通。鳥もいる。何も起きていない顔。

 なのに、音がない。代わりに、水の流れが遠い。


「ここ、歌う必要ある?」


 メイヴが冗談めかして言い、すぐに黙る。冗談が冗談にならない空気。


 ニアムは首を振った。


「……歌わなくていい。今日は」


 その言い方が、少しだけ強かった。強いのが怖い。


 エルマは石を見た。苔の下に、浅い刻みがある。ルーンのようにも見えるし、ただの傷にも見える。

 フィンが指でなぞろうとして、止めた。


「触れない。今日は触れないほうがいい」


「触れるのが対処じゃないの?」


「触れるのは、人間側の礼儀。境界側の礼儀は別」


「礼儀って何に対して」


 エルマが言いかけて、口を閉じた。

 言葉にすると確定する。以前の事件で学んだ。先取りしているのが嫌だ。


 ローワンが、川辺の草の揺れを見ていた。風は吹いていないのに、草が一度だけ倒れた。なにかが通ったみたいに。


 エルマは見ないふりをした。

 見ないふりをしたことが、すでに触れている気がして、胃が痛くなる。


「……子供、どこ」


 メイヴが呟く。


 エルマは振り返った。子供は上にいる。ちゃんと見える。毛布の代わりのスカーフを肩にかけて、こちらを見ている。

 見えるのに、距離感だけがずれている。近いのに遠い。届きそうで届かない。


『入った』

『戻った』

『選んだ』


 精霊が、やけに短く鳴く。


「誰が選んだの」


 返事はない。返事がないのに、空気だけが「済んだ」顔をする。


 その瞬間、子供がふらりと立ち上がった。

 立ち上がって、何もない空間をまたいだ。

 いや、またいだように見えた。


 次の瞬間には、子供はエルマの目の前にいた。

 距離が戻った。世界の歪みが揃った。


「……戻った」


 メイヴが息を吐く。


「戻ったね」


 フィンが頷く。


「歌ってない」


 エルマが言って、笑いそうになって止まった。

 笑うには、ほんの少しだけ早い気がした。


 ローワンが子供の顔を覗き込む。

 子供は泣いていない。

 泣いていないのに、瞳が妙に乾いている。


「大丈夫?」


 ニアムが聞くと、子供は首を傾げた。


「……大丈夫」


 その答えが、あまりにも即座だった。


 エルマは一瞬だけ、言葉を探した。

 でも、探す必要はない気がしてしまった。


 戻った。

 泣いていない。

 歌っていない。


 それだけ条件が揃っていれば、この町では「解決」と呼んでいい。


「……帰ろう」


 エルマはそう言った。

 帰れるなら、それでいい。


 五人はこの日、力を使わずに解決したと思い込んだ。

 迷子は戻り、境界は閉じ、誰も泣かず、誰も歌わなかった。


 それで十分だ、とエルマは思った。


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