なくなったものは、だいたい近くにある
放課後の空は、薄い灰色だった。雲が低く、校舎の屋根の上をゆっくり流れていく。
雨は降りそうで降らない。降らないくせに、風だけは冷たい。そういう日が、この町には多い。
エルマが廊下を曲がったところで、副担任のミスター・ハートに呼び止められた。
「エルマ、ちょっといいか」
この人の「ちょっと」は、だいたい長い。
「また何かですか」
「うん。……なくなった」
「何が」
「校章」
「校章?」
「掲示板の校章プレート。真鍮のやつ」
エルマは反射で、掲示板を思い浮かべた。生徒会のお知らせ、部活の張り紙、募金箱の告知──その真ん中に、やたら誇らしげに光っていた板。
「それ、重要ですか」
「重要かどうかで言うと、重要じゃない。だが面倒だ」
「重要じゃないなら、面倒じゃないはずでは」
「理屈は嫌いじゃない。だが現実はもっと嫌いだ」
先生は言い切って、廊下の窓の外を見た。霧は薄い。森の方向は、いつもより輪郭がはっきりしている。
「夜にね。鳴くんだ」
「鳴く?」
「チリン……みたいな、金属音」
「校章が鳴くんですか」
「校章が鳴くとしか言いようがない」
エルマは目を細めた。
……それ、だいぶどうでもいい。どうでもいいのに、嫌な気配がする。こういうのが一番厄介だ。
『近い』
耳元で、小さな声。
「近いってどこが」
『そこ』
「そこってどこが」
『そこ』
「会話する気ある?」
『ある』
「じゃあ説明して」
『しない』
「……よし」
エルマは先生に向き直った。
「わかりました。いつものメンバー呼びます」
先生が、見事にほっとした顔をする。
「助かる。君たちは詳しいからね」
「詳しくないです」
「謙遜しなくていい」
「謙遜じゃないです」
先生はにこやかに、話を聞かない。
この町の大人は、都合のいい言葉だけを拾う才能がある。ギフテッドじゃないのに。
*
校庭の隅、雨樋の下でフィンが待っていた。制服の上にコートを羽織り、ノートを抱えている。ノートは新品に見えるが、だいたい中身は地図と落書きだ。
「また呼ばれた?」
開口一番それ。
「校章が鳴く」
エルマが言うと、フィンはちょっと間を置いて返した。
「重要度は」
「低」
「緊急度は」
「さらに低」
「なら、作戦は簡単だ」
「作戦って、校章探すだけだよ」
そこへメイヴが合流した。スカーフをくるっと巻いて、あくびを噛み殺す。
「今日の事件、購買のパン争奪戦と同じ?」
「購買のパンは緊急度高い」
フィンが真顔で言う。
「え、そうなの?」
メイヴが面白そうに笑う。
「じゃあ校章は、パンより下」
「パン以下です」
エルマが宣言すると、メイヴは拍手した。
「歴史に残る判定」
「残らなくていい」
音楽室の方からニアムが出てくる。マフラーを巻き、喉に手を添えたまま言う。
「歌うやつ?」
「歌わない。校章だから」
「校章でも嫌」
「校章は悪くないだろ」
「校章は悪くない。鳴るほうが悪い」
ニアムの理屈はいつも正しい。正しいから困る。
最後にローワンが現れる。無言で、校舎裏の方を見る。
あの視線は、たぶんもう「そこ」を当てている。
「はい、今日の遠足メンバー集合」
エルマは手を叩いた。
「目的地、鳴く校章。持ち物、耳栓。以上」
「耳栓は持ってない」
フィンが真面目に言う。
「大丈夫、鳴くのは夜だけ」
「じゃあ今行く意味は」
「面倒が増える前に終わらせる」
フィンは納得した顔をした。納得の基準が、いつも独特だ。
『近い』
『ある』
『上』
「今日は情報量が少なすぎる」
エルマがぼやくと、精霊は、まるで聞いていないみたいに小さく鳴いた。
──チチチッ。
*
校舎裏の倉庫の扉は、鍵がかかっている。古い鍵だ。古い鍵は、だいたい機嫌が悪い。
メイヴが鍵穴を覗き込みながら、さらっと言った。
「開けていい?」
「開けるのは先生の仕事じゃない?」
「先生を呼ぶと「ちょっと」が増える」
「増えるね」
フィンが即座に同意した。
「じゃあ開けよう」
「それ結論早すぎない?」
エルマが止めても、メイヴは止まらない。止まる理由がない。
「怒られるときは、どうせ怒られるから」
「理屈が最悪」
フィンが言うと、メイヴは勝ち誇ったように微笑んだ。
「理屈が最悪なのは褒め言葉?」
「褒めてない」
ニアムが小声で言う。
「歌えば開く?」
「歌わない」
エルマが即答した瞬間、鍵のあたりで小さく音がした。
『開く』
「うわ、精霊、今だけ協力的」
『面倒』
「面倒なのはこっちだよ」
ローワンが鍵に触れる。
触れた瞬間、鍵が軽く回った。抵抗がない。さっきまでの不機嫌が嘘みたいだ。
「開いた」
メイヴが胸を張る。
「私の勝ち」
「君、何もしてない」
「雰囲気で勝った」
ニアムがぼそっと言う。
「雰囲気って、歌みたい」
「歌わないで」
「歌わない」
*
倉庫の中は、世界の終わりみたいに散らかっていた。
古い椅子、折れたモップ、錆びたベル、スポーツデイの旗、誰かの忘れ物のカトラリー、なぜか片方だけの長靴。埃が積もって、時間が止まっている。
「ここ、時空の境界じゃない?」
エルマが言う。
「止まってるのは掃除だね」
メイヴが即答した。
「掃除の〈終止〉が欠けてる」
フィンが真面目に補足する。
「やめて。急に難しいこと言わないで」
エルマがため息をつく。
フィンは棚を見つめ、論文を書くような顔をしていた。
「探すべきは真鍮。金属音がする」
「金属音ならいっぱいあるけど」
エルマが指差す。トロフィーも、鐘も、カトラリーも、全部鳴る。
「全部鳴く」
ニアムが嫌そうに言った。
「やっぱ歌う?」
「歌わない!」
エルマは二回目の即答をした。
即答が続く日は、だいたい負ける。
『上』
『梁』
『そこ』
「そこが多すぎる!」
エルマが抗議すると、精霊は楽しそうに鳴いた。
『そこ』
「うん、もういい」
エルマは手を叩く。
「フィン、上見て。ローワンも上。メイヴは……邪魔しないで」
「失礼だね」
「邪魔しないで、は褒め言葉」
「理屈が最悪」
フィンがまた言った。
ローワンが無言で、梁のあたりへ視線を投げる。
フィンが同時に見上げ、瞬きひとつで結論を出す。
「……あった」
「早っ!」
メイヴが感動したふりをした。
「フィン、才能。校章探しの才能」
「才能の使い道が悲しい」
ニアムがぼそっと言う。
梁の上に、真鍮のプレートが引っかかっていた。
誇らしげな校章が、埃まみれで情けない。
「なんでこんなところに」
エルマが言うと、精霊が答えた。
『隠した』
「誰が」
『我』
「なんで」
『楽しい』
「返して」
『もういい』
「軽っ」
メイヴが笑う。
「精霊、今日機嫌いいね」
ニアムが眉をひそめる。
「機嫌いいの、怖い」
「わかる」
フィンが頷いた。
「やめてよ、そのコンビ」
エルマは棒で梁をつつき、プレートを落とした。
カン、といい音がした。
「これが鳴いてた音?」
「いい音だね」
「いい音でも夜中に鳴るのは嫌だよ」
「それはそう」
ローワンがプレートを拾い、裏面を指でなぞる。埃の下から、薄い刻みが見えた。
「……これ」
フィンが覗き込む。
「〈隠し〉だね」
校章が鳴いた理由は、精霊の気まぐれじゃない。
裏に刻まれた〈隠し〉が、正しく働いていたからだ。
〈隠し〉は、ただ隠すための刻みじゃない。
見つけられるまで、存在を主張する。
音や違和感として、周囲に知らせ続ける。
だから鳴った。
夜に、誰かが気づくまで。
「え、ルーン?」
「刻み。読むためじゃなくて、置くため」
エルマは眉をひそめる。
「校章に〈隠し〉刻むなよ。誰だよ。先輩? 卒業生?」
『我』
精霊が、また「我」と言った。
エルマは空を仰いだ。
「……はいはい。あなたたちね。楽しかったなら次からは別のものでやって」
『次も楽しい』
「やめて」
『やる』
「やめて!」
メイヴが笑いすぎて肩を震わせる。
「エルマ、今の会話、ほぼ勝ち目なかったね」
「いつも勝ち目ない」
*
夕方、プレートを持って職員室に戻ると、ミスター・ハートは目を丸くした。
「見つかったのか」
「見つかりました。倉庫の梁」
「なぜ梁に」
エルマは言いかけて飲み込んだ。精霊が、というのは面倒が増える。
「……偶然」
先生は頷いた。
この町の大人は、偶然という言葉が好きだ。便利だから。
「助かった。君たちはやっぱり詳しい」
「詳しくないです」
「謙遜しなくていい」
「謙遜じゃないです」
先生はにこやかに、話を聞かない。
職員室を出たところで、エルマは小さく息を吐いた。
空はまだ灰色で、霧は薄い。森は黙っている。
今日は、何も起きていない日に見える。
『また来る』
「今日は来なくていい」
『来る』
「来るな」
『来る』
ローワンが、珍しく口を開いた。
「来るんだろ」
「言わないでよ、それ」
エルマが睨むと、メイヴが楽しそうに笑った。
「青春だね」
「どこが」
「くだらないのに、忘れないやつ」
フィンが真顔で言う。
「忘れたくないのか」
「忘れたい」
ニアムが即答した。
五人で校舎を出る。
石畳の端に、雨の名残が光っている。教会の鐘が遠くで一回だけ鳴った。聞き間違いかもしれない程度の、小さな音。
エルマは歩きながら思う。
今日は何も削れていない。たぶん。
そう思えてしまう日が、いちばん信用ならない──と、知ってはいる。
それでも、笑いながら帰れる日があるなら、今はそれでいい。
『また来る』
「はいはい」
エルマは返して、歩幅を少しだけ速めた。




