六月のリズム
梅雨の時期の喫茶店の中。客の男と店員の女が、好き勝手なことも思う。ダラダラと淡々と。正体は明かされることはなく、仮面を被った登場人物。そして、変な話。
六月のリズム
男は、机に肘を立てて、顔を手のひらで支えていた。その様は、折れないか心配になるほどの細い一本足で地に立つフラミンゴのようであった。男の前には、少し前から口を付けていない飲みかけのブレンド珈琲がある。珈琲から湧きおこる隆々としていた濃い煙は、とっくに萎れた。
男は、窓の外を見ていた。
ブレンド珈琲を配膳した女性店員は、その様子をこっそり見ていた。退屈そうな格好、というのが女性店員から見た男の印象だった。女性店員は、そのような印象を抱いた理由を考えて、今朝ニュースが言っていたことを思い出した。『これから梅雨前線が日本列島に差し掛かり、本格的に梅雨入りします。六月の末、七月の頭まで雨の日が続くでしょう。』要は雨が降ります。この情報を、事細かに天気図や可憐でフレッシュなキャスター、業界用語とビジネスワードで武装され尽くされた言葉で、視聴者へ届けていた。天気の今後についても、分からないという事を、理論や予測、過去の動向など、ありとあらゆる手を使って説明していた。分からないということを。
雨が影響して、この男は退屈に見えるのだろうか?と女性店員は考えた。しかし、その考えしっくりとした手ごたえを掴むことができなかった。なぜなら、もし仮に快晴だったとしても、この男から退屈を奪うことができない、そんなポーズだと女性店員は思った。
女性店員は、視界のピントを男の表情に絞った。眉間にしわを寄せる。最近、日々付け替えているコンタクトレンズが衰えたのかと、疑問がわく。しかし、衰えたのは自分の目の方で、もっと言えば社会に流布されたスマートフォンの影響だった。スマートフォンは、自身の興味のあるものを身勝手に収集し、右手サイズの世界へ引き込み、抜け出せなくするのだ。縛り付けられた世界で、眼球の網膜はブルーライトに削られるのだ。その目で懸命に見る事に集中していると少しずつピントが合ってゆく。
男の表情にはなにも無かった。なにも無さ過ぎて、さきほどまでの懸命を返して欲しいぐらいだった。喜怒哀楽、このどれにも当てはまらない空虚で漠然とした表情だった。勿論、そこには退屈も無かった。男の何も無い表情から、女性店員は気が抜けそうになったほどだった。
じゃなんでこの男の全体から退屈がたちこめるのだろう、と女性店員に新たな疑問が舞い降りた。雨が降っていることが理由ならわかりやすいのに、とも思った。しかし、それは違うのだ。
窓に淡く反射している喫茶店の奥の方を男の視線は捕まえた。喫茶店の中は、使い古されたステッキのような所々黒ずみがある木材で造りこまれていた。黒ずみは汚さが目立つというよりかは、これまでの時間が刻まれているという類のもので、温もりがある。木材の造りと店内の薄暗さが相まって、森の中にいる気分になる内装であった。そのような雰囲気の奥、三十代だと思われる女性店員が映っており、男は捉えた。頭部の上の方で縛られた一本の長い髪の束、人間らしさをできるだけかき消すようなクリーンなマスク、引き締り背筋の伸びた姿勢、大きく目尻の下がった温厚な印象な目。配膳や厨房での仕事ぶりは、店内のジャズも相まってか、小踊りしているようにも、小さな翼が映えているようにも見える。喫茶店の店員として、向いていると評価を得られる人物だろう、と男は思った。
その女性がこちらを見ていることが、不思議でたまらなかった。
なぜ、こちらを見ているのだろう?
顔に、なにか付いているのだろうか?窓を凝らして、自分の顔を見つめるが違和感はない。寝不足で、目が上手に開いていないぐらいの事だ。
では、なんだ?
知り合いという可能性はどうだろうか?だから、話すタイミングをうかがっている……。いやはや、それはない。人の顔を覚えるのは得意なほうですぐにピンとくるはずだ、と男は可能性を一つ消去した。
まさか……(ハート)。
その先を考えて、男は心の中で苦笑した。
馬鹿らしい、馬鹿らし過ぎる、男はまた可能性を消した。そして別の可能性を考え、それも捨て、また思いついて捨て、また捨て。
そのようにやってみて、ぐるぐるまぜまぜ色々と頭の中で移動させた。物思いを巡らすことに無意識のうちに疲れて、窓の女性店員の奥を見た。反射物の奥だ。乱雑に整理された街。見たと言っても目に入っている程度で、心ここに非ず。
そうだわ、明日は休みじゃん、女性店員は退屈そうな男を見ていて、脈絡もなく急に思い出した。
女性店員が働いている喫茶店は火曜日が定休日で、日付は月曜日に針を落とす。
退屈そうな男を見て、退屈の原因が何なのか思考を凝らすことに、女性店員は退屈となり、思考は日常へと舞い戻った。鳥が巣へ戻るみたいに、ひらりと戻ったのだ。掃除は絶対するとして、うーんほか何しよう。明日もどうせ雨だから、出かけるのはやめよう。うん、映画を観るのがよさそうだ、でもなあ、この間観た映画はイマイチだったなあ、役者の演技も、映画の展開も、雰囲気からパッとしなかったな。イマイチな映画を観た休日は、休日自体がイマイチにしちゃった感じがあるしなあ……マズイ、このままでは私もあの人みたいに、退屈な休日を過ごす、退屈な人間になってしまうわ。それとも、もうすでに手遅れなのかしら。女性店員は途切れ途切れ、ブツ切れになった思いを連ねる。
店内には、退屈そうな男しか居ない。また男自体も、ぼんやりとして空気を噛むような時間を過ごしているため、ホールの役割を与えられた女性店員はすることが無かった。しかし、何もすることがないから何もしないという訳にはいかない。現在勤務時間内であるため、することがない状態であっても、なにか店にとって有意義を生み出さなければならない。
あああ、掃除をしよう。はあ、と女性店員は気だるげを払いのけて、箒と塵取りを捕りにゆく。その瞬間、刹那とも呼べる時の中で、あることを思った。私が退屈そうと思っている男、その男と今日の店舗が似ている、まるで、あの男の中に私は居るみたい……。どうゆうこと?女性店員は、女性店員に向かって投げかけた。
まるで綺麗にすることが目的ではなくて、埃が欲しくてしている行動みたいだな、と男は女性店員の掃除をする姿を見て思った。
注意していなければ聞き逃すほどの小さな音の振動が響き、女性店員が箒と塵取りを持って、奥から出て来た。音の正体は、壁に掛けられた箒を取る音、もしくは床に置いてある塵取りを取る音、どちらかだろうと男は推測していた。
その振動を捉えるまでは、男は雨が降りおちる窓の外を見ていた。物思いにふけていた。とめどなく流れてくる過去の細部、なぜこのタイミングと首を傾げたくなるほどの細部が、脳内に訪れては消えていった。一つの物思いが、二つ目の物思いを運んでくることもあったし、物思いが消えては新しい物思いが誕生するということもあった。特に大きな事件や事象ではなく、どうしようもない、それでいてどうでもいいものばかりであった。どこかからたぐり寄せてしまう物思いは、男の疲弊を、少しずつこっそりと増やした。精神を奪い取られてゆく。財布丸ごとではなくて、小銭だけ奪うスリみたいな感じだった。要は気が付かない。というか、小銭だけ奪うスリというのは、難易度という観点でも、動機という観点でも、よくわからない。そのよく分からなさ、がこの物思いと一致している。具体的に話してくれ、と言われても、思い出せないほどどうでもよく、流れ過ぎると分類されるものだった。
物思いは流れ、男は店内に着目して、女性店員の働きぶりを見ているのだ。
そして、次に自分の前に置かれたブレンド珈琲を見た。先ほどまでここにあったであろう時間が、珈琲の温度を奪い、湯気をむしり取った。男はそこで時間経過を感じ、無益と言わざるを得ない時間だったと認めた。認めたと同時に、失望もそこには含まれていた。
店内の中央に、木彫りの置物が置いている。建築の観点からいっても、この建物の丁度中央。つまり重心と呼ばれる場所だった。神様が人差し指で、この建物を持ち上げるときは、木彫りの置いてある地点を使用する、そのような所だ。置物は、東南アジア風のデザインを施されたものだった。恰幅の良いふくよかな図体に、幸福が寄ってくるような満面の笑み、仏教を象徴するような坊主頭と数珠が備えられていた。
夏の夜、街灯に吸い寄せられるよう群がる蟲たちのごとく、疲れや苦しみ、淋しさを抱え込んだ人々を惹きつける宗教的な存在だった。この店内という小世界の中心で、ただそこに存在している木彫りの置物があったのだ。
ポーン、と呼び鈴が厨房の奥で鳴った。店内には、客は一人の男しか居ない。つまり、男が呼び鈴を利用した。あの退屈そうに見える、退屈な男だ。退屈を紛らわせるような、ブレンド珈琲の御代わりをしようと男は思っていたのだ。
女性店員が足早に、男の元へ向かった。猿みたいな足早だった。
女性店員は掃除が終わったところで、何をしようかと考えていたところだった。つまり、また暇に会っていた。あら、と気が付いた。これでは私は、あの男の人みたく退屈がうつったみたいだわ、と女性店員は思い、一人で可笑しくなり、しかしこれから接客するのだから、顔に出ないようにと自分に言い聞かせた。顔に出たらマズい、顔に出たらマズい。零れ落ちそうな笑みは顔の中心に寄りそうなので、必死で引き伸ばそうと努力をした。アイロンをかけるみたいに、アイロンをかけるみたいに。女性店員は自分自身の表情に訴えかけた。
はい、足早に自分の元へ来た女性店員が注文を受ける前の一言を添えた。猿みたいな足早だなと男は思った。
思っていたよりも年を重ねているなと男は女性店員を見て思った。まじかで見た時の毛穴や皮膚の荒さが目に付いたのだ。そこに注意を奪われて、数秒をテーブルに漂わせて、気まずさから次の言葉をもつれさせた。
次の言葉は、あのお代わりで、だった。
「同じものでよろしいでしょうか?」
女性店員は、補足をした。
ああ、そうか、そこまで言わなければいけなかったな、と男は思った。はいと返事をした。
女性店員がかしこまりましたと、男の元を離れた後、手持ち無沙汰で店内を見渡した。アンティークな雰囲気な木材でできた天井。無数の木材と木材が創り出す空間は、空間で在るはずなのに、なぜか存在している木材よりも存在感が際立っている。木材の質や形がアンティークであればあるほど、空間は目に留まるようになっていると男は思った。それから、照明や食器、店内に波紋するジャズも心が和むデザインだった。
先ほどまで窓の外を見ていた男は、今は窓の中に目を向けていた。その瞳には、今までになかった生気が宿っていた。顔色も幾分かましに見えた。
男は、首を捻りたくなった。
注文したお代わりのブレンド珈琲がなかなか来ないのだ。のみならず、先程まで視界に映っていた女性店員の姿が見当たらない。
不審に思い、もう一度呼び鈴を鳴らそうかと吟味した。が、結局やめた。
女性店員に、退屈の具現化と揶揄されるほどの男だ。待つことに対して、苦にしないタイプの男であった。どれほど待たされることになっても、苛立ちや焦燥を芽生えされることなく、脳と心を揺るがせることなく、ぼんやりの均衡をたもち、只々待っていることができるのだ……。
そんなことは、なかった。
男の膝は貧乏譲りで、諤々していた。思い通りにならない現状に、男は少々の苛立ちと少々の焦燥を背負わされていた。そしてどんな感情よりも勝ったのは、疑問だった。
何故なのだろう、という好奇心。
いつのまにか、男は一人になっていた。元々、窓の外は六月を象徴するのに相応しい野暮ったい雨が降りしきり、その影響で客足はなく、客は男一人であった。しかし、店員も居なくなるというのは、男の考える常識の範疇を超えていた。
何故なのだろう。その心が、男が普段の行動を屈折させ、呼び鈴を押させた。
あれれ?またしても、男の頭上に疑問が浮かんだ。呼び鈴が店内に返事をしない。チャイムが店内に響かないのだ。それはまるで地球に深い穴を掘って、そこに一人でうずくまっているような孤独感があった。焦りが掻き立てられ、二度目の呼び鈴を押そうと人差し指を宙に放った時、心を躍らせるような音楽が流れだした。
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男は目と首をキョロキョロと回した。今までに起こったことがない事象に対して、必死で情報収集しようと男の本能が訴えていたのだ。霧のような現実で、手さぐりに進む。ほとんど何もわからない世界で、音の震源地を見つけた。
あの木彫りだった。東南アジア風の。図体がデカい、笑っているあの木彫り。世界の中心地。
そして、驚くことに木彫りから人が出てくるのだった。
一音出てくる度に、一人のブラジル人がでてきた。一音一ブラジル人。ほんとうのところブラジル人かどうかは見分けがつかないが、イメージ通りの華やかな緑と黄色のサンバの衣装を着た肌の黒い人々が出てきたのだ。露出した腹にはマジックで『われらブラジルのにんげん』と書かれていた。
どぅ、たった、うぅ、たった、ずっちゃ、レッツパーリー、どん、たった、うぅ、おぅ、ぷぅ、たった、どんちゃ、おら、あみーご、うぅ、たった、ずんちゃ、ぽぅ、ずんちゃ、たった、ずっちゃ、どんちゃ、ごれぃ、ずっず、ごんず、たった……
男は、ああなるほどなあ、と理解をした。先ほどまでいた店員はブラジルへ行って、ブラジル人がこちらへきたのか……と理解したことにした。
一人のブラジル人が男の元へやって来て
「キミは一人じゃないよ、一緒にみんなで踊ろう!」
とカタコトの日本語で言う。
男は、ぎこちない笑みを返し、ダンスをするために椅子から立ち上がった。
レッツパーリー。




