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第88話「静かな夜、二人だけの時間」

第88話

ご愛読いただきありがとうございます。

すでに、ブックマーク/星評価をつけてくださった皆様ありがとうございます!

ドアが軽くノックされ、私は顔を上げた。


「・・・・・ただいま戻りました、トシードさん」


センナが入ってきた。

明日の外交準備を終えたばかりなのだろう。

その表情にはわずかな疲れが滲んでいたが、私の姿を見ると、張り詰めていた気配がほんの少しだけ緩んだように見えた。

肩の力が抜け、息を吐く音がかすかに聞こえる。


「おかえりなさい、センナさん。ちょうど紅茶を淹れようと思っていたところです」


私は封命供魔の逆理の検討を切り上げ、机の端に置いていた茶器へと手を伸ばした。

魔法陣の線が描かれた紙束は、今は静かに沈黙している。


「何がいいですか?」


センナは少し考え、柔らかく微笑んだ。

その笑みは、外交官としての仮面ではなく、学園時代の彼女を思い出させるものだった。


「・・・・・落ち着く香りがいいわ。

あの、学園の研究室でよく飲んでいた・・・・・ある?」


「もちろん」


私は迷わず、ベルガモットの香りが優しいアールグレイを選んだ。

湯を沸かし、茶葉をポットに落とす。

熱湯を注ぐと、ふわりと柑橘の香りが立ち上り、部屋の空気が一気に柔らかくなる。


センナは椅子に腰を下ろし、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。


「・・・ああ、・・・これ。この香り、懐かしいわね」


「緊張が少しはほぐれましたか?」


「ええ。あなたの淹れる紅茶は、いつもそうだわ。ふふ」


私は微笑みながら、2つのカップに紅茶を注いだ。

湯気がゆらゆらと揺れ、アールグレイの香りが部屋の隅々まで広がっていく。


センナがカップを口に運ぶと、外交の緊張がさらに溶けていくのが分かった。

肩の力が抜け、目元の硬さも和らいでいく。


「・・・・・ねえ、覚えてる? 魔道具の初動作確認で爆発させたこと」


「・・・・・あ、あれは・・・・・実験が成功しすぎただけですよ」


「成功って言うのかしら? 校庭の芝生が半分なくなったのよ?」


センナはくすっと笑った。

その笑顔は、王女でも外交官でもなく、ただの“センナ”だった。


「センナさんが泣きそうな顔をしていたから、それは申し訳ないと思いましたが・・・・・」


「泣いてないわ。びっくりしただけです」


「いや、泣きそうだったよ」


「・・・・・少しだけよ」


2人で笑った。

その笑い声は、緊張に満ちた城の空気をほんの少しだけ温めた。


本当は互いに気になっていた。

明日からの会談、スエン王女の真意、サマヴァー獣人王国の不安定な情勢。

だが、今だけはあえて触れなかった。

触れてしまえば、この穏やかな時間が壊れてしまう気がした。


紅茶の香りと、学園時代の思い出が、二人の間に静かに流れていた。


やがてカップが空になり、センナは名残惜しそうに立ち上がった。

その動作ひとつにも、明日への覚悟と、ほんの少しの不安が滲んでいる。


「・・・・・そろそろ休まないとね。明日は長い一日になりそうだわ」


「無理は禁物ですよ。スエン王女がどんな人物でも、君は君のままでいいのだから」


センナは少しだけ頬を赤らめ、私の方へ一歩近づいた。

距離が縮まったことで、アールグレイの香りに混じって、彼女の体温がわずかに伝わってくる。


「・・・・・ありがとう、トシードさん。あなたと話すと、変に強がらなくて済むのよね」


その言葉は、紅茶よりも温かかった。


センナは扉に向かいかけて――

ふと振り返った。


「ねえ、明日の夜も・・・・・寝る前に紅茶、飲んでくれる?」


その声は、外交官のものではなく、ただの少女のように少しだけ不安げで、少しだけ期待に満ちていた。


「もちろん。センナさんが望むなら、毎晩でも」


センナは嬉しそうに微笑み、静かに部屋を出ていった。


ドアが閉まったあとも、

アールグレイの香りだけは、しばらく部屋に残っていた。

その香りは、明日への不安をほんの少しだけ和らげ、胸の奥に温かな余韻を残していった。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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