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まぼろし

作者: 相木あづ

 嫌な予感がした。

 空はどんよりと曇り、左手に見える古い日本家屋も、右手に見える高いコンクリート壁も、全てが灰色にくすんでいた。コンクリート壁の上の台地には小学校の校庭があって、小学生たちの遊ぶ高くて騒がしい声が、近づいたり、遠ざかったりを繰り返していた。

「わあ、みてえ!」

 その中で、一際はっきりとした声が聞こえた。思わず見上げると、小学生たちの遊び声は無邪気で楽しそうだったものから、興奮と恐怖の入り混じった混乱したものへと変質していた。

 空から、不思議なものが降っていた。それは、白くて柔らかい物体で、洗剤の泡をたくさん集めて、両手で抱えられるくらいの大きさにしたような感じだった。いくつもいくつもふわふわと舞い降りては、ボテッと地面に落ちた。

「まずいね」

 いつの間にか隣にいた少女がつぶやいた。小学校時代の僕の初恋の相手だった。僕も思わずつぶやき返した。

「まずい。奇妙な夢だ・・・」

 夢・・・。

 目が覚めた。灯りの消えた電灯も、死んだように垂れ下がるカーテンも、全て普段どおりだった。しかし、身体が一寸たりとも動かない。金縛りだ。精一杯の力を込めて、壁を伝い、何とか起き上がろうとしてみた。途中まで上手くいっていた気もするのに、気がつくと同じ姿勢でベッドの上に寝ている。金縛りが解けるまで、しばらく待っているしかない。

 不意に、ベッドが沈みこむのを感じた。僕以外の人間、あるいは人間のようなものが、すぐ近くに腰かけていた。よくみると、髪の長い女の人のようだった。暗くて顔はよく見えない。どこにでもありそうなチェック柄の薄いパジャマを着ていた。

 意外にすんなりと動かすことができた腕を、彼女の方に伸ばした。

「あ・・・」

 少しだけ声らしきものも出すことができた。

 彼女がこちらを見ると、暗闇の中で、驚いたその顔が鮮明に浮かび上がった。僕とそんなに年の違わい美しい顔だった。彼女は音もなく立ち上がって、ドアから部屋の外へ出て行った。

 急に、全てに現実味が戻ってきた。全身の緊張は解け、下の階で両親の話し込む声が聞こえてきた。わずかに空いたドアから、廊下の明かりが差し込んでいた。

 確かそのとき、僕はまだ中学生くらいだった。幼いころの記憶だ。


 嫌な予感と、淡い期待。不思議な気分だった。

 西日が差し込む教室で、僕たちは文化祭の準備をしていた。この時間が苦手だった。みんなはそれぞれの友達と輪を作って楽しそうにダンボールを加工しているけれど、友達がいなくて、どの輪にも入ることができない僕には、居場所がない。居心地の悪い嫌な時間だった。

「ねえ」

 卑屈と退屈を極めて、一人で落ち着かずに立ったり、座ったり、歩いたりを繰り返していた僕に声を掛けてきたのは、当時思いを寄せていた女の子だった。

 そうだ。これを期待していたんだ。

「手伝ってよ」

 彼女は僕に養生テープのロールを手渡した。僕が切り取ったテープを、彼女が丁寧に壁に貼り付けていく。何を飾るわけでもない。教室の壁は、不揃いな長さの養生テープで埋め尽くされていく。僕と彼女の初めての共同作業った。

「これ、どうなるの?」

 どうしてもわからなくて、彼女に聞いてみた。

「そうだね・・・」

 彼女は手を止めて壁を眺めた。「そうだね・・・」って、知らないなんておかしい。

「そうだね。これでどう?」

 彼女がいたずらっぽく振り向くと、壁一面のテープ片たちがうごめき出した。

「手伝ってよ」

 僕たちは、うごめくテープにマジックで色を流し込んでいった。ふと周りを見ると、他の生徒はいつの間にかどこかに消えていた。夕方の教室に、僕と彼女は二人きりだった。

 色をまとったテープたちはいよいよ膨張を始め、少しずつ形が定まっていく。

 あっという間に、壁は鮮やかな花々で埋め尽くされてしまった。葉や茎は一切ない。花だけが直接壁についている。それはあまりに異様だった。ブラウン管のテレビのような荒い画面に、花だけ最新の8K映像を合成したかのようだった。

「変なの」

 僕がそうつぶやくと、すぐ耳元で彼女の声がした。あまりに近いからそれだけで全身がゾクッとしてしまう。でも、僕の脳みそを本当に侵したのは、その言葉の中身だ。

「あなたの夢はいつも変・・・」

 目が覚めた。身体が動かない。例によって金縛りだ。このときを、ずっと待っていた気がする。

 暗闇の部屋の景色に変わりはない。カーテンは開いていて、窓枠の両端で死んだようにじっと垂れ下がっている。窓から差し込む月の光が、反対側の壁にぼんやりと白い形を作り出していた。

 しばらく待っていると、やがて、暗闇が揺らいで、少しずつ月明かりの白い形を侵食していく。流れ込んだ黒が細い線になって柔らかい曲線を描き、ところどころが滲んで、白い形に陰影をつける。上から流れ込んだ一群の黒は、そのまま女性の黒髪を描き出した。彼女は、やはり、僕のベッドに腰かけていた。

 僕は、その美しい横顔を静かに見守っていた。

 高校生のころのある夜の記憶。


 独りで歩いていた。

 赤い煉瓦が敷き詰められた道の両脇に白く四角い建物がいくつも並んでいる。少しおしゃれな都会の団地街だった。

 十メートルくらい前を、彼女が歩いている。夏の空は青く澄み、茶色く染めた髪が麦わら帽子の下から流れて、風にそよいでいた。僕には気づいていない。

 意を決して、僕は歩調を速めた。数十秒かけて、彼女の横に並んだ。

「先輩」

 彼女の顔を覗き込んで呼びかけた。太い黒縁の眼鏡の奥で、僕を認めた先輩の目が柔らかく笑った。先輩は僕の名前を呼んで、それからすぐに前を向いてしまった。僕と先輩は、しばらく並んで歩いた。お互いのことは見ようとはしない。視界の端で、黒い眼鏡と茶色い髪が揺れている。

「私のこと、好きでしょ?」

 唐突に先輩が言った。正直に言えば、そうだった。でも・・・。

「ねえ」

 先輩がまっすぐに僕を見ていた。

「見て」

 そう言って、先輩が眼鏡を外した。風が吹いた。麦わら帽子は飛んで行き、自由になった茶色い髪を、風が黒く染めていく。彼女が乱れた黒髪を手で整えると、そこに現れたのは、僕の知っている先輩ではなかった。それは、彼女だった。金縛りの夜に現れる美しい彼女・・・。

 彼女にとって、僕の夢に現れたのは予想外のことだったようで、大きな目を見開いて驚いていた。

 全ての景色が崩れ落ちる・・・。

 嫌なことが始まる予感・・・。

 金縛りだ。

 首を引き抜かれるような、身体を沼の底に引きずり込まれるような苦痛。息ができない。苦しい。こういうタイプの金縛りは初めてだ。このまま死ぬかもしれないという激しい恐怖の中、僕は必死で彼女の姿を描き続けた。断片的に広がる青空と、部屋に散らかる赤い煉瓦の真ん中で、目を見開いた美しい彼女だけが、現実味のある生々しい肌を保っている。でも、

 唐突な爆発音と閃光。パソコンでいえばクラッシュだろうか。全てが終わった。自由になった身体を起こして、水を飲むために部屋を出た。

 数年前、まだ大学を卒業する前の話だ。


「それでは、先生、金縛りというのは、夢の延長ということですか?」

 キャスターが言った。

「そうです。金縛りになると幻覚が見えたり、幻聴が聞こえたりするっていうでしょ。あれもね、簡単に言うと夢の一種ですよ。ただね、金縛りっていうのは、覚醒している状態と眠っている状態が混ざり合っている状態だから、実際の景色を見ながら、そこに重ねるように夢の景色を見ることもできる。二つの景色が重なると、幻覚ということになりますね・・・」

 そう答えたのは、小太りの頭の薄い男で、テレビ画面の横に大学名を添えて名前が表示されているから、その大学の教授だろう。私の中に、まだおぼろげに彼女のイメージが残っていた。崩れ落ちる夢の断片と、冷めきった寝室。彼女の肌。

 金縛りは、夢の延長。

 そのときの僕には、ごく自然な話に思えた。


 ここまで、彼女に関する一群の記憶だ。

 実際のところ、彼女のことは長い間忘れていた。最後に彼女に会ったというか、見たのがいつのことなのか、もはや正確に思い出すことはできない。大学生だったことしか覚えていない。

 金縛りは頻繁にあった。そのとき、夢のようなものを見ていた気もするが、それは所詮夢なのだ。そう思うようになってから、金縛りの幻覚に対する興味は急速に失せた。描かれる像もだんだん粗く、わざとらしいものになり、ついには消えた。

 例えば、ある夜、久しぶりに強い金縛りに襲われた。苦しさはほとんどなく、身体が動かないだけの、ある種「きれいな」金縛りだった。そのときは、まだ、幻覚というものに対して、恐怖と期待を抱いていた。どんな幻覚が表れるのか恐ろしくもあり、楽しみでもあった。おそるおそる、期待を込めて目を開けると、その日見えたのは、白い塔だった。輪郭の曖昧な白い塔。よく見れば、塔の周りにはらせん状の構造が走らせてある・・・。と、私は想像したのだ。本当にあったのは、窓から差し込む月明かりが部屋の暗闇にもたらした微妙な闇の濃淡であり、つまり、そこには何もなかった。

 覚えている限り、それが最後の「幻覚」である。

 私が、彼女のことを思い出したのは、久しぶりに彼女を見たからだ。幻覚として見たのではない。夢として見たのでもない。彼女は、テレビの画面の中にいた。虚構の世界に、虚構の彼女がいる。それは、私にとってごく自然なことだった。

 彼女の姿が懐かしく、私はしばらく画面に見入っていた。彼女は色とりどりの光の中、同じような衣装を着た女の子たちに混じって、マイクを片手に踊っていた。

 彼女は、アイドルだった。

 どうしても時系列がおかしいことに気がついたのは、画面が切り替わって、見慣れたタレントたちが取り留めのない会話を始めてからだった。


 来てしまった。

 ホールの中は、色とりどりのTシャツを着た男たちで満席になっている。ライブ前のざわめきは、何だか中高生時代の全校集会を思い出させた。

 ふと、いい香りがした。視界の端で、魅惑的なクリーム色が揺らめくのが見えた。

「久しぶり」

 彼女は、私の隣の席に座った。いい香りのする、クリーム色の女性。私が想いを寄せるのは、たいていこういう人だ。

「お久しぶりです」

 本当に、何年振りだろうか。彼女にかける言葉を探しているうちに、ホールの照明が落ちた。全員がお喋りをやめて、ステージに注目する。

 ステージに出て来た女の子たちは、遠すぎて、顔まではわからなかった。わかっているのは、ピンクの衣装に身を包んだ一人が、例の彼女だということだけだ。ステージは淡々と進行した。知っている曲がいくつか流れたはずだが、あまりよくわからない。全ての精度が低すぎる。あまりよく知らない世界を、想像だけで描いているような気分だ。

「では、握手会に移ります」

 年に似あわない坊主頭のよく太った男、マネージャーとして名の知れた有名な男が、ステージに出てきて告げた。男たちが、ぞろぞろと移動を始める。

「行けば」

 嫉妬なのか、隣の彼女はこちらを見ずに言った。ステージでは、何人かのスタッフが長机を運び込んでいて、アイドルの女の子たちはそれを眺めながらトークを続けている。相変わらず顔はよく見えない。

 私は彼女の手をとった。避けられるかなと思ったけれど、視線を外したまま、彼女は特に抵抗しなかった。私は彼女の手を引いて、おじさんたちの間を流れと逆向きに歩いた。何枚かの扉を抜け、階段を降りる。最後の扉を開けたとき、急に視界が明るく開けた。

 突き抜けるほどの青空と、眩しい太陽。遠くまで続く赤い煉瓦敷きの道。両脇にそびえる白い建物。私は、彼女と向かい合った。一陣の風が吹く・・・

 あのときと同じ夢だ。彼女の驚いた顔と、崩れ去るイメージ。どこまでが記憶で、どこまでが夢なのかわからない。

「夢というのはね、記憶の一種ですよ」

 いつかテレビで見た学者の声が聞こえたきがした。

「夢の中で何かを思い出すというのは無理でしょうね。思い出したそばからそれは夢の中の出来事として具現化されてしまいますから・・・」

 そうだ。全くその通りだ。混沌と化そうとしていた世界が、また急に、秩序を取り戻し始めたのを感じた。

「何ボケッとしてるの?」

 彼女が言った。それは、連れ立って歩いていた彼女ではなく、幻覚の世界の例の彼女だった。ピンクのフリフリがついたかわいい衣装を着ていた。金縛りで現れるときは、幽霊のような人だと思っていたけれど、こうしてみると、やはり彼女の正体はアイドルなのだと実感した。

「あなた、一体何なんです?」

 私は彼女に聞いた。

「何って、」すると彼女は急に笑い出した。「知らずに並んだの?」

 視線につられて振り向くと、私の後ろに長い列ができていた。どうやら私は彼女の握手会か何かに並んでいたようだ。

「特別サービスするから、次はちゃんと覚えて、私のこと推してよね!」

 そういうと、彼女は握った私の手にそっと口をつけた。


 桜井ほのか。それが彼女の名前だった。少なくとも「桜井ほのか」という名前のアイドルがいて、桜井が彼女に似ていることは確かだ。

 桜井に会うために、ライブに行ってみた。実際の会場は、想像していたような大ホールではなく、小さなライブハウスだった。人生初のライブハウスに、終始おどおどしながら整理番号を呼ばれるのを待ったが、結局、最後まで待機場所に残った数人と同時に入場した。

 ファン同士は、暗い会場内で親しく話し込んでいた。私だけひとり場違いな感じがした。あちこちでペンライトのいろいろな色の光が揺れて、スピーカーからはPOPな音楽が騒々しい音量で流れ続けていた。SNSの情報では、開演前のBGMは桜井の選曲だった。

 急に、会場の空気が変わった。延々と耳が痛くなるような騒々しさだったスピーカーが、いつの間にか静かになっていた。観客の多くがお喋りを続けながら、それとなくステージに視線を向けている。

 やがて、スピーカーが沈黙した理由がわかった。曲が止まったわけではなかった。次の曲が、ものすごく静かに始まっていたのだ。曲は同じフレーズを繰り返しながら、だんだんと音量を増していく。身体を引きちぎられるような不協和音。しかし、私のように苦悶の表情を浮かべている客は少なかった。それどころか、輪をかけて会話が弾んでいるようにさえ見える。もしかして、私にしか聴こえないのだろうか。異様な不協和音のメロディはもう耐えがたいほどの大音量に達して、身体がばらばらになりそうな苦痛だ。これではまるで金縛りだ。もしかして、これは夢なのか?

 ギャン!

 鼓膜を破るようなその音が、私の口から出たのか、スピーカーから出たのか、幻聴だったのかわからない。ともかく、それを境に曲は終わった。

 しばらくの静寂のあと、今度は一転して、楽しげな曲が始まった。歌詞はないが、無意識にリズムをとってしまうような、これから何かが始まることを期待させるようなそんな曲だ。観客たちも目に見えて色めきだってきた。(後から知ったが、これがこのグループのいわゆるSEだった)

 うりゃ! おい! うりゃ! おい! うりゃ! おい!

 手拍子とうるさいくらいのコールの中、ステージにアイドルたちが現れた。他の客の頭越しに桜井を見つけるのは、そんなに難しいことではなかった。彼女たちの姿は、思ったよりも近かった。

 全員が立ち位置につくと、再び静寂が訪れた。

 ひゅーひゅーと囃し立てる声と、激しい拍手。何とも言えないざわめきとともに一曲目が始まった。


 間仕切りの向こうから、楽しげな会話が聞こえる。その声を聴いていると、柔らかく、しかし確実に胸を締める嫉妬を感じるから、私はその声を努めて無視した。目の前にいるのはくたびれた黄色いシャツのおじさんで、汗の滲んだ背中を凝視している間に、列は少しずつ進んだ。

 二十分ほどして、ついに、間仕切りのすぐそばまで進んだ。中から聞こえるのは、桜井たちの突き抜けるようによく通る声と、知らない男のくぐもった声だった。すぐに話し声は途絶え、スマホのシャッター音が鳴り、またすぐに仕切りの向こうがざわめき始める。三人のアイドルの声に押されるように間仕切りから出て来た男は、名残惜しそうに何度も振り返りながら去って行く。

「次の方、どうぞ」

 スタッフが私を呼んだ。間仕切りの向こうに入ると、目の前に桜井がいた。他の二人のメンバーとともに、笑顔で私に手を振ってくれていた。灯りに集まる虫のごとく、私は三人の方へ吸い寄せられていった。スタッフが私の肩を叩き、荷物を下ろすように指示した。

 話したいことはたくさんあった気がするのに、桜井を前にして、上手く言葉が出てこない。それでも、桜井は私の言葉に耳を傾けようとしてくれている。それで、私はなんとか口を開くことができた。

「大好きです」

 やっと出て来た言葉を、私は桜井に告げた。そのとき、私には桜井しか見えていなかった。他のすべては、粗く不鮮明なバックグラウンドとして崩れ落ちていた。

「ええ! うれしい! ありがとう!」

 桜井は他の二人のメンバーをよけて、私の隣に立ってくれた。

「撮りますよ~」

 スタッフの声に、全員が前を向いて沈黙した。そのとき、確かに聞こえた。私のすぐ横から、例の不協和音のメロディが聞こえてきた。思わず桜井を見る。彼女は健康そうな頬を軽く膨らませて、何か表情を作っていたが、例のメロディは間違いなく、その頬の内側から聞こえてくる。最初はかすかだったのが、だんだんと大きくなる。

 私の視線に気づいた桜井は、表情作りをやめて急に破顔した。そのとたんに、不協和音がホルティシモで鳴り響く。桜井は、片手でハートの片割れを差し出してくれていた。私はそこに手を合わせるのが精一杯だった。


 高校生の頃、修学旅行で訪れた沖縄のかき氷屋さんに似ていた。当時、濃密な時間を過ごした少数の仲間たちと一緒に、国際通りの奥まったところに見つけた店だった。軽くて風通しのよさそうな簡素な板張りの壁と、本物かどうか、草で葺いた屋根が、日本国内でありながら、南の島国のような異国情緒を感じさせた。

 メニュー表に書かれた「太陽の光」という文字には、片仮名で沖縄方言のふり仮名が振ってあったが、読もうとしても文字はぼやけたり、消えたり、安定しない。仕方ないから、やって来た店員に、メニューを指さして注文した。

 私の対面に座っていた桜井が笑顔で指さしたのは、「母の愛」だった。桜井には少し似あわない気がしておかしい感じがした。桜井は、天使の笑い声かと思えるような可愛らしい声で、ふり仮名を完璧に読み上げてみせた。店員は彼女に微笑んでから、伝票を持って店の奥に去って行った。

 私と桜井はしばらく無言で見つめ合った。桜井の目は普通よりも一回り大きく、どんな宝石よりも澄んだ輝きを放っていた。そのあまりに美しい眼力に屈して、先に目を逸らしたのは私の方だった。間をつなごうと、店員が置いていったお冷を飲んだ。

「ねえ、今日はどんなお話なの?」

 桜井が言った。美しく輝く瞳に、何かを期待するような無邪気さを宿して、まっすぐにこちらを見ていた。さすがアイドルだと思う。しかし、結局、私のできる話は、そう多くはなかった。この前のライブが楽しかったこと、いつも元気をもらっていること、そういうことを取り留めもなく話すだけなのに、桜井は目を細めて満足そうに聞いてくれる。それだけでうれしくなって、私は延々同じような話を繰り返した。

「ほのかちゃん、今日もかわいいね」

 桜井をもっと喜ばせたくて、気がつくと柄にもない言葉を口にしていた。突然、桜井の大きな目が、さらに大きく見開かれた。景色が揺れ始めた。

 そういえば、注文したかき氷はどうなっただろうか。そんなに時間がかかるものでもないだろうに・・・


 先輩は、酒の席ではいつもこうだった。

 私は、先輩の静かで聡明で可憐なところが好きだったが、たまにこういう大胆な先輩といるのは楽しかった。ずっと昔からの幼馴染みのように、いろいろな感情を共有できるのがうれしかった。

「それはお前が悪い」

 先輩はジョッキ一杯のチューハイを水のように飲み干し、それでいて、しっかりとした手つきで手についた結露をふき取り、おしぼりを丁寧に畳んだ。長い爪に簡素なネイルをしていた。

「とりあえず『かわいい』って言っとけばいい? それはお前が悪い」

 先輩の頬はアルコールで赤く染まっていた。その上でキラキラ輝くラメと、明るい茶色の髪が美しかった。

「何見てんだよ」

 先輩は私に背を向けて、また新しいジョッキに手を付ける。通りかかった店員に、追加の注文をしていた。

「いい? そういうお世辞は聞きたくないの。女の子が欲しいのはね、『本当の言葉』なんだよ。お前が本当に思ってること・・・」

 そのときだった。場違いに叫ぶ若い女の声がした。

「みんな! みんなのこと、大好きだよ! 愛してる!」

 本当かどうか疑わしいその言葉は、店のテレビから発されていた。流れていたのはアイドルグループのライブ映像で、私はすぐに桜井の姿を見つけて目で追った。やはり、彼女は本当にかわいいと思う。カメラに抜かれた桜井が、盛大なレスをくれと、隣で、深いため息が聞こえた。

「はいはい、かわいいねえ。見てればいいよ。かわいくないおばさんは帰るから」

 先輩は千円札を数枚テーブルに叩きつけて立ち上がった。私は急いで口を開いた。

「そんな! 先輩だってかわいいです!」

 何を言っているのか。自分の言葉にたじろいでいると、先輩の言葉が降って来た。

「馬鹿」


 こういう目覚めは久しぶりのことだった。

 何か夢を見ていた気がする。精神に冷たい水を浴びたような、嫌な感じがする。悪い夢だったに違いない。じっとしていられなくて、ベッドを抜け出そうとした。しかし、身体が動かない。金縛りなんて何年振りだろうか。どうしようもない。

 最初に浮かんだのは、桜井の顔だった。華やかな衣装に身を包んだ桜井。笑顔を浮かべる桜井。白いワンピースの桜井。

 桜井は、私のベッドに腰かけていた。そうだった。すべてはここから始まったのだ。金縛りと、女の幻覚。私の不安と孤独、虚構の象徴。

「ほのかちゃん」

 彼女に呼びかけた。振り向いた彼女は、美しい顔をしていた。その顔は桜井ではなかったけれど、どこかで見たことがある気がした。


「次の方、どうぞ」

 スタッフに導かれた先、間仕切りで区切られた小さな空間に、彼女がいた。笑顔でこちらに手を振っていた。

 恋と推しと、現実と夢とごちゃごちゃになっている私の世界観でした。

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