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家康からの手紙~「信長を化かしたキツネ」序曲

作者: すのへ

 歩道を足早にたどっていたら、スマホに身を屈めたあんちゃんが通りがかり、すれちがいざまにバッグにぶつかってきた。画面に夢中でそのまま行き過ぎようとするので、思わず中塚裕治は足を止めて怒鳴った。

「ばかやろう!」

 兄ちゃんは無反応で遠ざかっていった。ちぇっと舌打ちして足を踏み出した中塚の耳に背後から怒声がした。

「ばかやろう!」

 中塚はの兄ちゃんがまた誰かにぶつかったのだと察した。振り返るとまさにそうで、自分のときと同じように無反応で通り過ぎると見えたその刹那、怒声が覆いかぶさるようにフレーズを付け足していた。

「くそたわけ!」

 この語が発せられた瞬間、兄ちゃんはハッとして足が止まり、顔だけだが振り返って「あ、ども。スイマセン」と謝ったのだ。

 へえと中塚は感心した。怒鳴った男はごく普通の勤め人ふうで、べつに凶悪な面構えでもない。おれの怒声には反応しなかったのにこの男の怒声には反応して謝罪さえした。ちがいは歴然、「くそたわけ」である。この土地では「ばかやろう」だけでは足りないのだ。「ばかやろう、くそたわけ!」と連ねて怒鳴って初めて怒りを表意したことになるのである。


 この土地とは尾張平野のど真ん中、小牧という人口15万ほどの小さな市である。中塚は航空ショー取材のため東京から遥々《はるばる》ここへ来た。帰路、航空自衛隊を出て田んぼを背景に農道を歩いていると、道路際の草に埋もれて線路があった。廃線の跡か。飛行場へ続いているようなので貨物線だったのかな。すこし離れたところに線路の切り替え機らしき物が土から突き出ている。標識だ。

「うん?」

 朽ちている横木がカタンと揺れて指差すように方向を示した。中塚の足は駅への道を逸れてそっちの方へ、北へ向かった。首から斜めに提げたカメラを向けるのは忘れなかった。きょうはもう何百枚と撮っている。塩辛蜻蛉や赤とんぼがひゅるひゅると飛んでいる。秋の陽はすでに傾いていたが爽やかな空気と土の匂いに絡め取られるように道を進んだ。のどかな風景に気を取られてどこを歩いているのかよくわからない。スマホのGPS地図で見ると小牧市の市街地へ向かっている。農道から市内の往来に入ったとたん冒頭のあんちゃんに出くわしたのだ。

『ばかやろう、くそたわけ、か。覚えておこう』

 道路の脇に立つ標識に『メナード美術館』だの『小牧市民病院』だのが現れ、クルマの往来もその速度も激しくなる。脇道はないかなとキョロキョロしていると、手書きのペンキ文字で板の看板が目に飛び込んできた。

『渋宮郷土博物館分館』

 なんだろう。矢印は畦道の狭い歩道を入れと示している。中塚の足はまたもその不穏な方向へ進むのだった。畦の傍らにぽつねんと掘っ立て小屋が立っている。まさかこれかな。扉が付いている。ノブもある。手をかけて回し、ぎ~と開いたすき間から顔を突っ込んで中塚は呼びかけた。

「こんにちは~」

 応答を待って入り口に立っていると背後から声がした。

「よういりゃあた。えんりょせんで入ってちょー」

「はあ」

 外見の間口と奥行きを見る限り、大人二人が入れるかなと心配だったが、あれ、どうなってんのここ。その小柄な老人につづいて中へ入ってみると、あら不思議、天井が高く奥行きも間口も見た目を遙かに凌いでいた。驚く中塚を尻目に老人は自分が館長の渋宮だと名乗るや展示物の説明を始めた。

「こっちゃが小牧在住の土田どた家に伝わっとる秘伝文書で、こっちが江南の生駒家、吉乃さんの実家伝来の縁起だわ」

 え。なんなの、ここ。聞けば小牧というところは、かの織田信長が六年ほど陣取った場所であり、小牧の町の始まりは信長の城下町にあるらしい。

「あんた、吉五郎って知っとりゃーすか」

「え。街道の親分とか」

「親分は当たっとる。狐の親分だわ」

 きつね。キツネ。狐か。それが

「信長が、わしの祖先だけどよう、小牧山に拠点を移したとき先住者の吉五郎が怒ってまって」

 え。え。狐が怒るって

「小牧山南方の原野を造成して城下町つくりゃーたけど吉五郎が化かすんだわ」

 ばかす。化かすか。狐ならまあ

「町人ばっかやにゃーで。武士も化かして軍隊も化かして信長も化かしたんだわ」

 …

「聞いとりゃーすか、あんた」

「はい」

「ほんでよう、小牧城下町がえりゃあ騒ぎになってまって。京都から密書が届いて陰陽師が来るわ、山伏が大挙して押し寄せるわ、家康から書状が届いて狸が来るわ。あ、それだわ。あんたの手の下にあるだらあ。徳川家康の手紙」

 あわてて中塚はケースから手を離す。

「いま開けて見せたげるわ」

「いやそれには及ば」

 断る間もあらばこそ、渋宮翁はケースを開けて和紙に包んであった書状を広げる。

「これだわ」



此度依伝聞於小牧山狐禍有

信長様御難儀由

外聞實儀敵国覚

旁以恐悦不及是非候、殊

諸侯諸臣為御見舞

対狐為狸是亦至極至当

我可被申上候

猶従是以使者可得御意候


恐惶謹言


  五月三十日  家康(花押)

小牧殿   人々御中



「家康から信長に宛てた手紙だわ。旧家で発見されたばっかだで。うちで預かっとるんだて」

「はあ」

「なんて書いたるか分かりゃーすか」

「いや。まるで」

「これあげるで読みゃあ。新発見で貴重なもんだでな」

 渋宮老人は二枚のコピー紙をくれた。一枚には原文がもう一枚には現代語訳が印字されていた。小牧で狐が暴れていると聞き及び、心苦しく思っていたが、狐には狸と閃き三河で腕利きの狸を選りすぐって派遣し、事に当たらせますという概略らしい。え…狸…まあ狐といえば狸だが家康も狸と云われて

「これがよう、卑弥呼の首が小牧山に埋まっとるっちゅう古文書で」

「あ、信長のデスマスク見やあすか」

 話がどんどん怪しげな方向へ横滑りしていく。中塚はいいかげん辟易し、逃れる手立てはないかと頭を巡らす。と。

「お、いかん。忘れとった。でゃーじな約束があるんだわ。わりいけど」

 老人は中塚の気持ちを読み取ったかのように先手を打ってドアを開けた。

「また、いりゃあ」

 渋宮翁は鍵をかけるや中塚を畦道に残してすたこらと公道へ駈けていった。後ろ姿を見送りながら中塚は狐につままれた気分だった。しかし掘っ立て小屋仕立ての博物館分館は背後にひっそりと佇み、手にはコピー紙2枚が残っている。

「さて、帰ろうか」

 中塚が公道へ向かうと、渋宮氏がひょいと戻って来て言った。

「あれが小牧山だで。いっぺん登ってりゃあ」

 右手が指し示すほうを見るとこんもりとした小山があった。老人はすたこらと道を渡って茂みに囲まれた間道へ入っていった。時間もあるし、せっかくだからと行ってみることにした。

 標高八十メートルほどの瓢箪島型の山は南から見ると前方後円墳に見えた。南の麓に『史跡 小牧山』と石碑が建っている。足を踏み入れると右手に小高く平らな区画があって、これが織田信長の屋敷跡だという。ぐるっと南麓から西麓にかけて屋敷跡がみつかっていると図表が掲げられている。

「ほう」

 中塚はカメラをかまえながら、山を見上げた。それほど時間はかからないだろうと石碑から左手へ登っていく。さらに行くと遊具などが配された公園にでる。端っこのトイレで小便を済ますと、さて。大手道とかで真っ直ぐに山頂に向かう階段状の道があり、西のほうにはやや下に真っ赤な鳥居が群居する稲荷社がある。幟には小牧稲荷大明神とある。これが渋宮翁が言っていた吉五郎の社かな。鳥居をくぐって奥へ。吉五郎の名はない。

「うーん」

 参道へ戻ると山の斜面側にこれまた小さいが石碑が立っていて、『吉五郎稲荷保安林』とある。妙な言辞だなと思いながらつい足が土手の階段を登る。登ってすぐの所を左へ目をやると、石の灯籠があってその向こうに小さな石段が急勾配に登っている。ほこらが中塚を見下ろしている。これはと足を進めると渋宮翁が言った吉五郎のほこららしい。ひっそりと鎮座しているようすが中塚には印象深く思われた。なかなかこういうのは残っていないものだから

「だれかが定期的にお参りしている」

 参道の入り口が荒れていないし、灯籠も階段もほこらも古いながらなんとか形を保っている。崩れたところがない。中塚は硬貨を小銭入れから掻き出してほこらの板の上に乗せた。手を合わせると赤とんぼがまわりをひゅーひょいと飛び、ひんやりとした土の気が風に舞った。

 参道だか山道にもどると夕方の散歩なのか人の往来が増えてきた。中塚は大手道ではなく山腹をなだらかにのぼる道をえらんだ。ちょっと行くと広場があった。ここにも石碑があって、『間々乳觀音出現靈場』とある。なんなのだろう。ふと見廻すと背後に看板というか説明書きがあった。


観音洞


明応の頃ー。

 乳の出ない妻に食わせようと、子孕み

鹿を撃ちに小牧山に登った麓の狩人が、

七匹の子鹿を連れた子孕み鹿を見つけて

撃つと、子鹿は七つの石に、母鹿は観音

像と化した。

 狩人はこれを見て殺生を悔い、その地

に草庵を結び観音像をねんごろに祭った。

 後に観音を祭る草庵は間々に乳観音と

して移転したが、草庵の跡地は観音洞と

呼び親しまれ現在に至っている。


 ほお。明応というと、中塚はスマホでググってみる。明応年間は1492年から1501年。鉄砲伝来は1543年の天文12年だから、明応期に漁師が鉄砲を持っていたかどうか。弓か槍だったのではないか。ついでに調べると、この小牧山に信長が来たのは1563年の永禄6年だから、間々観音出現は信長より60年ほど前の出来事になる。間々乳観音の由来には信長に追い出されて北麓に移ったとある。ではここに庵みたいなものがあったのだろう。

「わしらの小さいころにはよう」

 え。なに突然? 中塚がスマホから目を上げると小柄な老人が立っていた。誰にともなく話しかけているようで、しかし周りには誰もいない。

「ここは首吊り公園て言われとったわ」

「そうなんですか」

 中塚はつい応答した。老人はうなずいた。

「あそこの木の枝によう、縄かけて首吊ったんだと」

「はあ?」

 たしかに石碑の近くに大木があって枝を伸ばしている。

「ええ枝ぶりだもんでつい首をな。『吾輩は猫である』でおんなじような話がきゃーたったわ。あんた知っとる?」

 え。えええ。読んだけど記憶にない。どう答えたものかと口をつぐんでいると老人はフンと言うなり放屁して行ってしまった。

 気を取り直して公園を後にする。ゆるやかに登る大きなカーブの先からひょいと人影が出た。西日を正面から浴びたその風体たるや一目で尋常ではないとわかった。目深に被った編笠に浅葱色の陣羽織みたいなものを羽織って、わ、草履か、草履履きである。ごつごつした杖を突きながら足早に降りてくる。へんな人だなと目を逸らしているとすれ違いざまに罵声を浴びせられた。

「目を逸らすでない!」

 小さいが肝が据わった声に中塚の足が止まる。振り返ると茶の湯の宗匠みたいな茶坊主然としたその人は、歩みを緩めるでなく遠ざかりつつあった。立ち止まっているとさらに声がした。

「信長どのには気をつけられよ。狐を崇めよ!」

 耳で意味を反芻しているうちに姿は見えなくなった。中塚は不穏な空気を感じてもう下りようかとも思ったが、すぐそこにお城らしい屋根が見えていたので足を進めた。ずっとカーブで木立の間から遙かに町並みが見下ろせる。田圃が広がる平野に人家よりも工場や体育館やら商業施設など大規模施設が目を引く。

 広場に出たと思うと大きな石段があってその先にお城が見えた。やれやれと徳川某氏のブロンズ像の傍らを登ると、まだお城は開いていた。料金を払って入館する。

『小牧歴史館』である。お城とはいえ、信長がかつてここに築いたものを模したのでなく、なんでも篤志家による寄付で秀吉の聚楽第の遺構と伝えられる三重の楼閣建築、飛雲閣をモデルに造られたものだという。

 駆け足に二階三階と見て展望スペースへ出る。四方八方が見渡せる回廊に望遠鏡が四隅に設置されている。中塚はぜんぶに硬貨を落とし込み、ぐるりを遠望した。伊吹山とか富士山とか犬山城とか名古屋市街とか目に飛びこんでくる。どれも観光名所ぽい眺めだ。ふと目を転じると北麓の緑の茂みがざわつき、なんだろうと見ていると葉がまき散らかされて渦を巻き、だんだん大きくなってふわりと浮かんで上昇して来る。

「わ」

 衝撃波を感じて中塚は頭を屈めてやり過ごす。気流の塊のような『それ』は天守を素通りして北麓へ降り、木の葉の間で爆発して散り散りになった。

「あれは」

 目を凝らして見ると南の中麓にキラキラと光るものがあった。なんだかよくわからないが楽しげに何かと戯れているようで、見ている中塚もうきうきとした気分になる。そのときまた傍らで声がした。

「ありゃよう、キツネの尾っぽだがや。きょうはよう光っとるわ」

 中塚が目を転じるとまたも老人だった。こんどは明確に中塚に語りかけていた。この歴史館のガイドらしい。

「きつね?」

「狐な。吉五郎の子孫だわ」

「吉五郎の!」

「あんた。東京からいりゃあたきゃ。よう知っとられるのぅ吉五郎を」

「ここへ来る前に話を。下のほこらも見てきましたから」

「そりゃご大義てゃーげさま。よう見てってちょ」

 老人は行ってしまった。もういちど南麓と北麓に目を凝らすが光るものはもうなかった。東を見晴るかせば富士山が見え、西には伊吹山など鈴鹿山脈がひかえている。風はあくまで爽やかで心地よい。

 館内に戻って展示品を見ながら降りる。甲冑やら土器、茶碗などが並び、文書類で信長の手紙があった。美しい草書で本人かな、いや祐筆が書いたのだろうな。まともに読めないながらもじっと見ていると、『家康殿御許』とか『此度遣狸件真難有』『絢爛豪華祝着至極』『拠満足仕儀贈褒美』などと文字が並んでいる。狸が見事な戦いぶりで奮戦したので褒賞を与えるということだろうか。中塚はバッグから家康の手紙を引っ張り出す。これに呼応したものなのかもしれない。

 受付を通って出るとき、『小牧叢書』という小冊子が目に入った。中塚は半ば何者かに強いられるような気分でそこにあった冊子をすべて買い込んだ。二十冊近くある。パンフながらさすがに嵩張って重い。

 下山には同じ道もおもしろくない。大手道をいっきに降りていくのもよいが、北麓にジグザグな坂道があったのでそこを降りてみた。搦手からめて口とかいうらしい。国道に出てふと『間々乳観音』の標示が目に入った。小牧山の観音洞でついさっき見た名前である。信長に移転させられたはずである。

「あそこだわ。おっぱい観音だがや」

「イヤン」

 そう話しているカップルの後について行ってみる。

 門をくぐる。と、なんと手水ちょうずがおっぱいである。両の乳首から水が出て鉢に注いでいる。型どおり手を濡らして先へすすむと観音様が鎮座されていて、この観音様は赤子を抱いていてやはり乳首から水が流れる仕掛けである。感心していると絵馬がどっさり掛かっている。それが皆おっぱいの形で圧倒される。せっかくだからお守りでも買っていこうと社務所に寄るとこれまたおっぱい型の意匠で驚く。住職に話を聞きたかったのだが、なんか、おなかいっぱいというか、まぁいいやまた、と門を出る。

 国道に戻るとビジネスホテルがあった。なんだか疲れたので泊まっていこうかと中塚は思い立つ。フロントで部屋を頼む。空いてた。

「前金でお願いします。あ、私どもでは現金はお受けしておりませんので」

 カードで支払いを済ますと部屋へこもる。まだ陽があったが、航空ショーの記事を書き上げる。写真の整理をノートPCでしていると、土に埋もれた線路に錆びた切替機、田圃に掘っ立て小屋の『渋宮郷土博物館分館』、信長屋敷跡や吉五郎稲荷、宗匠風の男など何枚かの映像が迫ってくる。狐の尾がキラキラ輝いていたのはカメラを構える間がなかった。

「もういちど行ってみよう」

 ランプシェードの下に家康の手紙のコピーが置いてある。ちらと目をやる。

「バカバカしい。狸を派遣するなんて」

 そう思うそばからきょうお城で見た信長の手紙が気にかかる。狸の奮闘ぶりを称えるなど酔狂にもほどがある。どちらの手紙もおそらく人物名を伏せて狸だの狐だのと呼び代えているのだ。公的に名を記すのが憚られる人物なのかもしれない。

 写真を選んで添付ファイルにし、記事は何回か推敲して送った。

「やれやれ。思いがけなくはかどったな」

 中塚は食事の前にひとっ風呂浴びようとユニットバスではなく、1階にある大浴場へ降りていった。岩盤低温サウナがある。入る。先客のグループがいた。おしゃべりが中塚の耳に心地よく届く。違和感があった名古屋弁というか尾張弁が馴れれば親しみさえ湧いてくる。近在の人たちがサウナだけ利用しに来ているらしい。

「だいたいよう、♫む~かし徳川豊臣が竜虎の勢を張りし地ぞ♫て小学校の校歌でありえんぎゃ」

「意味なんかわっからせんが」

「それでも歌っとったでな」

「豊臣、徳川は記憶によう焼き付いとるて」

「いまじゃ小牧は信長だわ」

「小牧山に本城かまえて、城下町まで大がかりに造らっせたで」

「ほんでも信長の話はここ数年だら、パーッと広まったの」

「なんでも住民集会でよ、市民が訴えたんだと」

「ほお」

「駅前のようイトーヨーカドーが撤退するときだわ」

「ふんふん。でゃーぶ前の話だわな」

「市民への説明と小牧駅前の有効活用について意見聞いとったんだわ」

「で」

「なんやしらん、七軒町の仁がよう」

「七軒町て上之町にへばりついた路地きゃあ」

「ほうだて。まんだ住んどらっせるでな、いっぴゃあ」

ふりい長屋町だわ」

「そこの仁が言わっせたと。『信長ミュージアム』造れて」

「ほお」

「小牧に半年もおらんかった徳川家康とちがって信長は6年も小牧におったで小牧のアイデンティティは信長だっちゅうて」

「そのころはまんだ信長の話なんか出とらんかったわな」

「市役所の連中もはたと思い当たったんだわ。教育委員会が中心なって旧小牧城下町の発掘やら信長屋敷の推定やら」

「いっきに信長アピールすすめやーたわな」

「わしもよう、大阪やら関東へ出張したけど、そのたんびに地元の武将の名だすのに秀吉や家康て言っとったもんだけど、なんか、ちゃうでな」

「家康は腰掛けで小牧におったモンだでな。信長は腰落ち着けて城下町まで造ったぎゃ」

「ふーん。で、その七軒町の仁てだれ?」

「やーちとかいう仁だげな」

「やーちって。屋阿智とか谷地とかきゃ」

「詳しい話はしらんわ」

「まんだ七軒町におらっせるきゃ」

「まあおらっせんと。身寄りもおらんくなったらしいで」

「言い出しっぺが小牧におらんて」

「ま、そんなモンだわ。信長は報われたっちゅうか小牧の冥利か」

「わし聞いたとこでは、それキツネかタヌキだったと」

「なにぃ狐狸の類が信長を推したんかね」

「その七軒町の仁が化かされとったちゅう説もあるぜ」

 中塚は聞いているうちに昼間の体験と重なって頭がクラクラしだした。

「あんた! でゃあじょうぶきゃあ」

 視線がいっせいに中塚に注がれる。わ。のぼせて失神しかかっていた。

「水かぶりゃあ」

「はよ出たほうがええて」

 中塚は大勢にかつがれて脱衣場を経て大浴場へ運ばれ、ぬるいお湯をかけられた。

「う。うーん」

 息を吹き返して視界がもどると、いくつもの顔が見おろしていた。ほっとするのも束の間、異形の顔が、狐や狸の顔がそこに混じっていた。

「ぎゃ」

 中塚はまた意識を失った。

「(あ!)」

 どのくらい時間が過ぎたのか。腕を引っ張られるような感覚があって中塚はいきなり目を覚ました。ソファに寝かされている。話し声が聞こえる。泊まり客と浴場の係員らしい。

「また出たんですか」

「何匹か混じっとったわ」

「また掃除がたいへんですね」

「そうだぎゃ。出るのはええけど毛だらけなるで」

「水で流すだけじゃだめなんですか」

「狐や狸の毛はこびりつくでな。ゴシゴシやったらんといかん」

「あの人は大丈夫なんですか」

 中塚に話題が及ぶ。中塚は息を止めじっと動かないようにした。

「救急車呼ぼかしらん思ったけど、気ぃ失わっせただけだで」

「初めてなんでしょうね小牧は」

「何回も来とりゃ馴れるけど、いきなり狐や狸と対面だで」

「さぞ驚いたことでしょう。化かされなくてよかった」

「ほうだて」

 二人はドアを開けて出ていくふうだったので薄目を開けてみると、中塚の目に映ったのは手ぬぐいを肩にかけたキツネとモップを担いだタヌキの後ろ姿だった。

「うーん」

 中塚は卒倒した。どのくらい経ったのか周りがざわついている。目をあけてみるとやはりソファの上で、団体客がてんでに脱衣したり話し込んだりしていた。中塚は目を細くしてようすをうかがう。こんどは大丈夫らしい。ほっとして大浴場へ足を運ぶ。しかし落ち着かないのでさっさと上がってしまった。

「腹が減ったな」

 部屋へ帰るや身仕度してホテル二階の居酒屋でサービスのビールとフライやサラダなど夕食のかわりになるものを詰め込む。なんとなくここも落ち着けない。いいかげんに切り上げてレジへ行くと、現金お断りとここでも注意書きが。

「ねえ。この現金お断りって、なんかあるの」

 クレジットカードを渡しながら尋ねると、レジの女の子はきょとんとした顔で中塚を見た。

「お客さん知らんの? あ、よその人きゃ」

 年若い女子も名古屋弁である。あたりまえだが。

「うん。現金がよっぽど嫌われてるから不思議に思って」

「葉っぱだわ」

「え?」

「葉っぱだがね。レジ締めた後、お札に紛れとるんだわ大きい葉っぱが」

「…」

「ほんで勘定が合わんでね。わかるでしょう」

 中塚は女の子の目や口元を見たが、からかっているようには見えない。ごくふつうのことをあたりまえに喋っているのだ。

「それはつまり。えーと。誰かが誤魔化してお札の替わりに、その、葉っぱを」

「狐か狸なんだけど。ようあることだでね。はい、ここにサインしてちょ」

 狐につままれるという表現があるが、いまの中塚はまさにそれだった。茫然として居酒屋を出る。そこはもうエレベーターホールだ。ぼーっとしながら部屋に戻るのが憚られた。一人になると何をされるかわからない、狐に。

『ばかばかしい。そんなことあるものか』

 とは思うものの飛行場から出て此の方、おかしなことばかりだ。この街ではこれがごくふつうのことなのかもしれないが、そうだとすれば余計におかしい。狐狸の類いが幅を利かす街など現実にはない。

『ないはずだ。しかし、これが現実だとしたら』

 中塚はエレベーターホールの奥にある階段へ向かった。すぐ下がフロントである。

「タクシーを呼んでくれないか」

「タクシーでしたら表で待機しておりますのでどうぞ」

「ありがとう」

 玄関を出ると何台かタクシーが停まっていて運ちゃんは車寄せに集まって話し込んでいる。

「1台お願いしたいんだが」

 車座になっていた男たちがこっちに視線を向けた。

「はいはい。じゃ私のクルマへ。で、どこ行きゃーす?」

「七軒町へ」

 中塚はサウナで聞いた地名を口にする。

「は?」

「しちけんちょう。七つの軒の町」

「ちょっと待ってちょ。おーい、七軒町てどこだ知らん?」

「七軒町なら平和堂の西側から入った路地だわ」

 運ちゃんたちのうち年配の男が窓から頭を突っ込んで答える。ナビで指し示す。

「あー了解。ここな。あんがと」

 すーいとタクシーは走り出した。電気自動車か。

「ここ、上之町から裏道へ入ったどこだで。小牧の仁しか知らんわ。あんたも小牧の出きゃぁ?」

「いや。ついさっき耳にしたんだが気になって」

 行き先はどこでもよかった。中塚はともかく小牧山から離れたところへ行ってみたかった。変な現象は小牧山の周辺だけでのことではないかと思ったのである。離れたところへ行けば現象は止む。そう考えてそれを確認したかったのだ。

「ここらだわ。どうしやーす。飲みゃーすならもっと賑やかなとこが」

「いや。ここでいい。あ、現金はダメなんだろ。はい、カード」

 中塚は人気ない通りに降りる。平和堂というスーパーはまだ営業中で煌々と灯りは街路を照らしているが人影はない。指し示された路地へ足を踏み入れてみる。暗い。明るい表通りから一歩入っただけでこうも違うとは。奥は暗闇に閉ざされていて歩いてみるのが怖くなった。それでも意思に反して足はすすんだ。百メートルにも満たない狭い路地である。すぐ通りぬけてしまった。どうということもない。中塚は背後をそっと振り返ってみる。

「おや赤提灯が。あったっけ、あんなモン」

 大きな赤提灯がお出でお出でをしているように誘いかけてくる。いま灯りを入れたのかもしれない。暗くて気づかなかっただけか。近づいてみる。


『清月 一品料理』


 小さな引き戸の奥は柔らかい光で満たされている。なつかしい思いが湧き、暖簾をくぐって戸をあけた。こぢんまりとした空間にカウンターがあって中に女将が笑顔で迎える。

「!」

 中塚は絶句してかろうじて腰掛けに寄りかかる。目は女将に釘付けになったままである。美しい

「いらっしゃい。どうぞ。こちらへ」

 おしぼりを手渡される。顔の、目の辺りを拭く。

「ビールになさいますか」

「いやビールはもう」

「じゃ日本酒を。冷やでどうぞ」

 注がれるままに飲みながら目は釘付けのまま離れない。見るほどに美しさが増していくようだ。美がいや増すというのも変だが、深みが感じられ、より迫ってくる。

「そんなにじろじろと。こまります」

 女将は菜箸を手にしなを作って笑みを浮かべる。中塚はあわてて目をそらす。ふと疑念が頭をよぎる。小牧山から離れたここも異界なのではないか。こんな美人がこんなところに? 狐の化身では。そうにちがいない。しかし想念は視覚が打ち砕く。ちらちらと目に入る女将の手や指先からもあらがいがたい美しさが攻撃してくるのだ。

「はい。どうぞ。さあ、おひとつ」

 女将は浅漬けやお浸しに始まってフライや刺身など、注文などお構いなしに並べては酌をする。中塚は食い物どころではない状態なので、出されるがままに箸を使い、またぐびと猪口を嘗め、心ここにあらずどころか、女将の一挙手一投足にどんどん自我を削られ忘我の局地にまで至る。もうなにがどーでもいい境地だ。

「おーい、お勘定」

 奥から声がかかる。声のほうを見ると座敷でもあるのか、襖の向こうで気配がする。野太い声が談笑している。やがてどやどやと団体が出ていく。女将が片付けに奥へ引っ込む。やや離れた位置から見ても魅力は衰えない。中塚はまたも視線を女将にロックオンする。妖しげな思わせぶりな姿態のゆれがこれまたしなを作るようで、中塚は吸い寄せられて座敷へそろりと向かう。上がりかまちに足をかけると女将のうなじが誘っている。そう感じた中塚は女将の背後へ忍び寄った。すると女将が振り向いて小首をかしげ、やがて満面の笑みが


「それからどーしやぁた」

「そこから先はまったく記憶がありません」

「そっから先は覚えとらんて。ええとこなのになぁ」

「まったくです」

「いやあんたエエ思いしやーたんだで」

「女将の容姿はありありと思い出せるのですが」

「あんなあばら屋でな。柱が朽ちとるし屋根も穴あいとるし」

「はあ」

「まんだマシだわ。昔は肥だめに入っとった仁もおるで」

「私だけじゃないんですか。化かされたの」

「ここじゃようあることだわ。地の人間でもよう欺されるでな」

「よくあることって…」

「旅行者はとくにな。耐性がにゃーでかんたんに化かせるで」

「そうなんですか」

「ま、災難だったけど相手は狐だで。大目に見たってちょ」

「いや、そんな」

「当代の吉五郎は雌で天下一品の化けっぷりらしいで、ワシもいっきゃあ拝んでみてぁけど、地の人間の前にはなかなか用心して出てこんわ。がはは」

「え! 吉五郎…」

「狐の親分だわ。あ、ここに住所とサインしてちょ」

 警察署を出ると中塚は教えられた道をホテルに戻った。連行された小牧署は小牧山の北東麓にあり、ホテルからは五百メートル足らずの距離である。

 空き家に不審者との通報で半裸の中塚はパトカーに乗せられたのだ。山裾の道をとぼとぼ歩きながら中塚は混乱する頭をなんとか整理しようとした。無駄だった。謎だらけである。狐狸の郷なのだ。取り調べの警官もあるいは狐の仲間かもしれない。ホテルのフロントもタクシーの運転手も

「おれはどうなんだ。おれはふつうに人間なんだろうか」

 月が出ていた。満月である。ふと小牧山に目をやると鬱蒼と茂った木立の間からピカッと何かが光った。目を凝らすと月の光と戯れるようにいくつもの光が浮遊していた。

「あれもあれなのか」

 大きなため息をついて中塚はホテルへの道を急いだ。


 寝付かれないまま朝になり朝食を済ますとホテルを出た。タクシーは出払っていたので駅まで歩くことにした。小牧山の西麓を南へまわり、吉五郎稲荷へもう一度足を運んだ。山の斜面にひっそり鎮座するほこらをしげしげと眺めながら。きのうの女将を思い浮かべる。ほんとうに美しかった

「また来るよ」

 中塚は深々と頭を垂れ、小牧山を後にした。

 駅が近づくと人の往来がすこし賑やかになる。と、またしてもスマホに身を屈めたあんちゃんが通りがかり、すれちがいざまにバッグにぶつかってきた。画面に夢中でそのまま行き過ぎようとするので、思わず中塚は足を止めて怒鳴った。

「ばかやろう。くそたわけ!」

 兄ちゃんはハッとして足を止め、中塚を振り返って「あ、ども。スイマセン」と謝った。


 後日、一念発起して中塚は家康の手紙に端を発した小牧での体験を元に、小牧叢書などを参考に信長時代の小牧を小説に描いてみた。それが


『信長を化かしたキツネ~小牧山吉五郎伝』


 である。『なろう』に投稿すると同時に、小牧市長と小牧教育長に冊子にしたものを送付した。なにか町おこしにでも使ってもらえないかと思ったのである。何ら返事はなく、しばらくすると小牧図書館から『この度は書籍を寄贈していただき…』と礼状が届いた。始末にこまった市長と教育長が図書館に厄介払いしたらしい。だから小牧図書館には作者は偽名だが上記の小冊子が二冊、郷土資料として閲覧に供されている。


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