二節 盗蝶記(とうちょうき) その5
どうしても逃げることができない。
そういったものが世の中にはある。
青い鬼や、白い顔のようなフィクションの存在であれば何度だってやり直せるため、――俺のように――よほどゲームが下手でなければ逃げ切ることができる。
しかも彼等は可視化できており、対策手段を講じやすい。
問題は現実において、追いかけてくるものの大半が不可視の存在であることだ。ゲームのように親切に、専用BGMなども聞こえてこない。
ヤツ等は気配もなく人に近づいてきて、捕まえる前まで己の存在を悟らせることさえなく目的を達する。
ニュースを見てみれば、そういったものがいかに世の中に多く潜んでいるかがよくわかる。
さて。
可視化できないということは同時に、物理的解決手段がないということもである。
暴力的じゃないかと物申すヤツも多そうだが、現在ではとっくに生類憐みの令という法は廃止されている。
蚊や蠅は容赦なく潰されて、熊は銃で撃ち殺される。
それをとやかく言うヤツは、そう多くはないだろう。なんの罪もない相手であっても、人は残酷になることができる。殺生さえも厭わない。それに否を唱えるヤツは、逆に奇異の目で見られることだろう。
弱肉強食のシステムからは、人であっても逃れることはできない。弱き者は殺して、強き者からは獲物にされる。今もなお世界中で、人は何者かに食われている。物理的にも、精神的にも。
話を戻そう。
今、俺のことを追いつめているのは不可視の存在である。
ソイツの名は、誘惑だ。
罪だとわかっている行為に、手を染めさせようとする。
ただまあ、誘惑と言っても可愛いヤツなら夜中のスイーツだとか、テスト期間中のゲームだとか社会的信用を失わない――もっとも時と場合によるだろうけれども――軽度なもので済ませてくれる。
しかし今の俺の誘惑は、それ等とは程度が段違いである。
――他人の漫画のアイディアを盗む。
そんなクリエイターとして許されざる行いをそそのかしてくる。
矜持や誇りを自ら傷つける、人でなしのすることだ。
だがこのままでは、どうせ漫画家として終わりなのだ。
プロのアシスタントにはなれるかもしれない。
彼等だって立派なクリエイターではある。けれども俺は、あくまでもゼロからイチを生み出す魔法使いのような存在でありたい。
地の底にいるはずのアイツ等が空を仰がなければ見えないほど、高みにいるような存在になりたいのだ。
そのためなら、手段を講じている場合ではないのだ。たとえ一時の間、悪魔に魂を売ることになろうとも。
俺は川津の部屋の前にいた。
部屋の明かりは消えている。
川津が帰宅したのは確認している。彼女は作業をしている時、必ず部屋の明かりをつけている。
時刻は午前二時十八分。普通の人間なら、とっくに就寝している。
しかし相手は社会不適合者の代表格、クリエイターである。生活は基本的に乱れ、昼夜逆転していることもままある。油断してはならない。
まずはドア越しに音を聞く。
……微かに寝息が聞こえる気がする。多分、きっと。
ノックを数回してみる。できるだけ隣室には聞こえないよう、しかし室内には響くよう意識して。
……返事はない。まるで霊安室のようだ。
一度深呼吸をする。
頭の中で今一度、注意事項を確認する。
できるだけ物音を立てない。誰か来たら、押し入れの中に急いで非難する。作業が終わったら速やかに退室し、自身の部屋に戻る。室内にいる間は、余計なことはしない。
この四つを心中で唱えた後、俺はドアノブに手をかけた。
ゆっくり回して、そっと押し開ける。
ふと脳裏に、どうでもいい疑問が持ち上がる。――家の中のドアは室内に押し開けるタイプが多いけど、玄関のドアはなんで内から外に開くようにできているんだろう?
いや、そんなことを考えている場合じゃないだろうと、頭を振って追い出す。
今は自分のすべきことに意識を集中させろ。
このアパートは旅館のようなタイプで、靴箱は共用玄関で脱ぐようにできている。
それぞれの個室にトイレやキッチンはあるが、廊下の足元は床でスリッパや靴下のまま移動できるし、部屋の中へもそのまま入室できる。音を立てたくない今のような状況では、その構造がありがたい。
最小限のスペースで開けてできた、ドアの隙間へ身体を滑り込ませるようにして室内に侵入する。
ドアはノブを回した状態のまま閉じて、手を放す。音を立てないよう、細心の注意を払う。まるで泥棒にでもなったような気分だ。……いや、気分じゃなくて泥棒そのものか。
俺が部屋に入っても、室内で誰かが動く気配はない。
各々の部屋にあるのは居間、トイレ、キッチンスペース、脱衣所と風呂場、あとは自室用のもう一部屋――大抵の者はここを寝室にする。
川津も例に漏れず、自室用の部屋を寝室にしているはずだ。
俺は足音を忍ばせてその部屋へ向かう。
入り口はドアなのに、居間は畳敷きで自室とは襖で仕切られている。建築者の意図がよくわからない設計だ。
襖をそっと開けて、室内の様子を窺う。
川津は枕に頬を押し付けて、「くー……すー……」と寝息を立てていた。
なかなかだらしのない寝顔である。まあ、下品過ぎない程度に可愛いからこの寝顔を見ても思春期男子が女性に対して幻滅することはないだろう。
色々と複雑な社会ではあるものの、性自認とは真っ向から反する様を見せつけられるとやはりなんだかガックリするものがある。ステレオタイプとは悪い意味で使われる場面が多いものの、幻想という名の楽園を守る壁という役割を果たしてくれていることは認めるべきである。思い込みとは一定量の幸福を供給してくれて、多少なりとも人生を豊かにしてくれているのだ。たとえそれが時に悲劇を起こすきっかけになろうとも。
俺はキラボシチョウの入ったケースをズボンのポケットから取り出した。
キラボシチョウは黒いケースに入っているうえに、俺達の周りは濃い夜闇に包まれている。だがその翅の点は、不思議と金色に輝いていた。
俺はケースを開き、翅をつまんで蝶を取り出した。
それから囁くような声で言った。
「川津……、いや」
果たして名指しで伝わるのだろうか。その不安から俺はより直接的で、特定の人物を指しながらも非人間的な呼称を選択して言い直した。
「この女の(・・・・)記憶を抜き取れ」
ズキリと、罪悪感に胸が痛んだ。
それでも俺はもう引き返すつもりなど当然なく、蝶の翅から手を放した。
蝶は襖の隙間から、部屋に入っていく。
宙を綺羅星が舞う。
あるいは蛍の光――いや、輝き方が違う。
小さい頃に一度だけ蛍を見たことがあるが、それはぽうっと優しく灯る、自然の温もりを思わせる光だった。
だが今目にしている煌めきは己の存在を知らしめるかのような、ある種の気高ささえ感じる輝きだった。
宙を舞っている間に、指輪ほどしかなかった蝶の身体が徐々に風船が膨らむように大きくなっていき、一般の蝶と変わらないサイズにまでなった。
蝶はひらりひらり木の葉のように揺らめきながらも、迷わず川津の頭へと向かっていく。
そして彼女の耳元へと着地した。
川津は変わらず、寝息を立てている。どうやら気付いていないらしい。
俺は僅かに安堵しながらもなお瞬きもせず、眼前の光景を凝視していた。
蝶は吸収菅を川津の耳の中へするすると入れていく。
異物感を覚えたのか、彼女の口から「んんぅ……」とうめき声のようなものが漏れる。
だがそれでも目を覚ますことなく、うなされているように眉をしかめているだけで目を開けることはなかった。
記憶を吸収している間、蝶の翅が僅かにポゥ、ポゥと点滅を繰り返していた。音が実際に聞こえているわけではないが、不思議とそんな響きを耳にしたような気がした。
翅の点滅が終わると蝶は口を元の状態に戻した。
俺は小声で蝶に「ケースの中に戻ってこい」と指示をした。
聞こえたかどうか不安だったが、蝶は指示通りこちらに戻ってきた。身体がまた指輪ほどのサイズになり、ヤツはゆっくりとケースの中に身体を収めた。
俺はケースをポケットの中に入れて襖をそっと閉じ、入ってきた時と同じように音を立てぬよう部屋を後にした。
自室に戻った俺は再びケースを開き、キラボシチョウを取り出して目を覚まさせた。
落ち着いた場所で改めて見ると、本当にきれいな翅だった。
毛がもさもさ生えた胴体がなければ、完璧なのだが……。
いやいや、そんなことどうでもいい。
俺にとって、今大事なのは……。
「……さっきの女の記憶、今すぐ俺によこせ」
やや横暴な態度で、俺は蝶に指示する。虫相手にへりくだったり、対等に話すのはなんとなくイヤだったのだ。
蝶は不満そうな様子も一切見せず、俺の頭上までやってきた。
それからややあって、蝶の翅から光る粉のようなものが降り注いで来た。
粉自体のサイズは、蝶の身体からして至極小さいはずだ。しかし夜闇の中で煌めくそれ等は、膨らむ光によって実際の大きさ以上に見えているはずだった。ゆえに粉が舞う様子は、まるで金色の結晶が舞う降雪のようであった。
俺の頭に、それが降り注ぐ。
粉が登頂に触れた途端、フラッシュバックのように脳裏に様々な光景が映された。
見たこともないような学校の景色。あるいはここ、十脇荘のついさっき見た部屋。あるいは知らない家の中。
光景からは環境音や、人の声が聞こえてくる。
大半の景色には耳馴染みのある声――そう、川津の肉声があった。
これが……、川津の記憶なのか。
ということは当然、川津の考えている漫画のアイディアもあるはずだ――そう考えるや否や、件のものを見つけることができた。
どうやら恋愛ものの作品らしい。
主人公は霊媒師の少女に亡くなった恋人を定期的に呼び出してもらってデートをしていた。だがいつの間にか霊媒師の少女の方が好きになっていて……、という内容らしい。
すごく面白そうなストーリーだ。ラブコメにしてもいいし、男女逆転させて少女漫画路線でも料理次第で使えるだろう。
まさかこんな隠し玉を持っていたとは……。クリエイターという生き物は、つくづく財産の底が知れない。
他にも色々とアイディアがあったがやはりこれが一番、俺の琴線に触れた。
早速、鉛筆を手に取りコピー用紙にネームを起こしてみる。
いつもは時間がかかるこの作業が、今日は一時間もかからずに終わった。
ぶっちゃけ滅茶苦茶、面白い。
……これなら、きっと。
●
「久しぶりに、いい作品を読ませてもらいましたよ」
担当の赤坂はほくほく顔で、何度もネームを読み直している。
無論それは、昨日書き起こした霊媒師の少女と亡き恋人による三角関係のラブコメ作品である。
物語全体の概要書も渡したが、それも込みで気に入ってもらえたらしい。
「これならきっと、企画書の会議も通りますよ。後は絵の方ですがまあ、最悪作画は別の方にやってもらって、揚羽さんは作画に専念してもらうということも可能です」
「あ、は、はい……」
イヤな汗が、全身を流れていた。
まさかここまで絶賛されるとは思っていなかった。
今朝起きた時は、昨日のアレは深夜テンションで盛り上がっていただけなんじゃないかと思いもしていたのだが……。
「ところで、作画をお願いするなら誰がいいですか?」
「えっ、ええと……。スカー・トゥルー先生、とかでしょうか」
スカー・トゥルーとは、川津のペンネームである。
とっさに出した名前が本当の原作者とは、我ながら迂闊が過ぎるな……。
「ははあ。確かに独特な雰囲気になって、逆にアリですね。スカーさんの絵は味がありますし。なるほど、なるほど」
川津は商業デビューしていないものの、今朝方にノベルゲーの会社から一作目のゲーム『ハツハルノチ』が発表されたこともあり、ネットで話題に上がっていた。
時代を逆行したかのような鬱ゲー臭がプンプンしていて、その手の作品が好きなヤツ等が情報を拡散していったらしい。
その原画が川津だったこともあり、オタク界隈では一躍時の人になっている。
おそらく赤坂もその経由で知ったのだろう。
『ハツハルノチ』は俺が見た記憶の中にもあり、その物語の全貌はすでに頭の中に入っている。CGも余さず、全て思い返すことができる。
……おそらくゲームが出ても、新鮮な気持ちでプレイすることはできないんだろうな。
罪悪感がチリチリと胸の奥を焼いた。
「あとタイトルがないので、それも決めないといけませんね。何か案はありますか?」
「あ、あの……」
俺は恐る恐る、手を上げて言った。
「ちょっと、申し上げにくいんですが……」
十脇荘に帰ってきた俺を、心配そうな顔の火美子が出迎えてきた。
「……揚羽ちゃん、赤坂さんに聞いたよ」
「えっと、何を……?」
「その、せっかく企画会議に通りそうな作品を……取り下げたって」
耳が早い……。まあ、担当が同じで同じところに住んでるって知れてるから、こうなるのは当然っちゃ当然だが。
「いや、取り下げたっていうか……。ブラッシュアップしたいなって、思っただけだよ」
「でも、それまで企画会議には出さないでくれって言ったんでしょ。ブラッシュアップなら、編集部で検討してもらっている間にもできるはずだよ」
「まあ、そりゃそうだけど」
俺は顔を合わせているのが辛くなって、火美子から目を逸らした。
その時、廊下の奥から足音が聞こえてきた。
これは……、今は一番会いたくないヤツのものだ。
「おぉっ、お二人さん。こんなところで何を話してんのかな」
弾んだ鞠を思わせる陽気な声で、川津が割って入ってきた。
「あ、川津ちゃん。ゲームの発売、おめでとう!」
「ありがと。まあ、まだマスターアップもしてないから本当に出るかどうかわからないけどね」
「え……? でも、発売日がホームページに載ってたよ」
「ゲームの発売日は、宿題の提出日みたいなものだから。真面目な生徒もいれば、そうじゃない生徒もいる。つまりそういうことなのさ」
「……漫画家の〆切みたいなものなんだね」
「そゆこと。んで、アゲ太郎はなんでそんなシケた顔してるの?」
「アゲ太郎言うな、アゲ太郎って」
俺は川津の顔を見れないでいた。
言うまでもなく、良心の呵責からである。
人というのはかくも身勝手な生き物であり、罪を犯す時に罰の存在を忘れることをもっとも得意とするどうしようもない性分を有しているのである。
「……そういや、今日打ち合わせに言ってきたんでしょ。よかったら、そのネームあたしにも見せてよ」
「いや、その……、見せられるわけないだろ。未発表の作品なんだし」
「あはは、今更何さ。いつも揚羽のネームの相談に乗ってるじゃん」
川津の言う通りで、俺にとって彼女は創作におけるよき相談相手であった。
己が罪の毒牙にかけた相手に、その証をみすみす見せるのはどうも気が進まない。
しかしここでネームを見せなければそれは禍根になって、どうせ厄介なことになるであろう。
俺は観念して、川津にネームを見せることにした。
「……ほら、これだよ」
「どれどれ」
受け取った川津は、ネームに目を通し始める。火美子も、横から覗き込んでいる。
その間俺は、絞首刑の縄から覗く景色を眺めている死刑囚は、おそらくこんな思いをしているんだろうなぁと考えていた……。
読み終えた川津は「ほほう」と感嘆の息を吐いた。
「なかなか面白いじゃない。いやはや、まさか揚羽にラブコメの才能があったとはね」
川津はまるで目新しいものを前にしたかのような、驚きのリアクションを取っている。
だがその心中では、どのような感情が渦巻いているだろう。
盗作を疑うことはないだろう。なぜなら川津はそのアイディアをどこにも書き記していないし、誰にも話していないのだから。
となれば『先を越された』というショックだろうか。
あるいは素直に賞賛の意しか抱いていないとか……は、さすがに希望的観測が過ぎるな。
「でもあたしなら、もっと別のジャンルにしたかな」
川津の一言に、俺の頭の中はたちまち疑問符に占められた。
……別のジャンル?
川津の記憶には、そんなアイディアはなかったような……。
「別のジャンルって、たとえば?」
「推理ものとか。亡くなったはずの恋人。その子が、霊媒師に降ろされた時、『実はわたし、誰かに殺されたの』って爆弾発言をする。そこから恋人を殺した犯人を、霊媒師のヒロインと共に探し始める……とか、どう?」
語り終えた川津は、自信満々に胸を張る。
目覚めてからアイディアについて練り直していたのか、はたまた俺のこの盗作を読んで思いついたのか。
なんにせよ、そこからは今の俺にはない向上心を感じた。
ただアイディアそのままを真似すればいいとしか考えていなかった。自分らしいアレンジを加えようなどと、露ほども思わなかった。
クリエイターたる者の、最後の矜持すら俺は捨ててしまっていたのか……。
「……面白い。面白いよ、それ」
俺の口からは、自分のものとは思えない酷く痩せ細った声が出てきた。
「俺はこの作品の権利を手放す。……だから川津が、その作品を完成させて世に出してくれ」
もう耐えきれなくなり気が付けば駆け出し、その場から逃げ出していた。
「ちょっ、え、えっ!?」
「ま、待って、揚羽ちゃん!」
川津の戸惑いの声が背後から聞こえる。火美子が俺の名前を呼んでいる。
だけど俺は足を止めることも、振り返ることもしなかった。
二人と顔を合わせる資格など、俺にはないのだから……。