二節 盗蝶記(とうちょうき) その4
翌日は、予報では一日中土砂降りだった。しかし朝起きて外を見ると、雲一つなくどこまでも晴れ渡っていた。
朝食を取って、銀行へ向かう。
貯金はおよそ四十万。その半分を失うことになるが、別に構わない。伸るか反るか、いずれにしても現状を変えることができる。まあ、もっともギャンブル以上に健全なことではないのだが……。
夕方まで適当に時間を潰すことにした。
最近はずっとアシスタントや自分の漫画作成に時間を費やしていたので、今日ぐらいは羽を伸ばすことにする。そもそも帰ったところでネームぐらいしかやることはないし、それだってきっと無駄になるのだから。
映画館に行くと、気になっていた作品が上映開始になっていた。
『劇場版マッチ・マジック・マジチック』
最近流行りの、魔法少女系アニメの劇場版。百合百合した萌えに大迫力のバトルの燃えが融合した、オタク界隈で大好評の作品。
脚本を担当しているのは『ダイス・キー・フレンド』や『恋してますみちゃん』で人気を博した漫画家のシクシクハック先生である。
ラブコメ作品ばかり書いていた彼が脚本ということで最初は不安視されていた、アニメオリジナル作品。しかし蓋を開けてみれば飛ぶ鳥を落とす勢いの大ヒットを記録し、ついに劇場公開が決定したのだった。
俺はアニメ放映時から追っており、すっかりハマっていた。
当然、劇場版が公開されたら真っ先に観に行こうと思っていたのだが、最近はずっと漫画のことばかり考えていてすっかり忘れていた。
前売りチケットを出して入場券を受け取り、メロンソーダとキャラメルポップコーンを買ってから入場口で券を確認してもらって、指定されたスクリーンへ向かう。
公開されてから結構な日数が経っているが、まだ半分程度席が埋まっていた。さすがの人気っぷりだ。
俺が席に着いてから少しして、やや長いCMリレー――見ると時間を損した気分になるし、見逃すとそれはそれでなんか損した気分になるから不思議だ――、が始まった。
それを入場者特典でもらったトレーディングカードゲームのプロモカードを、どうやってデッキに組み込むかなーと考えながらぼーっと眺めていたら、いつの間にか終わっていた。
……呑気なものだな。
頭の片隅から、もう一人の自分の声が響いてくる。
お前は今日、許されざる罪に手を染めるのだ。……それを知っていてなお、そんな風に今まで通りの人生を送るつもりでいるとは……。
――やめろ。
わかってる。わかってるさ。もう、俺は……。
心中の言葉が、身体中に響き渡るような爆音によって遮られる。
映画の本編が始まったのだ。
主人公達が敵を蹴散らし、勝利したところでオープニング。アニメ主題歌をベースにアレンジした劇場版用の楽曲。感動と期待感に、胸がいっぱいになる。
オープニングが終わってすぐの序盤は、アニメの日常回を思わせるような百合シーンの連続にドキドキさせられる。
それからシリアスな中盤へと話は進み、世界の命運をかけたクライマックスへ突入する。
主要人物が勢ぞろいし、強大な力を持つボスへ挑むシーンは手に汗握った。
ボスキャラは禁じられた魔法に手を染めて、闇堕ちしてしまった元魔法少女だった。
主人公が、彼女に語りかける。
『どうして……、どうしてよ。なんで、闇の力なんかに手を出しちゃったの? あなたは誰よりも頑張り屋さんで、みんなにとっても優しくって……。それで……それで……』
涙で濡れた顔に、一層悲壮な色を浮かべて叫んだ。
『いつかみんなに夢を届けられるような、素敵な魔法少女になりたいって言ってたじゃないッ!!』
闇落ちした魔法少女が、どこか諦観めいた笑声を漏らしてそれに答える。
『人は生まれ落ちると同時に、呪いをかけられているの。それは闇から逃れようとすればするほど、強力なものになってしまう。だからどこかで悪に堕ちるべきなのよ。その呪いが、己が身と魂を亡ぼすほど成長してしまう前に……』
ふと俺は、Yのことを思い出していた。
卒業展示会の後、協力して作ったポスターを皆に無断で勝手に壊した彼女のことを。
確かにあれは倫理的に許されざる行為だったのかもしれない。
だが法的にYが裁かれたわけではないし、誰も彼女のことを責めたりはしなかった。
つまりまだ、その程度の呪いだったということだ。
あの時点であれば自身の身も魂も傷つけないと思ったからこそ、あえて悪に堕ちたのやもしれない。
……長い人生の中、一度も悪に堕ちない人間などおそらくいないだろう。
必ずどこかで、罪は犯す。
重要なのはきっと、そのタイミングなのだ。
誰も傷つけず、自身も滅ぼさない――悪に手を染めるタイミング。
それを逸すると、人は周囲に悪者だと認知されてしまう。
俺にとってそのタイミングとは、今なのだろうか?
悪堕ちすべき時が、本当に来たのだろうか?
わからない。
だが後戻りなんて、できるはずがない。
人生における敗北は、命を失うことではない。
ここ一番の大きな勝負で、フォールドをする癖がついてしまうことなのだから……。
●
公園に着くと、爺さんは少し意外そうに目を丸くした。
「……二十万、持ってきたぞ」
「ほう。……あなた様は倫理観などを気にされそうな方ですから、てっきりもういらっしゃらないかと思いましたよ」
「背に腹は代えられない状況なんだ。あるいは藁にも縋りたい、か」
「なるほど、なるほど。では、交渉成立ということで」
二十万を受け取った爺さんは、それを無造作にズボンのポケットに入れた。
「……なあ、一つ訊いてもいいか?」
「はい、なんでしょう?」
「記憶を盗み出す蝶なんてのを飼ってるなら、もっと効率のいい稼ぎ方があるだろ。なんでこんな人の手に売り渡すような、リスキーな商売をしてるんだよ?」
「リスキー……なるほど、確かにそうですね。こういった虫の存在が世間に知れ渡るのは、正直こちらにとっては不都合です」
「だろ。もう少し、頭を使った生き方をした方がいいぞ。まあ、俺に他人のことをとやかく言う資格はないけどな」
爺さんはじっと俺のことを見た後、だしぬけに破顔して言った。
「いやはや、あなた様は今時珍しい親切な方ですね」
「よせよ。別に善人なんかじゃない」
「そんなことありませんよ。見ず知らずの他人に気を遣えるような方は、そう多くはありません。……あなた様のようなお方なら、安心してこの子を任せることができます」
爺さんは昨日と同じ引き出しを開けて、金色の粉をまぶしたような蝶を取り出した。
蝶は不自然なぐらい、じっとして動かない。
「わたしめは、人を見る目がないようでしてね。時折、取り返しのつかない失敗をしてしまうことがあるんですよ。でも今回はそうではなさそうで、よかったです」
「……失敗、か。それは実は、俺の得意分野なんだ」
「しかし失敗は成功の母と言います。きっとあなた様にはその内、今までの苦労や悲しみが報われる幸福が訪れますよ」
「親ってのは確かに子供より先に死ぬものだ。でも世の中には虐待ってもんがある」
「これはこれは。一本取られましたな」
ハハハと声に出して笑う爺さん。
いつもの朗らかな様子は消え去り、マッドサイエンティストのような空気が彼の周囲を渦巻いていた。俺はゾワッと泡立つ肌を擦り、僅かに後ずさった。
それは唐突に立ち消え、爺さんは何事もなかったかのように落ち着いた様子で言った。
「何度もお話した通り、この蝶は売り物の中では一際特別でしてね。あなた様にお渡しする前に、一つ済ませておかなければならないことがあるんです」
「……なんだ?」
「契約です。あなた様がご主人様だと、認識してもらうための」
契約――その単語を耳にするなり、外気の水分が毛の根元まで沁み入るような薄ら寒さを感じた。
「どうやるんだよ、それって」
「簡単です。あなた様は何もせず、そのままじっとしていてください。手続きはこの子が全てやってくれますよ」
爺さんは蝶を自身の顔の近くにやり、俺の方へ複眼が向くようにして、翅に語り掛けるように言った。
「さあ、あのお兄さんと契約を結びなさい」
爺さんが羽から手を放すと、蝶はひらりと宙を舞い俺の傍へやってくる。
反射的に接近物から後ずさりそうになるが、爺さんがゆっくりかぶりを振るのを見ると、不思議と動揺した気持ちが落ち着いてその場に佇んでいられた。
蝶は俺の顔の前を通り過ぎ、耳元へと止まった。
脚の微妙にちくっとする感触に背筋が一瞬冷え込んだが、それはすぐに慣れた。
それから耳の中に、何かがするすると入ってくる異物感を覚えた。
ビクッと身体を震わせると、爺さんは軽く身体を仰け反らせて一笑し言った。
「蝶の口です。吸収管とも呼ばれるものです。花の蜜を吸う時に用いましてな、ほら、ストロー状のものですよ」
「な、なんでそれを俺の耳の中に……?」
「先程申しましたように、契約ですよ。少し頭の中がゾワッとするかもしれませんが、命や身体がおかしくなることはありませんので、ご心配なく」
爺さんがそう言うや否や、頭の中を直接つつかれたようなこそばゆさを覚え、直後に脳が軽く泡立つような不可思議な感触を訴えた。
「っ……んぅ!?」
「ご安心を。すぐに終わりますから」
爺さんの言葉通り、その現象が続いた時間はおそらく五秒にも満たなかったと思う。
ぱっと異変は治まり、耳の中にあった異物感はするする抜けていった。
耳元にあった脚の感触が離れると、俺はようやく呼吸を忘れて息苦しくなっていたことを自覚した。
「はぁ……」
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……。結局、今の儀式ってどういう意味があったんだよ」
「記憶の共有、みたいなものでしょうかな。蝶が相手の記憶を盗む時も、今回とほぼ同様のことを行います」
「……それじゃあ、こっそり盗むようなことはできないのか」
「相手が寝ている時に行うのが賢明かと。まあ、そこら辺はあなた様のやり方にお任せしますが」
爺さんは俺から目を逸らし、遠くにあるビル群にかかった日を見やって言った。
「そろそろ夜ですね。店仕舞いの時間です」
「……こういう商売は、夜とかにやった方が客の入りがいいと思うぞ」
「ご助言、ありがとうございます。ただまあ、今のままでも十分に生活できるほど稼げていますから」
「珍しい蝶とはいえ、一頭売るだけでも二十万だもんな。一日一匹売れば、一ヶ月で六百万か。悪くない商売だな」
「いえいえ。そこまで高額な虫はそこまで売れません。うちの主力商品は、アシダカグモですので」
「アシダカグモって……、あの気持ち悪い見た目のヤツか?」
「確かに見た目はあまり好感を持てるようなものではないかもしれませんが、実は害虫を食べてくれる益虫なんですよ。たとえば、ゴキブリとか」
「へえ、そうなのか。ちなみにいくらなんだ?」
「一匹、五十円です」
「……そりゃ、なかなかお買い得で」
「お求めになりますか?」
「いや、いくら害虫を食ってくれるからって、さすがに集合住宅に虫を放つのはちょっと……」
「そうですか、それは残念。ああ、そうそう」
爺さんは自身のズボンのポケットに手を入れてゴソゴソと中を探るようにした後、何かを取り出して俺の方へ差し出してきた。
それは黒い半透明な結晶のような、美しい箱だった。薄く切れ目がある。どうやら開閉できるタイプのもののようだ。
「特別な虫を購入された方には、これを差し上げなければなりませんでした。どうぞ、お持ちください」
「この箱は……?」
「いわゆる虫籠です。特別な虫専用の」
だがその箱のサイズは、リングケースほどしかない。蝶のサイズは一般的なもので、明らかに指輪以上に大きい。
「いやいや、これには絶対に入らないだろ」
「では、騙されたと思って開けてみてください」
言われるままに俺は箱を開けてみた。
すると蝶は花の匂いに誘われるように箱の近づいてくる。
箱に近づくにつれて、蝶の身体はお湯に入れられた角砂糖のようにみるみる小さくなり、ついにはリングケースの中に身体を収めてじっと動かなくなった。
「もしも箱の外に出したくなったら、翅をつまんで取り出してやってください。何かやらせたいことがあったら、指示したらそれに素直に従います」
「……なあ、どういう理屈で身体のサイズが変わったんだ?」
「それは企業秘密というものです。お教えするわけにはまいりませんな」
髭の動きから、爺さんが唇の両端を吊り上げたのがわかった。
「もう一つ訊いておきたいことがある」
「なんでしょうか?」
「蝶が記憶を奪えるのはわかったけど、俺がそれを知るにはどうすればいいんだ? まさか、蝶がしゃべって教えてくれるのか」
「ああ、これはまたうっかり。大事なことを忘れていました。ただまあ、先ほど言った通りです。蝶はあなた様に忠実に従います。奪った記憶の内容を知りたい時は、蝶にそう指示してやってください」
「……説明性に具体性があるようで、そうじゃないんだが」
「ははは。まあ、お楽しみが少しはあった方が人生楽しいものですよ」
そう言って爺さんは薬箱を持ち、歩き出してしまった。
俺はしばし呆然とその背を見送っていたが、ややあって駆け出して彼の後を追った。
「ちょっ、ちょっと待てよ」
「まだ、何か?」
「ええと……。この蝶って、何か名前とかあったりするのか?」
何も考えずにただ衝動的に呼び止めただけだったので、特に尋ねたいことはなかった。
だがこのまま引き下がる気も起きず、とっさに思いついた適当な疑問を爺さんに投げかけた。
爺さんは何度か瞬きを繰り返した後、「ふむ」と一言を漏らして沈黙した。
気のせいだろうか。彼の表情には、困惑のようなものが浮かんでいる――そんな風に思えた。
ややあって爺さんは言った。
「記憶を覗き、盗む蝶。ならば――盗蝶記なんていうのはいかがでしょう」
「……多分、お前は名付け親にはならないほうがいいぞ」
「それは残念。なかなかの自信作だったんですがな」
肩を竦めた後、爺さんは俺の肩を軽く叩いて言った。
「名前はお任せしますよ。何せ、その子の主人はもう、あなた様なのですからな」
「じゃあ……、星空みたいな翅だから、キラボシチョウ……なんてのはどうだ?」
「……なるほど。さすが漫画家、大したネーミングセンスですな」
「いや、ぶっちゃけクリエイターならお前ぐらいのセンスの方がいいと思うけどな。一昔前で言う、中二病的エッセンスって結構今でもウケるし」
「お褒めに預かり光栄です。……では、これで。あなた様に、幸があらんことを」
公園の入り口で、俺達は別れた。
太陽の沈む方へ歩いて行く。
日の光にかざすようにして、ケースに入った蝶を見やった。
陽光を受けた翅は金粉のような点が自己主張強く光って、夜空よりも煌びやかではあった。