二節 盗蝶記(とうちょうき) その3
夕暮れ時の街が、俺は好きだった。
多くの人はこの黄昏時に郷愁のようなものを感じるのだが、俺は違う。
そもそも子供時代だって、ロクなもんじゃなかった。思い出したい記憶などほとんどない。だからこそ、フィクションの世界に逃げ込んだのだ。
俺がこの茜空に覚えているのは、終末感への安堵である。
世界にある何もかもが滅んでしまえば、もう悩みなんか抱かなくていい。何も考えず、自身という存在の喪失をただ受け入れればいい。
どうせこれ以上生きたって、俺にできることなんかたかが知れている。
ならばいっそのこと、消えてしまえばいい。
しかし死ねば未練が残る。それはもしかしたら、俺という存在をこの世界に縛り付けるやもしれない。
だから世界ごと滅んでくれた方が、都合がいい。留まる場所さえなければ、地縛霊とかにならずに済むだろうから。
……でも、もしそうなったら、別の意味での後悔に苦しめられることになるだろうけれども。
あっちを立てればこっちが立たない。いや、そもそもどっちも立つはずがない。
現実性を無視した問題であり、考えたところで益体もない。
そう気づいたところでため息を吐く。
まったく。もう少しマシなことに、頭のリソースを費やした方がよっぽどいいだろうに……。
そんな考えに至った時、火美子に教えてもらった公園に着いた。
さて例の爺さんはいるかと園内を覗くと、すぐに見つかった。
確かにベンチの上に薬箱を置き、それをずっと撫でている。猫の頭だと思い込んでいるかのように。
かなり不気味である。
だが爺さん自体はかなり弱々しそうで、危険な臭いはそこまでしない。
好奇心がむくむくと湧いてくる。
一体アイツは、あんなところで何をしているのだろう。
俺は迷わず爺さんの元へ近づいていった。
爺さんの方も俺のことに気付いたようで、目を細める。白い髭がもっさり生えているから、口がどうなってんのかよくわからないが、漂ってる雰囲気的に笑っているような感じがする。
頭にはマジシャンが持っていそうなシルクハットをかぶっている。まあ、こんな冴えない印象を受ける爺さんに鳩を出すような真似ができるとは思えないが。
杖を持った右手には、特に力がこもっていたり体重がかけられている様子はない。転ばぬ先のってヤツだろうか。
俺が傍まで来ると、爺さんは意外にも芯の通った声で訊いてきた。
「何か御用ですか?」
「用っていうか、噂を聞いたんだよ。虫を売ってる変な爺さんがいるってな」
「はい、確かに。売っておりますよ、色んな虫をね」
爺さんの目が、薬箱に向けられる。おそらくそこに売り物の虫が入っているのだろう。
だが少し妙な気がした。生きている虫が入っているなら、少しぐらい動き回っている音がするはずだ。けれども、生物が入っている気配すら感じられない。
ということはつまり、あの中に入っているのは虫は虫でも、標本にでもなる死んだヤツか、姿を模したアクセサリーなのではないだろうか。
「……たとえば、どういう虫がいるんだ?」
「色々いますよ。カブトムシにクワガタ、蛍に蜘蛛とか」
「へえ。じゃあ、蝶も?」
少し意地悪のつもりで俺は言った。
蝶は身体の何倍も大きい翅を広げている生き物だ。あの薬箱の中に生きているヤツがいるはずがない。
ところが爺さんは意に反して、あっさりうなずいた。
「もちろん、おりますとも」
爺さんは薬箱の上から二段目、一番右端の引き出しを開いた。
そこには見たこともないような、不思議な色合い――黒地に金色の粉を撒き散らして、縁を白くにじませたような――の翅をした蝶が何頭かいた。
本体の部分は黒い毛に覆われていて、所々に金や白の筋みたいなものが入っている。
予想だにしなかった美しさに見入っていると、爺さんが訊いてきた。
「どうです、この子は?」
「……あ、ああ。きれいだな」
「きれいなだけじゃないんです。この蝶にはね、少し不思議な力が宿っているんですよ」
「不思議な力?」
爺さんはゆるりとうなずいて言った。
「ええ。人の記憶をね、自分の中に複製することができるんですよ」
「記憶を……、複製?」
「はい。パソコンのデータみたいにね、他人の記憶をコピーして自分の頭の中にペーストする感じだと言えば、伝わるでしょうか」
「……それは面白いな。でも、蝶が人間の記憶を手に入れてどうするんだよ」
「もちろん、蝶が人の記憶を持ったところで何かに役立てることはできません。けれども、それを他の人間に知らせることができるとしたら――どうでしょう」
さっと、全身の血の気が引いていった。
「……まさか、他人の秘密を盗んだりできるってことか?」
「はい。あなたは、お仕事は何をされていますか?」
「俺は……その、漫画家だけど……」
「ふむ、漫画家ですか。なら、たとえば――」
爺さんは今までの朗らかな感じとは打って変わった、地の底から響くような笑声を漏らして言った。
「……他の方のアイディアを奪ってみるのは……どうでしょう?」
「ひ、他人のアイディアを……?」
耳を疑って訊き返したが、爺さんはあっさりとうなずいた。
「はい。クリエイターという方は、いつもよいアイディアが思いつかずにお困りなのでしょう? でしたら、奪ってしまえばよろしいのです。アイディアが豊富な方からね」
「……そんなの、盗作だろ」
「盗作というのは、すでに作られたものを真似るから盗作なのです。アイディアを拝借するのは、法に触れることではない。違いますか?」
俺は爺さんの言葉に反論しようと、口を開いた。しかし意思に反して、言葉は何も出てこなかった。
「どうです? 悪い話ではないと思うのですが……」
甘い話には裏があり、上手い話には落とし穴がある。それぐらいのことは知っている。
何より俺は腐ってもクリエイターであり、こういう展開に乗った後どういう結末が待っているのかというのは、容易に想像できた。バッドエンドものは割と好きで、よく観賞してるしな。
しかしいざ実際に自分がその立場に立つと、その誘惑がいかに抗い難いものであるかがよくわかった。
「……その蝶の、値段は?」
結局、木の葉は風に吹かれて川に流される。林檎は重力に逆らえず、放たれた矢は真っ直ぐに飛ぶしかないのだ。
爺さんは猫が蝶を視界に捉えようとするに、軽く首を巡らして言った。
「そうですね。この蝶はまあ、割と珍しい種類ですから……二十万円程度でどうでしょう」
「二十……万?」
「ははっ。ちょっと高すぎましたかな」
逆だった。
安すぎる――それが俺の抱いた感想だった。
確かに一匹の虫につけるには、値段が高すぎる。
だが爺さんの話が本当なら、この蝶がいれば他人の記憶を自由に覗き見ることができるのだ。
そんな能力を、たった二十万円で手に入れることができるというなら……安すぎる。
俺は少しばかり逡巡してから言った。
「……ちょっと、考えさせてくれないか」
爺さんは鷹揚な様子でうなずいて言った。
「かしこまりました。わたしめは日が出ていれば夕方頃、大体ここにおります。もしもご購入を決断されましたら、いつでもお越しください」
「わかった」
俺はそう言って爺さんに背を向けて、公園を後にした。
肩越しに振り返ると、爺さんは目を細めて俺に手を振っていた。
カナカナカナカナとひぐらしの鳴き声がする。
街の熱気が引いていき、夜がやってこようとしていた。
●
帰ってきた俺は、机に向かってネームに取り掛かろうとした。
俺はネームはノートやコピー用紙に鉛筆――シャーペンはなんとなく、手に馴染まない――で書いて、下書きからペン入れ、ベタ塗り、トーンはデジタルでやることにしている。
どの工程が好きかと問われれば、下書きとペン入れだ。漫画を自身の手で作っているんだと一番実感できる瞬間だからだ。
逆に苦手なのは、ネームだった。
俺は元々アイディアが枯渇している人間で、ストックなんて何もなく、カードゲームで言えばハンドが足りなくていつもデッキトップで勝負しているようなタイプだ。
だから使えるアイディアが出てくるまで、デッキからカードを引き続けなければならない。
しかし人生という名のデッキを組んでいるのは、自分自身ではない。
この山札に、本当に市場もとい盤面を返せるほどの切り札が眠っている保証はない。
人はどこぞの誰かに押し付けられた構築済みデッキで戦うしかないのだ。たとえそれがコモン程度のカードしか入っていないゴミデッキだったとしても。
なかなかいいアイディアが出てこなかった。
ドローソースも早々に尽きて、俺は作業机から離れてベッドに倒れた。
一枚一枚が弱いカードでも、組み合わせれば強力なコンボが生まれることもある。
しかし今日はハンデスランデス、おまけに墓地利用さえも封じられたように、手にしたカードがことごとく奪われていった。
集中なんて、できるはずがなかった。
頭の中はずっとあの蝶のことで占められていた。
他人のアイディアを――奪うことができる。
あの蝶さえいたら、こんなに苦しい思いはもうしないで済むのだ。
何もネームだけではない。
俺の弱点であるキャラクターデザインも、他人のもので補えるやもしれない。
しかもだ、運がいいことに俺は多数の漫画家が四六時中いるこの十脇荘に住んでいる。
つまりターゲットに困ることはない。
あの蝶はまさにもってこいってワケだ。
何を躊躇する必要がある。
俺は今、追いつめられている。タイムリミットが迫っているんだ。
手段を選んでいる場合じゃないだろう。
早く成果を出さなくちゃいけない。そうしないともう、チャンスを取り逃すことになる。
二十八――赤坂が言っていたように、そろそろ厳しい年だ。
まあ、この年から漫画家を目指して成功するヤツもいるが、そういうヤツ等は貯金だったり本業だったりとセーフティーネットを用意しているものだ。
俺は貯金はほぼないし、このままではプロの漫画家になれる見込みもない。
だったらもう、いいじゃないか。禁じ手を使ったって……。
あの蝶は超常的な存在であるがゆえ、法に触れることはないだろう。
たとえ何かしらの罰があったとしても、それがメディアで報道される(・・・・・・・・・・)ことはない。つまり親しい人に迷惑がかかることはない。
俺は言わば、無敵の人なのである。
たとえよくあるような力による代償で死んだとしても、それは本望なのだ。他人が直接手を下してくれるのなら、むしろありがたい。どうぞ遠慮なくやってくださいと両手を挙げて無抵抗の意を示す用意がこちらにはある。
気が狂うならそれでもいい。地獄に落とせるものなら、落としてみるがいい。永久の苦しみを抱えて生きろというなら、却って諦めがつく。
二十万。たった二十万のレイズで、人生を変えることができる。そして勝とうが負けようが、俺の望み通りの展開になるのだ。
暗い笑いが、自身の口から漏れたのがわかった。