二節 盗蝶記(とうちょうき) その2
あれから六年の月日が流れた。六年間――決して短い歳月ではない。
その間、俺はいくつかの現場にアシスタントとして入りつつ、同時に何十本もの読み切り漫画を描いた。
企画会議にかけられた作品もあったが、結局は全てボツになった。
今年で二十八歳。
「そろそろ、先のことを考えませんとねえ」
担当の赤坂がそう言った。
彼は四十八歳のベテランだ。今まで多くの売れっ子作家を育ててきたそうだ。もっともそれは当人達の努力による結果であり、たとえ担当がしたアドバイスがどれも適切だったとしても、決して我が物顔で威張っていいことじゃなかろうと思う。そういう意味では、俺はこの赤坂という男に好感を持っていた。
赤坂は俺に原稿を返してきながら続けた。
「漫画家一本で食っていくなら、プロのアシスタント。そうでないなら、どこかに就職するべきでしょう」
「はい……」
俺は返事をしつつも、原稿を受け取る。
その作品は、河童をモチーフにしたグルメ漫画だった。
河童の頭にあるのが皿だというのに着目して、そこに料理を盛ったら面白かろうと思ったのだ。
「それであの、今回の作品は……?」
「発想はよかった想いますよ」
珍しく褒め言葉から入ってきた。赤坂は基本的にお世辞は言わないので、今回の作品は久方ぶりに彼の目を引くところがあったようだ。すでにボツが決まっているようなものだが、それだけでも少し嬉しくなってしまう。
「ただし――」
赤坂の声が、一気に突き放すような厳しいものになる。
「作画に関しては背景はともかく、キャラクターデザイン独自性がなく、表情が硬くて魅力がありません。ストーリー面では河童の皿というアイディアが完全なお飾りになってしまっている点が、まず一つ。それと物語上の問題も多々見受けられます。悪役である甚兵衛が急に改心するシーンは説得力がなく、ここまでついてきてくれた読者も冷めてしまうでしょう。キャラ設定も甘すぎます。ヒロインの蘭が辛いものが苦手だと冒頭で言っていたのに、なぜここでワサビが入っているはずの寿司を普通に美味しそうに食べているんですか。一度決めた設定は理由がない限り、しっかりと遵守してください。あと作品の提出は、まずネームでいいと申したはずです」
「いや、でも今回のは自信があったし、あわよくばこのまま掲載してもらえるんじゃないかなーと……」
「……だとしてもです。たとえ採用レベルのネームでも、直すべき箇所は存在します。いきなり原稿を持ってきていいのは画力を見たい投稿初心者と、百年に一人の天才だけです」
俺の漫画も言い訳も、バサバサと爽快なぐらい切り捨てられていく。
赤坂はテーブルをコツコツと指で叩いて言った。
「とにかく、次はネームを持ってくること。それと、今後のご自身の進路を決めてくること。わかりましたね?」
教師のように理路整然とした物言いに、俺は素直に「はい」と答えるしかなかった。
●
編集部のあるビルから、徒歩二十分。
築十年のそこそこ古いアパート――十脇荘。
十脇荘は家賃が安く、そのためか万年貧乏な漫画家やその卵がこぞって住み着いている。かくいう俺も、その一人だ。
共用玄関に入ると、住民の一人である川津がちょうど入れ替わりに外出するところだった。
ポニーテールが特徴的な美少女。だが男の影がまったくなく、部屋にはギャルゲー――十八禁のものを含む――や美少女のフィギュアを溜めこんでいる変わり者だ。
「おやおや、誰かと思えば揚羽じゃないの。お帰り」
「ただいま。これから会社に?」
「そう。新作のゲームの会議にね」
「ゲームねえ……。漫画家は諦めたのか?」
「そういうわけじゃないけどね。でもまあ、ゲームを作るのもわりかし面白いものだよ」
川津は最近友人と共に会社を立ち上げて、ノベルゲームを作っているらしい。
そんなもの売れるのかと甚だ疑問ではあるが、本人が楽しそうなのだから外野がとやかく言うものではないだろう。
「まあ、頑張れよ」
「あんがと。そうそう、さっき先生が帰ってきてたよ」
「おお、そうか」
先生――このアパートでそう呼ばれているヤツは、一人しかいない。
同じアパートに住んでいると仲間意識が生まれるからか、誰かがデビューしてもソイツのことを急に先生と呼びはしない。
しかしそんな中、特別扱いで先生呼ばわりされているソイツは――。
「あっ、噂をすればなんとやら」
川津がふと何かに気付いたように、廊下の先を指差す。
言葉通り、我等が先生がそちらからおいでなすった。
「ん……あっ、揚羽ちゃんと川津ちゃんか」
考え事をしていたのか、先生は相当近くに来るまで俺達の存在に気付かなかったようだ。
今時珍しい、黒髪ロング。おまけに容姿が美人と来た。肌が絹のように白いのがなおいい。まさに正統派の大和撫子である(異論は認めない)。
くりっとした瞳が愛らしく、小柄なのも相まって小動物的な可愛らしさもある。
これで年齢が二十一歳だというのだから、詐欺である。いやまあ、別にこういう騙され方なら全然大歓迎なのだけれども。
外観から非の打ち所を探すのは、雪原からセミの抜け殻を見つけるより難しい。せいぜい、胸が小さいことぐらいか。別に俺はまったく構わないというかむしろ(以下略)。
「よっ、先生」
先生こと、大海原火美子はぷくっと頬を膨らませて言った。
「その呼び方はやめてって、いつも言ってるじゃん」
「あはは、すまんすまん。でもさ、俺も揚羽ちゃんはやめてほしいんだけど……」
「えー、いいじゃん。可愛いし」
「そうそう、可愛いんだしさ」
「外野は入ってくんなよ……。話がややこしくなるから」
「そーだねえ。馬に蹴られる前に、とっとと退散するかね」
「ちょっ、それはどういう――」
「あっははははは、じゃーねー」
川津は脱兎のごとく駆け出し去ってしまった。アイツに最も似合わない言葉はおそらく、立つ鳥跡を濁さずだろう。
「あ、あの、揚羽ちゃん。今の馬に蹴られてって、その――そういう意味だよね?」
かっと顔を赤らめて照れだす火美子。
「お前、文脈を読む能力が高すぎるって。そんなんじゃ、ラブコメ作品のヒロインになれないぞ」
「む、無理だよ、わたしにラブコメのヒロインなんて! そんなに可愛くないし……。それにラブコメで鈍感なのは、主人公の方でしょ」
「まあ、そうかもしれないけど……。でもまあ、お前には鈍感系平凡主人公より、白馬に乗った王子様……は、洋風だから似合わないか。……よくよく考えたら、大和撫子系のヒロインに似合う理想の相手って誰なんだろうな」
「それはやっぱり、お侍さんとかじゃ……って、その大和撫子系ヒロインってもしかして――」
「ん? もちろん、お前のことだが」
「えっ……、ええッ!?」
口元を隠して肩を跳ねさせる火美子。いちいち所作が可愛すぎるのは狙っているのか、天然なのか――まあおそらく、後者だろうな。
「何を驚いてるんだよ。黒髪ロングの色白美女って言ったら、大和撫子の代名詞だろ」
「び、美女ってそんな……。わたし、別にきれいなんかじゃ――」
「まあ、火美子はきれいより可愛いって感じか」
「かかか、可愛くなんてないよ!」
「……お前、そういうことは鏡を見て言えよ。全国の女子を敵に回してるって、自覚した方がいい」
「あ、うう……。わ、わかったよ。揚羽ちゃんがそう言ってくれるなら……、努力してみる」
涙目の上目遣い。必勝連撃コンボに、俺の心臓が大ダメージを受ける。つくづく思うのだが、心臓ってヤツは絶対マゾヒズムだよな。こんなにバックンバックンさせられて喜んでるんだから。
「ね、ねえ。この後、時間ある?」
「ん、まあ。特に予定もないしな」
「じゃあ、その……。よかったら、わたしのお部屋でお茶しない? お外暑かったし、喉渇いてるでしょ」
「そうだな。じゃあ、お言葉に甘えて」
ぱっと顔を輝かせる火美子。可愛い。この笑顔を守るためなら俺は、世界中を敵に回すことになろうとも戦えるかもしれない。いや、きっとそうするだろう。
「やっぱりお前、ラブコメのヒロインに向いてるよ」
「えっ……?」
「しかも集合絵の場所はセンターだろうな」
「なななっ、何言ってるの! 揚羽ちゃんはもう……」
赤面して顔を俯けてしまう火美子。
俺は彼女の頭を思わず撫でてしまいそうになって、寸でで自制した。
親しき中にも礼儀あり、である。無用な接触は人間関係の崩壊に繋がるし、最悪社会的に死にかねない。自重の二文字は常に胸の内に刻んでおくべきなのだ。
●
火美子の部屋には、彼女が描いた漫画のコピーが至るところに貼ったり、吊るしてある。
彼女は液タブを使ったデジタル作画派だが、いつでも自身の漫画のことを考えられるように、こういう環境にしているらしい。
ざっと見渡して目につく漫画は『悪魔喰らいのエドワーズ』、『パレットコレクション! ~カラフルライフのキセキ~』、『愛の位置センチメートル』等々。
火美子は少年漫画から少女漫画、青年漫画に成人漫画(ペンネームは変えているらしい)まで、幅広いジャンルで活動している。
一風変わった作品が多いものの、どれも読み切り作品として評価が高く、ゆえに連載を勝ち取ったと聞いた時も特に驚きはしなかった。
こうしてざっと原稿を眺めただけでも、彼女の才能・実力・努力――三拍子がきれいにそろっていることが窺える。
才能がやる気となり努力を生み、努力が実力を鍛え、それが才能に還る。
こうした循環で人は成長する。
サイクルが早ければ早いほど、人は他者より優課れた人間になれる。
つまりこの部屋こそが、火美子が先生と呼ばれるほどの存在になった所以を物語っているのだ。
「お待たせ」
火美子がお盆にカップを二つ、麦茶が入ったピッチャー、お菓子を盛っている皿を載せて作業部屋兼居間に入ってくる。
「麦茶でよかった?」
「ああ。喉渇いているし、甘いものよりはさっぱりしてるものの方が嬉しい」
「ふふふ、そっか」
なぜか嬉しそうに笑う火美子。別に喜ぶようなことを言ったつもりはないのだが……、まあいいか。
コップを受け取り、ピッチャーから注いでもらった麦茶を呷った。ひんやりとしていて美味い。香りも爽やかで、夏の麦茶ってヤツはなかなかに嬉しい一杯である。なお炭酸麦茶は飲めない。アルコールにはめっぽう弱いのである。
俺は麦茶をいただきつつ、漫画原稿以外にもう一つ部屋の面積を占めているものを見やった。
人形の街――そう、街と呼べる規模なのである――だ。
ゴルバニアファミリー、リナちゃん人形、テディベア等々。名前がよくわからないマイナーそうなヤツまである。しかも押し入れには、飾られていないものがまだまだ眠っているというのだから驚きだ。
「……また増えたな。その内、コイツ等に部屋を侵略されるんじゃないか?」
「そ、そんなことないよ。これでも最近はちゃんと、手当たり次第に買うのは控えてるんだよ」
「本当かよ……。まあ、いいけど」
火美子も俺の向かいに座り、こくこくと麦茶を飲み始める。両手でコップを持っている様は、ハムスターが向日葵の種を持っているようにも見える。
「あ、菓子も持ってきたよ。揚羽ちゃんが好きなちんすこう」
「マジか。じゃ、遠慮なくいただきますよっと」
俺は沖縄が誇る名菓、ちんすこうの封を切って一口かじった。ほろりと砕ける生地からふんわり広がる、絶妙なバランスの甘味と塩味。愛野が持ってきたのは雪塩使用のものだ。見た目は飾り気こそないものの、その自然体がまた素晴らしい。真夏の白い砂浜が結晶になったような美しさ。ひと夏の思い出が、この菓子には詰まっているのではないかしらんと思いさえする。それは生地が溶ける際の僅かな塩辛さが、涙の味に似ているからやもしれない。……まあ、ここまで行くと妄想五十パーセントは含まれているような気がするけれども。
「……あの、口から漏れてるよ」
火美子が食べかけのちんすこうを手に、苦笑しながら言った。
「えっ、何が?」
「ちんすこうの食レポ。でも、涙の味ってよくわからないんだけど……。もしかしてこれ、ヤンデレの子が作ってるの?」
「わかってないな。ヤンデレは涙じゃなくて自分の血を入れてなんぼだ」
「……ソ、ソウダネ。シツレイシマシタ」
「おい、露骨に距離を取るな。泣くぞ」
「ご、ごめんごめん。今度はヤンデレ演説が始まるのかなって思って」
「そりゃまあ、ヤンデレは好きだけどな。ロリかせめて同年代に限るぞ」
「え……。あの、その……ちょっと年下とかは、興味ないのかな?」
なぜか少し落ち込んだ様子で尋ねてくる火美子。
「……別に、年下もアリだと思うが。JKものとかも割と好きだし」
「そ、そっかー。そうなんだ、えへへ」
途端、沈んでいた火美子の表情はぱっと明るくなった。
人の性癖に一喜一憂するとか、よくわからないヤツだな。
火美子はちんすこうを食べ終えた後、指についた粉をちろちろと舐め取っていた。
「……包装を上手く使って食べれば、手を汚さずに済むぞ」
「えっ、本当?」
「ああ。こうして……」
包装越しにちんすこうを持ったまま食べる実演をしてやる。
「わぁっ。すごい、揚羽ちゃん天才だね!」
「……別にそんなことないと思うが。いちいち包装から出して食べるの、面倒臭くないか?」
火美子は「うーん」と小首を傾げながら言った。
「確かにそうだけど……。でも最後の一欠片は、包装越しに持ったままだと食べにくいし……」
「そこは口をつけて、薬みたいに飲みこめばいいだろ。まあ、下手にやると粉がボロボロ零れてくるけど――」
「ん――ッ!? は、鼻の中に粉が――ふぇっ、ふぇ、ふぇっくしょ!」
チーターもビックリなフラグ回収速度である。ちなみに海中最速はスズキ目マカジキ科のバショウカジキで、チーターと同じく時速百十キロらしい。こういうのを聞くとなんとなく、自然界の神秘みたいなものを感じる。
「大丈夫か。ほら、ティッシュ」
「あ、ありがとう」
「にしても、すごいくしゃみだったな。ふぇっふぇふぇって――」
「……ううぅ、言わないで。恥ずかしいから」
「すまん、すまん。でも恥ずかしがることないぞ。可愛かったし」
「そんなこと褒められても、ちっとも嬉しくないよぉー!」
「まあ、そりゃそうか」
火美子は麦茶を飲んで「ふぅ……」と一つ息を吐いてから、改まった調子で切り出してきた。
「あ、あのね、揚羽ちゃん。その、お願いがあるんだけど……」
「なんだ、アシスタントか?」
「そっちは大丈夫だよ。揚羽ちゃんもお仕事があるだろうし」
火美子の何気ない一言が、薔薇の刺のように心に刺さった。
仕事なんてない。むしろアシスタントでもしてた方が、将来のこととか考えずに済んでありがたいぐらいだ。
まあそんなこと、口が裂けても言わんが……。
「……どうしたの、揚羽ちゃん?」
「あ、いや、なんでもない。それで、お願いって?」
「えっとね。新作の漫画を読んでほしいなって」
「なんだ、そんなことか。別にいいぞ」
「ありがとう。あの、これなんだけど……」
火美子は作業机の上に置かれていた原稿のコピー用紙をまとめて、こちらに渡してきた。
扉絵では蝶の翅が生えた巫女服の少女が、可愛らしいポーズを決めている。萌え絵から察するに、少年向けなのだろう。
タイトルは『夢渡りのいろは詩』らしい。語感にこだわりがあるという、火美子らしい題名だ。
内容は人の夢に入れる少女が、心の心臓とも言える『命の詩』を詩屍という存在から守るという魔法少女系バトルものだった。
「ど、どうかな……?」
一通り読んだところで、火美子は緊張した面持ちで訊いてきた。
俺は思ったことをそのまま伝えた。
「火美子にしては珍しいシンプルな懲悪ものだよな。ストーリー運び自体もテンプレ的だったし。絵が美味くて構図もセンスがあるからページをめくらせる推進力自体はあるものの、読者の印象に残るかどうかと言えば甚だ疑問だ。それと設定の説明がくどいから、もう少しスマートにまとめてほしいな」
「ひぅうんっ!」
素っ頓狂な声を上げて、火美子が畳の上に倒れる。
「……大丈夫か?」
「う、うん……。ありがとね、アドバイスしてくれて」
火美子は「えへへ」と笑いつつ、軽く髪を整えながら起き上がった。
「でもこんなの、担当がしてくれるだろ。俺だって赤坂さんから、毎回イヤってほど指摘されてるし……」
「ううん……、そんなことないよ」
火美子は顔を逸らし、心なしか沈んだ声音で言った。
「わたしのことは……、揚羽ちゃん以外誰も――」
「どうしたんだよ、火美子」
「……あっ、ゴメン。なんでもないの、忘れて」
慌てて取り繕ったような笑みを浮かべて、パントマイムで壁を作っているかのように手を振って言う火美子。
「そうか……。まあでも、悩みがあったら言えよ。俺じゃ力になれないかもしれないが、話を聞くことはできるからさ」
「……う、うん。あ、そういえば、今日ちょっと変な人に会ったんだよ」
「変な人?」
「確か、黒いタキシードを着たお爺さんでね。漢方医の人が持ってそうな薬箱をベンチの上に置いて、それをずっと撫でてるの。なんだろうなーって思って見てたら、お爺さんが『よろしければ、虫をお買いになりませんか?』って言ってきたんだ」
「……そりゃ、随分変わったヤツだな」
「だよね。怖くなって、走って逃げだしちゃったよ。……もしかして、お爺さんに失礼だったかな?」
「いやいや、それが正解だって。明らかに怪しいし。でも、ちょっと見てみたいな」
「それなら、場所を教えるよ。……だけど危ないことはしないでね」
「ああ、わかってるって」
俺は火美子に爺さんがいるという場所を教えてもらい、早速見に行くことにした。