一節 蜘蛛男 その4
「先に下りてくれ。僕は後から行く」
「コケィ、コケィ」
絵詑迩を先行させて急な階段を降りていく。途中で足を止めずとも一分以上続くそれを降り切ると、薄暗い電灯に照らされた狭い空間に出る。
冷房は効いていないが、まったく暑くない。むしろ少し肌寒いぐらいだ。少しジメジメしていて、空気はかび臭い。
そこには一台の靴箱がある。靴箱の中には一組の長靴が無造作に入れられている。
僕はそこで靴を長靴へ履き替えて、奥にあるドアへ向かい鍵を開ける。ノブにあるものと五つの南京錠がかけてあり、結構厳重に施錠されている。毎回開けるのが面倒くさいが、そうも言ってられない。必要な経費を払うのを怠った者には、相応の罰が下るのが世の常だからだ。
絵詑迩はきょろきょろと辺りを見回していたが、僕が「こっちへ」とドアを開けながら手招きすると、素直にそれに従った。
部屋に入るなり、絵詑迩は目を丸くして固まった。
地下室はは広い。一般的な体育館以上のスペースと高さがある。多分、地上の家なんかすっぽり入ってしまうんじゃないだろうか。
むわっと、鉄を思わせる悪臭が嗅覚を占める。それに便所臭さも混じっていて、鼻の曲がりそうな酷い臭いだ。
その空間を、だがあるものが大部分を占めていた。
こちらに大きな影を落としてきている――ソイツは。
見上げなければ全体像がわからぬほどとてつもなく巨大な、一匹の蜘蛛だった。
種類はアシダカグモ。つまり――害虫駆除の専門家である。
絵詑迩はさっと顔を青ざめさせ、ガタガタ震えながらもその場を動けず、ただ蜘蛛を凝視している。
蜘蛛は身体のサイズに比べて小さな黒い四つの目に、絵詑迩の姿を映しているようだった。
蜘蛛は二つの目以外の視力はほぼ失われていると聞いたことがあるが、実物を見たところでそれが本当なのかはよくわからない。
蜘蛛はもっさり毛が生えた身体を動かし、様々な角度から絵詑迩を観察している。
絵詑迩は明らかに恐怖に支配されている。
だからもうコイツは、蜘蛛から逃げることはできない。
蜘蛛は矢庭に口を動かし、シュルッと白い糸を絵詑迩目掛けて吐き出した。
糸はまるで意思を持っているように、絵詑迩の身体へ巻き付いていく。
「ちゅっ、チュゥウウ、チュゥウウ!?」
こんな時でも奇声を忘れないとはさすがだなと、僕は妙な感心を覚えた。
蜘蛛はあっという間に絵詑迩の胴体と足を固定し、ヤツの動きを封じた。
絵詑迩はその場にどさりと倒れ込み、まな板の上の魚のようにジタバタもがいて、糸からどうにか逃れようとしていた。しかし見た目以上にがっちり固定されているようで、それは叶わない。
蜘蛛は八本の脚を動かして絵詑迩の元へ近づき、じっと彼女が暴れる様を眺めている。
「やっ、やめっ、やめてっ、り、傀利を、どうするつもり!?」
絵詑迩の目にはいつになく理性的な光が宿り、顔には恐怖と哀願の念が浮かんでいた。
「どうって、決まってるだろ」
僕は蜘蛛に代わって答えてやった。
「害虫駆除だよ」
「がっ、害虫って、何よ!?」
「そりゃ、なあ」
面倒臭くなって、僕は無言でヤツを見た。
絵詑迩はみるみる顔を赤らめて、こちらを睨んできた。
「り、傀利が一体、オメェに何をしたって言うのよ!?」
「何もしてないって思うなら、そうなんだろう。だがこの世界はな、お前の心一つで作られてるわけじゃないんだよ」
「ワケがわからないこと言ってんじゃねえわよ!」
僕は肩を竦めて、蜘蛛を見上げた。
ヤツはそれを待ちかねていたかのように口を開き、小さな牙が生えたそれを絵詑迩に近づけていった。
絵詑迩の顔はいよいよ、絶望の色に染まり、歪んでいく。
「い、イヤッ、やめてっ……殺さないで! 殺さないでぇっ……。イッ、イヤァアアアアアアアアアアアッッッ!!!!!!」
ガッ、ガツッ、ガツッガツッガツッ――。
肉の潰れる音より、骨に歯がぶつかる響きが室内を占めていく。ともすれば耳を塞ぎたくなるその騒音が、今の僕にはジムノペディの次に美しい音色のように思えた。
ガツガツッ、ガツガツガツガツガツガツガツガツッ……ベキッ。
どうやら骨をへし折ったらしい。
コイツの口のサイズなら絵詑迩の身体ぐらい一口で平らげられそうなものだが、根が美食家なのだろう、獲物の身体を分解してゆっくり食事をすることを好む。
まあ、僕があまり満足に食事をさせてやれていないからかもしれない。
コイツの一日の食事はその辺にいる害虫と、夕方に届く豚肉の切れ端ワンボックス分だけなのだから。
たまのご馳走ぐらいじっくり堪能したくなるのも、うなずけるというものだ。
「ゆっくり食えよ」
僕は食事に夢中になっている蜘蛛にそう声をかけてから、部屋を出た。
入る時に外した鍵と南京錠を全てかけおえ、長靴を普段の靴に履き替えて、地下室を離れる。
血生臭さが鼻から抜けていく。
地上に戻った僕は玄関に置いてあるミントの消臭剤を手に取って、適当にその辺に吹きかけた。
爽やかな、いい匂い。
今日はよく眠れそうだった。
●
翌日。
ピンポーンとドアベルが鳴り、僕はソファから身を起こした。
読んでいた『ゴドーを待ちながら』に栞を挟んだ後、僕は玄関へ向かう。
ドアを開けると、そこには美しい少女がいた。
高校生か、大学生ぐらいだろうか。
背丈は女子にしてはそこそこ高い。百六十センチぐらいだろうか。
顔立ちは主張が激しくないものきれいに整っており、目は現実から切り離されているかのように無感情な光を放っている。
髪は縮毛しているのか、毛先以外はきれいに整っている。
肌はまずまず日焼けしているが、決して荒れてはいない。
銀行の金庫のごとく固く結ばれていた口が、ふいにすっと開かれた。
「こちらに昨日、姉がお邪魔しませんでしたか?」
「えっと……。あの、あなたは?」
「わたしは絵詑迩結貴。傀利の妹です」
僕は思わず、まじまじと結貴を凝視してしまった。
結貴は姉とは似ても似つかぬほどの美人だった。
「……腹違いか?」
「いえ、血は繋がっています」
思わずしてしまった問いに、結貴は慣れた調子で答えた。どうやら、初めてされる質問ではないらしい。
「それで、姉ですが……」
僕はしばし逡巡し、辺りを見回した後に答えた。
「ああ、来たよ」
「そうですか。……何か変わった様子はありませんでしたか?」
「変わった様子――というと?」
「ええと……」
初めて結貴が口ごもった。
それからしばし目を彷徨わせた後、再び口を開いた。
「何かこう……どこかに行く、と言っていたとか……」
「いや。……実はな」
僕は声を潜めて、決して誰かが通りかかっても結貴以外には聞こえないよう注意を払って言った。
「アイツは、まだ僕の家にいるんだ」
「えっ……!? ほ、本当ですか!?」
驚愕に双眼を円くする結貴を、僕はどこか愉快な心地で眺めつつ「ああ」とうなずいた。
「よければ、上がっていってくれ。多分、アイツも君に会いたがっている」
「え、でも……」
逡巡する結貴に、僕は穏やかな口調で言った。
「大丈夫だ。君――ああ、結貴って呼んでもいいかな?」
「え、あ、はい」
「ありがとう。結貴が思っているような心配はないから」
パチパチと瞬きを繰り返した後、結貴は気の抜けたような様子で「あ、はい……」とだけ言った。
僕は身体をずらして入り口のスペースを空けてやり、結貴を家へ入れた。
それからドアを閉じ、上下に二つある鍵の内、下だけそっと音を立てぬようかけておいた。
「それで、姉はどこに……?」
「地下にいるんだ。ついてきてくれ」
僕は結貴を伴い、地下へ向かった。
「階段は急だから、足元に注意してくれよ」
「はい、わかりました」
僕は時折背後を振り返りつつ、階段をゆっくりと降りていった。
地下に辿り着き、僕はいつも通り長靴へ履き替える。
そんな僕を、結貴は訝しそうに見てきた。
「あの……」
「絵詑迩はこの奥の部屋にいるよ」
ドアの方を見やった結貴は、取り付けられた鍵に気付いてか瞠目した。
僕は結貴が逃げ出さないよう、彼女の手をガシっとつかんで言った。
「さあ、行こうか」
「あの、でも……」
「大丈夫。僕は酷いことをしないから」
蒼顔の結城はなかなか動こうとしなかったが、僕が強引に手を引くと、諦めたように足を動かした。
僕の足音が一定の感覚で、結貴の足音が絶えず小刻みに地下空間に響く。それ等はやがていずれも宙に呑まれて消えていく。
ドアの鍵の解錠はもう手慣れていて、片手でも行える。
結城は開錠音が鳴る度にビクッと身体を震わせていて、見ていてなかなか愉快だった。
ほどなくして全ての鍵が開く。
僕はドアを開けて、結貴の手を引く。
「あ、あの、やっぱりわたし……」
「来るんだ」
その場に留まろうとする結城を強引に引っ張り、僕は室内へと連れ込む。
部屋に入った結貴はそこにいるヤツを目にした途端、ハッと息を呑んで目を見開いた。
今日も巨大なアシダカグモは、じっとその場で佇んで餌を待っていた。
四つの黒い目が、品定めするように結貴を見やる。
彼女は説明を求めるように、僕の方へ顔を向けてきた。
意外にも結貴の表情には、さっきまでのような怯えはきれいに消え去っていた。
僕は努めて口の端を吊り上げ、笑みを作って言った。
「お前の姉はな、アレに食われて死んだんだ」
「アレというと……、蜘蛛にですか?」
「ああ。やめてとか、殺さないでって悲鳴を上げてな。お前にも見せてやりたかったよ、なかなか爽快な光景だったぞ」
「……そうか。死んだんだ。お姉ちゃんは……、死んだんだ」
ぽつぽつと、俯いた結貴の口から呟きが漏れる。
やがて彼女の肩が、小刻みに揺れ始める。
小刻みに、小刻みに……徐々に大きく、遠目から見てもわかるほどに。
さぞ涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっていのだろうと、覗き込もうとした時だった。
「ふふ、ふふふ……」
声が聞こえた。
嗚咽だろうか?――いや、違う。
これは……、喜悦の混じったこれは――
「アッハ、アハハッ、アハハハハハ、アーッハハハハハハハハハハハッヒャハッ!!!!!!」
……笑い声だ。
結貴は、笑っているのだ。
自身の、姉の死を。込み上げてくる喜びに胸の内を、脳内から分泌されているアドレナリンに全身を震わせて――声を高らかに、嗤っているのだ……。
「死んだぁ! 死んだんだぁ!! あのクズ、やっと死んだ、死んだ、死んでくれたんだァ!! アッハァ、アハハハハハッ、あー愉快愉快痛快超サイコォッ!! アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!」
僕は寒気を覚えた。
決して地下空間の気温によるものじゃない。
「……狂ってる」
我知らず胸中の呟きが、口から漏れていた。しかしそれを止める術を、僕は持っていなかった。
「狂ってる。結貴、お前は――狂ってる」
「狂ってるぅ?」
こちらを振り返った結貴は、その見た目にそぐわない醜悪な笑みをニィッと浮かべて言った。
「狂うに決まってるじゃん。あんな頭のオカシイ女と、ずっと暮らしてたんだよ。毎晩毎晩チュウチュウつきまとわれて、夜中には爆音でゲームをされて、騒がれて。いっそ暴力でも振るってくれれば公的機関にでも駆け込めたのに、アイツは本当は気が狂ってない(・・・・・・・)から、その一線は越えてこない。こっちが耐えかねて、自殺するのを待ってたんだろうね」
「ど、どういうことだよ。だって絵詑迩は――」
「アイツ、障害者雇用じゃなくて正規雇用で会社に入ってるんだよ。会社の同僚に普段の様子を訊くと、『勤勉家で気遣いができる』って評判でさ。本当に病んでいる人は猫を被れない。アイツは精神病患者を装って、わたしのことを殺そう(・・・)としてきたんだよ」
僕はわけがわからなくなって、呆然としてしまった。
そんなはずはない。そんなはずはないのだ。
だってアイツは、僕の前でだってオカシかった。
結貴が言っていることが本当なら、僕の前で精神病患者を演じる必要はなかったはずだ。
だが――
絵詑迩が殺される寸前のことを思い出す。
あの時、アイツは理性に従って、僕に命乞いをしていた。
命の危機が迫ったからと言って、あんなに急に我を取り戻せるものだろうか?
もしかしてずっとアイツは、僕の前でも演技をし続けていたんじゃないだろうか。
わからない。わからない。だが――
「だからぁ、死んでくれて超ハッピー♪ アハハ、これで手間が省けたぁ! わたし自身の手を汚さずに済んだぁ!! アハハハハハ、ハハッ、アヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒッ!!!!!!」
……結貴、この女はもう壊れて(・・・)しまっている。頭の螺子が残らず、全て外れてしまっている。
それだけは、よくわかった。
つうっと、背筋を冷たい汗が流れていた。
怖い。怖い、怖い、怖い――
僕は目の前の女に、心底から恐怖を覚えていた。
理解できない境地にイッてしまっているこの絵詑迩結貴というヤツを――もはや人間とは思えないこの存在を、何よりも恐れていた。
甲高い嗤い声が不協和音となって、室内に響き渡っている。それは僕の精神を鑢のようにゴリゴリと削っていった。
段々、いつものように呼吸ができなくなってくる。
苦しい。辛い。逃げ出したい。
後ずさろうとしたが、何もない場所でつまずき、尻もちをついてしまう。
立ち上がろうとしたが、腰が抜けてしまったように動かない。
結貴は目を細めてつま先立ちになり、愛おしそうに蜘蛛の顎を撫でていた。
「ありがとうね、アイツを殺してくれて。どう? 美味しかった、あのクズは」
蜘蛛はじっと動かず、結貴の愛撫を受けていた。
もはやヤツの目は、結貴のことを獲物だとは見ていないだろう。
長いこと接してきたのだ、気配で考えていることはなんとなくわかる。
むしろ――ヤツが物欲しそうな目で見ているのは……
黒い四つの眼と、目が合う。
液体窒素でも打ち込まれたように、さっと急激に体温が下がっていった。
ヤバイ……ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ。
僕は恐怖を覚えていた。
もちろんそれは、蜘蛛に対してではない。姉の死をものともしない、結貴へのものだ。
だがそれはどう言い繕おうと、恐怖であったことには変わりない。
そして今。蜘蛛が向けてきた殺意に僕は、間違いなく――ヤツのことをも恐れていた。
このままだと、僕はアイツにッ……!
どうにか逃げ出そうとした時、結貴は蜘蛛の脚をそっと抱きしめていった。
「ダメよ。あの人は、殺しちゃダメ」
蜘蛛は僕から視線を外し、首をかしげるようにして傾け、結貴の方を見た。
彼女はその四つの目を見返して言った。
「あの人はこれから、わたし達の面倒を見てくれるの。利用価値があるから、殺しちゃダメ。わかった?」
蜘蛛は頭を上下に動かし、僅かに下がってじっとしたまま動かなくなった。
眠ってしまったのかもしれない。蜘蛛には瞼がないから、よくわからないが。
結貴は上機嫌そうに鼻歌を歌い、軽い足取りでこちらにやってきた。
「大丈夫?」
「……あ、ああ」
言いたいことは山ほどあった。だがそれ等はどれも声や言葉という枠にはなかなか収まらず、僕は向けられた問いに対してただうなずくことしかできなかった。
結貴はおとぎ話の魔女を思わせるような笑みを顔に湛えて、こちらに手を差し出してきて言った。
「不束者だけど、これからよろしくね」
この手を取れば、もう平穏な生活には戻れない。
……いや、わかってるはずだ。
そんなものはもう、手から零れ落ちてしまった。
もう僕には選択肢なんて、残されていない。
残された道は、ただ一つ。悪魔との契約を交わす――それだけなのだ。
「……こちらこそ、よろしく」
そう応えて震える手を伸ばし、結貴の小さな、やや日焼けした手を握った。
彼女は僕の手をぎゅっと、蝶の羽を捕まえるように握ってきた……。