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一節 蜘蛛男 その3

 最近、酷く寝不足だった。

 あの銃声は一晩だけではなく、毎晩のように鳴り続けていた。

 つまり絵詑迩を止めるヤツは誰もいないってことだ。

 一度、耐えかねて警察に電話をかけて相談したことがある。

 警察は親身になって話を聞いてくれたが、返事はかんばしくなかった。

「警察っていう組織はですね、ケガ人や死人が出ないと満足に動くことができんのですよ」

「……僕、もう頭がおかしくなりそうなんですけど――」

「そりゃ、辛い状況なのは同情しますけどね。でもだからといって、その騒音で怪我をされたわけではないんでしょう

?」

 そう言われては、僕は閉口せざるを得なかった。


 精神に異常をきたしているのは、紛れもない事実だと思う。

 その証拠になるかはわからないが、最近僕がブログにアップした文章が支離滅裂だったことからもそれが窺えると思う。

 以下がその文章の一部を抜粋ばっすいしたものだ。


 ――――――――――――――――――――――――。

   7月27日 天気・雨


 ルールに抵触しない悪事を、第三者は私的な理由以外で裁くことはできない。

 しかしそれが悪事である限り、加害者と被害者は確かに存在するはずなのである。

 さらに問題は、そのルール自体にも及ぶ。

 ルールとは個々人の捉え方次第で、いかなる形にも歪められるものである。

 ルールを正しく機能させるためには、公正な監視者が必要である。

 ただし公正な監視者を必要数用意するのは物理的に不可能である。

 よってルールはたとえ国家が定めたものでさえ、状況によって破られることが多々ある。

 もちろん、盲目的にルールを守ることが正しいとも限らない。時代を経るにつれてルールを守ることに無理が生じることもあるだろうし、ケースバイケースという言葉もある。緊急時には憲法や法律さえも、順守することはできないかもしれない。

 だが特に後者はあくまでもイレギュラーなことであり、日常的な場面で考えるようなことではないだろう。

 今一度我々が議論すべきは、ルールに抵触しない悪事を犯した者を裁くことができるかどうか、である。

 この場合の悪人――加害者は彼もしくは彼女が属しているコミュニティにおいてヒエラルキーの上位者であることが多い。

 ゆえにこそ、ルールを捻じ曲げることができる立場にいる可能性が高い。

 公正な監視者がいない以上、ルールが捻じ曲げられてもそれを誰も戒めることができない。

 ルールに抵触しない以上、そのコミュニティ内において、悪人は悪人ではなくなる。

 そうでなくても、そもそも国家が定めた憲法や法律に穴がないとも限らない。法に触れない悪事が存在するとすれば、それで他者に苦痛を与えることもできる。あるいは法の効力が及ばない閉鎖されたコミュニティを想定してもいい。

 被害者は自身が受けている損害を第三者に訴えたい。だが前述のような状況で、その第三者も法に頼れない――頼りたくない――としたら、どうだろうか。

 加害者に悪事をやめさせるために残された方法は、世間で散々美化されている『話し合い』に限られる。

 話し合いで解決される可能性は限りなく低いだろう。なぜなら加害者は多くの場合、ヒエラルキーの上位者だ。悪事で利益を得られているとすれば、それをやめる理由がない。

 仮に加害者に悪事をやめさせられたとしても、結果的には被害者の受けた損害の方が大きいことには変わりがない。

 第三者も権力もないだろうから、加害者に罰が与えられることもない。

 被害者の損害は三つ。被害を受けたこと。話し合いのために労力をかなければならなかったこと。そして被害による心的な後遺症――トラウマとまで行かなくても、被害を受けた以上その記憶は残るものである――だ。

 対して加害者は、悪事による利益を失ったという一点しか損害を受けなければならない。

 頭が少年漫画色に染まっている者は、その被害者が弱者から強者に這い上がればいいと言うかもしれないが、それは彼等の事情をまるで考慮しない浅薄な意見だと言わざるを得ない。

 弱者が弱者たる理由は個々人によって違うわけだし、その悪事によって努力そのものを妨げられているかもしれない。

 つまりは弱者のいる場所こそ、袋小路と呼ぶにふさわしいのだ。

 先程閉鎖されたコミュニティという単語を使ったが、それにもっとも当てはまる場所こそ学校であろう。

 学校内で起こったいじめを裁くのは、教師の仕事である。あるいは学級委員や生徒会、風紀委員が行うこともあるかもしれないが、同じ学生である以上、限界があるだろう。

 だがいじめの放置が教師の仕事上の怠慢であったと発覚するのは、往々にして取り返しがつかないことがあった後である。

 学校という場においての法を統べる教師が頼れない時、児童を守るのは家族の役割である。

 だが家族がその勤めを放棄した場合、すぐに指導されたり罰せられることはほぼない。

 なぜなら児童にその事実を社会に知らせる方法がほぼ皆無だからである。

 果たして家庭と学校両方に居場所がないと訴える児童の話に耳を傾けられるシステムが、全国の家庭裁判所にすでに存在しているだろうか。そしてその児童を救済できる街が、果たしてどれだけあるだろうか。

 ゆえにこそ自殺は起きるのだし、また問題が殺人にまで発展するのだ。

 悪事を冷静に俯瞰し加害者を公正に裁けるのは、大抵の場合において悪人である。なぜなら善人には、悪人の人権をも保護する義務が発生するからだ。情け容赦と換言してもいい。

 ――――――――――――――――――――――――。


 コメントはつかず、いいねは五十個ばかりもらった。


   ●


 7月28日。天気晴れ。

 壁に一匹のアシダカグモを見つけた。

 おそらく、僕が老夫から買ったヤツだ。

 アシダカグモは、窓の傍にある壁でじっとしていて動かない。

 ティッシュを二枚ほど手に取り、ヤツをつかもうとした。

 だがアシダカグモは足を動かし、僅かに壁を上って僕から逃げた。

 ふと思いつき、窓を開いた。

 熱気と共に、どことなく青臭い臭いが部屋の中に入ってくる。

 僕はティッシュでアシダカグモを部屋の外へと誘導した。

 ヤツは抵抗することなくそれに従い、窓の外へ出ていった。

 戻ってくる様子はない。

 僕は窓を閉じて、鍵をかけた。

 おそらくこの家に、もうあのアシダカグモの眼鏡にかなう獲物えものはいないのだろう。

 全ての害虫を、人間の手で始末するのは不可能だ。

 時にはヤツ等と同じ、虫の手を借りねばならない時だってある。

 ならば――

 鏡を見ずとも、口の端がつり上がっていくのがわかった。


   ●


 7月29日。天気雨。

 朝からザーザーと雨が降っていた。

 街の景色はくすんだ灰色に覆われているようだった。

 だが天気とは裏腹に、僕の心中は晴れ上がっていた。

 今日は絵詑迩を家に招いている。

 昼過ぎには来るはずだ。

 午前中におもてなしの菓子類を買い、昼飯を食べ終えた後にはそれ等を机の上に並べておいた。

 ケーキは冷凍庫に入れておくべきかと悩んでいたところ、ピンポーンとドアベルが鳴った。

 僕は足早に玄関に向かい、ドアを開いた。

「チュゥウウ、チュゥウウ!」

 のっけから絵詑迩は奇声を上げて、先制パンチを繰り出してきた。

 僕はそれに付き合わず、「いらっしゃい」と彼女を出迎えた。

「オカーン、オカーン」

 ジャブが止まらない。だがそれだけ喜んでくれている、……と受け取ってもいいのだろうか。まあ、別にどうだって構わないけど。

 僕はドアの取っ手に手をかけたまま、身体を横向きにして空間をけてやり言った。

「さあ、上がってくれ」

「ワォーングルル、ワォーングルル!」

 犬が助走をつけて殴ってきそうな奇声を発して、絵詑迩は家に入ってきた。

「うちは洋館だから、土足は脱がなくてもいいぞ」

「コケィ、コケィ!」

 ……オーケーという意味で発しているのだろうか。というか、にわとり達が抗議の電話を入れてきたらどう対応すればいいんだ?

 僕は益体もないことを考えつつ、絵詑迩を居間へ案内した。

 テーブルに並べられた菓子を目にした絵詑迩は「ブフォオオ、ブフォオオ!」と荒い鼻息を漏らし、僕が何かを言う前にそれ等を食らい始めた。

 ……まあ、そのために買ってきたから別に文句はないが、それにしたって最低限の礼儀があるだろうに。

 内心でため息を吐きつつも、その様子を見守った。

 僕は手を付けない。さっき昼食にデザートを食べたばかりだし、腹八分目のバランスを自ら崩すつもりはない。

 絵詑迩はそんなこと気にもならないようで、ケーキまで残らず全て平らげた。

「ごちそうさんす」

 おそらく今日初めての人語が発されたのは、食後の麦茶を飲ませた時だった。

「……よく食うんだな」

「食べるのが趣味なんす」

「他には?」

「他にーすか?」

「ああ」

「そっすねー」

 ソファの上でぶっくりした身体を揺らしながら黙考した後、絵詑迩は言った。

「ゲームっすね」

「へえ。どんなのをプレイするんだ?」

「色々やるっすよ」

「たとえば?」

 絵詑迩はいくつかのタイトルを挙げた。その中にはやはり、最近流行のFPSも入っていた。まあ、毎晩聞こえてくるSEからそれはわかっていたことだが。

「へえ。面白いのか?」

「チュゥウウ、チュゥウウ!」

「……そうか」

 別に会話は成立していなかったが、僕は適当にうなずいておいた。

 結局のところ、人と人外の間で完璧なコミュニケーションを成立させることなど不可能なのだ。人間同士であっても、それはとても難しいことなのだから。

「ここのところ、毎晩よく眠れてるか?」

「オカーン、オカーン!」

「……………………」

 ギリッ、と自身の奥歯が音を立てた。

 なあ、もういいだろう?

 心中にいる、もう一人の自分が語り掛けてくる。

 我慢した。行動もした。穏便おんびんな解決をはかるための努力もした。

 もう十分じゃないか。

 だからもう、いいんだ。いいんだよ、救われても。

「絵詑迩。ちょっと見せたいものがあるんだ。ついてきてくれ」

 僕が歩き始めると、絵詑迩はどたっとやかましい音を立てて後をついてきた。

 歩いている間、「チュゥウウ、チュゥウウ!」など様々な奇声を発していたが、取り合わなかった。

 結局のところ、コイツは自分の中の世界でしか生きていない。

 外部からの反応など、人生のスパイス程度にしか思っていない。

 つまるところ、バケモノなのだ。

 ならば人の手にあまるのも、うなずける。

 だったら、話は簡単だ。

 手には手を、歯には歯を。

 ……後は言わずもがな、である。

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