表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/20

一節 蜘蛛男 その2

 人生っていうのは、何が起こるかわからない。

 ある日突然雷が落ちて死んでしまうかもしれないし……まあ、ラッキーはハプニングほど都合よく起きてはくれないが。

 ただその幸福――いや、不幸の片鱗らしきものを、僕は引き寄せてしまったらしい。

 きっかけは、街を散歩していた時にたまたまアクシデントに出くわしたことだった。

 スーパーからの帰りらしき女性を見かけた。手にはパンパンに膨れ上がったビニール袋。

 あんなんじゃ、いつか破けるんじゃないか――と、僕が想像してしまったのがよくなかったのか。

 直後、袋が破けて中のものが道路にぶちまけられた。

 途方に暮れていた女性に、僕が『すぐ近くに家がありますので、袋をお貸ししましょうか?』と申し出たら、渡りに船と飛びついてきたのだ。他人事ながら無警戒すぎないかと心配になったが、まあわらにもすがらなくちゃならない時ってのは、誰にでもある。この世に君子くんしなんてヤツは、そうそういないのだ。

 女性は二十代前半ぐらいだろうか。太り気味で、眼鏡をかけている。顔がデカく、額が広い。肌の手入れをきちんとしていないのが、荒れた肌からよくわかる。

 お世辞にも美人とは言えない。むしろぶさ――いや、さすがに本人が目の前にいる前では胸中とはいえ、悪口を言うのは控えるべきだろう。

 女性は絵詑迩傀利えいじかいりという名前らしい。こちらが訊いたわけではなく、勝手に名乗ってきた。多分、プライバシーって言葉とは無縁の人生を送っているのだろう。

 絵詑迩は時折『オカーン、オカーン』『チュゥウウ、チュゥウウ』『オシヨー、オシヨー』と甲高い声で叫んでいた。

 ……こえぇ。

 この辺りはよく散歩で歩いているが、見かけない顔だ。

 最近、引っ越してきたのかもしれない。

 明らかにオカシイヤツではあるが、まともな会話も一応できた。

「……じゃあ、普段は経理の仕事をしてるのか」

「はぁーい。三星自動車って知ってるすか?」

「ああ。結構有名な会社だよな」

「そこの支店で働いてるんす」

「マジか。すごいな」

 労働とは無縁の僕は素直に驚いたが、直後に「チュゥウウ、チュゥウウ」と謎の奇声を発し始めて別の意味で度肝を抜かれた。どうやら素直に尊敬の意を抱かせるつもりはないらしい。


 絵詑迩の家は我が家のすぐ隣の一軒家だった。

 どうやら、昨日越してきたらしい。

 そういえば何やら外が騒がしいと思っていたが、引っ越し作業の音だったのだろう。ヘッドホンをつけて音楽を大音量で流してやり過ごしていたから、わからなかった。

 そのまま別れようと思ったのだが――

「お礼をしたいので、家上げてくれっすよー」

「……お礼って?」

「ご飯作ったりしてあげるっすから。ほら、食材もたくさん買ってきたっすし」

 ……こういう時って、助けられた側の家に上がるものじゃないだろうか。

 まあ、まだ引っ越したばかりで家の中が片付いていないのかもしれない。

 断ろうと思ったが、その意を伝えると――

「るぅっざけんなよッ!!」

 男のものと相違ない、低い怒鳴り声。般若さえも美人に思える醜い顔で、絵詑迩はブチギレた。

 近所の人が出てきて見に来るんじゃないかと焦って辺りを見回したが、幸い昼間ということもあってご近所さんはみんな仕事に行っているのだろう、誰も顔を覗かせてはこなかった。

「作るっつってんだろうがッ! 家上げろよぉッ!!」

「わ、わかったって。だから落ち着いてくれ。な?」

 慌ててすと、絵詑迩はあっという間に機嫌を治して「いゆー、いゆー」と謎の奇声を発した。

 ……なんなんだ、コイツは。


 絵詑迩が作ったのはもんじゃ焼きと、パエリアだった。

 味はどちらも妙に味が濃かったり油っこかったりして身体が拒否反応を起こしていたが、どうにか食べれなくはなかった。

 食べきらないとまた機嫌を悪くされそうだと思ったので無理矢理かき込んだが、完食する頃にはすっかり気分が悪くなっていた。頭痛、嘔吐感、倦怠感、エトセトラ、エトセトラ……。

「美味しかったっすか、もんじゃ焼きとパゲ(・・)エリア」

「あ、ああ」

 僕は乱造品の笑顔を浮かべてうなずいた。今回の食事で一番美味かったのがペットボトルの水だったとは、口が裂けても言えない。

「傀利すきなんす、もんじゃ焼きとパゲ(・・)エリア」

「……そうか」

 突っ込んだ方がいいのか? いや、でもどこに地雷が埋まってるかわからないし……。

 逡巡している間にも、絵詑迩は勝手にベラベラ話し始める。

「でもパゲ(・・)エリア、名前嫌いっす。なんでパゲ(・・)がつくんすか。パゲ(・・)が」

「……いや、それパエリアだぞ。パエリア」

 こらえきれずに突っ込むと、やはり迂闊うかつなことはすべきではなかった――絵詑迩は顔を真っ赤にして怒鳴り始めた。

「違う、パゲ(・・)エリア! パゲ(・・)エリアなんす、パゲ(・・)エリアッ!!」

 ダンッ、ダンッ、ダンッ……!!

 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も乱暴に、力任せに机を強打する。

 癇癪かんしゃくを起こした絵詑迩をどう止めればいいかもわからず、僕はただ思いつくままに行った。

「す、すまん、すまん。めっちゃ美味しかったって、パゲ(・・)エリア」

 すると絵詑迩の顔色がすっと戻り、にちゃあっと笑いを顔にはっ付けて言った。

「ぎゃひゃひゃ、ぐぇっへへへへへ。傀利、パゲ大好き。パゲだーい好き。パゲチュゥウウ、チュゥウウッ!!!!!!」

 およそ人間とは思えない笑いを大音声で響かせて、パゲだかパエリアだかへの愛を奇声と共に表明する絵詑迩。

 さっきとは比べ物にならない嘔吐感を堪えるのは、かつてない精神力を要求された……。


   ●


 絵詑迩が帰宅した後、僕はしばらくぐだっとソファの上で横になっていた。

 すっかり気力体力共に使い果たし、はたから見たらおそらく抜け殻のようになっていたことだろう。

 その日はもう何かをする気も起きず、ペットの餌やりと最低限の家事などをやり終えた後にはもう、夜更かしせずに寝床に入っていた。

 明日からは、不用意に外を歩かないようにしよう――そう決めて、目を閉じてすぐのことだった。

 ダダダダダッ――ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダッ!!!!!!

 なっ、なんだッ――!?

 硬質で土砂降りの時の雨音みたいに絶え間ない乱打音。スズメバチの巣だって、もうちょっと閑静だろうってぐらいにやかましい――いや、比じゃないぐらいの騒音だ。

 僕はガバッとベッドから跳ね起きて、部屋の中を見回した。

 しかし室内には特に、異常はない。

 どうやら隣家りんかから発せられている音のようだった。

 僕はカーテンを開き、音の発生源であろう絵詑迩の家を見た。

 二階の左端の部屋に、電気が灯っている。

 そこから工事の掘削音のごとき音が発せられているのだ。

 時折「はぁっ!? ふざけんなよッ!!」「テメェッ役に立たねえな死ねよッ!!」「そんな下手くそならやんじゃねえよこのゲームをよぉッ!!」という、昼間の絵詑迩とまったく同じ重低音の怒声が聞こえてきた。

 どうやら銃声のするゲームをバカデカい音量でプレイしているらしい。

 こんな真夜中に、迷惑な……。

 うんざりしたが、どうせ絵詑迩の家族か誰かが止めに入るだろうと思って、僕はベッドにもぐりこんだ。

 しかしいつまで経っても、音が止むことはない。

 それでも疲労感というのは偉大で、体力のピークに達した僕はいつの間にか睡魔に眠りの世界へといざわれていた。


 夢の中で、僕は商店街にいた。

 近所にあるような、昔ながらのものじゃない。

 屋内型で、左右には婦人用洋服店や靴屋、ランジェリーショップ、手相占い、飲食店や書店、パン屋など、統一感のない店舗が奥までずらっと並んでいた。

 その場所で、なぜか僕はゴム手ブロをつけた手で絵詑迩の手をつかみ、彼女の身体をずるずると引きずっていた。

 なぜか絵詑迩は立とうとせず、脚から胴体まで床にベタっとくっつけていた。

 そのせいで僕は若干かがんだ状態で彼女の身体を引きずらなければならなかった。

 ずるずるずるずる、ずるずるずるずる……。

 重い。超絶に重い。まるで巨大な岩を引きずっているようだ。

 僕の額には汗が浮かび、腕が段々と痛くなってきた。

 ちょうどそこへ通りがかった、まだ幼稚園生ぐらいの年の少女がこちらを指差して言った。

「見て見て、お母さん! あのお兄ちゃん達、商店街を掃除してるよ!!」

 うわぁ……。これ、絶対にそのお母さんとやらが『コラ、見ちゃいけません』って注意するパターンじゃん。めっちゃ恥ずかしい……。

 と思ったが、そのお母さんとやらは予想に反してくすくす笑って言った。

「あら、本当。商店街を掃除する女ね、あれ」

 商店街を掃除する女――?

 絵詑迩を見下ろすと、彼女は無表情で引きずられていた。まるでそうすることが自身の役割だと受け入れているかのような表情だった。

 じゃあ僕は清掃員で、絵詑迩は掃除用具だとでも?

 ……笑えない冗談だ。

 掃除をする時は、その用具がきれいでなければならない。

 ゆえにこの絵詑迩が掃除用具であるはずがない。

 くすくすくすくす、くすくすくすくす……。

 母親と少女の笑い声が聞こえてくる。

 どれだけ歩こうとも、それは風のように追いかけてくる。

 夢の中とはいえ、身体の自由はあるはずだろう――そう自分に言い聞かせた途端、僕は絵詑迩を手放していた。

 途端、ぱたりと笑い声は止んだ。

 絵詑迩は床に横たわったまま、動かない。

 母親と少女は――顔を上げると、二人はすぐ傍にいて、感情が抜け落ちた表情でガラス玉のような目をこちらに向けてきていた。

 僕は恐ろしくなり、駆け足でその場を後にした。

 肩越しに背後を確認すると、誰も追ってきてはいなかった。

 それでも僕は、脚を止めることなく走り続けた。

 するといきなり――

 ダダダダダッ――ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダッ!!!!!!

 頭が割れそうな騒音が、どこぞから響いてきた。

 バッと跳ね起きた。

 カーテンが開けっ放しになっている窓の外を見ると、まだ暗い。

 ゲームの銃声は寝る前と変わらず、隣家から聞こえてくる。

 どうやら、あの騒音で起こされたらしい。

 ……アイツ、家族から注意されたりしないのか?

 ゾッと全身の血の気が引いていった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ