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三節 陽暗詩(ひぐらし) : 八章 崩れゆくセカイ

 家に帰った乙はしばらくソファに腰かけたままぼーっとしていた。

 以前は帰宅するなり手を洗ってから自室に駆け込んでいたが、両親がいない今、乙は家の中全てが自室であるかのように、どこでもくつろげるようになっていた。

 ただ今の彼は、そんな気分ではないだろう。

 事実、本は空白のままぱらぱらとめくれている。

 やがて昼近くになってようやく、乙が行動を起こした。といっても、スマホを手に取って操作しだしただけだが。

 だが一度非日常の中に放り込まれてしまえば、そこはもはや不思議のダンジョンの難関ステージとなんら変わらない。

 辺り一面に、厄介やっかいわなを仕掛けられている――そう考えるべきである。

 スマホのスクリーンに、LAINのクラスのグループチャットに、新しいメッセージが何件も届いているようだった。

 夏季休暇だから、陽キャの連中が連絡網れんらくもう代わりに使っているのだろうか――乙はそう思ったようだったが、その指は磁石に吸い寄せられるようにその通知をタップしていた。

 だが出てきた文言は、乙の想像とはまったく異なるものだった。

 『死神しにがみの水曜日』

 毎週水曜日、学校関係者が一人以上自殺・・する。

 一週目は、教師の小佐井の奥さん。

 二週目は、小佐井本人と河竹。

 三週目の今日は、松前の妹である真知子……。

 こんなに自殺が連続して起こるのはおかしい。ゆえにこれは、人ならざる者――死神によって起こされている裁き・・なのではないか。

 ……というのが、彼等の主張であった。

 言い得て妙ではある。

 なにせ二週目までは、乙が神のようにおごり高ぶり起こした事件なのだから。

 だが三週目の今日は、乙の中では本来『起こり得なかった』裁き・・であった。

『――誰に対しての裁きなのか』

 乙の苦悩が文字として本に記される。

 もはや彼は、ただ松前個人が起こしたただの殺人として事を捉えられなくなっているようだった。

 クラス内チャットは、突然降って湧いたこのサスペンスドラマ的展開な出来事に、異様な興奮の空気に満ち満ちていた。 

『ねえ、マジでヤバくない?』

『二度あることは三度あるって言うけど……、さすがにねえ』

『来週も誰か死ぬってことか?』

 本に新しい文章が記される。

『誰が死ぬかって? そんなの、決まってるだろ……』

 ビトッ、ビトッ、ビトッ……。

 本にどこからともなく降ってきた、大粒の紅い雫による滲みが生まれる。

『神はたった今、次のにえを選ばれた』


   ●


 キキキキキキ、キキキキキッ……。

「がっ……、あっ、ああァアアアアアッ……!!」

 夕暮れの中で、一人の男がロープによって吊るされている。

 言うまでもなく、そのロープが食い込んでいるのは彼の首である。

 元から猿みたいな顔だった男――松前。

 ヤツの顔はちょうど今真っ赤になっていて、件の動物にうり二つだった。

 今日はちょうど、真知子が自殺・・してから一週間経った水曜日だった。

 無言で目の前の光景を眺めていた乙が、ぽつっと独り言を――あるいは、松前に対する言葉を漏らした。

「たかが人間がさ……。女神・・を殺してるんじゃねえよ」

「あっ、ぁああ、あっ……」

 徐々に顔が青白く染まり、ズボンの股間に滲みが生まれる。

 縊死いしした人間は失禁したり、鬱血うっけつして顔色が酷いものになる。

 舌が口から飛び出していく様といったら、まさに滑稽だ。画家はこういう光景を率先して絵に残すべきだろう。

 ほどなくして、松前はこと切れた。

 まったく、人の死というのは実に呆気ない。そんな最後を少しでも飾り立てる方法が、まさに今、乙がやったように殺す・・ことである。

 花は散るから美しい。それと同じように、人の遺体は殺されれば・・・・・少しはマシに見えるというもの。誰もそのことに気付いていないのが、まったくなげかわしい。

 殺死体さつしたいの何が美しいかというと、それはまさに死者の断末魔が聞こえてくるところである。

 音楽というのは、音がなければ成立しない。――まあ、世の中には無音の音楽も存在するが、例外は置いておいて。

 死体は基本、音を発しない。それでも優れた芸術というのは、それがたとえ絵であれ彫刻であれ、音楽であっても、五感に訴えてくるものである。

 ただの寿命を迎えた死体が果たして五感に訴えてくるかというと、答えはもちろんノーである。

 安らかに眠った遺体から聞こえてくるのは、静寂のみである。親しかった者であればそこに意味を見出すこともできようが、生前に縁のなかった者にはそれは、ただのオブジェクトに過ぎないのである。

 しかし殺死体は違う。そこには赤の他人であっても、物語を見出すことができる。

 物語があれば様々な音が聞こえ、鮮明な景色が見えてきて、匂いがして、空気の味を覚えて、彼の迎えた最後を生身で追体験する想像ができる。

 ゆえにこそ、この世でもっとも優れた死体は誰かによって殺されたものに違いないのだ。

 それが明らかに人の手でしか行えないものであれば、なおいい。

 まあ、乙はそんなことまでは考えてはいないだろう。

 彼を突き動かしたものは美的意識ではなく、復讐・・だ。

 女神――真知子を殺されたことで、暗い怒りを覚えたがゆえ。

 殺人は新たな殺人を生む。

 殺意は連鎖する、ということだ。

 そんな心のり様も、甲は美しいと思う。

 まったく、人間という生き物は素晴らしい。これほど興味深い生物は他にいないだろう。

 乙は松前が死んだのを確認すると、自身の左手を見下ろした。

 その薬指には、紅いハートがついた玩具の指輪がはまっている。

「……真知子。お前の仇……、取ったぞ」

 キキキキキキ、キキキキキッ……。

 ひぐらしの鳴き声以外、乙の声にこたえるものはない。

 それでも彼が笑ったのが、画面下部から持ち上がってきた頬からわかった。

「さて、仕上げだ」

 乙は背後を振り返る。

 スクリーンには、大勢の人間が仮面のように感情が抜け落ちた顔で映る。

「お前等、現場を踏み荒らせ」

 乙が指示するなり、彼等は訓練された兵隊のように一斉に足を前へ進めて歩き出す。だが踏み出した足は右と左がバラバラ、歩幅も同様だ。

 彼等が松前の吊るされている周辺の地面踏み荒らしていく。まるで臭いの道筋を失った蟻のように、無茶苦茶に。乙と松前の足跡は、すぐさま彼等のものによって掻き消されていく。

 乙はその様子を満足気に眺め、空を見上げた。

 厚い雲に覆われている。

 じきに雨が降るだろう。そうなればいくら優秀な鑑識課であっても、乙の痕跡を見つけるのはますます難しくなる。

 完璧な完全犯罪など存在しない。

 ならば不完全なもので、埋め尽くしてしまえばいい。

 絵画はX線等で、いくら塗りつぶしても下の絵が丸裸にされる時代になった。

 だが犯罪という芸術は、今もなおそういった万能ばんのうなものは存在しない。

 ぽつん、とどこからか音がした。

 X線――そんなものがなくても、わかってしまうものも存在する。

 それは乙が、今まさに痛感していることだろう。


   ●


 キキキキキキ、キキキキキキ……。

 さらに一週間後。

 学校の空き教室に、乙と浦霧の二人の姿があった。

 浦霧は目から光を失った顔で、鋭い刃の出刃包丁を持っていた。

 乙はそんな彼女に、淡々とした声音で告げた。

「お前が悪いんだぞ。オイラのこと(・・・・・・)なんか、好きになるから」

 浦霧はまるで反応しない。声が届いていないことは、一目瞭然いちもくりょうぜんだった。

 しかし乙は、それでも構わず先を続ける。

「お前には、人を見る目がない。それは早かれ遅かれ、不幸を呼ぶ」

 乙は窓辺に行き、自身の手を夕日に翳した。

 手には影ができる。血潮なんて見えない。歌は嘘の塊であると、甲が流し読みしている本に綴られる。

「呪われた血はたれるべきである。そうすればきっと、少しだけ今よりも世界がマシになる。わかるだろう?」

 振り返った乙は、浦霧を真っ直ぐに見据える。だが彼の視線はきっと、眼前の恋人には向けられていないだろう。

「……まあ、呪われた血を浄化できる血清けっせいも存在するかもしれないけどな」

 ぽつりと漏らされた呟きはきっと、たとえ浦霧が正気を保っていたとしても届かなかっただろう。それぐらい、僅かな声量だった。

 スクリーンがしばし真っ暗になり、ややあってから元の景色が戻った。僅かにアングルが変わっていたが、立ち位置は移動していないようだった。

「さて、そろそろお別れだな」

 乙が自らの左手を持ち上げ、手首をとんとんと叩いて言った。

「断ち切れ。お前の呪われた血脈を」

 浦霧は命じられたままに腕を持ち上げ、出刃包丁を宛がった末――

 ――ボタッ、ボタボタボタ、ボタッ――

 音もなく肉を深々と切り裂いた。よほど切れ味のいい刃だったのだろう。

 出血量が凄まじい。おそらく一時間も立たない内に致命的な量の血液が身体から失われるだろう。

 床にはすでに、紅い海が出来上がっている。夕日でさえ作り得ない色である。

 人の身体においてもっとも美しいものが、この血であろう。

 なぜ人はこんなにきれいなものを身体の内側に閉じ込めて、暮らしているのだろう。

 自身を傷つけなければ、目にすることもできない。それはとても不幸なことではないだろうか。

 だが誰も疑問にも想わない。ただただ醜くなる自分や知人の姿を見るだけで満足し、あの世に旅立つ者がほとんどだ。

 無知は罪である。

 さいわいなのは、おそらく人々が安直あんちょくに想像する天国や地獄などといったものが、あの世には存在しないことだろう。

 もしも天国や地獄などといったものがあるならば、大多数の者が地の底に落ちるだろう。

 ふいに浦霧の身体が、風が吹いたわけでもないのにふらっと揺れ、そのまま倒れていった。

 ガンッ――頭から床にいった。本来であれば頭を押さえてうめきでもするだろう。しかし浦霧は顔色を青くするばかりでまったく声を上げない。

 すでに死んでいるのかもしれない。あるいはまだ生きているのかもしれない。いずれにせよ、結末は変わらないであろう。

 乙はそれをしばし眺めた後、部屋を出た。

 廊下には、ヤのつく組織のおさの出所を待つ舎弟しゃていのごとく大勢――大体、五十人程度か――の人間が集まっていた。

 そのたとえがぱっと思いついたのは、彼等の手に浦霧と同じように包丁が握られていたからだろう。

 乙はぐるっと彼等を見回して言った。

希死念慮きしねんりょのあるヤツは、この部屋に入って自らの腕を断ち切れ。そうじゃないヤツは、包丁を捨ててこの場を立ち去れ」

 乙が言うなり、多くの者が笛のを聞かされたようなふわふわした足取りで部屋の中へと入っていった。

 包丁を捨てた者は片手で数えられる程度の人数だろう。

 乙は紅い噴水でいろどられる教室を見やり、苦笑を漏らして言葉を紡いだ。

くれないや 日をも喰らいし 鮮やかに 舞い散る飛沫しぶき 世界を染めん」

 弔辞ちょうじは誰の耳に届くこともなく、すぐさまひぐらしの鳴き声に掻き消されていった。


   ●


 キキキキキキ、キキキキキキ……。

「――以上が、事の顛末てんまつだ」

 乙はそう言って、ペットボトルからメロンソーダを飲んだ。

 しゅわー……っと気の抜けた炭酸の音が聞こえた。

 スクリーンには赤黒く染まった室内が映っている。

 言うまでもなく、ここは浦霧を始めとした五十人弱が自殺を行った空き教室である。

 おそらく今でも、その部屋にはむせ返るような鉄臭さが残っていることだろう。

 だが乙――そして目の前にいる少女、戸隠はまるで青空の下の草原にでもいるかのように、平然としている。

「なるほどね。なかなか、面白い話だったよ」

 くすっと笑う戸隠。雑談の合間に見せるような、軽い笑みだった。

「にしても、よくわかったな。オイラがを使って一連の連続自殺事件を起こしたって」

「その結論に行きつくのは、別に難しいことじゃなかったよ」

「……なに?」

「だって、死んだ人達のほとんどが、日暮くんがかかわってきた人達だったもん」

 乙はふっと鼻で笑って肩を竦めた。

「まさかこんな身近に名探偵サマがいたとはな。……だがお前が虫を知っている説明にはなってないが?」

「それこそ、至極単純な理由だよ」

 戸隠はスカートのポケットに手を入れ、何かを取り出した。

 黒く透明な、リングケースサイズのキューブ。――それは乙がひぐらしを入れているケースと、まったく同じだった。

「なるほど。お前も虫を買っていたってことか」

「うん。でも、これだけじゃないよ」

「どういうことだ?」

「こういうこと」

 戸隠はポケットに手を突っ込み、底を引っ張り出した。

 カラン、カラカラカラカラカラカラ、カラカラカラカラカラカラ……。

 雪崩のように、ケースが出てくる。

 その数、軽く見積もっても十個以上はあるだろう

「……大した浪費家ろうひかだな」

「この程度で驚いてもらっちゃ、困るよ」

 そう言いつつ戸隠は足元のバッグを手にして留め具を外し、ひっくり返した。

 カラララッ、カラララララッ、カラララララララララララララララララララララララララララララララララララララララッ――

 おびただしい数のケースが床の上にぶちまけられる。その様はまるで大量発生した虫が飛び出して、床の上を這いまわっているかのようでもあった。

「……こんな大量に、何を買ったってんだよ?」

「それはね――」

 戸隠は教室の隅にある掃除用具まで歩いて行き、こちらをくるっと振り返り、後ろ手に取手口に手をかけた。

「日暮くんへの、プレゼントだよ」

 カチャッと開けられるなり、ぶわっと黒い煙のようなものが出てきた。

 ブブブゥッ、ブブブブブゥヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴッ……!!!!!!!!!!!!

 空間をひずませるかのようなノイズの嵐。

 鼓膜が掘削くっさくされてしまうのではないかというぐらいの大音響だった。

 そんな中、乙はいたって落ち着いた様子で煙のような何かを目で追いながら言った。

「……オオスズメバチか」

 戸隠は目を細めてうなずいて答えた。

「正解。知っての通り、強い毒性を持っていて、蜂の中でもきわめて獰猛な種類だよ」

「刺されすぎるとアナフィラキシーショックを起こして、死に至る……だったか。確かに、恐ろしいな」

くわしいね」

「小学校の頃、学校の敷地内にオオスズメバチが巣を作ってな。その時、担任に耳に胼胝たこができるぐらい聞かされたんだよ」

「ふぅん、そっか」

「で、なんで学校にコイツ等を連れてきたんだよ。まさかお散歩ってワケでもあるまいに」

 小さな手がすっと持ち上げられ、細い指先がこちらに向かって突きつけられる。

 戸隠の薄い色素の唇が、ゆっくりと開かれた。

「日暮くん――あなたを殺すためだよ」

「……オイラを? どうしてだ」

「あなたは、わたしから大事な人・・・・を奪った。だからこれはね、有体ありていに言えば復讐なんだよ」

「大事な人? 誰のことだ」

「とぼけないでッ!」

 放たれた声は、室内の空気をピリッと震わせた。

 一瞬の内に戸隠の表情は般若はんにゃのごとくけわしいものとなっていた。

 沈黙の後、静かな声音で戸隠は続ける。

 不思議とそれはノイズの中であっても、一音一音がはっきりと聞こえた。まるで耳のすぐそばで語り掛けられているかのように。

「……あなたが殺したんでしょ。セリカちゃんのこと」

「ああ……、そういうことか」

 乙はさも楽しそうに笑声を漏らして、戸隠に問いかける。

「浦霧は、お前にとって大事なお友達だもんな」

「お友達――?」

 ピクッと戸隠の眉尻が跳ねる。

 彼女の周囲の空気が、たちまち薄いものへと変じていく。

「なんだ、何か気にさわったか?」

「……なにもわかってないんだ。そっか。そうだったんだ」

 フフフ、フフフフフフ、フフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフ……。

 戸隠の口から単調な音の笑い声が漏れてくる。

 しかしその目は笑っておらず、青白い焔をゆらゆらと灯していた。

「無知は罪って言葉、本当にそうだと思うよ。だって日暮くんは何も知らなかったから、こんなにもあっさりとわたしの大事な人を奪っていったんだもんね」

「……お前さ、もしかして殺す、殺さないとか関係ない話してる?」

 戸隠の顔に、ジュッと火がつくように赤みが差した。

「日暮くんは、わたしの方へ振り向いてくれればよかったんだよ。そうすれば、セリカちゃんはずっとわたしのものだったのにッ……!」

「いやオイラ、自分のことを好いてくれてないヤツと付き合うのはお断りなんだが」

「でもわたし、可愛いでしょ!? セリカちゃんにはかなわないかもしれないけど、日暮くんの好みの女の子になるのも、やぶさかじゃなかったのにッ」

「今の時代にそんな理由でに近づこうとか、めてんのか? お前がほこりまみれな価値観しか持っていなかったから、こんな結末になったんだろ」

「……結末か。フフフ、そうだね。あなたの人生は、ここで終わるんだよ」

 戸隠は肩の高さまで手を持ち上げ、涙の滲んだ目を細めて言った。

「さようなら。せいぜい来世は虫に転生しないよう、お祈りしておきなよ」

 パチン――フィンガースナップの音が響いた。

 途端、一斉にオオスズメバチは乙へと躍りかかってきた。

 まるで暗闇がノイズの波に乗って迫ってくるかのようだ。

 万事休す、これまでか――と思った刹那せつな

「――止まれ」

 乙の声がノイズをものともせず、室内に響き渡った。

 直後、オオスズメバチの群れは停止ボタンを押された映像のようにピタリと止まった。

「なっ――!?」

 絶句する戸隠に、乙は一笑を漏らして語り掛ける。

「蜂にだって、聴覚はあるんだぜ。知らなかったのか?」

 キキキキキキ、キキキキキ……。

 静まり返った室内に、ひぐらしの鳴き声が響き渡る。

 戸隠は目を見開き、手を握りしめて作った拳をわなわなと震わせていた。

 乙は軽くかぶりを振った後、将棋の駒を指すかのような素振りで戸隠を指差して言った。

「王手だ。お前の人生は、ここで終わる」

「なにをっ――」

 つかみかからん勢いで憤慨ふんがいしている戸隠に、乙は自身のバッグから取り出したものを、彼女へ放った。

「受け取れ」

 戸隠はまるで危なげなく、それを宙でキャッチした。

「えっ……?」

 戸惑いを顔に浮かべる戸隠に、乙は続けて命じる。

「それを自分の頭で叩き割って中身をびろ」

 戸隠が手にしているのはロンリコ 151――アルコール度数が75.5度もある、プエルトリコ産のラム酒である。

 カスタマーレビューで飲む消毒液なんて書かれるほど、とにかく凄まじい代物しろものらしい。

 乙が未成年のため、甲もその味が実際にどんなものなのかは知らない。

「なっ、なんでこんなものを――」

 口では講義しつつも、戸隠はロンリコの瓶を持ち上げ、自分の頭へと勢いよく叩き付けた。

「ぐぅううッッッッッッ……!?」

 頭から血を流しつつも、かろうじて意識を保っている戸隠。

 彼女の身体には、割れたボトルから溢れてきた酒がどっぱりかかっている。

「保健室の臭いを何倍にも濃厚にしたような感じだな」

「なっ……んで、こんなことを……?」

「受け取れ」

 乙は問いを無視して今度はポケットから取り出したものを、戸隠へ投げてよこした。

 戸隠が受け取ったものは、ライターだった。

 さっと彼女の顔が青ざめていく。

「自分へオオスズメバチが押し寄せてくるよう命じてから、火をつけろ」

「いっ、いやっ、やめっ……」

 戸隠の意思など関係なく、彼女の身体は命令を実行する。

「……わっ、わたしの方へ……来なさい」

 蜂は戸隠に言われるなり、彼女の元へと一斉に押し寄せていく。

 それから間もなく、黒くもわもわした塊からボッと火の手が上がった。

「いっ……、イヤァギャァアアアアアグォヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴッッッッッッ!!!!!!」

 苦痛が克明こくめいに刻まれた断末魔が上がる。

 火の手はたちまち強くなり、蜂共を飲み込んでいく。

 だが自身が死ぬとわかっていても、ヤツ等は構わず戸隠へ群れることをやめない。

 乙はしばしその光景を眺めていたが、やがて蜂が残らず焼け死んだのを見届けた後に教室の外へと向かった。

 背後からはまだ苦悶の叫びが上がっている。

 焔は今もなお膨れ上がり、いずれ部屋を、そして校舎をも飲み込むだろう。

 だが校内の人間は乙が事前に避難させておいた。せいぜい、文化祭の準備が全て水の泡になるぐらいだ。

 まあそれも、祭りが今日前倒しになって行われたと考えれば帳尻ちょうじりというものが合うのではないだろうか。

 甲は人間のことなど、よくわからないが。

 キキキキキキ、キキキキキ……。


   ●


 室内は薄暗い。

 乙の自室なのだから、電気を点ける、点けないは彼の意思に任されている。

 ということはつまり、乙自身が闇の中に身を置くことを望んでいるということである。

 乙は椅子の上で膝を抱え、手の中にあるものをじっと見ていた。

 黒い半透明なケース。中にはひぐらしが沈黙してしている。

 鼻から息を漏らして、乙はひぐらしに語り掛ける。

「……誰もいなくなった。オイラの周りから……」

 声は静寂に飲まれる。

 今日は鈴虫のコンサートさえ中止しているようだった。

 乙はため息を一つ吐き、独り言・・・を続ける。

「……別にそれは構わない。ただ、アイツだけは……、アイツだけが、傍にいてくれれば……、……はそれでよかったんだ」

 僕と発するや否や、声音さえ変わっていた。

 障害物がどけられて、隙間からちろちろ出ていた水がさらさらと流れるようになったかのように。

「どうして……、どうしてアイツが死ななくちゃならなかったんだ。他のヤツはいくら死んだって構わないのに……、どうして、真知子がッ……!」

 視界が滲み、嗚咽おえつが漏れ始める。

「真知子、真知子……、真知子ぉ……!」

 届かないと知りながらも、名前を呼ぶ。

 乙の心にはきっと、もう彼自身を支えるものは何も残っていないのだろう。

 自己救済、正義、復讐……。

 それ等は全て、成しげた。

 最後に残ってしまったのは、もっとも頼りない感情であった。

 悲劇というのはかくして完成するものなのか。

 ああ、なんとあわれ。

 もはや乙には希望の一欠片かけらすら、残されていない。

 このまま絶望のふちに追いやられて、最後の望み・・を果たすしかないのか――

 そう思われた時、すっとスクリーンに鮮明な光景が戻ってきた。

 はて、どうしたのだろう――乙の視線の先を辿っていくと、一枚の半券に辿り着いた。

 それは真知子と見た映画のものだ。

 本を開くと、新しい乙の思いが綴られていた。

『――そうだ。作り変えればいいんだ。優しきモノを、愛しい者に……』

 乙のイメージが映像のように描かれる。

 率直そっちょくに言ってみにくいひぐらしの姿が、またたく間に人の姿へと変わっていき、やがて真知子の姿へとった。

 ……なんだ? いよいよ、乙の気が狂いでもした・・・・・・・・のだろうか。

 心配する甲を他所よそに、乙はケースからひぐらしを出した。

 ひぐらしは通常のサイズとなり、学習机の上に降り立つ。

 キキキキキキ、キキキキキ……。

 心なしかいつもより静かに、ひぐらしは鳴く。

 乙はいつもは伏せている鏡を学習机へと立たせ、それを覗き込んで唱えだした。

「――僕は神だ。……僕は神だ、神様なんだ」

 繰り返される暗示。

 いつもとは違い、念入りに心の内へと言葉を擦り込んでいく。

 乙は一息吸って吐き出し、続ける。

「ゆえにあらゆるものを創造し、破壊し、また変質させることもできる」

 キキキキキキ、キキキキキ……。

 乙の目がぼうっと怪しい輝きを放ち始める。

 紅く、紅く、ただ純粋に紅い。

 だがそれはただひと時・・・、塗りつぶす光ではない。

 世界を喰らい、内から変質・・させる――そんな光だ。

 紅き光は、ひぐらしへと真っ直ぐに向けられ――乙の詠唱は高らかなものへと変じていく。

「変われ、変われ、変われ――なんじは虫ではない。汝は愛を内に秘めし、女神なり――」

 キキキキキ、キキキキキ、キキキキキ、キキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキッ……!

 ひぐらしが答えるように、声量高く鳴き始める。

 紅き光はひぐらしを包み込んでいく。

 本に新たな一節が付け加えられる。

『見える、見える、見える――見えるぞっ、コイツの真の姿が、僕には見えるッ――!!』

 詠唱の声が魂の叫びへと昇華し、ついに佳境かきょうに入る。

「目覚めよ、目覚めよ、汝の心! 現せ、汝の真の姿をッ!!」

 乙はひぐらしから満月の浮かぶ空へと目を向け、紅き光で世界を飲み込んでいく。

「今こそ正せ、世界のことわりッ!! 我が理想の形へと、つくり造られつくろうのだッ――!!」

 紅き光線が、スクリーンの中央からそらへと向かって放たれる。

 それは花火のように宙で爆ぜ、世界中へ光線を届けていく。

 キィイイイイイキキキキキッ、キキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキッ……!!

 バチバチッ、バチバチバチバチバチバチッ、ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジッ……!

 光線が紅き稲光を放つ。宙を焦がし、なお鳴き続ける。さながら古き理を焼き尽くしていくかのようだ。

 事実、紅き焔がいくつも宙に現れていた。

 大きさは様々だが、そのいずれも激しく燃え上がっている。

 焔は間断なく、より強力な稲光を発し、閃かせ、を引き裂いていく。

 傷跡が残った空は、まるでヒビの入ったガラスのようであった。

「はははっ、はははははッ、アーッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!! 簡単なことだったんだ!! 全部全部、簡単なことだったんだッ!! 世界を変える――たかがそんなことを、今までどれだけ難しく考えていたんだ僕は……ッ!!」

 の哄笑が、世界を揺るがす。

 それに呼応するかのように、空の傷跡が瞬く間に増えていく。

「壊してしまえばいいッ!! 何もかも壊して、新しく創り変える――それだけで僕はこの世界を、より居心地のいい場所へと生まれ変わらせることができるッ!!」

 ピシピシピシピシピシッ――内と外をへだてる窓ガラスが、悲鳴を上げ始める。

 乙は手を高々と持ち上げて広げ、創造主として森羅万象の偶像ぐうぞうである世界へ勅令ちょくれいを発した。

「さあっ、転生せよ我が器の座す現世うつしよよッ! 汝の新たな主にふさわしき姿へとその身にある細胞を組み替えるのだッ――!!」

 ――パリィイイイイインッ……。

 直後――傷口が割れた・・・

 けて現れた空の口、その内の深き色の闇が紅く閃く。

 生まれ出でた紅き光は新たなヒビを空に入れつつ、こちらへまっしぐらに迫ってきた。

 まるでそれは、あぎとを大きく下げて牙をむき出しにした巨大な龍のようであった。

 紅き龍は、音もなく接近してきて、もろく頼りなくも、たった一つのとりでであった窓ガラスを容易たやすく打ち破って室内へ踊り込んできた。

 スクリーンが紅く染まる。

 その後、何が起きたのかわからない。

 スクリーンが粉々に砕け散ってしまったのだ。

「うっ……ぅううっ、ゴフッ……!!」

 甲の口から、鮮やかな鮮血が飛び出した。

 ……痛い、痛い、痛い痛い痛い痛いッ……!

 これが、痛覚ッ……!?

 視界の光量が、一気に下がっていく。

 身体を支える力が失われていき、膝から崩れる。

 意識が朦朧としてくる。

 甲と乙は一心同体。

 ゆえに乙の身に何かがあった時、甲は――言わずもがなである。

 ああ、ああ、なんたることだ……。

 甲は己が真の名・・・である務めすら、果たせぬというのか。

 記憶を守りし、脳髄のうずいの番人。その役目をまっとうすることすらできないのか……。

 なんと無念。舌の皮ががれ落ちそうな苦汁くじゅうッ。身を引き裂かれそうな悔恨かいこんッ……!!

 否……否、待て。甲の真なる役目は、記憶ではない。

 図書館はほろびてもいい。本も失われていい。筆さえあれば、新たな物語が綴られるのだから。

 この世に神はいるか。聖霊はいるか。奇跡をつかさどりし者はいるか……。

 もしもいるなら、甲の最後の願いを聞き届けたまえ。

 せめて、せめて。乙の身だけは、守りたまえ。

 それが甲の望む、最後の願いである――

 ……………………。

 …………。

 ……。

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