三節 陽暗詩(ひぐらし) : 七章 暑いのはソラがため
どろっと空が溶け落ちていきそうな逢魔が時。
乙の手を握っている少女――浦霧は、潤んだ瞳に彼の顔を映して言った。
「今日はありがと。めっちゃ嬉しかった」
「ああ、オイラもだよ」
「……ねえ。あの、その。こ、恋人にすること……って、あるじゃん」
俯き、もじもじしながら浦霧は続ける。
「それ、あたしにもしてほしいな……なんて――んっ!?」
くいっと顎を持ち上げられ、浦霧の顔がスクリーンにアップで映り――
「んんっ……」
真っ暗なスクリーンから、甘いうめき声が聞こえてくる。
ややあって乙の視界が戻り、真っ赤な顔になった浦霧の顔が映る。
「……出夢」
「今のセリカ、めっちゃ可愛い」
「えっ? あ、うっ、うん……えへへ、ありがと」
戸惑っていた浦霧は、ややあって喜びが込み上げてきたのか、照れ臭そうに笑った。
しかし乙の記憶を綴る本はまるで筆が進んでいない。
それはつまり彼が、想い人であるはずの浦霧との接吻に何も感じていない……ということである。
「じゃあ、その……。ま、またね」
「ああ。またな」
浦霧は名残惜しそうに去っていく。角の向こうにその姿が消えるまで彼女は何度も振り返り、こちらへ手を振ってきた。
乙は手を振り返しながらも、自身のポケットに入れたもう片方の手を見下ろし、抜き出した。
手中には黒いケースがあった。その内には、老夫から買ったひぐらしの姿がある。
乙はそのケースを目の高さまで持っていき、浦霧の姿と重ねた。
少ししてスクリーンの景色が軽く左右に揺れた。
「……いや。まだ早いな」
乙はポケットに仕舞おうとしたケースに、ふと思いついたように……唇を押し付けた。
それから彼は、ケースの内側にいるひぐらしに、甘い声でささやいた。
「オイラの味方は、世界中でお前だけだよ」
さっと風が吹き抜ける音がした。
埃でも目に入ったのか、スクリーンの景色が細まる。
リーン……、リーン……。
まるでそれが合図だったかのように、鈴虫が鳴き始めていた。
それはすっかり黒く染まり、
●
ミーン、ミンミンミンミィイイイイン。ミーン、ミンミンミンミィイイイイン……。
今日も今日とて、猛暑への抗議活動みたいな鳴き声が響き渡っていた。今朝のニュースでは、午前の時点で三十度を超えると報じていた。甲はそれがどの程度の暑さかわからないが、熱中症に注意と言っていたからよほどのものなのだろう。
空は入道雲が浮かぶ典型的な夏模様で、太陽は燦々(さんさん)と輝いていた。
乙は棒アイスの溶けた汁がかかった手を舐めながら歩いている。
公園を見かけた彼は立ち止まり、園内へと入っていった。おそらく水道で手を洗おうとでも思ったのだろう。
あまり立ち寄ったことのないそこは、そこそこの広さがあった。フルメンバーのサッカーぐらい、余裕でできそうだ。
だが猛暑のためか、人はいなさそうだ――と思った矢先、スクリーンにベンチに座る一人の少女が映った。
そこは日陰もなく、容赦ない直射日光に晒されていた。
どうせ休むなら、近くにある市立図書館にすればいいだろうに……。
甲がそう思っている間にも乙の足はそちらに向き、スクリーンに映る少女の姿が大きくなっていった。
少女はじっとりと汗ばんでいた。当然だろう、乙もここに来るまで何度か額の汗を拭っていたようだったし。
それだけじゃない。身体中絆創膏や湿布だらけで傷が治りかけている箇所も散見された。
普段から激しい運動をしているのか、あるいはそれ以外の理由が……?
おそらく後者だろうと甲は当たりをつけた。
運動をしているようには見えない。そういうエネルギーに満ちている印象を少女からは受けない。
ではなぜ……。
考えを巡らしている間に、乙が少女に声をかけた。
「よう」
少女はビクッと肩を跳ねさせ、顔を上げた。
かなり可愛らしい子だった。身長は百二十センチ程度ぐらいか。まだ幼く、小学校にすら入っていないかもしれない。
目はくりっとしていてつぶら。桃のように色づいた頬が年の割にきれいな――大抵の幼児の頬が発酵したパン生地のように、ふっくら膨らんでいる印象が甲にはある――曲線で、大人びた印象を受ける。
肌はかなり日焼けしている。日頃から屋外に出ているのかもしれない。
「一人か?」
少女は戸惑った様子で、こくりとうなずいた。
「そうか……」
乙はベンチを指差し、少女に「隣、いいか?」と訊いた。彼女はこくりとうなずいた。
乙はベンチに座り、一瞬腰を浮かしかけた。よっぽど暑かったのだろう。
「なあ、どうしてこんなクソ暑い中にいるんだ?」
少女は暗い面持ちで、ぼそっと言った。
「……お父さんとお母さん、家にいないから」
「そうか……。兄弟は?」
乙が訊いた瞬間、少女の両肩が弾かれたように跳ねた。たちまち、彼女の顔が青ざめていく。
「……兄貴とか姉ちゃんに、何かされたのか?」
「あの、えっと……」
どうやらビンゴのようだ。
乙はしばし視線を彷徨わせた後に訊いた。
「お嬢ちゃん、名前は?」
「わたしの……?」
「ああ」
少女はじっと乙の顔を見上げてくる。
空を仰ぐ目とも、野良猫を見る目とも違う。難解なパズルを前にした時のような、複雑な思考を頭の中で巡らしている時の瞳だ。
ややあって少女は言った。
「……松前。松前真知子」
「松前……?」
乙が疑問の声を上げたと同時に、甲のクッキーの咀嚼も止まった。
蝉の鳴き声に、静寂が占められる。
さあっと風が吹き抜け、葉と枝を撫でて去った後、乙が真知子に訊いた。
「もしかして兄の名前って、剛也っていうんじゃないか?」
真知子の目が、フライパンの上の生卵みたいに広がり大きくなる。
「どうして知ってるの?」
「いや……、なんでもない」
口ごもった乙の頭の中では、『そうか、そうだったのか』というフレーズが繰り返されているようだった。甲の手元にある本に、まったく同じ文言が並んでいる。
「家に帰りたいか?」
真知子はぶんぶんとかぶりを振る。
乙は彼女が再び自身の方を見てから訊いた。
「どうして?」
「……だって、お家にお兄ちゃんがいるから」
「そうか……」
乙は組んだ手に目を落とし、しばし黙した後に真知子の方を見やって言った。
「なあ、今日はオイラと一緒に遊ばないか?」
「え、あなたと?」
「ああ。お前のこと、放っておけないし」
真知子はまたじっと乙の顔を見てくる。視線で乙の顔に穴が開くんじゃないかってぐらい。
長いことそうしていたが、やがて真知子はこくりとうなずいた。
「……なるほどね」
浦霧は合点がいったように何度かうなずいた。
ここは黄色いアルファベットが目印のファーストフード店。子供が一番好むハンバーガー店だ。
身体に悪いだのなんだの、色々と陰口悪口、真っ当な悪評が囁かれてはいるが、結局のところ、庶民がハンバーガーを求める際にまずぱっと頭に浮かぶのはここだろう。
事実、真知子は乙が買い与えたチーズバーガーを夢中で頬張り、爽健美茶で流し込んで、合間にポテトを貪るように食べている。
コイツのためを思う名がもう少し健康的な料理を出す店に行くべきだったんだろうなー……つっても、外食店なんてどこも似たり寄ったりだろうしと乙の心中では悶々とした気持ちでいっぱいになっているようではあった。スクリーンがあってよかった。本だけなら間違いなく甲は退屈に耐えかねて、乙の頭の中からとっとと出ていってしまっただろう。
浦霧は真知子を目を細めて眺めていた後、やがてため息を一つ吐いて言った。
「しかしまさか、あの松前がね……」
「人は見かけによらないってことだ。外面がよくて、家でどうしようもないヤツなんてごまんといる」
「……今度会ったら、とっちめてやろうか」
「やめておけ。そういうヤツに限って、外で受けたストレスを家で八つ当たりって形で発散するもんだ。だからさ……、わかるだろ?」
乙が言いにくそうに問いかけると、浦霧は眉間に皺を寄せて腕を組んだ。
「……じゃあ、親に注意してもらうとか?」
「まあ、現時点では親に報告するのが一番確実だろうな。もしも共働きをやめてくれて、家に監視の目が常にある状態になれば、状況が多少は改善されるだろうし」
乙は一旦そう締めくくった後、「ただ……」とトーンの落ちた声で続けた。
「親が事態を深刻に受け止めないで口頭注意するだけってなると、最悪だ。報復って形で、より真知子へのいじめが酷くなるかもしれない」
「そんなっ……」
浦霧はガタンッと席を勢いよく立ち、身を乗り出してくる。
彼女の隣にいた真知子は、ビクッと身体を震わせて自身を守るように縮こまった。
浦霧は申し訳なさそうに、「ご、ごめんね」と真知子に謝りつつ腰を下ろした。
乙は深呼吸を繰り返す真知子と気落ちしている浦霧とを見比べて言った。
「とにかく、今日は真知子が楽しい一日を過ごせるようにしよう。それが今のオイラ達にできることだ」
「そ、そうだね」
一拍の間を置き、乙はふと思い出したように言った。
「そういやポーカーのあの命令権、まだ残ってたよな」
「えーっと、あ、部室でやったやつね」
「ああ。それ、今使ってもいいか?」
「っていうと?」
首を傾げる浦霧に、乙はナゲットにバーベキューソースをつけながら言った。
「だからさ、今日のデートは注視して、真知子も一緒に遊ばせてやりたいんだ。いいか?」
ぱちぱちと瞬きをした浦霧は、惑い気味に言った。
「てっきり、そういう流れだと思ってたんだけど……」
「ああ。でも、せっかく楽しみにしてくれてたセリカに強いるのは罪悪感を覚えてな」
「そんなの、気にしなくてもいいのに……」
苦笑する浦霧と乙を見比べ、真知子は首を傾げて言った。
「もしかして出夢お兄ちゃんとセリカお姉ちゃんって、ラブラブ?」
「えっ、あっ、その、えっと……、う、うん」
散々テンパった後、浦霧は真っ赤になりながらもうなずいた。
真知子は「わっ、すごい!」と大はしゃぎしだす。
乙はポケットに手を入れ、スマホを取り出した。
「小さな子供がいるなら、なるたけ保護者は増やした方がいいだろう。……戸隠も呼びたいんだが、いいか?」
一瞬浦霧の表情が強張ったが、すぐに笑みを取り戻してうなずいた。
「うん、いいよ」
「ポーカーの賭け、勝っといてよかったよ。こういう時に使えて便利だな」
「別にそんなのなくても、ナミナミなら来てくれると思うけどね」
「借りを作るのが好きじゃないんだよ」
「なにそれ」
けらけらと笑う浦霧を、真知子は不思議そうな顔で眺めていた。
●
戸隠も合流し、四人は映画館に来ていた。
観たい映画があるという真知子の希望を叶えるためだ。
「で、どれが観たいんだ?」
「あれ!」
真知子が指差したポスターは、広大な宇宙を地球人と異星人が旅するコメディロードムービーだった。
「……海外産の特撮か。子供が観て、退屈しないかな」
「大丈夫っしょ。なんか楽しい感じっぽいし」
「うん……、わたしもそう思うよ。それにつまらなかったら、途中で出ればいいんだし」
「まあ、そりゃそうか」
乙の懐には余裕がある。たかが自分と子供料金の入場料程度が無駄になっても、大した痛手にはならないだろう。
「真知子、菓子とか飲み物っているか?」
「え、いいの?」
「ああ。好きなだけ買ってやるから、遠慮なく言え」
「うんっ、ありがとう!」
キラキラと、満天の星空を凝縮したような輝きを放つ笑み。
乙が目を細め、顔を背けてしまったのも無理はないだろう。
映画は闇鍋のような内容だった。
とにかく終始無茶苦茶で、監督――あるいは脚本家が思いついたネタを片っ端から入れていったような感じで、整合性などまるでなく、とにかく画を派手にすることを優先した印象を受けた。
SFに人情物、パニックホラー、ジャンルも絞り切れていなかったぽいが、そこはコメディという懐の深さでどうにかカバーできていたが。
ただまあ、最後のシーンだけは考察できる余地があってなかなか面白かった。
主人公達が宇宙を飛び出した先――そこは虚無だったと彼等は認知した。
しかし実際は、そこは人間界の治療室で、彼等が出てきたのは寝台に横たわる裸の男の身体からだった。
主人公達は宇宙船を含めてあまりに小さく、外界の大きさを把握し得なかった。
さらに驚くことに、人間だったはずの男は絶えず姿を変えて鳥になり、ゴリラになり、猿になり……、様々な動物に変化していた。
これは主人公達が男の身体、つまり宇宙を旅していた際、ありとあらゆる星を無茶苦茶にして生物の動きを本来あるはずの規則性から外してしまい、その影響で人の姿を保てなくなり――細胞の変質が激しくなった、と言えばわかりやすいだろうか――あらゆる動物へと変化するようになってしまったのだ。
生物の身体は、微生物の働きによって保たれている。おそらくそれが、映画の制作者が最終的に伝えたかったメッセージなのだろう。
上映終了後、高校生組三人の間では微妙な空気が流れていた。
コメディとしての出来が悪く、ラストも一般受けしないものであったためだろう。
公開してまだ間もないにもかかわらず、シアターの客数が少なかったことも彼等の不安に拍車をかけていたのかもしれない。
「……面白かった?」
浦霧は恐る恐るという感じで真知子に訊くと、彼女は満足そうにうなずいた。
「うんっ、すごく面白かったよ!」
「そ、そっか」
「セリカお姉ちゃんも、面白かった?」
「もっちろん」
コーヒーに砂糖を入れる行為を咎める者は少なく、またスイカに塩をかけることに嫌悪感を覚える輩もそうそういないだろう。
だからこそ、浦霧はぱっと笑みを浮かべてうなずくことができた。
●
映画館を出た四人は、近くのゲームセンターを訪れていた。
『ブレイン』とは違う、フランチャイズ展開されている店だ。
店内はクレーンゲームを始めとした小さい子でも楽しめるものがそろっており、家族連れの姿もちらほら見かけた。
真知子はとてとてと駆けて、何かを探している。
「おい、走ったらダメだぞ」
「あっ、あれ! あれやりたい!!」
乙の注意も聞かず、真知子はある筐体を指差した。
それは『ポーカーモンスターズ』、略してポカモンのアーケードゲームだった。
ポカモンとはドローポーカーとRPGを組み合わせた大人気タイトルだ。
そろそろ三十周年を迎えるほどシリーズが続いており、アニメも長いこと放映されていて映画も毎年公開している。
世界中にファンがおり、知らない人を探す方が難しいだろうというほど、その名は知れ渡っている。
「へえ、ポカモンかぁ」
「……わたしも、よく遊んでるよ」
「アーケードゲームもあったんだな」
高校生三人も、もちろんポカモンのことは知っていた。
真知子は興奮気味に、彼等に言う。
「ねえねえ、誰か対戦しよっ」
ポカモンは育成RPGではあるが、対戦要素もある。
アーケードゲームにも、それは受け継がれているらしい。
勝負事と聞けば、真っ先に血が騒ぐヤツがいる。
「よーし、じゃあお姉さんが相手したげる!」
「……セリカちゃん、ポカモンってやったことあるの?」
「ん? ないよ。アニメは見たことあるけど」
「あはは……。じゃあわたし、セリカちゃんのセコンドやるね」
「わかった。真知子はオイラと一緒に戦おうな」
「うんっ。がんばろ!」
「おう、二人であのお姉ちゃん達をやっつけてやろうぜ」
盛り上がる乙と真知子。なんだかんだ言って、乙もゲームが好きなのである。
勝負はポーカーモンスター、略してポカモンを戦わせて、相手の手持ちを全員気絶させたプレイヤーが勝者になる。
「あぁ、やられちゃった……」
「これで一対一か。序盤は結構リードしてたんだけどな」
勝負はもつれ込み、いよいよ終盤まで来ていた。
カードが配られ、ラストバトルが幕を開ける。
「いやー、マジでナミナミ強いね」
「え、そ、そんなことないよ……」
向かいの筐体から、浦霧達の会話が聞こえてくる。
いくらポーカーをやり込んでいても、ポカモンは根本から戦法に相違点がある。ゆえに浦霧は早々に自身の力不足を感じ、セコンドだった戸隠にバトンタッチしたようだった。
戸隠は元々が強運の持ち主であり、かてて加えてポカモンへの理解も深かった。
そのため浦霧のミスプレイを利用して築いていたリードを奪われてしまい、今の五分五分の状況になったわけである。
「……うーん。どうしよっか」
「フルハウス狙いか、あるいは……って感じだな」
乙は基本的にプレイは真知子に任せて、問われた時にだけ答えるようにしていた。
「でもフルハウスじゃ守るか、バフしかできないよね」
「そうだな。しかも相手のケルベローズは防御貫通の技を採用してる型もあるしな」
「……出夢お兄ちゃんなら、どっちを選ぶ?」
乙はうなじを掻きつつしばし黙した後に言った。
「オイラは守るかな。相手だって博打はしたくないはずだし、次の好機を待った方が勝率は高くなる気がする」
真知子はじっと画面を凝視し、ややあって僅かにかぶりを振った。
「わたしね、自分のことが嫌いなの。名前も顔も、……全部、全部」
「どうして?」
「誰かに決められたものだから。この心も、考えも、住んでる場所も……何もかも」
「わかるよ」
「だから……ね」
申し訳なさそうに見上げてくる真知子。
乙は軽く一回うなずいて言った。
真知子はほっと息を吐き、肩から力を抜いた後、画面に向き直って操作した。
彼女のプレイがゲームに反映され、ハンドから四枚のカードが捨てられ、画面に『CHANGE!!』と大きな文字が映される。
間もなく、筐体の向こうから戸隠が問いかけてくる。
「ねえ。もしかして今真知子ちゃん達が持ってるカードって、ハートのAなんじゃない?」
「さて、どうだろうな」
ハンドに残っているカードは戸隠の言う通り、ハートのAだった。
別に戸隠が透視が使えるエスパーというわけではない。
それでも言い当ててきたのは、こちら側のバトル場にいるナベバードが今一番使いたい技が、ハートに登録されているからである。
実際のトランプに四つのスートがあるように、ポカモンにも同数のスートが存在する。
クラブ『♧』、ダイヤ『♢』、ハート『♡』、そしてスペードに変わるフェザー『β』だ。
各スートにはそれぞれ技を一つ登録ができる。クラブに『タックル』、ダイヤに『フレイムブレス』といった感じだ。
プレイヤーは毎ターン、ハンドにあるカードを一枚選んで、それに描かれているスートの技をポカモンに使用させることができる。ただしそのカードは役を構成している一枚でなければならない。
一つ例を挙げよう。ハンドが『♧の2、6、♢の9、♡の7、9』なら9のワンペアが成立している。9のカードがあるのはダイヤとハート。つまりポカモンはその二つに登録していた技を使える。クラブのカードは役に含まれていないため、それに登録していた技は使用できない。
では真知子が手にしていたハンドはというと、『♧の7、K、♢の7、K、♡のA』である。Tは10のことである。ポカモンではJ~Aと同様、絵札となっている。
他にも一般的なポーカーと異なるルールがいくつかある。
その中でも一際特殊なのが、Aの扱いであろう。
ポカモンではAを使ったストレートが認められていない。ロイヤルフラッシュは『9・T・J・Q・K』で成立。
5―ハイストレートは『K・2・3・4・5』の五枚。
つまりAはストレートではまったく使用できない、独立したカードとして扱う。
カード単体のパワーで最強なのはやはりAだが、このルールのため絵札の中では特異な存在になっている。
それこそが、戸隠が真知子のハンドを見抜けたもっともたる理由である。
「ハートのカードで残っているのは、2、3、4、5、Aの五枚。2~5なら、ストレートに組み込むことができる。だけどその場合、たった二枚しか残っていないKを捨てるはずがないんだよ。もう6は四枚とも、捨て場にあるしね。それでもツーペアすべて捨ててまで残そうとするのは、ハートのA以外にあり得ないんだよ」
ポカモンでは、山札が五枚以下にならなければ捨て場にあるカードは回収されない。ゆえにこそ、今の戸隠のように相手のハンドを読むことが可能になるのだ。
「ハートのAなら、真知子ちゃん目線なら、ワンペアかスリーカードの可能性も残ってるしね」
「……それって、まさか」
真知子の頬に、つうっと汗が伝う。
戸隠は筐体から顔を覗かせ、にっこりと笑う。
「うん。こっちのハンドは、AとJのツーペアだよ」
さっと、真知子の血の気が引く。
山札は残り八枚。真知子はこの中に四枚あるはずのハートのカードを全部引かなければ、勝ち目がない――ということだ。
ハイカードでも技は出せるが、その場合デバフが大きく、まともなダメージが出せない。
そのうえ相手からのダメージが大きくなる。戸隠のケルベローズは攻撃力が高く、真知子のナベバードはいくら防御力が優秀とはいえ、体力が半分まで削られている現状では――事前に交代して、ダメージを負っていた――ひとたまりもないだろう。
とにもかくにも役が完成しなければ話にならないのだが……。
「……美奈お姉ちゃん、ツーペア以外のあと一枚のカードは何かな?」
「ダイヤの9だよ。よかったね、まだ勝ち筋は残ってるよ」
……戸隠の顔には笑みが浮かんでいるが、目が笑ってない。この女、まだ幼児の少女にも容赦がないようである。
もしかしたら浦霧なんかより、よっぽどこの女の方がヤバイのではないだろうか。
甲は自身の背中に、じっとりと冷たい汗が噴き出る感覚を覚えた。
真知子の筐体の画面に、『PUSH!!』の文字が映っている。
示されているボタンを押せば、ドローが始まり――この勝負におそらく、決着がつく。
八枚の内、望みの四枚を連続で引く。
言葉に表せば割と簡単なように思えるが、実際はかなり苦しい条件である。
まず最初は、二分の一の確率でハートが引ける。次は七分の三。三分の一。最後に、五分の一。
計算してみるとわかるが、ハートを四枚連続で引ける確率は七十分の一――0.01428571428。つまり、1%しかないのである。
天文学的ではないものの、かなり細い勝ち筋である。
まだ割り算すら習っていないであろう真知子でも、今の状況が圧倒的に不利であることは理解しているはずだ。
真知子は緊張がありありと表れた顔で、ボタンに手を伸ばす。
たかがゲーム――事実を言ってしまえば、それまでである。
けれども真知子の心中を察した甲には、笑い飛ばすことができなかった。
乙はなおのこと、真知子の思いを感じ取っているからだろう。
彼女の肩にそっと手を置いて言った。
「大丈夫だ」
「……出夢お兄ちゃん?」
「お前のプレイングは、何も間違っていなかった」
「でも、Aは全部取られちゃってるし……」
「選択の成否っていうのは、結果が決めることじゃない。自分の信念を貫き通せたかどうかで決まるんだ」
「よくわからないよ」
真知子が眉間に皺を寄せて、かぶりを振る。
乙は僅かに視線を上向けた後、彼女の顔を覗き込んで言った。
「諦めないこと。それが一番大事だ」
真知子はしばしぱちぱちと瞬きを繰り返した後、くすっと笑って言った。
「出夢お兄ちゃんって、ぶきようだよね」
「……まあ、そうかもしれない」
「わたしね、わかるよ。出夢お兄ちゃんがわたしと似た者同士だって」
真知子は目を細めた後、出夢の頬をそっと包んだ。
乙はぴくっと身体を震わせたが、真知子はそれを鎮めるように頬をゆっくり撫でた。
真知子は目を閉じてすっと乙に顔を近づけ、彼の鼻先に自身の唇をついばむように触れさせた。
一瞬のことだったが、甲の前にある本は白紙のままぱらぱらと何枚もめくられ続けた。次の文字が綴られ出したのは、実に二十七ページも後のことだった。
『鼻先に湿った、温かい感触――それは今までの人生で感じた何よりも甘美で、胸の奥が激しく震える衝撃的なものであった』
ハートのフラッシュ――Aが孤立していなければ、ストレートフラッシュだったはずだ。
しかし何はともあれ、バトルはナベバードの『しゃくねつアタック』が決まって真知子の勝利に終わった。
真知子の喜びようは、それは筆舌に尽くしがたいものだった。
「やったね、出夢お兄ちゃん!」
跳ね回り、乙に抱き着き、涙を流してさえいた。
浦霧と戸隠は最初こそ悔しがっていたものの、真知子の常軌を逸したはしゃぎように次第に困惑気な面持ちになっていった。
乙は抱き着いてきた真知子を受け止め、彼女の頭を和紙に折り目をつけるかのように何度も優しく撫でていた。
暮れた空の下、浦霧と戸隠が去っていく。
隣には、真知子一人が残っている。
「じゃあ、帰るか」
「……うん」
寂しそうに、真知子はうなずく。
後ろ髪を引かれるように歩き出した二人は、昼間の道を逆へと進んでいく。
街は昼間の活気をそのまま夜に持ち越そうとするかのように、今もなお多くの人々が行き交っていた。
だが今まで見かけなかった種類の人々も多くいた。
子供とは違う匂いの、夢を纏う人々。その色は様々だが、どれも一様に輝いていた。
彼等の目に、それは夢とは映っていないかもしれない。だが今の自身のいない世界へと踏み出そうとするその行為の果ては、等しく夢と呼ばれるべきである。
この甲が、太鼓判を押そう。
だからこそ、乙と真知子の見る未来もまた、夢と呼ばれるべきなのだろう。
彼等は無言で歩いていた。だが時折つないだ手を互いに見下ろす――それだけで、二人の間には言葉以上の思いが行き交っていたように思う。
街を抜け、公園の前に辿り着いた時、「あの」と真知子が乙を呼び止めた。
乙が足を止めて見やると、真知子は肩にかけたバッグからあるものを取り出した。
それは小さな箱だった。精一杯上品さを出そうとしているデザインだが、誰の目から見てもそれはプラスチック製のちゃちなものだった。
しかし真知子のその箱を扱う時の手つきは、陶器に対するものとまったく同じだった。
真知子はその箱をカチャッと開く。
それはリング・ケースを模した玩具だった。
中には、二つの指輪が並んで収められている。
ふと乙は、思い出した――ゲームセンターにまったく同じものがあったこと。
乙と戸隠がポカモンで対戦している時に、少しの間真知子と浦霧が手洗いに行っていたこと。
おそらくその時に、この指輪を取ったのだろう。
真知子はおずおずとした様子で言った。
「これ……、あげる。」
真知子はピンク色の花形の指輪と、紅いハートの指輪の内、後者を乙に差し出してきた。
乙は「ありがとう」と普通に受け取ろうとしたが、真知子はぷるぷるとかぶりを振った。
「違うよ」
「えっ?」
「……右手じゃなくて、左手だよ」
乙の視界が、僅かに広くなる。
真知子はじっと、指輪を手にしたまま待っている。
乙は一度自身の左手の内を見やった後、甲を上向けてすっと真知子の前にやった。
彼女は少し緊張した面持ちで、乙の左手の薬指に、すっと指輪をはめた。
小さな白い手が離れると、紅いハートが陽光を受けて、キラキラと眩く輝いた。
「……きれい」
真知子の顔に笑みが戻り、頬が指輪に負けない鮮やかな紅色に染まった。
乙は噛みしめるように、「ああ、きれいだ」と繰り返した。
それからリングケースが仕舞われていたバッグを見やって言った。
「なあ、おい……僕も、その指輪を真知子につけていいか?」
「ううん。それはまだだよ」
真知子は乙の指輪を愛おしそうに撫でながら言った。
「わたしはまだ、ダメ。あと十年、待ってほしいの」
「十年?」
「そう、十年」
それから真知子はこちら側を見上げてきて、真剣な面持ちで口を開いた。
「絶対に、しないでね」
さっと、風が吹く。
「わたし以外と……」
ざあざあと木々がざわめく。
今更気付いた。ひぐらしはどこかに越してしまったのだろうか。まったく彼等の鳴き声が、聞こえてこない。
乙は真知子の不安が浮かんだ目を真っ直ぐに見返して、うなずいた。
「大丈夫だ。僕は結婚しない」
真知子はなお、瞳を揺らしている。
乙は彼女の肩をつかみ、顔を近づけていく。
小さな手、細い腕が、乙の首へと回される。
スクリーンが暗転する。
今日の湯飲みには、玉露が入っていた。
甘く爽やかで、どこか己が過去とは遠く離れた、懐かしい味がした。
机上では練り切りの花が、いくつも咲いていた。
本を見ると、新たな一節が綴られ始めていた。
『聞こえる。鐘の音――いや、包丁の軽やかな音が。香るのは、味噌汁の香ばしい臭い。甘い匂い。やがてつつましやかな足音。感じる、優しい温もり。僕は夢から覚めて、桃源郷に至るのだ』
●
翌日、乙は松前家へ向かっていた。
彼は家にあったスーパーの袋――有料化される前のものが、いくらか保管されていた――を持っている。
中には買いだめしておいたお菓子が大量に詰まっていた。
ポテチや、クッキー、カステラなど、熱に強いものがほとんどだ。
ただ中には、さっきコンビニで購入したばかりでシールが貼られた、女児向けアニメのグミやゼリーもあった。
乙は時折、鼻先にそっと触れることがあった。明らかに汗を拭うのとは違う、愛玩動物を撫でるかのような手つきだ。
段々と彼の足取りが、速くなっていく。
しかしふと、乙の脚がぴたりと止まった。
そこは昨日、真知子がベンチに座っていた公園の前だった。
彼の目は真っ直ぐ、そのベンチへと向けられている。
ミンミンミンミーン……、ミンミンミンミィイイイイイン……。
蝉の声が、心なしか昨日より弱々しかった。
夏はまだ、始まったばかりなのだが……。
歩き出そうとした乙の視界の端で、何かが落下するのが見えた。
彼はそちらの方へ目を向け、視線を下げた。
足元に、一匹の蝉が落ちていた。
溺れかけている人がもがくように動いていたが、次第に痙攣しているかのようなものになった。
やがてソイツの夏は、終わりを迎えた。
乙は手を合わせた後、空を仰いだ。
入道雲は昨日と変わらず、そこにある。
乙は手を伸ばしかけたが、すぐに下ろしてしまう。
しばしじっと蝉を見やった後、ふいに弾かれたように駆け出した。
蝉の鳴き声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
家の場所は昨日の内に聞いていたため、迷うことはなかった。
乙は足を止めることなく、目的地へとひた走る。
やがて大きな邸宅――松前家を目にした乙は立ち止まり、どさっと袋を地に落とした。
家の前には救急車とパトカーが停まっている。
猛暑の中、野次馬連中が家の前に集まっている。
彼女達――大半が女性だった――のはばからぬ声量の会話が、少し離れた乙の元へも聞こえてきた。
「わからないわね……。あんなに小さい子なのに」
「信じられないわ、本当に……」
「嫌な世の中になったものね」
要領を得ない会話に痺れを切らして、乙は主婦らしき女性を一人捕まえて訊いた。
「あの、何があったんですか?」
彼女は話し相手を探していたのか、水を得た魚さながらの勢いで話しだした。
「何があったって、すごく恐ろしいことよ。身の毛もよだつって言葉があるけど、まさにこういうことを言うのね」
前置きが長かったが、乙は辛抱強く耐えた。急かしたりすれば余計に本題に入るのに時間がかかると踏んだのだろう。
女性は急に声を潜めて、先を続けた。
「松前さんのお家って、小さな女の子がいるでしょ。ほら、真知子ちゃんていう可愛らしい子よ」
「ああ、いますね」
「やんちゃ盛りで、怪我が絶えないみたいだけどね。お姫様みたいなのに、本当もったいないわよね」
どうやら近所では、兄の剛也の暴力沙汰はそんな風に隠されているらしい。
「もうそろそろ、兄妹そろってお誕生日だったみたいなのよ。剛也お兄ちゃんが二十九日で、真知子ちゃんが……二十三日、だったかしら」
「……そろってっていう割には、少し離れてますね」
「そんなことはどうでもいいのよ」
本に『お前が持ち出した話だろうが』と文句が綴られた。まったくもってその通りである。
「でね、真知子ちゃんのことなんだけど――」
女性が言いかけた、その時だった。
野次馬の連中達が、ざわっと騒ぎ始めた。
明らかに何かがあった様子である。
乙と女性は顔を見合わせて、人混みへと向かっていく。
玄関のドアが全開になっていた。実際に現地にいない甲にも、スクリーン越しにそこから何か異様なものを感じた。大型の非日常が身に纏っている、鼻を突くような刺激臭……とでも言うべきか。
家の中からすぐに、担架を手にした救急隊員が出てくる。
そこに寝かされていたのは――
「真知子っ――!」
乙は野次馬から抜け出し、担架の元へ駆けていった。
「真知子っ、おい、真知子ッ!!」
真知子は、静かに眠っていた。
顔色は青白く、愛らしい顔は醜悪に歪み、目つきは今まさに悪魔を見据えているかのように険しかった。
だが乙の目を何より引いたのは、首元だった。日焼けした肌に、青々とした跡が残っている。気のせいだろうか……。それは四指と親指に分かれた――そう、人の手のようにも見えた。
「申し訳ありませんが、遺体には無暗に触れないようお願いします」
救急隊員の言葉を乙が耳にするなり、スクリーンの明度が少し暗くなり、色彩がくすんでしまったような気がした。
「い、遺体……?」
「はい。……あの、あなたは真知子さんとどういったご関係で?」
「オイラは、えっと……」
しばしの沈黙の後、沈んだ声音で乙は言った。
「……友達、です」
「友達……ですか?」
訝し気に問う救急隊員に、家の中から声が飛んできた。
「おい、日暮!」
見やると、そこには狼のようにギラギラした目の松前――真知子の兄がいた。
本に、紅く乱れた文字が綴られていく。
『コイツが……、コイツが、真知子のことをッ……!』
おそらく乙もまた松前に負けず劣らず、荒々しい光を放つ目をしているのだろう。
「こんなところで何をやってるんや、日暮」
「……同級生の家に来たら、おかしいか?」
「あんさん、今までワイの家になんて来たことなかったやろ」
「そうだな。今日、初めて来たよ」
スクリーン越しに、何やら焦げ臭いものを二人の間に感じた。
乙は救急車へ運ばれていく真知子の方を見やって言った。
「……真知子は、どうしたんだ?」
「自殺したんや」
「自殺……?」
スクリーン内の景色が、僅かに広くなる。おそらく乙が目を見開いたのだ。
松前はうなずいて言った。
「せや。首を吊ってな」
乙の目が松前の手へと向く。
彼の手は両方とも、絆創膏が何枚も貼られていた。
「……猫でも飼ってるのか?」
「猫なんて飼ってへんけど。なんでや?」
「めっちゃ手を怪我してるみたいだからさ」
松前の表情が、凍り付くかのように強張った。
ややあって、不自然なほど固い笑みが彼の顔に浮かんだ。
「野良猫が好きでな。近所に、よくおんねん。ソイツ等と戯れてる時に、めっちゃ引っかかれたんや」
「最近のマイブームってヤツか」
「せやせや。ごっつ可愛いんやで」
スクリーンの右下に、ピクピクと震えている頬が見えた。
ジジジジジ……と聞こえるのは、蝉の声だろうか。甲には、何かが燃えている音のようにも思えた。
「……真知子と仲、よかったんか?」
「昨日、友達になったんだ」
「なるほどな」
「オイラからも一つ、訊いてもいいか?」
「なんや?」
「お前の親、仕事は何やってるんだ?」
「親父が市長で、母親が弁護士や」
「そうか」
乙は半身を返しつつ、松前に言った。
「邪魔したな」
「おう。……葬儀の日、決まったら伝えたるわ」
「ああ……、そうしてくれ」
それを最後に、乙は松前家を去った。
帰り道、少し離れたところにある乗用車から、男達が言い合う声が聞こえた。
一人が背が低い童顔の男で、もう一人がジョセフ・マッゼロに似た美形の男だ。
ジョセフ似の男が、ややヒステリックな調子で童顔に言った。
「どうしてですかっ! 今回はもう、犯人が割れてるんですよ!?」
童顔が、缶のようなものを手に打ち付けながら答える。
「……仕方ないだろ。上から圧力が来てるんだから」
「超常的な力に屈して、圧力にさえ抗えないなんてッ……。それじゃあ、警察は一体なんのために存在してるんですかッ!?」
どうやら、真知子の件は闇の中に葬られることに決まったらしい。
ギリッという頭の中に響くような音が、スクリーンから聞こえた。




