間章 辿り着けないシンジツ
「つまりあなたが第一発見者ということですか」
タブレットにメモを取っている際に、ふと窓に映った自分の顔が目に入り志倉警部は心中でため息を吐いた。
今年で四十歳になるにもかかわらず、未だに童顔とさえ言われる。
若く見られるのは好きじゃない。そろそろ年相応の容姿になってくれないと、貫禄ってものと無縁のまま墓石に入ることになるぞ――志倉は自身の思いが顔に出てしまっていることに気付き、慌てて苦虫を噛みしめたような表情を掻き消した。
「警部、警部!」
教師から話を聞いていた志倉は、部下の村本刑事の声に中断してそちらを見やった。
村本刑事は立ち止まるなりすぐに背筋をピンと伸ばして、志倉へ報告をした。
「コピーされた遺書の確認、全て終わりました。文面も筆跡も、全て同じだということです」
「そうか……」
志倉は手元のタブレットを操作し、改めて遺書を確認した。
遺書は二種類存在する。
一つは教師の小佐井のもの。もう一つは生徒の河竹のものだ。
自殺した二人は身体の関係があったようで、その旨がどちらの遺書にも記されている。
「……あの、それで。遺書はその、本当に二人のものだったんでしょうか?」
志倉が聞き込みをしていた教師が、村本に尋ねた。
村本はジョセフ・マッゼロに似たすっきりとしていて清潔感のある顔を教師に向け、訊き返した。
「あの、あなたは?」
「ああ、すみません。私は金塚といいます。生徒には古典を教えています」
村本は金塚と名乗った教師を軽く観察する。
年齢は六十前後。背丈は百五十センチ前後と志倉警部と同じく低い。髪は後退し、顔は皺が目立つ。眼鏡をかけており、目つきは穏やかだ。声音も落ち着いており、怒っている姿はとても想像できない。おそらく悪質な犯罪とは無縁の人物だろう――。
そこまでを一瞬の内に文章として頭の中で記憶した後、村本自身も名乗った。
「自分は浅草警察署の村本仲弘と申します」
金塚は見せられた警察手帳を目を細めて確認した。
「……刑事さんですか」
「はい」
「それでその、遺書なんですけど……」
村本は報告の途中だったことを思いだし、志倉へ向き直って言った。
「筆跡鑑定の結果、遺書は二人が自分自身で書いたものだということです」
「そうか……」
冷静に受け止める志倉に対し、金塚の顔はさっと青ざめていった。
「そ、そんな……、まさか」
「……誰かに脅されて書いた線は?」
「ありません。文字には乱れなく、精神が落ち着いた状態で書かれたものだと思います。ただ――」
村本は僅かに眉をひそめて口をつぐんだ。
志倉は訝し気に問いかけた。
「どうした?」
「あ、いえ……。鑑識が言うには、乱れがなさすぎるとのことです。自殺前というのはなんらかの形でパニック状態になっていることが多く、文字にも表れることが度々(たびたび)あるようなのですが……」
「ふーむ……」
「あと、文章が整いすぎているんです」
「整いすぎてる、か。確かにな……」
タブレットに映っている遺書に、志倉は目を落とした。
河竹と小佐井、どちらの遺書もまるで最初に定規で平行で間隔が均等な線を引き、そこに収まるように文字を書いたかのようだった。
「……仏さんのことを悪く言うわけじゃありませんが、河竹はともかく、小佐井先生はあまり几帳面な性格ではなかったと思うんですけどね」
金塚の言葉に、村本はピクッと眉を動かした。
「金塚先生は、小佐井先生と親しかったのでしょうか?」
「ああ、いえ。ただ、小佐井先生の机はいつも汚れていて、他の教師の方に注意されていましたし。それに板書の文字が汚いと生徒から申し立てられましてね、事前に授業用のスライドを作るよう校長から指示されていました」
「なるほど……」
志倉は改めてタブレットの遺書を見やった。
金塚の話と小佐井の遺書――この二つには明らかな食い違いが存在していた。
字こそ汚いが、きっちりと字間のスペースが空けられており、ギリギリ読めないことはない。字が汚い教師は他にもいるだろうし、この程度なら生徒から申し立てられることもないだろう――と考え、志倉は金塚に訊いた。
「他に校長からそのような指示を受けた方はいらっしゃいますか?」
「いえ。私が知る限りでは、小佐井先生だけです」
「……そうですか」
後で校長に話を聞いて志倉は知ることになるが、スライドを作るよう指示された教師はこの学校では小佐井だけだった。
志倉はタブレットにメモ帳を表示して今までのことを書き留めた後、質問を再開した。
「……小佐井先生の奥様も、一週間前に亡くなられていましたね」
「はい。自宅で首を吊られたとお聞きしました……」
「小佐井先生と奥様は、どういった関係だったのでしょう?」
「さあ……。私は結婚式に同僚として出席した際に、お見かけしただけですので」
「結婚式に招待されたんですか?」
「はい。小佐井先生は社交的な方でしてね。結婚式の際には、教員全員に声をかけていらっしゃいました」
「ほう……。では小佐井先生の自宅に招かれた方に、心当たりは?」
「ええと……、存じ上げませんね。お若い方に尋ねれば、わかるかもしれませんが」
職場は年代ごとにコミュニティができる傾向がある。それは教員も変わらないらしい――と志倉は結論付けた。
「では、質問を変えます。金塚先生は現場の第一発見者とのことですが、いつもご出勤はお早いのですか?」
「まあ、割と早い方です。こう見えてもせっかちでしてね。時間に余裕を持って行動しないと、落ち着かない質なんです」
金塚は照れ臭そうに笑って言った。
志倉は変わらず真顔のまま質問を続ける。
「現場を発見した際、何か変わったこととかありませんでしたか?」
「変わったこと……ですか」
しばしの黙考の後、金塚が自信なさげに口を開いた。
「あの場で気付いたわけじゃありませんが……」
口ごもりそうになる金塚に、村本が穏やかな口調で先を促す。
「なんでも構いません。気付かれたことがあれば、我々に教えてくださいませんか?」
志倉もペンを構えながら、無言でうなずく。
金塚は覚悟を決めたように志倉の目を見据えて続けた。
「後から思えば、飛び降り現場の二人は不自然だったな……と」
「不自然……というと?」
村本の問いかけに、金塚は飛び降り現場が見える窓の方を向いた。そこはブルーシートで覆われているものの、上階からは二人の血だまりが今も残っているのがよく見えた。まるで悪魔の双眼だな――と志倉は胸中で呟いた。
「距離が、遠かったんですよ」
「距離ですか?」
村本が訊くと金塚はうなずいて先を続けた。
「身体の関係と遺書には書いてありましたが、心中するぐらいですから少なくとも二人は愛し合っていたと思うんです。けれども跳び下り現場を見てみると、二人の遺体の間には三メートルほど距離がありました」
「それが……、何か?」
「心中というのはですね、一緒に死んでもいいと思えるほど深い愛を抱いた相手と行います。日本では江戸時代に心中ものなんてジャンルが生まれましたが、そこで主に取り上げられるのは色恋事情です。近松門左衛門という人形浄瑠璃の作者が多くの作品を残していますね。いつの時代も人は恋する心を神聖視するものなのだなと、感慨深くなりますね」
「……えっと。その心中ものと今回の件が、どう関係するんですか?」
やや惑い気味に問う志倉に、金塚はぽつっと呟くように答えた。
「手、ですよ」
「手……というと、腕についている手ですよね?」
「はい。心中による死に方は様々ありますが、もっとも愛の深い者達は川へ飛び込むことを選んだのだと思います」
「なぜですか?」
「死の際まで、手を繋いでいることが可能だからです。共に死後の世界へ、来世へ旅立たんとする――。その意を表すのにもっとも適している方法です。それは今のエンターテインメント作品にも、脈々と受け継がれていますよね」
志倉は言われてみて、心中のイメージに手を繋いで飛び降りる、あるいは電車に飛び込む――そういうものが根付いていることを自覚した。現場でも思い当たる光景が何度かあったし、映画かドラマで似たようなものを見た記憶もあった。
村本も同じ思いなのか、目から鱗が落ちるかのような顔をしていた。
金塚は二人の顔を横目に見つつ言葉を継ぐ。
「けれどもあの二人の遺体は、大分離れた場所にありました。私は物理学については門外漢ですが、飛び降りる直前まで手を繋いでいたとしたら、落下場所がこれほど離れるのはいささか不自然である――そうは思いませんか?」
車に戻った志倉は助手席からずっと窓の外を見て、無言で何かを考え込んでいた。
村本は本部に定時連絡を入れた後、様子のおかしい志倉に訊いた。
「どうしたんですか?」
「いやな……。どうも今回の件、何か引っかかるんだ」
「というと?」
「……本当に二人は、自殺したのだろうか……ってな」
村本はそれが冗談だと思ったのか、軽く笑って言った。
「何言ってるんですか。遺書はあるし、遺体からも異常な点は何も見つかってない。今回の件は自殺以外にあり得ないでしょ」
「だがあの教師……金塚先生が言ってたことが、どうも頭を離れなくてな」
「手を繋いでたらどうのこうの、ってやつですか?」
「ああ。我々は物的証拠だけで、この件を自殺で片付けようとしている。しかし真相はもっと、別の場所にあるんじゃないか。……そんな気がしてならないんだ」
村本は志倉が本気で考え込んでいることに気付いたが、それでも彼自身の思いは変わらなかった。
「そんなこと言ったって、現場には誰かと争った形跡もないし、体内からは薬物とかの反応もなかったんですよ。死因も飛び降りであることはほぼ確定しています。仮に殺人だったとして、誰がどうやって仏を殺したんですか?」
「それは……、そうだな」
志倉は唸り声を漏らして目を泳がせた後、虚空にいる誰かに聞かせるような調子で言った。
「……催眠術を使った、とかな」
「えっと……。それ、本気で言ってるんですか?」
若干引き気味に問う村本に、志倉は頭をバリバリ掻いて弁解した。
「オレだって、自分が荒唐無稽なことを言ってるのはわかってる。だがあの二人が、本心から死を望んでいたとはどうしても思えないんだよ」
「何か根拠はあるんですか?」
「こんなことを言ったら笑われるかもしれないがな。……刑事の勘、ってやつだよ」
第六感――それはオカルトとなんら変わらない。
だが今度の言葉を村本は、軽々しく笑うことができなかった。
まだ新人ではあるが、村本は先輩達が神がかり的な何かで事件を解決する瞬間に何度か立ち会ったことがあった。
「ただ、経験則的に今度の事件が我々の手に負えないことも……なんとなくわかるんだ」
「つまり迷宮入り……、ってことですか」
「ああ。悔しいがな、どれだけ科学が発展してもその力では対抗できないものが存在するんだ。かてて加えてそういうものは、なぜか正義に属する者達の手には渡らない。世の中は理不尽にも、そういう風にできているんだ」
「……じゃあ、その超常的な力を持つ悪は誰が裁くんですか?」
「悪だよ」
「悪……ですか?」
「ああ」
志倉はポケットに入れていた缶を取り出した。ハードキャンディが入っているものだ。
まだ初夏とはいえ、猛暑間近の真夏日にそんなものを持ち歩くかね……、と村本は内心でひっそりと呆れ果てた。
案の定、志倉は缶の中からキャンディを取り出すのに苦戦していた。
村本は呆れつつも、車を出した。
校門を出る頃に、いつまで経っても志倉が話しださないので、仕方なく村本は水を向けた。
「それで、なんで超常的な悪を裁けるのが悪なんですか?」
志倉は缶との格闘を諦め、苦々しそうな表情で口を開いた。
「簡単なことだ。悪には悪。超常的な力には、同じ力。一引く一はゼロ、それだけだ」
「……でも潰し合ってもらうのは無理でしょう。この世の中は単純な引き算ではできていない。勝者は生き残り、敗者だけが消える。数式通りにはいかないんですよ」
信号が赤色に変わり、車が停まる。入道雲が宙を突く青い天を眺めていた志倉が、ぼそっと言った。
「白昼夢のトリック……か」
「なんですか、それ」
「白昼堂々と行われている不可解な出来事。しかしそれを誰も夢だとすら思わず、自然なことだと受け入れてしまっている……そんなものだ」
「一引く一がゼロにならない……。もしもそれが誰かによるトリックだとしたら――」
志倉は手元の缶に目を落として言った。
「もしかしたらオレ達は、とんでもない世界で生きているのかもしれないな」
缶を手元に叩き付けるようにすると、一粒だけころんとべたついた飴が出てきた。
志倉が嫌いな、ハッカ味だった。
「……食うか?」
「いりません」
信号が青色に変わった。
村本はアクセルをゆっくり踏み込み、エンジンがそれに応える。
ゆっくり走りだした車の中、志倉は不満気な顔でハッカ味の飴を口に放り込んだ。
ミンミンミンミーン、ミンミンミンミーン。
蝉は余命一週間とは知らずに呑気に鳴き散らかしていた。




