三節 陽暗詩(ひぐらし) : 六章 壊れゆくヒビ
甲は時折、本を読む。
無論それは現実にあるものではない。意識空間内にあるものに限る。
意識空間内にある本は、二種類に分けることができる。
一つは乙が現実で読んだものだ。
乙が目にした光景はスクリーンに映り、甲がそれを通して見たものは意識空間内で再現できる。無論、書物も例外ではない。
もう一つは、乙の思考を記したものだ。
意識空間内のとある本棚には、全てのページが白紙である本ばかりが収められている。
しかしそこにある本には、自動的に乙の思考が記されていく。
思考とは何も喜怒哀楽の感情や、事物についての文章的思索だけを指しているわけではない。
映像的、静画的なイメージで考える人がいれば、単純に過去にあったことを思い出す時際に脳内で画に起こす人もいる。
だから各々の思考を投影した本は十人十色、様々なパターンのものが出来上がるだろう。
絵本のように華やかなものもあれば文章でびっしり紙面が埋まっている小説のようなものもあるだろうし、平易な文体のものがあれば小難しい文体ばかりの専門書みたいなものもあるだろう。
乙の本は、とにかく黒塗りにされている部分が目立った。自分自身にさえ、本心を隠す――そういう思考の持ち主だ。
いつだって、胸の内側がぐちゃぐちゃになっているのだろう。
だから目を通しても大した情報を得られないため、甲は乙の思考の本はあまり手に取らない。それでも今、どの辺の本が執筆されている最中なのかは大体把握するようには努めている。時折、面白いことがあるからだ。
人にはどうしても、自分自身に素直にならざるを得ない時があるらしい。
気分が昂り、冷静さを失った瞬間――思考のノイズが止む。
今の乙が、まさにそうである。
彼は学校の廊下にいた。
日が沈んでから長いこと時間が経っている。窓の外は当然真っ暗で、ぽつぽつと近くの民家に光が灯っているのが見える。
場所は職員室からもグラウンドからも遠い、北校舎だ。
文科系の部活は随分前に活動を終えており、運動部の生徒もわざわざこちらまで来ることはない。
しかし誰もいないはずのこの校舎に、乙以外の人間がいた。
彼等は乙が覗いている、第一実験室の中にいる。
電気がついておらず、室内は薄暗い。かろうじて女生徒と男子――あるいは男性教師だということはわかる。
乙の一からでは、二人の顔は光量が足りず目で判別することができない。
しかし彼は二人が誰なのか、すでに知っていた。
その理由を乙と、今もどこかでキキキキキキ……と鳴いているひぐらしだけが知っている。
男性が馴れ馴れしく女子生徒の腰に手を回して言う。
「君のテストはきちんと、全て言われた通りの点数になるよう改竄しておいたよ」
「ありがとう、小佐井先生」
その声は他でもない――河竹飾利のものだった。
小佐井と呼ばれたのは、英語を担当している小佐井九朗だ。
空手部の顧問をしており、丸太を手刀で割ったとよく自慢しているが、真偽のほどはわからない。
「数学と歴史も?」
「ああ。とはいえ、元から点数は悪くないのだから、わざわざこんなことをせずとも内申点の心配はないと思うがね」
そう言うなり、小佐井は河竹へ顔を近づけていく。彼の求めを、河竹は僅かに顔を傾けて受け止める。
ぢゅっ、ぢゅる、ずずずっ……。
乙の時とは違う、粘っこい水音が室内から聞こえてくる。
やがて小佐井は「……ぷはぁ」と息を漏らして、河竹から顔を話した。
彼女は甘ったるく、しかし余裕のある声で言う。
「ダメよ。父も母も私が優等生でいないと、また滑車のあるケースの中に引き戻そうとするんだから」
「でも今の君は、僕の犬だぜ」
「便所じゃないだけマシよ」
するっと、河竹はブラウスのリボンを解いてそれを机上に置いた。
そこに彼女は腰かけて、軽く脚を開く。
「ねえ、今日はどうする?」
「……まずは前菜から始めようかな。時間もたっぷりあるし」
「ふふっ。……多分もう、その必要はないけど」
「甘露はもちろんだけど、僕はさくらんぼうも好きでね。……でも、いいのかい?」
「何が?」
「今更だけど、君にはもう恋人がいるんだろう。確か……えーっと、ひぐりだったか?」
「出夢くんよ。日暮出夢くん」
「そうそう、日暮だ。こんなことをしてたら、彼に悪いだろう?」
河竹は自身の体を抱きしめるようにして、肩を竦めて言った。
「そうね。嫌われちゃうかも」
「だけど今日、ここに来た」
「欲しいの」
「……日暮よりも?」
「小佐井先生じゃなくて、点数が」
「ははは、そうか。妬けるな」
「でも、イヤじゃないんでしょう?」
「もちろん。本命が他にいる女ほど、燃えるんだ」
小佐井の手が、河竹のブラウスへ伸びる。
河竹は左手を机上に付き、もう片方の手で口元を隠してくすくすと笑った。
「どうしたんだい?」
「いえ。相変わらずもう一人の小佐井先生は素直だと思って」
「教師だからって、子供の扱いが上手いわけじゃないんだ」
「そうね。知ってるわ」
「本当に?」
「ええ。だって私を、こんなに悪い子にしたのは……先生自身じゃない」
小佐井も笑声を漏らして、すっかりボタンが開けたブラウスに、手をかけた。
カーテンが、大きく開けられた窓の外から吹いてきた風にふわっと大きく膨らんだ。
キキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキ……。
ひぐらしの鳴き声が狂ったように、彼等のいる一帯に響き始めた。
甲の読んでいる本には、こんな一節があった。
『人は持ちうる資産を有効に活用すべきである――それが彼女が丁寧に考えを積み重ねた末の、結論なのだろう』
●
朝のホームルームが始まるなり、教卓の後ろに立った――聖職者の数少ない特権の一つである――担任の上市は、深刻そうな表情でぐるっと室内を見回した。
重苦しい沈黙が続く。屋外では蝉は人間の事情などにお構いなく、ミーンミンミンミンミーン……と鳴き続けていた。
やがて上市は感情を押し殺したような固い声で切り出した。
「……昨日、小佐井先生と河竹が……校内で自殺した」
途端、教室内で一斉に上がった声が混ざり合い、ざわっとどよめきへと昇華した。
「二人で飛び降りたんだろ」
「怖いよね」
「なんかさ、心中だったらしいよ」
「遺書があったんだろ?」
「っていうか、朝来たら校内中にコピーが貼ってあっただろ」
「不純異性交遊をした後ろめたさに耐えかねて……って、書いてあったよな」
「河竹さん、小佐井にテストの点数を不正に加点させてたんだって」
「うっそー!? そんなことをする子には見えなかったのに」
口々に語られる、真実の断片。
だがその核である真相を知る者は、このクラス――いや、学校中探したとしても誰一人として存在するはずがない。
生徒はもちろん、教師も、今学校に来て捜査している警察でさえ。
まさか河竹達が、望まぬ最後を迎えたとは決して考えることはないだろう。
キキキキキキ、キキキキキキ……。
月が見守る屋上。
フェンスの外に、河竹と小佐井が並んで立っている。
彼等は無表情でこちらを見ている。
キキキキキキ、キキキキキキ……。
ひぐらしが鳴いている。
「ククッ、クククククッ……」
それに被さるように、笑い声が響き出す。
誰のものか?
屋上――否、学校にはもう、乙等三人以外、誰もいない。
しかし河竹と小佐井は、ずっと無言だ。人形にでもなってしまったかのように、表情筋一つ動かさない。
ゆえにその笑い声の主が乙であることは、自明の理である。
スクリーンの中の光景が、ガタガタと揺れている。
「クハッ……、ハハハハハッ、ハハハハハハハハハハハハッ、ハーハッハッハッハッハ!!」
破裂するような笑い声が、夜空に吸い込まれていく。
無論のこと、河竹と小佐井はまったくリアクションを起こさない。
念のために断っておくが、彼等は生きている。たとえすぐ近くに死神が潜んでいようとも――いや、潜む気など微塵もないようだが――、心臓はまだ沈黙していない。死んでいるのは心だけだ。
ようやく落ち着いた乙は、しばし呼吸を整えた後に言った。
「……信じてたんだぜ、飾利。お前は評判通り、裏表のない優等生だってな。でも実際は残念なことに、それはハリボテだったわけだ」
肩を竦めた時のように、スクリーンが軽く上下する。
それから乙はスマホをポケットから取り出しつつ、先を続けた。
「まあ、別にいいんだよ。お前が欺瞞の仮面をつけていようとも、俺には関係ないことだからな。むしろその方が好ましいとさえ思う」
乙はスマホで音声再生用アプリを開き、あるファイルの再生ボタンに親指を添えつつ言った。
「でも、小佐井だけはダメだ。男選びの失敗――それがお前の過ちだよ」
ファイルが再生される。
それは音声が録音されたものだった。
――正直に話してくれませんか。
乙の声が流れる。穏やかで、話しかけている相手の警戒心を解こうとする意図が窺える。
答えたのは、中年の女性のものらしき声だ。
――……そうです。ワタシはね、虐待されているんです。主人――九朗によって。
重荷を下ろした時のような、大きな吐息の音が聞こえてくる。
一拍の間をおいて、乙が尋ねる。
――殴られたり、蹴られたり?
――ええ。顔に痣ができたこともあります。
――なるほど。ではなぜ、離婚されないんですか?
しばし沈黙が続く。火葬場で遺体を最後に見送る時に流れるような静寂が、スマホから漏れてくる。
ややあって女性の声が聞こえてきた。
――子供がね、いるんですよ。
――子供?
――はい。ワタシ一人の稼ぎじゃ、子供にひもじい思いをさせてしまうでしょう。だからワタシ一人の勝手で、離婚するわけにはいかないんです。……それが、子供のためになるから。
――……そうですか。ところで、お子さんへの暴力行為はないんですか?
沈黙が再び訪れる。銃声がした後に訪れる虚無的な――あるいは無機質な――静寂。
秒針が一周半するほどの時間が経って、やっと開いた女性の一言は感情がまったく欠けていた。
――お帰りくださいませんか?
そこでファイルの再生が終了する。
冷めた目で小佐井を見やって言った。
「よかったな。いくら暴力を振るっても、奥さんは先生のことを最後まで好いていたらしいぞ。そう、最後の瞬間まで――な」




